善意と悪意の境界線

篠月珪霞

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闇の中を、一人歩いている。
目先も背後も見えない、広がるのはただ真っ暗な闇。

地獄への道は善意で舗装されている、とはどこで見た文言だっただろうか。

私の来た道は、善意では決してなかった。かといって、悪意でもなかった。
後も先もない、真っすぐに闇を進んできた。きっと、これからも。













日常は、日々の繰り返しである。
起きて、生きるために仕事に行き、ご飯を食べ、寝て、また起きる。大抵は、平凡で変わり映えのしない毎日。
今日も今日とて、仕事帰りに食材の買い出しにスーパーに行き、物色していた。
何気なく視線を下に向けると、犬がいた。手のひらの収まりそうなほどの小型犬。
今いる場所は、冷蔵や冷凍などのコーナーで、店の奥まった場所にある。
何故、こんなところに犬が?
そう疑問に思ったのにも関わらず、なんとなく触れてしまった。よくよく見ると首輪もなく、繋がれてもいない。
野良?
しかし野良が、こんな奥まで店員の目をかいくぐってこれるだろうか?
また疑問。

「タロ、こんなとこにいた!」

犬を見つけ嬉しそうにしている、飼い主?
飼い主がいたのか。
こんな公共の場に、首輪も繋ぎもせず、放し飼いにしているだと?

そう思ったら、買い物の気分でもなく、その非常識な人間から離れようと店から出る。
うっかり触れてしまったが、あのような人間に飼われている犬が、きちんと世話をされているとは思えない。ノミやダニ、予防注射、どれも期待できるはずもない。
手を洗いたかった。車に乗る前に。
適当な店やビルのトイレにでもと思うが、入ろうとしたビルの入り口に犬がいた。私に向かってけたたましく吠えている。ここはやめだ。
もう駐車場が近い。
ふと見上げて、そういえばここの2階にトイレがあったとビルに入ると、女子中学生だろうか、5人くらいが前の階段を上っていた。ついてない。姦しいのは嫌いだ。
しかし選択の余地はなかった。ひと時の不快感は我慢の他ない。

案の定、洗面台は埋まっていた。ため息をつきそうになるが、相手は年端も行かぬ少女だ。一応は大人の年齢であるからして、じっと待つ。

「どうぞ~」

軽い言葉でその中の一人がすっとトイレの個室へ消えていったので、空いた洗面台を使う。
ハンドソープを多めに取り、爪の先までじっくり洗う。
それほど時間は経っていなかったはずだが、さきほどの少女と鏡越しに目があった。

「さっきはすみません、みんなで使っちゃって」
「いや、別に先に来てたのは君らの方だし」
「ところで、お姉さん、どこかで見たことあるんですよね。テレビとか出てました?」
「…いいえ」

そうかなあ?と首をかしげながら、仲間の元に戻る制服姿の少女。

「なーんか、あの人、どっかで見たことあんだよね~」
「えー、真衣も? あたしも思ったー」
「あたしは覚えないー」
「私も~」
「実は私もどっかで…あーーー!!」

それぞれがきゃらきゃら話していたときに、うち一人が大きな声を上げた。

「ほら、佐伯俊英! あの人に似てるんだよ!!」
「え、誰? 知らなーい」
「ほら、こないだ特番であったじゃん!」
「言われてみれば…」
「ええーそんな似てるー?? それにあの人、女の人じゃん」
「なんとなく、あの淡々とした感じが似てる! ふいんき? そんな感じ!」

久々に思わぬところであの男の名を聞いた。
似てるだと? あいつに?
心外だ。

「でも、佐伯さんって今どうしてるんだろ。俳優やめたんだっけ?」
「あたし興味なかったし~」
「…確か、自殺したんじゃなかったっけ。それで何回忌だかの…」

そんな会話を耳に通り過ぎながらつぶやく。──自殺じゃ、ないけどね。









適当にどこかで食べていこうか。
車のキーを弄びながら、駐車場が見えてきたところで、聞き覚えのある声が呼び止めた。

「あの!」

振り返ると、先ほどの女子中学生が立っていた。一人で。

「…何か用?」
「あの、自殺じゃないってどういうことですか?」

聞こえてたのか。

「なんでそんなこと聞くの? 好奇心?」
「そうじゃないって言っても、信じてもらえないかもしれないですけど…」
「なんで知りたいの?」
「お母さんが…今、病院にいるお母さんが、その名前に怯えるというか、他の何も反応しない母が、唯一取り乱すというか、パニックになるんです」
「へえ?」
「芸能人でもなかった母と、何か関係があったとは思えないんですけど…」
「君の名前を、聞いてもいい?」
「佐藤真衣です」
「お母さんの名前は?」
「佐藤綾香」
「……お父さんは?」
「いません。わたしは祖父母に育てられました」

──ああ、そういうことか。
同姓同名の別人の可能性もあるが、確かに目の前の少女は、彼女の面影がある。

「たぶん、聞いてもどうしようもないよ。お母さんの病状がよくなるわけでもなし」
「それでも聞きたいです。お願いします!」

頭を下げる少女。真摯に願えば叶えられる環境にいるだろう、少女。
両親はともかく、たぶん、周囲に愛されて育っただろう少女。
君が、うらやましい。

「君のお母さんと関わりがあるか、分からないよ?」
「分かってます」
「私が言うことが、本当のことじゃないかもしれなくても?」
「佐伯さんの死には不審な点が多かったと聞きました。何を聞いても変わらないと思います」
「そう、なら教えてあげよう」

きっと、君は後悔するだろう。









「君のお母さんとは単なる顔見知り程度だよ。佐伯と知り合ったのは、本当に偶然。むしろ佐伯を通して知ってるくらい。
もう15年前になるのかな。佐伯は、そこそこ二枚目だったし、俳優だったからね。そりゃ女の方が寄ってくる。…お母さんもその一人だったみたい。
佐伯はね、大麻をやってた。違法薬物。何度か捕まったかな。
正直、私はその日なんで佐伯に呼び出されたか分からない。でもね、行った先は、まあ軽く地獄といってもよかったかもね。薬のパーティやってたの。
その中に、君のお母さんはいた。もう正気じゃなくて、いろんな男のオモチャになってた。分かる? …そう。
私はその後、佐伯に問いただしたけど、奴ももう薬やってたから、どうしようもなくてね。
気付いたら、殺してたよ。私が」

薬による乱交パーティ。私はその場から逃げ出した。佐伯を殺した後。
だが、未だに私は捕まっていない。
以前と違い、殺人に時効はなくなったけれど。
おそらく、確たる物証など今更見つかるわけもない。別にそれを願っているわけでもない。

「──…君は、たぶんそのときの子だ」

誰とも分からない男の子供。もしかしたら佐伯だったかもしれない。









少女の道に、ひとかけらの善意。潜ませていない、羨望と悪意。

──地獄への道は善意で舗装されている。

続く道は、見渡す限り、闇。一筋の光もない。




















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