阿古屋

平坂 静音

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撫子 三

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「相手の男ともうまくいかず、自棄やけになってしまって、いっそあの子のところへ行こうと野山をさまよったの。川にとびこんで死ぬつもりが、死にきれずに、ちかくの寺の寺男に救われて、その男がお寺の住職様にたのんで、ここのお邸での仕事を紹介してくれたの。わたくしも、あなたと似たような身の上だったのよ。わたくしは自分の過去を覚えてはいるけれど、いっそすべて捨ててしまいたいぐらい……。この話をしたのは、あなたが初めてよ。ほかの女房たちは誰も知らないの」
 わたくしは胸を見えぬ手でつかまれたような心持ちで山吹の話を聞いておりました。
「他の女房たちは、わたくしが都でなにか苦しい、嫌なことがあって、それを忘れるために、この土地へやってきたのだと思っているわ。まぁ、事実なのだけれど」
「辛い想いをしてきたのね」
 そんな当たり前の、つまらぬ感想しか述べられませんでした。我ながら、おもしろみのない女だと思います。こういうとき物語に出てくる貴婦人たちは、しみじみと優しく、思いやりぶかい言葉で相手の心をなぐさめることができるのでしょうが。
「だから、そんなわたくしにとって、ここは地獄でもなければ極楽でもない、そのはざまのような場所なの。阿古屋、このお邸で暮らせるのは幸せかもしれないわ。あなたは過去の記憶をうしなって、世の中のことがなにもわからなくなっているけれど」
 そこで山吹は言葉をきって、ため息をひとつこぼしました。
「今、都ではいろいろ物騒なことがつづいているの。ひどい火事や飢饉もあちこちで起こっていると聞くわ。ついこのまえも天子様が代わられ、その折ひどく世間が乱れ、いまだに世のなかは静まらないし。姫様がこんな鄙びた場所でお暮らしなっていらっしゃるのも、都での災いから逃れるためなのよ」
 わたくしはそう言われて、忘れていた自分の身の上にかんする不安を思い出しました。
 いったい、わたくしはいかなるよしあって川に身を投げたのでございましょう。いえ、もしかしたら、誰かに落とされたのかもしれませんし、足を踏みはずしてころげ落ちたのかもしれませんが、それでもふとした折につきあげてくる、たまらない寂しさと悲しさは、おそらくわたくしの過去になにかの痛手があったことを教えてきます。
 もしかして、わたくしも山吹のように夫か恋人だった男と苦しい別れをへたのか、まさか子どもがいてその子を亡くすような悲劇にみまわれたのかもしれません。悪いことを想像すると、いてもたってもおられません。
「あなたは、子持ちではないと思うわ。いえ、もしかしたらまだ乙女なのかも」
 青ざめたわたくしの頬を見て、わたくしの考えを読みとった山吹が、声を低めてなぐさめてくれました。自分が未通女みつうめかそうでないかすらわからないのですから、本当に心もとない身の上でございます。自分の年齢ですらわからないのですから。
「たぶん、姫様と同じぐらいだと思うわ」
 では、十五か六ぐらいなのでしょうか。いったいどこの生まれで、両親はどうしているのでしょう? わたくしの身を案じていてくれる人はいるのでしょうか。あせるわたくしに山吹がなぐさめの言葉をかけてくれます。
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