僕の記憶に黒い影はない。

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ルシューランにて

出発

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 さぁ何を買おうか。通りを歩きながらカルの姿を探す。
 大通りは今日も混んでいる。しばらく人の波に沿って進んで行く。
「リファーナっ」
ふと視線をやった先に見覚えのある亜麻色の髪が見えた。サリュのいる場所から人波を三層ほど挟んだ先だ。
「リファーナっ! っすみません、通ります!」
人混みをかき分ける。文句の声と溜め息が聞こえたがそれでも前に体を押し込む。
 人影はサリュを振り返った。やはりそうだ。リファーナのきょとんとした顔がサリュを見て僅かに変わった。
 やっとのことでリファーナのもとにたどり着くと彼女は首を傾げた。
「サリュ?」
「うん、そうだよ」
「サリュ!」
リファーナの瞳が半月の形に変わった。眉尻を下げ、口の両端が上がる。
 初めて見た。リファーナは笑っていた。それはサリュを見て喜んでいるようだった。
「だい、、じょうぶ?」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね」
リファーナは首を振った。
「よかった」
そう言うと同時にリファーナの手がサリュの乱れた髪に伸び、撫でるようにそれを整える。
「へっ…?」
思えばリファーナはよく喋るようになっている。初めはあんなにも途切れだらけだったのに。言葉だけじゃない。今、目の前のコレも…。ひととはこんなにも変わるものだろうか。
 ぼーっとしていたようで、気がつくとリファーナの丸みのある弧を描いたつり目がサリュの目前に迫っていた。瞬きをする瞬間がやけにゆっくりと瞳の奧に入っていく。
「あっ、カ、カルたちは? どこにいるんだい?」
「カル」
「うん、そう」
「…こっち」
リファーナに袖を引かれ建物の間の細い道を通って酒場の近くに出る。彼女はそのまま中へと導いた。
 ベルの柔らかな音。振り返った頬を薄い朱に染めたカルはサリュに目を留めると驚きの表情で口を何事か動かした。
「━━りゅ、サリュサリュサリュサリュ!」
席を飛び下り駆け寄ってきたカルはサリュを目の前に満面の笑みを見せた。普段のカルからは少し離れた無邪気な顔を。
「起きたのか! よかった」
「うん。ごめん、心配かけて」
興奮ぎみに肩を揺するカルを宥める。
「腹は減ってないか? どこかに痛みとか、違和感とか。もしかしてもう少し寝てた方が━━」
「ははっ、大丈夫だって。…カルちょっと飲みすぎじゃない?」
いつもより力加減が雑な気がする。力一杯握られた肩は少し痛い。
「そういえばコーストさんは?」
「コースト? それならそこら辺をぶらぶらしてるんじゃないか?」
思い出したように辺りを見渡すカルの様子から居場所ははっきりとはわからないようだ。
「あっそうだ! ねぇカルついでだからコーストさんを探しながら買い物をしよう。ルビアナさんが何でも買っていいって言っていたんだ」
ほろ酔いのカルはニヒヒと笑った。
「あぁ、聞いてる。さっきだって宿の名前で飲んでたところ」
カルが視線を向けた先でアルマがこちらに手を振った。
「聞いてよサリュ、カルったらもう酔っぱらってるのよ」
「だから酔ってねぇって」
「酔ってない人間がどうしてそんな夢に執着してるのよ」
呆れた表情でガラスを磨いていた布を振り上げる。
「夢?」
「町の人たちが皆眠りから覚めなくなったなんて言うのよ。呆れた、夢と現実の判断がつかないなんて」
「…うん、それは酔っていますね」
「サリュ⁉」
不意を突かれたようにこちらを見るカルはその勢いでしゃっくりを始める。
「ほら酔ってる」
「ちがっフっ」
カルが再び説明を始めようと口を開きかけるので、アルマからは見えないようにそれを制する。
「なに、ヒっ、」
「その話はまた後にしよう? 早くコーストさんを見つけないと」
「…ヒっ? あぁ、いいけど」
しゃっくりが止まらなくなったカルを店の外へと連れ出す。
「ねぇカル?」
「なんだよ…ヒっぐ」
「あの出来事については黙っておくことにしないかい?」
あれほどまで静まり返っていた町は嘘のように賑やかで、その寒暖差に心はうまく追い付けないでいる。
「えっ、なんで?」
「カル忘れてると思うけど、僕たちは一応不法侵入者なんだから」
カルははっとした顔で息を漏らす。やっぱり忘れてたのか。…まぁ無理はない。カルの時間はサリュの知らない間も動き続けていたのだから。
「あまり目立つことはしない方がいい」
「…そうだな、その方がいいか」
サリュにこの三日がないように、町の人々の中にあの一日は存在しないのだ。二人は町を救った英雄でなければ、ただの旅行客ですらない。
 通りを離れ狭い道に入ると人の声も遠退いた。
「それで、話してはくれないのかな?」
少し先を行くカルは振り返る。
「もちろん僕は君の武勇伝を聞きたいんだけど。まだ僕は何が起こったのか何も知らないんだよ?」
少しおどけて詰め寄ると少しの間の後、カルはニヤリと笑った。
「忘れた」


