「お薬の時間だよ」

チハヤ

文字の大きさ
1 / 1

お薬の時間だよ

しおりを挟む
「誰か! 誰か助けて!! 助けてよぉ……おねが……だからぁ……っ!!」

 ガラガラの声を一層張り上げて叫ぶ。
 私の手足をベッドに縛り付けているベルトを何とかしようと身をよじるが、無駄な抵抗だ。惨めにも自分で拭うこともできない涙と鼻水で顔面はぐちゃぐちゃになっていた。
 何時間叫び続けているのだろう。盤面に大きなヒビの入った壁掛け時計は十四時前を差していた。
 もうじきまた、あの時間だ――


 廊下をスリッパでパタパタと叩く音が私の部屋の前で止まる。軽いノックの後、ドアは開かれた。

「ああっ、また綺麗な顔を汚して……」

 ノックの主は部屋に入るなり私の顔を覗き込んだ。私をベッドに拘束した犯人である憎らしい顔が眼前に広がる。
 男は私と同世代の二十半ばくらいだろか。慌てたように私の顔にタオルを押しつけてくる。

「やっ、やめて! あなた誰なの!?」
「僕は君の婚約者だよ?」

 男は唇の端を釣り上げて、もう何度耳にしたかわからない言葉を吐き捨てた。
――婚約者だって? 冗談じゃない。

「馬鹿言わないでよ! あなたなんて知らない! 私の家族をどこへやったの!?」
「…………」

 不快な手から逃れるため、必死で顔を背けながら男をキッと睨みつける。男は手を止めて窓へと視線を向けた。
 レースのカーテン越しに穏やかな日の光を感じる。窓ガラスを一枚隔てた先には平和な日常が広がっているのだろう。聞こえてくるのは鳥のさえずりに、近所の子供達の声に、電車が通る音。今の私にはそれら全てが遠い世界のことのように思えてならない。
 いつからだったか、何がきっかけだったのか、何も思い出せないけれど。両親と弟の四人で暮らしていた自宅の、自室のベッドに、私だけが縛り付けられ監禁されている。

「……家族に会いたい?」
「当たり前でしょ!」
「いいんだよ。家族のことはもう考えなくて。悲しくなるだけだ」
「っ、いやぁ!! 私の家族はどこ!? 殺したの!? 許せない、許せない!!」

 私がこいつを殺してやる――
 必死で暴れてもスプリングがギ、ギ、と虚しく音を立てるだけで、脇に立つ男に少しも届かない。無力な自分が悔しくて、視界はまた滲んでいた。

 家の中は荒れ放題で、以前の面影はなかった。
 壁には何箇所も大きな穴が開いており、みんなでこだわって選んだ家具はどれも傷だらけ。私の部屋のテレビも画面がバキバキに割れていて電源がつかない。全てこの男の仕業だ。
 私は男を罵倒しながら、あざだらけの肌にベルトが食い込むのも構わず抵抗を続けた。何を考えているのか、男は顔を覆い、喉をくつくつと鳴らしている。
 やがて不気味に充血した目を露わにして口を開く。

「お薬の時間だよ」
「っ!」

 男の唇が歪に弧を描いている。手には注射器。
 私は監禁されてから毎日三回、決まった時間に怪しい薬を注射されている。あれを打たれると急に思考にもやがかかり、何も考えられなくなって、私が私でなくなっていくのを感じるのだ。
 嫌だ、嫌だ。怯えて首を振っても、細い針が体を蝕んでいくのを止められなかった。



 聞き慣れたインターホンの音がした。続いてドアが静かに閉められる。薄っすらと目を開けると、カーテンの隙間から西日が差し込んでいた。
 そんなに長い時間眠っていたわけではないようだ。腫れたまぶたを指で擦って、気付く。
――体が拘束されていない。
 慌てて廊下へ出て、階段を駆け下りる。勝手知ったる我が家だ。階段を下りてすぐ目の前にある玄関のドアから迷わず外に出た。
 門扉の前に、男と、先程インターホンを鳴らした主らしき男性の姿があった。顔見知りの隣人だ。

「たっ、助けてください! 私、この男に閉じ込められてるんです!!」

 家の前の道路では近所に住む主婦数人が立ち話をしていたらしく、全員の視線が私に向けられた。
 しかし、真っ先に近付いてきた男に口を塞がれて羽交い締めにされる。

「んーっ、ん――!!」
「うるさくしてすみません。気を付けます」

 隣人は「頼むよ」と言い残し、私に背を向ける。外の主婦達も何事もなかったかのように会話を再開したようだった。誰もこちらに駆け寄ろうとする素振りはない。
 私、確かに助けを求めたよね? 警察を呼んでくれるんだよね? すぐに助けが来るって信じていいんだよね……?

