猫とランチ

ゆい

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猫のランチ散歩 in 湘南 「白い波、午後の硝子」

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朝の風に乗って、潮の匂いがゆっくりと届いてくる。
レオンが降り立ったのは、湘南の海にほど近い、住宅街のはずれにある小さな駅だった。
改札を抜けると、舗装された細い通りが、海へ向かってゆるやかに続いている。
レオンはグレーのスーツにネイビーのシャツ、今日はシルクのペイズリー柄のポケットチーフを挿していた。
左手にはいつものブリーフケース。日差しは少し強くなってきていたが、風が柔らかく、スーツの襟元を心地よく撫でていく。

駅前の通りを少し進み、路地を一本折れる。
そこは、地元の人でもなかなか気づかないほどひっそりとした道だった。
民家と雑貨店のあいだに、まるでそこだけ時間が止まったような石畳の小道があり、レオンはその奥へと足を運ぶ。
道幅は猫が横になってようやく通れるくらいの狭さ。
足元には春の花びらが舞い、軒下からはツバメのさえずりが聞こえてきた。

その先に現れるのは、一軒の古い平屋。
屋根は淡いベージュの瓦葺きで、ところどころ苔が生えている。
外壁は薄くグレイッシュな白で、塗装の剥がれた部分には、木材の素地が顔をのぞかせていた。
窓枠はアンティーク風のアイアン。外には、小さなブリキの看板がひとつだけ。
文字はかすれかけているが、よく見ると、こう書かれている。

《Kura café SHIOSAI》

レオンは木製の扉にそっと手をかけた。
真鍮の取っ手が冷たく、湿気をわずかに含んでいる。
押し開けると、小さな鈴が「リン」と一音だけ鳴った。
その音に応えるように、海辺の風が背中を押してくる。

店内は、外からの光を抑えた静かな空間だった。
大きなガラス窓が海に向かって開いているが、白いリネンのカーテンがふんわりと吊られており、光は直接入ってこない。
そのため、部屋全体は淡いグレージュのヴェールをかけられたような色合いになっていた。

床は、年月を感じさせる杉の無垢板。
ところどころに擦れや傷があるが、それすらも味わいに変わっている。
家具はすべて手仕事のもの。テーブルは古い船板を再利用したものらしく、天板には塩の風でざらついた名残りが残っていた。
脚はアイアン。黒く塗装されていたが、部分的に錆びたところから鉄の赤茶がのぞく。
椅子はアームレストのあるオーク材のものや、背の低い籐張りのラウンジチェアなど、すべて形が違っていたが、不思議と統一感がある。
レオンが選んだのは、背もたれが緩やかな曲線を描く、深いグリーンのレザー張りの椅子だった。
柔らかすぎず、ほどよい硬さがあり、座ると自然に身体の力が抜けていく。

壁には陶器のプレートがいくつも飾られていた。
湘南の陶芸家たちの作品だという。ざらりとした質感の中に、淡く釉薬が流れ、まるで波の泡が弾けたあとのような模様を描いている。
そのすぐ下の小さな棚には、海辺で拾われた貝殻やガラス片が並べられており、どれも色あせていたが、不思議と品のある佇まいだった。

「いらっしゃいませ。」

奥から現れたのは、エプロン姿の女性。
髪を緩くまとめ、布のような素材のシャツワンピースをまとっている。
動きは静かで、声は砂糖を一粒落としたような甘さがあった。

レオンが軽く頭を下げると、彼女はふっと微笑んで、メニューを差し出す。
だがレオンは、それを見ずに一言だけ伝えた。

「いつもの、で。」

「かしこまりました。」

席に着いたレオンは、窓辺の様子を眺めた。
外には、海に続く小道があり、潮風に揺れる木々の音がかすかに響く。
遠くに小さなサーフボードを抱えた人影が見え、波の音と一緒に、その気配がゆるやかに空間に溶け込んでいく。

数分後、陶器のトレイに載せられたランチが静かに運ばれてくる。
盛り付けられていたのは、深いグレーのマットな皿。
皿の縁には細かい粒状の釉薬が施され、光を吸い込むような柔らかな質感。
手に持つと、ひんやりと冷たく、厚みがしっかりとある。
裏面には「SOHEN」という陶芸家の銘が小さく刻まれていた。

レオンは静かにナイフを手に取り、料理の一部を切り分ける。
刃が入るとき、わずかに音を立て、香ばしい香りが立ち上る。
その香りには、炭のようなスモーキーさと、海藻のような塩気、そしてほんのりとした甘さが含まれていた。

ひと口、口に運ぶ。
表面はカリッと軽く、中は驚くほどなめらかだった。
舌に触れた瞬間、潮の香りとともに、深い旨味が広がる。
そのあと、わずかに柑橘のような酸味がふっと抜け、鼻腔に爽やかさを残した。
噛むほどに、別の味が姿を現す。木の実のような香ばしさ、塩に近い鉱物のようなコク、それらが層になってゆっくりと舌の上にとどまった。

その余韻はまるで、砂浜に引いた波のあとに残る、水のきらめきのようだった。

テーブルに置かれたカトラリーレストは、流木を削ったものだった。
無骨な形の中に、自然が削り出した曲線がある。
ナイフとフォークを休めたレオンは、ふと目を閉じ、耳を澄ませた。

店内には、古いレコードが流れていた。
ギターのアルペジオに乗って、女性の声がそっと揺れる。
フランス語だったが、意味はわからなくても、音の柔らかさが心にしみ込んでくる。

食後、コーヒーが運ばれる。
カップはぽってりと厚みのある陶器で、土の質感がそのまま残されている。
釉薬のムラがあり、縁は少しだけゆがんでいたが、それがまた手にしっくりと馴染む。
口に運ぶと、どこか潮風を思わせるミネラル感と、深い苦味の中に微かに花のような香りがあった。

「今日も、見事だったな……」

レオンはつぶやくと、ナプキンを整え、椅子から静かに立ち上がった。
会計の際、エプロンの女性はやはり微笑んで、何も聞かずに送り出してくれる。

扉を開けると、午後の湘南の光がふたたびレオンを包む。
坂道の先に、小さくきらめく海が見えた。
その先に、また新しい風景が待っている気がした。

レオンはブリーフケースを片手に、ゆっくりと坂を下りていく。
背中には、さきほどまでいたカフェの記憶が、まだ柔らかく残っていた。
そしてその背を、白いカーテン越しの窓が、最後まで見守っていた。
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