 大男は屋根の上で欠伸をひとつし、さらに大きく伸びをした。そよ風の踊る優しい天気だ。緩く傾斜のある屋根に身を預け、空を流れる雲を茶色い瞳に写しながら、気がついたように手に持ったリンゴをかじる。ここ二日彼はずっとこうして過ごしている。
 頭を埋めるのは主の行方。どこに行ったのか。なぜおいていったのか。そんなことばかりをぼんやりと頭で反芻している。
━━━ストさん」
意識をこちらへ引き戻したのは三日前を最後に聞くことのなかったテノール音だった。いつのまにか眠ってしまっていたようで手に持っていたはずのリンゴはどこかに消えてしまった。
「コーストさん!」
もう一度先程よりも大きな声で名を呼ばれ、屋根の下を見下ろすと、やはりサリュがこちらを見上げていた。後ろにはカルの姿もある。
「起きたのか。良かったなぁ」
「はい、おかげさまで。これ、落ちてましたよ」
サリュの掲げた手の中には食べかけのリンゴが収まっている。
「あぁ悪い。そこにあったのか」
「どうしますか? 投げましょうか」
「いや、いい」
飛び下りるとサリュからリンゴを受け取って服の裾で丁寧に磨く。その間サリュの視線はコーストに痛いほど真っ直ぐに向けられていた。
「何だ?」
「いえ、あの高さから飛び下りるなんてやっぱりコーストさんは普通の人とは違いますね」
「変か」
「はい。すごく」
サリュは笑みを浮かべ、
「格好いいです」
と付け加える。
「そうか。そりゃあ嬉しいな。で、どうした? 来たからには何か用があるんだろう?」
「はい。これから旅に必要なものを揃えようと思います。一緒に行きませんか?」
「あぁ、構わないが。なんで俺が」
それにリファーナも。
「僕らは明日の朝に町を出ます。コーストさんもおそらく主様を追われるんでしょう?」
「あぁそうするつもりだが」
町から出ればあの人のことだ、いくらでも手掛かりは残っているだろうからその跡でもつけようかと思っていた。
「それなら」
この間のように火の海が広がっていなければいいが。出来るならたんに足跡を残しておいてくれた方がありがたいが…あの人には大きな願いか。
「一緒に行かない手はありませんよね?」
「一緒に?」
「はい。僕たちには特にこれといった目的地もありませんので」
一緒に、か。まぁひとつの町を共に救ったとなるとそうなるのもわからないではない。
「もちろん迷惑じゃなければ、ですが」
「あぁ、いや、迷惑ってことはないんだが…」
果たしてこの先、本当に火の海がないとも限らない。そちらの方向へ進むとなると少々説明が面倒だが…まぁ、いいか。ひとりで延々と歩くことに比べれば圧倒的だ。
「いや、何でもない」
返事が遅いことに対し少し眉を下げたサリュを安心させようと笑みを浮かべる。
「良いじゃないか。一緒に行こう。大勢でいた方が賑やかでいいよなぁ」
なぁ?っとカルに同意を求めてみる。ふと視線を向けたそちらは、どうも聞かされていなかったようだ。戸惑っている様子を見ると歓迎はされていないらしい。
「っ、あっあぁ。そうだな」
「おう。ありがとな。…嬢ちゃんはどうするんだ?」
先程からサリュの隣で黙っているリファーナに視線を移す。彼女もサーカスを追いかけるのだろうか。そもそも置いていかれたということを彼女は気づいているのか。何を考えているのかわからない子だ。しかし彼女が何を思っているにせよ独りで残すには頼りない。
「いく、コーストに」
「俺にかっ?」
これはまた、たいそうな指名を受けちまった。可愛いこと言ってくれるじゃねぇか。
 娘がいたらこんなだろうか、そんな感覚を抱きながら真っ直ぐな視線を注ぐリファーナの
頭をワシワシと撫でた。掌に収まるその大きさに久方ぶりに忘れていた感情がふわりと沸いて、目頭に熱いものが寄せてこようとする。
「コースト、を?」
「リファーナ、コーストと、じゃないかな」
サリュが笑いながら指摘するとリファーナは納得がいったという様子で頷いた。
「いく、コーストと!」
初めて目にした彼女の笑顔は無邪気で、それでいてどこか憂いを帯びた心臓の底を擽るようなものだった。

