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夜香 四
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「お嬢様のことは、しばらくは金媛様でいいそうだよ」
枇嬋は無表情でそう告げた。
枇嬋とは顔を合わせてまだそれほどたっていないが、いつも無表情で何を考えているのか解らないところがある。歳は五十半ばだろうか。この時代では高齢になるが、黒い簡素な衣につつまれた痩せた身体は、しっかりとしていて、挙措には御殿勤めが長いだけあって品がある。輪花は敬意を持って頭を下げた。
「それから、金媛様は、朝食はお粥だけでいいそうだよ。旦那様に関しては、ええと……、あんた、名は?」
「輪花です」
「輪花? ああ、あんたは旦那様付きだね。旦那様に関しては、あんたが確認しておくれ」
どうやら枇嬋は金媛のみに仕えるらしい。
「お嬢様、いや金媛様のお食事は、隣室に。旦那様のお食事は別室に用意しておくれ」
「え?」
輪花は目を見張った。
「何だい?」
枇嬋の細い目にいらだちを察して、輪花は躊躇したが、訊かずにいられなかった。
「あの、お嬢様、いえ、金媛様と英風様は、別々にお食事されるんですか?」
「言っておかなかったかね? これは呂家のしきたりでね。呂家では、ご夫婦は朝餉と昼餉は別々に取ることになっているんだよ」
輪花は咄嗟に桂葉に目をやったが、桂葉も腑に落ちなさそうな顔をしている。そんなしきたりがあったとは。
だが、考えてみれば、先代の夫、つまり金媛の父がいた頃のことを若い桂葉が良く知っているわけはないのだ。
旧家では、こういうことは珍しくないのかもしれない。
「わかりました。では、すぐに隣室にお食事をお持ちします」
そう言って桂葉は頭を下げた。
「そうしておくれ。金媛様の洗顔やお着替えは、あたしが手伝うから。輪花、あんたは旦那様のお仕度を手伝っておくれ」
「は、はい」
輪花は内心、少し緊張した。
男性の着替えを手伝うなんて、正直気恥ずかしいのだ。主人の方から見たら、使用人など動いて物を言う道具ぐらいにしか思っていないのだろうが……。
そのとき帳が割れて、奥から新妻が顔を出した。あわてて枇嬋がよりそう。まるで三つの子どもに接するように。
「枇嬋、顔を洗うわ」
その声はやや疲れていた。
乱れて純白の夜着にからまる黒髪が艶やかで色っぽい。輪花はどぎまぎしてきた。つい昨日までの彼女には感じられない色香のようのものがつきまとっているのだ。
咲き初めの牡丹を観賞するような気分で、つい輪花は若い女主の顔をうかがうように目線を向けてしまう。
その瞳はどこか空ろだ。疲れているのだろうか。
「さ、お嬢様、いえ金媛様、こちらへ」
枇嬋が貴重な壊れものでも扱うように彼女の手に自分の手を添えて、二人は連れだって控えの間になる隣室に向かう。室の東側の壁には隣室への扉があり、廊下に出ずともそこから出入りできるようになっているのだ。
去っていくかぼそい身体から、昨夜の夢の名残りのようにほのかに甘い微香が漂ってきて、輪花は胸が高鳴った。
枇嬋は無表情でそう告げた。
枇嬋とは顔を合わせてまだそれほどたっていないが、いつも無表情で何を考えているのか解らないところがある。歳は五十半ばだろうか。この時代では高齢になるが、黒い簡素な衣につつまれた痩せた身体は、しっかりとしていて、挙措には御殿勤めが長いだけあって品がある。輪花は敬意を持って頭を下げた。
「それから、金媛様は、朝食はお粥だけでいいそうだよ。旦那様に関しては、ええと……、あんた、名は?」
「輪花です」
「輪花? ああ、あんたは旦那様付きだね。旦那様に関しては、あんたが確認しておくれ」
どうやら枇嬋は金媛のみに仕えるらしい。
「お嬢様、いや金媛様のお食事は、隣室に。旦那様のお食事は別室に用意しておくれ」
「え?」
輪花は目を見張った。
「何だい?」
枇嬋の細い目にいらだちを察して、輪花は躊躇したが、訊かずにいられなかった。
「あの、お嬢様、いえ、金媛様と英風様は、別々にお食事されるんですか?」
「言っておかなかったかね? これは呂家のしきたりでね。呂家では、ご夫婦は朝餉と昼餉は別々に取ることになっているんだよ」
輪花は咄嗟に桂葉に目をやったが、桂葉も腑に落ちなさそうな顔をしている。そんなしきたりがあったとは。
だが、考えてみれば、先代の夫、つまり金媛の父がいた頃のことを若い桂葉が良く知っているわけはないのだ。
旧家では、こういうことは珍しくないのかもしれない。
「わかりました。では、すぐに隣室にお食事をお持ちします」
そう言って桂葉は頭を下げた。
「そうしておくれ。金媛様の洗顔やお着替えは、あたしが手伝うから。輪花、あんたは旦那様のお仕度を手伝っておくれ」
「は、はい」
輪花は内心、少し緊張した。
男性の着替えを手伝うなんて、正直気恥ずかしいのだ。主人の方から見たら、使用人など動いて物を言う道具ぐらいにしか思っていないのだろうが……。
そのとき帳が割れて、奥から新妻が顔を出した。あわてて枇嬋がよりそう。まるで三つの子どもに接するように。
「枇嬋、顔を洗うわ」
その声はやや疲れていた。
乱れて純白の夜着にからまる黒髪が艶やかで色っぽい。輪花はどぎまぎしてきた。つい昨日までの彼女には感じられない色香のようのものがつきまとっているのだ。
咲き初めの牡丹を観賞するような気分で、つい輪花は若い女主の顔をうかがうように目線を向けてしまう。
その瞳はどこか空ろだ。疲れているのだろうか。
「さ、お嬢様、いえ金媛様、こちらへ」
枇嬋が貴重な壊れものでも扱うように彼女の手に自分の手を添えて、二人は連れだって控えの間になる隣室に向かう。室の東側の壁には隣室への扉があり、廊下に出ずともそこから出入りできるようになっているのだ。
去っていくかぼそい身体から、昨夜の夢の名残りのようにほのかに甘い微香が漂ってきて、輪花は胸が高鳴った。
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