78 / 80
78
ニールスは庭園からアンネとカールを追い出した後、セシリアの私室へ急いだ。
『階段で突き落とされるよりは───』
セシリアの声は囁くように小さなものだったが、ニールスもかろうじてその声を拾った。
『私はならず者に突き落とされました─────』
階段での事故の後、痩せ細ったセシリアははっきりとそう言った。
ニールスはそれを、セシリアに不当な恨みを抱いた領民の誰かのことなのだと思ったし、セシリアは犯人を見ていないのだと思った。
でももし、セシリアが犯人を見ていた、もしくは心当たりがあったのだとしたら。
(なぜセシリアはそのことを言わなかった?)
あっけないほどすぐに理由に思い至った。
(アンネだったからか?)
『たとえばそれが、どなたかに都合の悪い事実であったとしても────』
セシリアはあの時、こうも言っていた。
ニールスは誰に対してもほとんど、アンネとの噂を否定したことがない。
根も葉もない噂など、すぐに消えて無くなると思っていたから、自分から否定して回ることなどはしなかった。
当然セシリアの耳にもこの忌まわしい噂は届いていたはずだったのに。
セシリアには愛人を庇うために、事故として処理し、有耶無耶にしたようにしか見えなかったのだ。
やっとそのことに考えがたどり着いた。
ビョルンを解雇するというようなことを口走ってしまった時にも、セシリアは『私は私の大切なものを守るために、最適な真実を作り出すことも躊躇いはしません。』そう言って、弱った体で憤然とニールスに対抗した。
愛人を守るために、正妻である自分を見捨てるだけでは飽き足らず、正妻の護衛まで切り離そうとするような夫など、セシリアからすれば、愛人と共謀して自分を害そうとしているようにしか見えなかっただろう。
あれから二年以上経っている。
証拠も証人もいない。
今更、アンネを罰することは難しい。
それでも、聞かなかったことにはできない。
セシリアの部屋のそばまで来ると、扉の前に立つビョルンがニールスに気づいて、部屋の中に声をかけているのが見えた。
以前言われた“匂い”のことが気になって、わずかに顔を自分の肩の方にやって息を吸い込むと、アンネがいつも好んでつけるどぎつい香水の匂いが微かにした。
目の前の霧が晴れるように全てが繋がって、はっきりと理解できた。
己の情けなさに倒れそうになるのを堪え扉の前に辿り着くと、すぐにビョルンが扉を開けた。
立ち上がりニールスを出迎えるセシリアは、グラウスコーゲンの川で見た時よりさらに、艶やかに美しくなっていた。
ニールスは二人になった部屋で、セシリアを座らせると自分で椅子を持ってきて向かい合って座った。
「君を階段で突き落としたのは、アンネだったのか?」
ニールスは前置きも何もなく話し出した。
「聞こえてしまいましたのね…」
セシリアはそれほど驚いた様子も見せず「そうだと思います。」と言った。
「思うというのは?」
「見たわけではありませんでしたから、ただ、その────」
セシリアはニールスをちらりと見て、少し言いにくそうに、でもはっきりと言った。
「香水の匂いがしましたので。」
やはり匂っているのかと、ニールスはため息をついた。
「一番強い動機のある方ですし。────私の背中を押した手は、殿方のように大くはありませんでした、それに、子供が押したような弱い力でもありませんでした。赤いあざが出来るほどに。」
「あざ?」
「一晩で消えたけれど、人の手の形のような赤いあざがあったと、ラース先生がおっしゃっていました。」
驚いて、立ち上がりそうになるニールスに、セシリアは慌てて言った。
「ラース先生に口止めをしたのは私です。先生をお責めになりませんように。」
「なぜ、口止めを?」
「誰かが押した、ということはわかっても、伯爵様が求める確証にはならないと思いましたので。」
セシリアが黙っていた理由はそれだけではないことはニールスにもわかった。
愛人を守りたい男に、あやふやな証拠を突きつければ、自分か自分の大事にしている人間に、危害を加えられると思ったのだろう。
現にニールスは、ビョルンの進退に言及している。
セシリアには「アンネのしたことを騒ぎ立てるのなら、お前の味方を一人ずつお前から奪う。」とニールスが脅しているように聞こえたはずだ。
