5 / 23
撫子 一
しおりを挟む
「さる貴いお方の一の姫君よ」
山吹は子猫の喉をなでてやりながら、なんでもないことのように答えました。黒い子猫は満足そうに喉を鳴らします。あいかわらず川のせせらぎはとぎれなく耳を打ち、季節のせいか、そのせせらぎがひどく懐かしいものに感じられました。
不思議なことに、いったん溺れ死にしそうになったというのに、わたくしは川に恐怖や嫌悪はまったく感じませんでした。きっと、阿古屋という名をいただいたせいで水に親しみの情をもったのでしょう。
「さる貴いお方って、どなた?」
「内緒。うふふふふ」
山吹は笑ってはぐらかします。
山吹は十数人いる女房たちのなかでは中堅どころで、古参の女房の信任あつく、若輩の女房たちのまとめ役のような存在です。歳のころは二十ぐらいでしょうか。立ち居振る舞いには品と芯が感じられ、水辺ちかくの庭にさく、京紫色の立ち葵をしのばせるような人で、わたくしは姉のようにすっかり頼りにしていたのですが、このときはいたずら好きな幼女のようにあどけなく見えました。
「まぁ、ずるい」
苦笑いしながら恨めしげな目をしてみせましたが、山吹はそれ以上教えてくれません。
世間のことなど最初から知らなかったのか、記憶をうしなったために理解できなかったのか、無知なわたくしも、物語を読むうちに、世の中の仕組みがおぼろげながら頭にしみこんできておりまして、もしかしたら姫様はこの土地の受領の娘なのかと思われましたが、それにしてはあまりにも女房たちのかしずきようが尋常ではないので、そんな考えは即刻消しさりました。
万が一にも、わたくしが、姫様は受領の娘なの? などと訊けば、女房たちは呆れはてて、つぎには怒りだすにちがいありません。それぐらい、姫様への態度は普通でないように思われました。大貴族の姫君か、まるで宮家の姫君のようです。
もしかしたら、そうなのかもしれません。まわりが敢えてわたくしになにも言わないのは、姫様は、皇族につながる方の血をひくものの、なんらかの事情があってこのような田舎住まいをされていらっしゃるのでしょうか。すこし不思議な気がしてきました。
知りたいことは山ほどございました。
「ねぇ、ここはいったいどこなのかしら?」
訊きはしたものの、記憶を失くしたわたくしが言える土地の名といえば、物語や人の口から読み聞きして知った、須磨、明石、宇治、常陸、筑紫ぐらいでございますが、ここはそのいずれにも当たらぬと思いますし、もちろん京の都では、少なくとも都の中でないことぐらいは、いくらものを知らぬわたくしですら判ります。
では、いったい、ここはどこなのでございましょう?
人とは勝手なもので、命をとりとめ、姫様をはじめ皆様のあたたかさに慣れてくると、好奇心というものが込み上げてまいりまして、ここ二、三日、わたくしは山吹にまとわりつき、なにかれと訊ねてはみるものの、ことあるごとに微笑ではぐらかされてしまいました。
山吹は子猫の喉をなでてやりながら、なんでもないことのように答えました。黒い子猫は満足そうに喉を鳴らします。あいかわらず川のせせらぎはとぎれなく耳を打ち、季節のせいか、そのせせらぎがひどく懐かしいものに感じられました。
不思議なことに、いったん溺れ死にしそうになったというのに、わたくしは川に恐怖や嫌悪はまったく感じませんでした。きっと、阿古屋という名をいただいたせいで水に親しみの情をもったのでしょう。
「さる貴いお方って、どなた?」
「内緒。うふふふふ」
山吹は笑ってはぐらかします。
山吹は十数人いる女房たちのなかでは中堅どころで、古参の女房の信任あつく、若輩の女房たちのまとめ役のような存在です。歳のころは二十ぐらいでしょうか。立ち居振る舞いには品と芯が感じられ、水辺ちかくの庭にさく、京紫色の立ち葵をしのばせるような人で、わたくしは姉のようにすっかり頼りにしていたのですが、このときはいたずら好きな幼女のようにあどけなく見えました。
「まぁ、ずるい」
苦笑いしながら恨めしげな目をしてみせましたが、山吹はそれ以上教えてくれません。
世間のことなど最初から知らなかったのか、記憶をうしなったために理解できなかったのか、無知なわたくしも、物語を読むうちに、世の中の仕組みがおぼろげながら頭にしみこんできておりまして、もしかしたら姫様はこの土地の受領の娘なのかと思われましたが、それにしてはあまりにも女房たちのかしずきようが尋常ではないので、そんな考えは即刻消しさりました。
万が一にも、わたくしが、姫様は受領の娘なの? などと訊けば、女房たちは呆れはてて、つぎには怒りだすにちがいありません。それぐらい、姫様への態度は普通でないように思われました。大貴族の姫君か、まるで宮家の姫君のようです。
もしかしたら、そうなのかもしれません。まわりが敢えてわたくしになにも言わないのは、姫様は、皇族につながる方の血をひくものの、なんらかの事情があってこのような田舎住まいをされていらっしゃるのでしょうか。すこし不思議な気がしてきました。
知りたいことは山ほどございました。
「ねぇ、ここはいったいどこなのかしら?」
訊きはしたものの、記憶を失くしたわたくしが言える土地の名といえば、物語や人の口から読み聞きして知った、須磨、明石、宇治、常陸、筑紫ぐらいでございますが、ここはそのいずれにも当たらぬと思いますし、もちろん京の都では、少なくとも都の中でないことぐらいは、いくらものを知らぬわたくしですら判ります。
では、いったい、ここはどこなのでございましょう?
人とは勝手なもので、命をとりとめ、姫様をはじめ皆様のあたたかさに慣れてくると、好奇心というものが込み上げてまいりまして、ここ二、三日、わたくしは山吹にまとわりつき、なにかれと訊ねてはみるものの、ことあるごとに微笑ではぐらかされてしまいました。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる