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俺が来てから一週間が経過したらしい。らしい、というのはどうも俺が眠っている時間が長いらしく一度眠ると二日ほど起きないようだ。起きているときも俺自身意識がはっきりとしているわけではなく、まだ夢見心地のまま。マズい飯を飲み込んで、帰る交渉をしては断られ、再び眠りにつくということを繰り返していた。
「っ!」
「…どうかされましたか?」
そうとは思わず涙が溢れていた。
「うぅ、旨い、旨いです。味が、味がして、旨くて…」
味覚が戻ったのは俺としての四日目。七日が経過した頃だった。
「クーボップさんの料理がこんなに旨いなんて…」
「そ、そんな。大袈裟ですよ」
クーボップははにかむ。
「だけど、ジン様に気に入っていただけたようで安心いたしました」
クーボップの意味ありげな口振りに振り向く。
「やはり無理はいけません」
その言葉に責めるような色はない。
「…無理なんてしていません」
「はい」
わかっています、とクーボップは笑った。
「どうでしょう、今日は城の中を探検しませんか」
部屋に帰るとヴェルガが待っていた。
「仕事してるんじゃないんですか」
「えぇ、仕事中です」
ヴェルガは本棚から新たに分厚い本を引っ張り出す。
「仕事してるんじゃ探検はできませんね」
「えぇ。残念ですが私は行くことができません」
「私が行って差し上げます」
どこにいたのかひょっこりと現れたメリッサが胸を張る。
「…いいよ、俺は部屋で寝てるよ」
「どうしてですか」
「面倒だなぁって」
メリッサはパラパラとページをめくるヴェルガを示す。
「ここにいらっしゃってはヴェルガ様の邪魔になります」
「いや、だってここ俺の部屋」
「だってではないのですっ!」
メリッサが口を膨らませる。ヴェルガは資料から顔を上げた。
「メリッサ、私はジンが邪魔なわけではないよ」
「でもジン様がいらしてはヴェルガ様のお仕事に差し支えます」
「そうだね。ジンがいては私は気になってしまって集中できないかもしれない」
ヴェルガは俺を見て、メリッサを見て頷いた。
「やっぱり、私も行こう」
そのとたんメリッサが噛み付いた。
「いけませんっ! 調べものが終わるまで外にはでない、と言ったばかりではありませんか」
「…メリッサは最近厳しいね。以前は散歩に行くこともなにも言わなかったよ?」
「前は前なのです」
「いや、俺は部屋に…」
「いきますよ、ジン様!」
口を膨らませたままぷいっとそっぽを向くと、メリッサは部屋を出て行ってしまう。
「困りましたね…。ジン、私も終わったらすぐに行きます。寂しいのはわかりますが、先に行っていてください」
「なんでそうなるんですか」
「以前はもう少し素直な子だったのですが…」
こいつ、聞いてない…。
メリッサを放っておくわけにもいかず、ヴェルガの絡みも面倒くさそうなので俺はその場を後にした。
廊下に出るとメリッサは扉の影に隠れるようにして待っていた。
「何してるの、そんなところで」
「じ、ジン様を、待って差し上げていたのです」
メリッサは顔を背ける。
「…まぁ、なんでもいいけど」
メリッサはさっさと前を歩き出す。一番近くに現れた階段を下りて行く。客間と図書館を繋ぐ道を外れるのは迷ったとき以来、初めてだった。
「ここは…」
「ここが中庭です」
メリッサが最初に俺をつれていったのは以前ソフィアに出会った花々が咲き乱れる華やかな庭だった。
「一度来たよ」
「そうなのですか」
ソフィアのことを話すとメリッサは目を丸くした。
「姫様が…なぜ貴方のような人と…」
「悪かったな、こんなんで」
俺が中庭に入るとソフィアが背後で声を上げた。
「スィフィダ様」
メリッサの視線をたどると、石造りの回廊を跨いだ扉から二人の女が出てきた。一人は白髪で短い髪の老齢の人だ。若い頃はさぞ美しかっただろうと分かる。もう一人はまだ若い、長い髪を後ろで団子にした人だった。老齢の女はシンプルな作りのドレスを着ていた。
「あら、メリッサ。今日はあの人は一緒ではないのね」
老齢の女はメリッサに気付くとにこやかに声をかけた。メリッサはスカートの裾をつまんで、女に恭しく礼をする。
「ヴェルガは書斎で仕事中でございます」
「あら。そう」
女はそれほど興味を示さず、その視線を俺に向けた。
「……」
「…こんにちは」
こちらを見続ける老女に一応挨拶をする。瞬間、メリッサに背中を強く叩かれる。
「胸に手を当てて、お辞儀をしてくださいっ」
メリッサが囁く。言われるように礼をする。
「スィフィダ様、こちらは遠国からのお客様のジン様でございます」
スィフィダと呼ばれた老女はメリッサがしたように礼をした。
「お客様でしたのね。私、スィフィダと申します」
「ジン様、こちらは隣国のお妃様であらせられるスィフィダ様です。元はオッシュニカの第四王女であり、現在は里帰りをされていらっしゃいます───とても身分の高い方です」
最後の言葉は俺にだけ聞こえるように囁かれた。メリッサの視線が痛い。
「ぼっ、わ、私は、…ここから遠く離れた小さな国からやって参りました、ジンと申します」
今できる精一杯の嘘と敬語を口から絞り出すと
「そんなにかしこまらなくてもよろしいのよ。あなたの国の名前をお聞きしてもいいかしら」
「…名前もない小さな国です」
「あら、そうなの。せっかくのお客様だもの、ゆっくりしていらして。城の中も好きに歩いてくださって構わないわ」
スィフィダは笑みを浮かべ歓迎の意を示した。
「はい、ありがとうございます」
「そのかわり、私のお部屋にも遊びに来てくださいね。お国の話を聞きたいものだわ」
メリッサに返事をしろと言うように小突かれる。ぜひ、と伝えるとスィフィダともう一人は中庭と回廊を横切り、俺たちが来た方の扉へと消えた。
隣でメリッサが胸を撫で下ろす。
「あんなのでよかった?」
「まぁ、悪くはないですね。スィフィダ様が寛大な方で助かりました」
広い中庭には他に人の姿はない。メリッサに礼だけは忘れないようにと念押しされる。
「では、次はクーボップさんの厨房に参りましょう」
厨房へと向かう途中、メリッサは四階、三階と下りるなかで、見える範囲の建物の説明も行った。会議室や遊戯室、礼拝堂などを遠く指差していった。会議室は立ち入り禁止だそうだ。
「他にも王族の部屋であるとか、どなたか部屋主のある部屋は無断での立ち入りは厳禁です」
「でもどの部屋が人のものかなんて分からないよ」
「部屋主のある部屋には見張りがつけられているのですぐに分かります。…どちらにせよジン様は入ることができませんね。忍び込もうとすれば即不審者確定、牢屋行きです」
「…しないよ、そんなこと」
二階に下りるとメリッサは谷に面した石の廊下を進む。
円形に曲がる廊下は隣の棟に続くことなく途絶えた。階段とすぐ近くに朱色の扉がある。
「ここがクーボップさんの厨房です」
メリッサが扉を指差す。
「ねぇ、さっきからそうだけど。〝クーボップさんの〟ってことは、他にもあるの?」
「えっ? えぇ、まぁ。今はこちらだけですが、緊急時の厨房が三階に」
「緊急時?」
「以前クーボップさんが突然修行の旅に出てしまわれたので、急いで造られたものです。クーボップさんの指揮無しでは厨房の回転率が落ちてしまうので…」
苦々しい顔をする。
「あの方は優秀です。国一番のシェフです。しかし…あの繊細さは困り物です」
以前、隣国の客が彼の料理が口に合わないと言って皿をひっくり返したことがあったらしい。後に詫びに現れたが、その時にはすでに彼は国を出ていたという。