ニールスは耐えきれず、セシリアの前に跪き彼女の手を取った。
セシリアの体が強張るのがわかった。
「すまなかった、セシリア────」
ニールスは彼女の手を包んでいる自分の両手に額をつけ、祈るようにして続けた。
「こんな言葉しか言えないことが情けないが、でも謝ることしかできない。本当にすまなかった。」
「もう、随分前のことですので……」
今更、そう言われているようでニールスは苦笑いしながら、顔を上げた。
「今更ではあるが、説明しておきたい。アンネは俺の愛人などではない。俺は愛人を持つほど器用ではないし、そこまで下劣ではない。───もっと早く、きちんと話すべきだった。」
セシリアは驚いているようだったが、感情がつかめない表情をしていた。
「少しずつでいい、君ともう一度初めからやり直させてくれないか?」
ニールスは絞り出すような声で、懇願するように言った。
「やり直しですか?」
セシリアの声が震えた。
「ゆっくりでいい、君と関係を築いていきたい。」
セシリアが水色の瞳を揺らしながら全身を強張らせたのがわかって、ニールスは彼女から手を離して椅子に座り直した。
こちらの勝手な都合で、こんな簡単な謝罪で、セシリアが「はい、わかりました。」などと言うはずもないことはわかっていたし、急かしたり無理強いしたりするつもりもなかった。
「ゆっくりでいいんだ、まずは一緒に食事をしよう。」
セシリアがぎょっとしたように見えて、ニールスは少し傷ついたが、致し方ないとも思った。
執務室に戻る前に、ニールスは安っぽい香水の匂いがついた上着を取り替えた。
(アンネの処遇をどうしたものか……)
今日の庭園での出来事で、ニールスはアンネに、軍の本部を含む屋敷周辺への立ち入りを禁じた。
もとより、アンネには「用もないのにうろつくな」「屋敷へ立ち入るな」と口頭で告げていたが、幼い頃からの付き合いのせいで、アンネはニールスを同等な人間のように扱う。
「もう許せません、伯爵様。奥方のなさり様はあんまりです!」
セシリアたちがいなくなった庭園でカールが声を上げた。
「許せない、だと?」
ニールスの低い声に、カールが意外だというような顔をした。
「許せないから、どうするというのだ?」
「それは…」
「お前はいつから、領主夫人を裁ける立場になった?」
「それでは、奥方様の気分次第で鞭打たれても黙っていろとおっしゃるのですか?アンネはただ花を手に取っただけです、なのに……」
「セシリアは気分を害したから、アンネに鞭打ったのではない!アンネが無作法に手折った薔薇は王妃様より賜った祝いの品だ。それを、許可もなく屋敷に侵入した平民が引きちぎったのだぞ。」
「平民だからってひどすぎるわ……ニールスは私がこんな目に遭ってなんとも思わないの?」
アンネはカールに支えられてよろよろと立ち上がった。
「本来なら斬り殺されるか、手を切り落とされていただろう。それをセシリアは鞭打ちで済ませてくれたんだ。」
屋敷に戻り、庭園からアンネの声が聞こえたとき、ニールスはぞっとした。
軍にはよく出入りしていたが、まさか屋敷の庭園にまで入り込んでいたとは。
屋敷の護衛は何をしているのかと、卒倒しそうになった。
しかもアンネは手に王妃の薔薇を握っていた。
よりによってなぜその薔薇かと、アンネを早くから締め出しておかなかった自分に歯軋りした。
セシリアにその後始末をさせたことも、ニールスを俯かせた。
でも、ニールスが裁くのなら、手を落とすか、手討ちにするしかないだろう。甘い処分では忠義を疑われる。
王妃の姪であるセシリアだから鞭打ちで済んだのだ。しかもオラフではなく、女性のエウラリアに鞭を持たせた。
その意味を目の前の二人は少しもわかっていないようだった。
あなたにおすすめの小説
私は不要とされた~一番近くにいたのは、誰だったのか~
ゆめ@マンドラゴラ
恋愛
彼の幼馴染は、いつも当然のように隣にいた。
「私が一番、彼のことを分かっている」
そう言い切る彼女の隣で、婚約者は何も言わない。
その沈黙が、すべての答えのように思えた。
だから私は、身を引いた。
――はずだった。
一番近くにいたのは、本当に彼女だったのか。
「不要とされた」シリーズ第三弾。
さよなら 大好きな人
小夏 礼
恋愛
