闇より来たりし者

平坂 静音

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うわさ 八

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 なんとなく発音に微妙な違いがあるのは、日本人ではないからだろう。たしか、在日の人だと美菜が言っていた。 
「すいません。美菜は、えーと、今……ちょっと具合悪くて……、実家で休んでるんです」
 私は言葉と事実をにごした。
 相手は一瞬、沈黙する。
『……美菜さんは無事なんですね』
「え? ええ、はい」
 私はその声に妙に押されるような気がして、あせってしまった。 
『……あの、原稿の件なんでが、翻訳文をおわたししたいので、会っていただけますか?』
「あ、はい。勿論です」
 私はあせりながらも気になることを確認しておいた。
「あのぉ……翻訳料って、どれぐらいかかるんでしょうか?」
『それは、お気持ちだけでけっこうです』
 そういうのが一番こまる。中国語の翻訳料金って、どれぐらいなんだろう? 相手は、私の沈黙の意味をさとったみたいだ。
『正式な仕事として頼まれたものでもないので、小倉さんが払えるだけでいいです。それよりも、なるべくすぐ会っていただけないでしょうか?』
 声は真剣そのもので、私は何度もはい、はいと返事した。
 さすがに今日は無理なので、明日の夕方、大学近くのドトールで会うことを決めた。『あ、申しおくれました、私、林理玲はやしりれいといいます。美菜さんは、リィーランと呼んでいました』
 リィーラン。その名を私は頭にきざんだ。なんとなく美しい響きだ。
「いい名前ですね。英語圏でも通りそうですね」
 お世辞でなくそう思う。
『ありがとうございます。では、明日、よろしくお願いします。あ、実はもう一人、連れていきたい人がいるのですが、いいでしょうか?』
 私は内心、ややたじろいだけれど、断るのも気がひけて、はぁ……という曖昧な返事をした。まぁ、大丈夫だろう。学校近くのお店だし。妙なことにはならないはず。
 そして、その日は、すっかり麻衣に連絡するのを忘れていた。

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