「一年ほど城を出ていたので、その間人件費がかさみ、大臣様は頭を抱えておいででした」
メリッサは重い扉を力いっぱいに引き開ける。隙間から金属が擦れる音が聞こえ、香ばしい香りが鼻をくすぐった。
メリッサに手を貸し、人が一人通れる幅まで開ける。
「おや、メリッサさん。どうされましたか」
コック帽を被った若い男が一人、こちらを振り返った。
「こんにちは。少し見学です」
「おや、お客さんですか」
「えぇ」
メリッサが俺の袖を引く。
「こんにちは」
「おや、初めまして。ではクーボップを呼んで参りましょう」
奥に行こうとした男にメリッサは丁重に断った。中に入ると奥までさっと見せる。二十人余りの料理人が、いくつもの大きな鍋の回りでせかせかと働いていた。
「彼らが城の全ての食事を担っています」
「これだけの人数で?」
「はい。彼らは国中から選び出された精鋭たちです。そして彼らを統轄するのが料理長であるクーボップさんなのです」
その後、クーボップがいかに優れているかを二言三言付け足してメリッサは厨房を出た。
「では次は木浴場を」
メリッサはそう言うと、また一つ階を下げた。東側の通路を通り中央の棟へと移動する。石廊下から中に入ると、深い茶色の廊下が広がった。
少し行くと白い角石で囲んだ水路が室内に伸びていた。かなり向こうに存在感のある扉がある。どこへ続くのかと尋ねると、外に続く正面扉だとメリッサは説明した。
中央棟の一階は二階と一体化している。白い階段を上ったところがベランダのように突き出している。装飾のある太い柱に支えられ、回廊のようになったそこに、また扉があった。
「ここです」
その扉の前でメリッサは立ち止まった。
「ここは昼は清掃中で入ることができません。夕方から早朝にかけて利用することが可能です」
「今は入れないってことか」
「その通りです。もし起きていらっしゃれば、今夜にでもいらしてみてください」
メリッサはそのままずっと視線をそらさない。
「…えっ、なに? 何か付いてる?」
「……今夜にでも、身を清められた方がよろしいかと」
メリッサは真剣な表情で、どこか念じるように俺を見続ける。少し考えればすぐにその答えは出た。
「…俺、臭い?」
「いえ、…まぁ、そこそこ……」
メリッサは意を決したようすで口を開く。
「ジン様はこれまで多くの時間お眠りになっていました。その間は使用人さんに体を拭いていただいていましたが、髪を洗うことはどうにもできなかったのです」
ごわごわとした髪に自然と手がいく。汗でかなりベトベトしている。この世界には風呂がないのだと諦めていたが、今思うとメリッサの髪はそれにしては艶やかでさらさらとしている。
「わかった。今夜にでも来ることにするよ」
疑うような面持ちでメリッサは
「絶対ですよ」
と言って場所を移動し始めた。
「はぁ、疲れた」
ベッドに倒れ込むとヴェルガが近づいてきて上からのぞき込んだ。
「結局、行くことができませんでした。すみません」
「いえ…全然」
問題ない。来たら色々と煩かっただろう。
「城内は広かったでしょう?」
「…えぇ。縦にも横にも……」
あの後三階の謁見の間の前まで案内され、その先は立ち入り禁止だと言われた。中央棟は七階まであるそうだ。西棟に戻ると、部屋に行く前に最上階である六階から、中央棟へと移る渡り廊下がその階と三階にあることを確認した。
「メリッサに聞きました。まだ東棟と裏棟には行っていないとか。ジンが今日見たのは城のほんの一部です」
「……そう、ですか…」
「次は私も行きますよ。今日は寂しかったでしょう。私も────」
「そういえば、メリッサの機嫌が悪いようなのですが。何か知っていますか?……ジン?」
振り返ると彼は腕で光を遮り寝息をたてていた。
「……よほど疲れたのですね」