女神の娘かもしれない紫の瞳を持つアーリアは、第2王子の婚約者だった。
政略結婚だが、それでもアーリアは第2王子のことが好きだった。
彼にふさわしい女性になるために努力するほど。
しかし、アーリアのそんな気持ちは、
ある日、第2王子によって踏み躙られることになる……
※本編は悲恋です。
※裏話や番外編を読むと本編のイメージが変わりますので、悲恋のままが良い方はご注意ください。
※本編2(+0.5)、裏話1、番外編2の計5(+0.5)話です。
完結 愛される自信を失ったのは私の罪
音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。
それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。
ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。
幼馴染み同士で婚約した私達は、何があっても結婚すると思っていた。
喜楽直人
恋愛
領地が隣の田舎貴族同士で爵位も釣り合うからと親が決めた婚約者レオン。
学園を卒業したら幼馴染みでもある彼と結婚するのだとローラは素直に受け入れていた。
しかし、ふたりで王都の学園に通うようになったある日、『王都に居られるのは学生の間だけだ。その間だけでも、お互い自由に、世界を広げておくべきだと思う』と距離を置かれてしまう。
挙句、学園内のパーティの席で、彼の隣にはローラではない令嬢が立ち、エスコートをする始末。
パーティの度に次々とエスコートする令嬢を替え、浮名を流すようになっていく婚約者に、ローラはひとり胸を痛める。
そうしてついに恐れていた事態が起きた。
レオンは、いつも同じ令嬢を連れて歩くようになったのだ。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
嘘の誓いは、あなたの隣で
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢ミッシェルは、公爵カルバンと穏やかに愛を育んでいた。
けれど聖女アリアの来訪をきっかけに、彼の心が揺らぎ始める。
噂、沈黙、そして冷たい背中。
そんな折、父の命で見合いをさせられた皇太子ルシアンは、
一目で彼女に惹かれ、静かに手を差し伸べる。
――愛を信じたのは、誰だったのか。
カルバンが本当の想いに気づいた時には、
もうミッシェルは別の光のもとにいた。
恋じゃない。でも、この人だけは手放せない
由香
恋愛
貴族社会で育った公爵令嬢リリアナには、完璧な婚約者がいる。
同じく、幼なじみの侯爵令息レオンにも婚約者がいる。
――それでも、夜になると、彼は当たり前のように彼女の部屋を訪れる。
同じベッドで眠り、触れ合いながら、けれど決して一線は越えない。
かつて一度、確かめたことがある。
キスをしても――何も感じなかった。
だからこれは、恋ではない。
ただの習慣。
ただの帰る場所。
けれど周囲は言う。
それは普通ではないと。
婚約者たちに突きつけられる“正しさ”。
それでもやめられない、名前のない関係。
恋じゃない。
裏切りでもない。
それでも確かに、手放せない。
――これは、恋人にならない二人の物語。
ジェリー・ベケットは愛を信じられない
砂臥 環
恋愛
ベケット子爵家の娘ジェリーは、父が再婚してから離れに追いやられた。
母をとても愛し大切にしていた父の裏切りを知り、ジェリーは愛を信じられなくなっていた。
それを察し、まだ子供ながらに『君を守る』と誓い、『信じてほしい』と様々な努力してくれた婚約者モーガンも、学園に入ると段々とジェリーを避けらるようになっていく。
しかも、義妹マドリンが入学すると彼女と仲良くするようになってしまった。
だが、一番辛い時に支え、努力してくれる彼を信じようと決めたジェリーは、なにも言えず、なにも聞けずにいた。
学園でジェリーは優秀だったが『氷の姫君』というふたつ名を付けられる程、他人と一線を引いており、誰にも悩みは吐露できなかった。
そんな時、仕事上のパートナーを探す男子生徒、ウォーレンと親しくなる。
※世界観はゆるゆる
※ざまぁはちょっぴり
※他サイトにも掲載