 でも――日が沈んでから随分経っても助けは来なかった。私は抵抗虚しく定位置のベッドに戻され、縛り付けられている。
 そしてまた、血走った目で男は言う。

「お薬の時間だよ」





「……ごめん。また怪我させちゃったね」

 薬が効いて落ち着きを取り戻した彼女が、穏やかに、寂しそうに、包帯を巻いた僕の腕を撫でる。
 夕方、逃げ出そうとした彼女を再び拘束するのに手こずってできた傷だ。でも、彼女の細い手首や足首の痛々しい傷跡に比べたらこれくらいどうってことない。

「僕は大丈夫だよ。それより君が無事でよかった。ごめんね。僕が不用心に君から離れたせいで危ない目にあわせるところだった」
「ううん。謝らないで。私の体、また縛ってね。きっとすぐに暴れちゃうから」
「うん……」

 彼女は体から薬が抜けると酷い錯乱状態になる。強い幻覚を見て、自分にも他人にも見境なく危害を加えるようになってしまうのだ。その状態の時の彼女は、結婚の約束まで交わした恋人の僕のことも、長い付き合いの友人のこともすっかり忘れている。
 彼女が彼女でなくなってしまわないように。八時、十四時、二十時の計三回。処方薬を欠かせないが、最近どうにも薬が効く時間が短くなってきていた。
 昼夜問わず泣き叫ぶことが増えたため、ついにお隣さんも苦情を言いに来た。お隣さんは事情を知っているからある程度は理解を示してくれているが、このままというわけにもいかないだろう。

「ごめんね。今後は手足だけじゃなくて口も塞ぐことになると思う」
「うん。その方が安心。私ね、あなたを傷付ける言葉を吐くことが何より怖いの。ほら、目真っ赤……泣かせてばっかりでごめんね」
「……平気だよ。君の方が僕の百倍泣いてるだろ」

 彼女の家族はもうこの世にいない。家族四人で乗っていた車が事故にあって、彼女だけが生き残ったのだ。
 お出かけを提案したのは自分だった、みんなを殺してしまったと悔やみ、自分を責め続けた彼女の心はボロボロになってしまった。
 彼女との親交が深かった人ほど記憶から抜け落ちてしまうのは、もう大切な人を失いたくないという彼女なりの自己防衛の結果なのだろうと医師は言う。

「それに、君は昔から割と手のかかる彼女だったろ? まあ、そんなところもふくめて好きだけどね」
「うん。私も好き。大好き……」
「……ありがとう」

 いっそのこと彼女と一緒に狂えたら幸せかもしれないと何度も思った。
 それでも僕は、病気を克服した君との幸せな未来を諦めきれない。どれだけ拒絶されても、人殺しだと罵られても、僕を好きだというその一言でまた少し頑張れる。


――お願い! 誰か私を助けてよ!
――ねぇ、本当は聞こえてるんでしょ!? あんた達が男とグルだってこと、わかってるんだからね!!

 朝食の準備をしていると、二階から彼女の叫び声が聞こえてきた。タオルを噛ませておいたのだが、外れてしまったのだろう。丁度いい。八時だ。

「ひっ……い、嫌……嫌……」

 彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。目の前に化け物でも現れたかのように目を見開き、引き攣った表情で首を振る彼女は全身で僕を拒絶していた。
 何度だって心は抉られるが、涙をぐっとこらえて注射の用意をする。

 そうして、できるだけ怖がらせないように、注射に不慣れな僕の緊張が伝わらないように、不格好な笑みを添えて。お決まりの言葉を口にする。

「お薬の時間だよ」
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。 二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。 だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。 信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。 王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。 誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。 王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

あなたに嘘を一つ、つきました

小蝶
恋愛
 ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…  最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

女避けの為の婚約なので卒業したら穏やかに婚約破棄される予定です

くじら
恋愛
「俺の…婚約者のフリをしてくれないか」 身分や肩書きだけで何人もの男性に声を掛ける留学生から逃れる為、彼は私に恋人のふりをしてほしいと言う。 期間は卒業まで。 彼のことが気になっていたので快諾したものの、別れの時は近づいて…。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

処理中です...