ヴェルガは彼の足に敷かれた毛布をそっと引き抜き、上から掛け直す。
「メリッサはどうして怒っているのでしょう…」
机の前に座り、腕を組んで机に寄り掛かる。それからしばらく開いた扉の向こうに控える小さな背中を眺めていた。
「っ!」
「…どうかされましたか?」
そうとは思わず涙が溢れていた。
「うぅ、旨い、旨いです。味が、味がして、旨くて…」
味覚が戻ったのは俺としての四日目。七日が経過した頃だった。
「クーボップさんの料理がこんなに旨いなんて…」
「そ、そんな。大袈裟ですよ」
クーボップははにかむ。
「だけど、ジン様に気に入っていただけたようで安心いたしました」
クーボップの意味ありげな口振りに振り向く。
「やはり無理はいけません」
その言葉に責めるような色はない。
「…無理なんてしていません」
「はい」
わかっています、とクーボップは笑った。
「どうでしょう、今日は城の中を探検しませんか」
部屋に帰るとヴェルガが待っていた。
「仕事してるんじゃないんですか」
「えぇ、仕事中です」
ヴェルガは本棚から新たに分厚い本を引っ張り出す。
「仕事してるんじゃ探検はできませんね」
「えぇ。残念ですが私は行くことができません」
「私が行って差し上げます」
どこにいたのかひょっこりと現れたメリッサが胸を張る。
「…いいよ、俺は部屋で寝てるよ」
「どうしてですか」
「面倒だなぁって」
メリッサはパラパラとページをめくるヴェルガを示す。
「ここにいらっしゃってはヴェルガ様の邪魔になります」
「いや、だってここ俺の部屋」
「だってではないのですっ!」
メリッサが口を膨らませる。ヴェルガは資料から顔を上げた。
「メリッサ、私はジンが邪魔なわけではないよ」
「でもジン様がいらしてはヴェルガ様のお仕事に差し支えます」
「そうだね。ジンがいては私は気になってしまって集中できないかもしれない」
ヴェルガは俺を見て、メリッサを見て頷いた。
「やっぱり、私も行こう」
そのとたんメリッサが噛み付いた。
「いけませんっ! 調べものが終わるまで外にはでない、と言ったばかりではありませんか」
「…メリッサは最近厳しいね。以前は散歩に行くこともなにも言わなかったよ?」
「前は前なのです」
「いや、俺は部屋に…」
「いきますよ、ジン様!」
口を膨らませたままぷいっとそっぽを向くと、メリッサは部屋を出て行ってしまう。
「困りましたね…。ジン、私も終わったらすぐに行きます。寂しいのはわかりますが、先に行っていてください」
「なんでそうなるんですか」
「以前はもう少し素直な子だったのですが…」
こいつ、聞いてない…。
メリッサを放っておくわけにもいかず、ヴェルガの絡みも面倒くさそうなので俺はその場を後にした。
廊下に出るとメリッサは扉の影に隠れるようにして待っていた。
「何してるの、そんなところで」
「じ、ジン様を、待って差し上げていたのです」
メリッサは顔を背ける。
「…まぁ、なんでもいいけど」
メリッサはさっさと前を歩き出す。一番近くに現れた階段を下りて行く。客間と図書館を繋ぐ道を外れるのは迷ったとき以来、初めてだった。
「ここは…」
「ここが中庭です」
メリッサが最初に俺をつれていったのは以前ソフィアに出会った花々が咲き乱れる華やかな庭だった。
「一度来たよ」
「そうなのですか」
ソフィアのことを話すとメリッサは目を丸くした。
「姫様が…なぜ貴方のような人と…」
「悪かったな、こんなんで」
俺が中庭に入るとソフィアが背後で声を上げた。
「スィフィダ様」
メリッサの視線をたどると、石造りの回廊を跨いだ扉から二人の女が出てきた。一人は白髪で短い髪の老齢の人だ。若い頃はさぞ美しかっただろうと分かる。もう一人はまだ若い、長い髪を後ろで団子にした人だった。老齢の女はシンプルな作りのドレスを着ていた。
