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そうじゃないって言って

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 このマンションに住み始めて一年以上経つけれど、最上階に足を踏み入れるのは今日が初めてだ。そもそも自分が住んでいる四階以外に用事なんてないし、来たことがないのは当然である。

 ずっとエレベーターの中で固まっているわけにもいかず、半ば無理やり降ろされる形になった。こんなことがなければ十五階に行ってみようなんて思うこともなかったけど、来てみないと分からないこともあるものだなぁと思う。
 同じマンションなのに、私の住んでいる階と比べて部屋の数が少ない。恐らく上の階の方が少しだけ広い部屋で、間取りや家賃も違うのだろう。
 そんな事を考えている場合ではないのに、現実逃避をするようにマンションの造りのことを考えてしまう。
 できることなら、そういう世間話だけしてやり過ごしたい。

「……さ、最上階って他の階より部屋数すこしだけ少ないんだね。中も結構広いの?」
「へぇ。十一階から上は同じ造りらしいけど、和音はそれより下の階なんだ?」
「え、あ……」
「まあ、そういう話はあとでいいや。部屋の中が気になるなら上がっていけば? すぐそこの部屋だから」
「い、いいよそんなの……。少し話するだけならここで聞く」

 わざわざ中に入らなくても、部屋の造りなんて賃貸情報サイトを見れば事足りる。
 長居するつもりはないし、早く自分の部屋に帰りたい。結人の部屋に上がるなんて、そんな軽はずみなことも出来るわけがないのだ。

「そっか。じゃあ手短に話すね」

 マンションの廊下で話し込むなんて邪魔になるだろうけど、幸い周りには誰もいない。
 手短に話すと言ってくれたし、そんなに長い話にはならないだろう。言われることはなんとなく予想できるし、私から言えることだって「あの時は逃げてごめんなさい」くらいだ。
 気まずいことに変わりはないけど、偶然とはいえ顔を合わせてしまったのだから無視するのも良くない。
 もう過去のことなんだから、面と向かって謝る機会ができて良かったと思おう。
 
 あの時はごめんなさいと謝罪する準備をして結人に向き合う。
 他の人に見られると気まずいし、話している間は誰も通らないといいなと、そんな事を思いながら結人が話を切り出すのを待った。

「結人……?」
「あのさ、和音の親がどこで働いてようが何か言ってくる人間もういないんだけど。またやり直せる?」
「……え? な、なんの話……?」
「和音のお父さんが金森に引き抜かれた時に怒ってたの俺の祖父さんだけだよ。あそこの会長とうちの祖父は昔から仲が悪くて……だから色々言われたと思うけど、あんなのただ感情的になってただけだから」

 本当に何の説明をされているのか分からなくて、話の内容が頭に入ってこない。
 何か揉めたとは聞いていたけれど、私はそのタイミングを利用しただけだ。自分の意思で逃げたことに変わりはない。
 やり直せるも何も、結人は本気でその事が理由で婚約破棄に至ったと思っているのだろうか。
 私が家の事情を気にして結人に合わせていたことに気付かないほど、鈍い人じゃなかったと思うけど。

「……ごめん、あの、本当に意味が……」
「当時は当主だった祖父も引退して、今は俺の父親が会社を継いだ。俺もそのまま家業継ぐつもりで仕事してるし、和音の親がどこに勤めてても関係ないよ。もともと会社間に確執があったわけでもない」
「でも……あの、両家の間でもう話はついてるって聞いてて……」
「半分は家同士の約束だったし、とりあえず婚約は一旦無しにしましょうって話になっただけ。俺が和音と別れ話をしたわけじゃない」
「そ、そんなの、私は一度別れたいって言って……」
「和音」
「……っ」

 低くなった声で名前を呼ばれ、その瞬間に何も言えなくなってしまう。
 嫌な記憶が蘇り、手の平にじわりと汗が滲んだ。
 
「俺から離れようとしたらもっと酷いことするよって言ったの、覚えてない?」
「は……?」

 信じられない発言に、口から思わず息が漏れた。
 今になってそんな約束を持ち出してくるのかと、言われた意味を理解すると同時に足が後ろに引いてしまう。

「和音が頷いてくれるなら、俺から逃げたわけじゃなくて家の事情で仕方なく身を引いただけって解釈する。どっちがいい?」
「ま、待って……え? 結人……?」
「うん。ちゃんと待つから、決まったら返事して?」

 結人が待っている返事なんて一つしかなくて、どうすればいいのか分からなくて喉の辺りがきゅっと狭くなる。
 どうして私は、大人しくこんな所まで着いてきてしまったんだろう。話をしようなんて思わないで、意地でもエレベーターから降りなければよかった。
 腕を掴まれたらもう逃げられる気がしない。これだけの距離しかないのだから、簡単に部屋に連れ込まれてしまう可能性が高い。
 逃げる素振りを見せた瞬間に酷いことをされてしまうのだと、そんな考えが頭にこびりつくと、もうまともに動く事が出来なかった。

「……付き合っ、たら……酷いことは、しないでくれるの……?」
「絶対にしない。和音がしていいよって言ってくれるまで、何もしないでちゃんと待つよ」
「それでも、あ……私は何も準備してないし、結人との立場だって色々違って……あの、結婚だって、大学卒業してすぐって話が無くなったから、今は全然考えられなくて」
「別にいいよ。少しずつ考えてくれる可能性があるならそれで十分」
「え……あ、結婚だけじゃなくて、セックスとかするのも嫌だって思うし、こんなの……」
「嫌だって思うなら別にそういう事しなくてもいいよ。昔みたいに毎日家に呼んだりしないし、普通に会える時に会ってくれるだけで大丈夫。それでも駄目?」

 言えば言うほど、結人が何をしたいのか分からなくなる。
 すぐに結婚するわけでも、エッチな事が目的なわけでもない。会える時だけでいいと言うなら、毎日通って家政婦がわりにしようとしているわけでもないのだろう。

「……そんなの、結人は何がしたいの?」

 考えても分からなくて、純粋な疑問が思わず口から漏れた。
 これだけ色々良い条件ばかり並べられたところで、口約束なら何の意味もないことは分かってる。
 それでも嘘を言ってるようには思えなくて、つい聞いてしまった問いかけ。その瞬間に、結人の眉間に少しだけ皺が寄った。

「……今度はちゃんと和音のこと大事にしたいだけ。最初から無理だって拒絶しないで、もう一回だけでいいから付き合ってよ」
「え……?」
「急に和音がいなくなったの本当にきつかった。お願いだから、俺から逃げようとしたわけじゃないんだって、言って」

 苦しさが滲んだ結人の声に、一瞬言葉を失ってしまった。
 あんな関係早く辞めたいとずっと思っていたはずなのに、どうして今になってこんな気持ちになるんだろうか。
 どちらにせよ、ここで断る選択肢は与えられていなかった。だけどそうじゃなくて良かったと、安心している自分がいることが嫌になる。
 ここで返事をするのは私の意思じゃないからと、そんな言い訳をしてしまう自分がまた少し嫌いになった。

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