「もう行くのかい!」
驚いて、半分は怒るように声をあげたルビアナを何人のひとが振り返ったろう。
「しーっ! おばちゃん声がでかいよ」
「はっ」
周りに頭を下げ、空いている席に腰掛けると我慢できないという風に口を開いた。
「あんたなんてついさっき起きたばかりじゃないか」
「落ち着いてくださいルビアナさん。もちろん今日中とは言いません。明日の朝、この町を出ようと思っています」
「だからもう少し体の疲れがとれるまで━━」
 四人は夕食の時間を迎えていた。当初宿泊客には入っていなかったリファーナのこともルビアナは快く宿に迎え、サリュの眠っていた間も部屋を用意してくれたようだった。
 前方で出された料理を両頬にためているリファーナを眺める。口からはみ出たソースが小さな唇を染めている。
「ねぇリファーナ、美味しい?」
料理から顔をあげたリファーナはしばらく考えた後、コクンと小さく頷いてまた視線を落とす。今は食べ物以外に興味はないようだ。
「…笑わないかぁ」
もう一度見てみたいような気がしたんだけど。
「サリュ、あんた聞いてるのかい?」
「は、はい!」
意識の外で喋り続けていたルビアナの顔が目の前に迫る。
「なにも焦らなくても、もう少し」
「で、でも本当に大丈夫です。ほらっ、ほら、体の怠さも昼間で吹き飛びましたし!」
「そんなに急ぐ理由でもあるのかい」
「それはっ…」
「女将、もう止めてあげなよ」
助け船を出したのはコーストだった。サリュの表情が刹那の合間に固まったのを彼は見逃さなかった。
「だいじょーぶ。俺がちゃぁんと見てるよ」
「でもね、あんた」
コーストはそののんびりとした口調でルビアナを宥めようと豪快に笑う。
「女将は心配しすぎなんだよ。三日も寝たんだ、動きたくなるのも無理ねぇよ。閉じ込めとく方が体に毒だぞ?」
「だとしても━━」
「はいおしまい! おしまいだよ。それ以上はなしだ。サリュが困っちまうよ」
納得がいかないという風に腕を組むルビアナはその心配そうな顔をサリュに向けた。
「大丈夫だよ。旅っていってもそんなに危険なことをする訳じゃない。それに、サリュは完全に治ってる。俺は一日見てたんだぜ?」
ルビアナは目をつむり大きな溜め息を吐く。
「そうかい。まぁ、そうかね」
「すみません。すごく居心地はいいんですが。素敵な町だし、活気があって、町のなかを歩くのは楽しいんだけど…。僕は賢者を探さなきゃいけないんです」
この町には賢者はいない。広くても町程度であれば賢者の存在は知れわたるはずだ。しかし昼間聞いてみたところでもそれらしい人物はいないようだった。
「それに」
コーストとリファーナ。少なくともコーストは主様というひとを追うのだろう。そう長くここへは留まらないはずだ。それなら二人と共に行こうと思った。
「コーストさんも、追いかけなきゃいけないひとがいるでしょうし」
「あぁ、まぁな」
「だから早く出発した方が都合がいいんです。もちろんこんな体なのでしばらくは無理はしません。これは約束できます」
「…わかったよ。好きにおし。本当に無理はしないんだね?」
深く頷いて見せるとルビアナは再び溜め息を吐いた。
「しっかり食べるんだよ」
席を立ち厨房へと戻るルビアナ。入れ代わりで入ってきたリュールがその意思をくみ取ったかのようにサリュの膝の上に飛び乗り、悪戯をするような顔でサリュを見上げた。

 そして朝は来た。昨夜食べたものがまだ腹に残っているような気がしてならないほどにリュールはサリュを離さなかった。食べ終わるとすぐに覚束ない手つきで大皿から新たに取り分けサリュの前に差し出し、あげる、と笑う。それを食べるとまた取り分けるという動作を繰り返し、リュールが膝の上で睡魔に負けるまでそれは終わることはなかった。その後重たい腹を抱えた四人が部屋までまっすぐ帰ったことは言うまでもない。
  早朝。まだリュールは起きてはいないだろう。今のうちにとカルを起こし、それぞれ別の部屋に眠る二人も起こしに行った。眠気からか恐ろしい顔になっているコーストを引っ張ってロビーに降りると既にルビアナは扉の前で待機していた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたかい?」 
「はい。とても」
「そうかい」
ルビアナが開けてくれた扉を潜り外へ出る。陽光はまだ弱く、朝の空気は少し冷たく髪を揺らしていく。
「じゃあね。気をつけていくんだよ」
ルビアナは押し付けるようにやけに大きな弁当をカルに手渡した。
「ありがとう」
「あぁ、いいんだよ。礼を言うのはこっちの方さ。本当にありがとね。…さっ、早くお行き。リュールが起きちゃうよ」
追いたてるルビアナに押されふくろうの宿に背を向ける。これで最後だ。
「気をつけてね」
その声と共に背中を押され、前へ踏み出す。
 なぜだか、そのときふと思い出したのだった。
「ルビアナさん」
「なんだい?」
「貴女は本当はどこからいらしたんですか?」
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