「あら、メリッサ。今日はあの人は一緒ではないのね」
老齢の女はメリッサに気付くとにこやかに声をかけた。メリッサはスカートの裾をつまんで、女に恭しく礼をする。
「ヴェルガは書斎で仕事中でございます」
「あら。そう」
女はそれほど興味を示さず、その視線を俺に向けた。
「……」
「…こんにちは」
こちらを見続ける老女に一応挨拶をする。瞬間、メリッサに背中を強く叩かれる。
「胸に手を当てて、お辞儀をしてくださいっ」
メリッサが囁く。言われるように礼をする。
「スィフィダ様、こちらは遠国からのお客様のジン様でございます」
スィフィダと呼ばれた老女はメリッサがしたように礼をした。
「お客様でしたのね。私、スィフィダと申します」
「ジン様、こちらは隣国のお妃様であらせられるスィフィダ様です。元はオッシュニカの第四王女であり、現在は里帰りをされていらっしゃいます───とても身分の高い方です」
最後の言葉は俺にだけ聞こえるように囁かれた。メリッサの視線が痛い。
「ぼっ、わ、私は、…ここから遠く離れた小さな国からやって参りました、ジンと申します」
今できる精一杯の嘘と敬語を口から絞り出すと
「そんなにかしこまらなくてもよろしいのよ。あなたの国の名前をお聞きしてもいいかしら」
「…名前もない小さな国です」
「あら、そうなの。せっかくのお客様だもの、ゆっくりしていらして。城の中も好きに歩いてくださって構わないわ」
スィフィダは笑みを浮かべ歓迎の意を示した。
「はい、ありがとうございます」
「そのかわり、私のお部屋にも遊びに来てくださいね。お国の話を聞きたいものだわ」
メリッサに返事をしろと言うように小突かれる。ぜひ、と伝えるとスィフィダともう一人は中庭と回廊を横切り、俺たちが来た方の扉へと消えた。
隣でメリッサが胸を撫で下ろす。
「あんなのでよかった?」
「まぁ、悪くはないですね。スィフィダ様が寛大な方で助かりました」
広い中庭には他に人の姿はない。メリッサに礼だけは忘れないようにと念押しされる。
「では、次はクーボップさんの厨房に参りましょう」
厨房へと向かう途中、メリッサは四階、三階と下りるなかで、見える範囲の建物の説明も行った。会議室や遊戯室、礼拝堂などを遠く指差していった。会議室は立ち入り禁止だそうだ。
「他にも王族の部屋であるとか、どなたか部屋主のある部屋は無断での立ち入りは厳禁です」
「でもどの部屋が人のものかなんて分からないよ」
「部屋主のある部屋には見張りがつけられているのですぐに分かります。…どちらにせよジン様は入ることができませんね。忍び込もうとすれば即不審者確定、牢屋行きです」
「…しないよ、そんなこと」
二階に下りるとメリッサは谷に面した石の廊下を進む。
円形に曲がる廊下は隣の棟に続くことなく途絶えた。階段とすぐ近くに朱色の扉がある。
「ここがクーボップさんの厨房です」
メリッサが扉を指差す。
「ねぇ、さっきからそうだけど。〝クーボップさんの〟ってことは、他にもあるの?」
「えっ? えぇ、まぁ。今はこちらだけですが、緊急時の厨房が三階に」
「緊急時?」
「以前クーボップさんが突然修行の旅に出てしまわれたので、急いで造られたものです。クーボップさんの指揮無しでは厨房の回転率が落ちてしまうので…」
苦々しい顔をする。
「あの方は優秀です。国一番のシェフです。しかし…あの繊細さは困り物です」
以前、隣国の客が彼の料理が口に合わないと言って皿をひっくり返したことがあったらしい。後に詫びに現れたが、その時にはすでに彼は国を出ていたという。
「一年ほど城を出ていたので、その間人件費がかさみ、大臣様は頭を抱えておいででした」
メリッサは重い扉を力いっぱいに引き開ける。隙間から金属が擦れる音が聞こえ、香ばしい香りが鼻をくすぐった。
メリッサに手を貸し、人が一人通れる幅まで開ける。
「おや、メリッサさん。どうされましたか」
コック帽を被った若い男が一人、こちらを振り返った。
「こんにちは。少し見学です」
「おや、お客さんですか」
「えぇ」
メリッサが俺の袖を引く。
「こんにちは」
「おや、初めまして。ではクーボップを呼んで参りましょう」
奥に行こうとした男にメリッサは丁重に断った。中に入ると奥までさっと見せる。二十人余りの料理人が、いくつもの大きな鍋の回りでせかせかと働いていた。
「彼らが城の全ての食事を担っています」
「これだけの人数で?」
「はい。彼らは国中から選び出された精鋭たちです。そして彼らを統轄するのが料理長であるクーボップさんなのです」
その後、クーボップがいかに優れているかを二言三言付け足してメリッサは厨房を出た。
「では次は木浴場を」
メリッサはそう言うと、また一つ階を下げた。東側の通路を通り中央の棟へと移動する。石廊下から中に入ると、深い茶色の廊下が広がった。
少し行くと白い角石で囲んだ水路が室内に伸びていた。かなり向こうに存在感のある扉がある。どこへ続くのかと尋ねると、外に続く正面扉だとメリッサは説明した。
中央棟の一階は二階と一体化している。白い階段を上ったところがベランダのように突き出している。装飾のある太い柱に支えられ、回廊のようになったそこに、また扉があった。
「ここです」
その扉の前でメリッサは立ち止まった。
「ここは昼は清掃中で入ることができません。夕方から早朝にかけて利用することが可能です」
「今は入れないってことか」
「その通りです。もし起きていらっしゃれば、今夜にでもいらしてみてください」
メリッサはそのままずっと視線をそらさない。
「…えっ、なに? 何か付いてる?」
「……今夜にでも、身を清められた方がよろしいかと」
メリッサは真剣な表情で、どこか念じるように俺を見続ける。少し考えればすぐにその答えは出た。
「…俺、臭い?」
「いえ、…まぁ、そこそこ……」
メリッサは意を決したようすで口を開く。
「ジン様はこれまで多くの時間お眠りになっていました。その間は使用人さんに体を拭いていただいていましたが、髪を洗うことはどうにもできなかったのです」
ごわごわとした髪に自然と手がいく。汗でかなりベトベトしている。この世界には風呂がないのだと諦めていたが、今思うとメリッサの髪はそれにしては艶やかでさらさらとしている。
「わかった。今夜にでも来ることにするよ」
疑うような面持ちでメリッサは
「絶対ですよ」
と言って場所を移動し始めた。
「はぁ、疲れた」
ベッドに倒れ込むとヴェルガが近づいてきて上からのぞき込んだ。
「結局、行くことができませんでした。すみません」
「いえ…全然」
問題ない。来たら色々と煩かっただろう。
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「…えぇ。縦にも横にも……」
あの後三階の謁見の間の前まで案内され、その先は立ち入り禁止だと言われた。中央棟は七階まであるそうだ。西棟に戻ると、部屋に行く前に最上階である六階から、中央棟へと移る渡り廊下がその階と三階にあることを確認した。
「メリッサに聞きました。まだ東棟と裏棟には行っていないとか。ジンが今日見たのは城のほんの一部です」
「……そう、ですか…」
「次は私も行きますよ。今日は寂しかったでしょう。私も────」
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振り返ると彼は腕で光を遮り寝息をたてていた。
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