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撫子 一
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「さる貴いお方の一の姫君よ」
山吹は子猫の喉をなでてやりながら、なんでもないことのように答えました。黒い子猫は満足そうに喉を鳴らします。あいかわらず川のせせらぎはとぎれなく耳を打ち、季節のせいか、そのせせらぎがひどく懐かしいものに感じられました。
不思議なことに、いったん溺れ死にしそうになったというのに、わたくしは川に恐怖や嫌悪はまったく感じませんでした。きっと、阿古屋という名をいただいたせいで水に親しみの情をもったのでしょう。
「さる貴いお方って、どなた?」
「内緒。うふふふふ」
山吹は笑ってはぐらかします。
山吹は十数人いる女房たちのなかでは中堅どころで、古参の女房の信任あつく、若輩の女房たちのまとめ役のような存在です。歳のころは二十ぐらいでしょうか。立ち居振る舞いには品と芯が感じられ、水辺ちかくの庭にさく、京紫色の立ち葵をしのばせるような人で、わたくしは姉のようにすっかり頼りにしていたのですが、このときはいたずら好きな幼女のようにあどけなく見えました。
「まぁ、ずるい」
苦笑いしながら恨めしげな目をしてみせましたが、山吹はそれ以上教えてくれません。
世間のことなど最初から知らなかったのか、記憶をうしなったために理解できなかったのか、無知なわたくしも、物語を読むうちに、世の中の仕組みがおぼろげながら頭にしみこんできておりまして、もしかしたら姫様はこの土地の受領の娘なのかと思われましたが、それにしてはあまりにも女房たちのかしずきようが尋常ではないので、そんな考えは即刻消しさりました。
万が一にも、わたくしが、姫様は受領の娘なの? などと訊けば、女房たちは呆れはてて、つぎには怒りだすにちがいありません。それぐらい、姫様への態度は普通でないように思われました。大貴族の姫君か、まるで宮家の姫君のようです。
もしかしたら、そうなのかもしれません。まわりが敢えてわたくしになにも言わないのは、姫様は、皇族につながる方の血をひくものの、なんらかの事情があってこのような田舎住まいをされていらっしゃるのでしょうか。すこし不思議な気がしてきました。
知りたいことは山ほどございました。
「ねぇ、ここはいったいどこなのかしら?」
訊きはしたものの、記憶を失くしたわたくしが言える土地の名といえば、物語や人の口から読み聞きして知った、須磨、明石、宇治、常陸、筑紫ぐらいでございますが、ここはそのいずれにも当たらぬと思いますし、もちろん京の都では、少なくとも都の中でないことぐらいは、いくらものを知らぬわたくしですら判ります。
では、いったい、ここはどこなのでございましょう?
人とは勝手なもので、命をとりとめ、姫様をはじめ皆様のあたたかさに慣れてくると、好奇心というものが込み上げてまいりまして、ここ二、三日、わたくしは山吹にまとわりつき、なにかれと訊ねてはみるものの、ことあるごとに微笑ではぐらかされてしまいました。
山吹は子猫の喉をなでてやりながら、なんでもないことのように答えました。黒い子猫は満足そうに喉を鳴らします。あいかわらず川のせせらぎはとぎれなく耳を打ち、季節のせいか、そのせせらぎがひどく懐かしいものに感じられました。
不思議なことに、いったん溺れ死にしそうになったというのに、わたくしは川に恐怖や嫌悪はまったく感じませんでした。きっと、阿古屋という名をいただいたせいで水に親しみの情をもったのでしょう。
「さる貴いお方って、どなた?」
「内緒。うふふふふ」
山吹は笑ってはぐらかします。
山吹は十数人いる女房たちのなかでは中堅どころで、古参の女房の信任あつく、若輩の女房たちのまとめ役のような存在です。歳のころは二十ぐらいでしょうか。立ち居振る舞いには品と芯が感じられ、水辺ちかくの庭にさく、京紫色の立ち葵をしのばせるような人で、わたくしは姉のようにすっかり頼りにしていたのですが、このときはいたずら好きな幼女のようにあどけなく見えました。
「まぁ、ずるい」
苦笑いしながら恨めしげな目をしてみせましたが、山吹はそれ以上教えてくれません。
世間のことなど最初から知らなかったのか、記憶をうしなったために理解できなかったのか、無知なわたくしも、物語を読むうちに、世の中の仕組みがおぼろげながら頭にしみこんできておりまして、もしかしたら姫様はこの土地の受領の娘なのかと思われましたが、それにしてはあまりにも女房たちのかしずきようが尋常ではないので、そんな考えは即刻消しさりました。
万が一にも、わたくしが、姫様は受領の娘なの? などと訊けば、女房たちは呆れはてて、つぎには怒りだすにちがいありません。それぐらい、姫様への態度は普通でないように思われました。大貴族の姫君か、まるで宮家の姫君のようです。
もしかしたら、そうなのかもしれません。まわりが敢えてわたくしになにも言わないのは、姫様は、皇族につながる方の血をひくものの、なんらかの事情があってこのような田舎住まいをされていらっしゃるのでしょうか。すこし不思議な気がしてきました。
知りたいことは山ほどございました。
「ねぇ、ここはいったいどこなのかしら?」
訊きはしたものの、記憶を失くしたわたくしが言える土地の名といえば、物語や人の口から読み聞きして知った、須磨、明石、宇治、常陸、筑紫ぐらいでございますが、ここはそのいずれにも当たらぬと思いますし、もちろん京の都では、少なくとも都の中でないことぐらいは、いくらものを知らぬわたくしですら判ります。
では、いったい、ここはどこなのでございましょう?
人とは勝手なもので、命をとりとめ、姫様をはじめ皆様のあたたかさに慣れてくると、好奇心というものが込み上げてまいりまして、ここ二、三日、わたくしは山吹にまとわりつき、なにかれと訊ねてはみるものの、ことあるごとに微笑ではぐらかされてしまいました。
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