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第1話 赤い時間
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刑事一課の執務室には、夜更けにも関わらず書類をめくる音と電話のベルが絶えず響いていた。
九重誠治郎は、机に広げた調書の文字を無言で追っていた。
黒髪を短く刈り上げ、百八十センチを超える体躯を背広に包んで椅子に収めている姿は、黙っているだけで周囲に圧を与える。
だが本人にその自覚は薄い。ただ、与えられた仕事を粛々とこなしているにすぎなかった。
壁の時計は、すでに二十三時を回っている。
同僚の若手刑事が「今日はこのへんで」と立ち上がるのを横目に、九重は最後まで席を立たなかった。
上司の佐伯警部補が「無理をするな」と一声かけて出て行った後、ようやくペンを置いた。
(……ここまでにしておくか)
肩を回し、背広の内ポケットに手帳をしまう。
机の上に残った書類は、明日の朝一番で目を通すことにした。
彼にとって、捜査資料を家に持ち帰ることはしないと決めているルールだった。
生活の場と仕事を、せめてそこでだけは線引きしていた。
執務室を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。
エレベーターの小さな箱に一人で乗り込み、地下一階の駐車場を横目に、雨に濡れた夜の街へと足を運ぶ。
⸻
国木市の夜は、秋雨に煙っていた。
終電が近づいた駅前は、人影もまばらだ。
街灯と信号が濡れたアスファルトに滲み、赤や緑の光が水面のように揺らめいている。
九重は傘を持っていなかった。
肩口から滴る雨はスーツに染み込み、冷たさがじわりと肌を這った。
それでも気にした様子はなく、無言で歩を進める。
独身の彼に待つ家は、暗い部屋だけだ。
電気を点ければ冷蔵庫に水のボトルが一本、机の上には読みかけの本か新聞が置いてある程度。
温もりのない帰宅に急ぐ必要はなかった。
それでも視線は鋭く保たれている。
職業柄か、道を歩くときも周囲を観察する癖が染みついていた。
路地に潜む人影、スピードを上げて走る車の挙動、通りを横切る酔客の足取り。
何気ない夜の街に、事件の兆しを探すような目つき。
その時だった。
すれ違ったサラリーマン風の男の頭上に、異様なものが現れた。
〈12d 06:45:21〉
赤い数字。
デジタル時計のように発光し、雨粒に滲むこともなく、宙に固定されるように浮かんでいる。
しかも、秒ごとに確実に減っていく。
「……なんだ?」
誠治郎は立ち止まった。
瞬きをしても、目をこすっても消えない。
男が歩き去ると、その頭上から離れることなく遠ざかっていった。
周囲の誰も気づいていない。
傘を差したカップルも、タクシーを待つ男も、怪訝な顔を見せることはない。
見えているのは、自分だけだ。
冷たい雨よりも、不気味な寒気が背筋を這い上がった。
誠治郎はゆっくりと歩を進めたが、視界の端には残像のように赤い数字がちらついて離れなかった。
自宅に戻っても、その数字の明滅は脳裏から消えず、眠りは浅く途切れ途切れだった。
――あれは、なんだ?
ただの幻覚か。
疲労のせいか。
だが、刑事として培った勘は「ただの幻」では片づけられないと囁いていた。
数日後の夕刻。
国木駅前の交差点は、帰宅を急ぐ人々で溢れていた。
小雨は止んでいたが、濡れた路面は街灯や車のライトを映してまだらに輝いている。
排気ガスの匂いと、傘から落ちた水滴の冷たさが混じる。
九重誠治郎は信号待ちの列に立ち、無意識に人々の頭上を見渡していた。
ここ数日で、視線の癖はすっかり抜けなくなっていた。
人の頭上に――あの赤い数字が浮かぶかどうか。
〈317d 14:02:59〉
赤ん坊を抱いた母親。
〈29d 02:11:45〉
コンビニ袋を下げた学生。
そして、何も出ていない者が大多数。
数字が見える者と、見えない者。その違いは何なのか。
(どういう基準なんだ……?)
ただの幻覚にしては、あまりに規則的だ。
それでいて、誰にも気づかれていない。
正体は分からないまま、疑念だけが胸の奥に積もっていく。
その時だった。
視界の端に、異様な数字が飛び込んできた。
スマートフォンを操作しながら立つ若い男性。
その頭上に浮かんでいたのは――
〈0d 00:00:05〉
息が止まった。
赤い数字は容赦なく減っていく。
〈0d 00:00:04〉
〈0d 00:00:03〉
(……カウントダウン?)
心臓が強く脈打つ。
男は画面に夢中で、顔を上げない。
信号が青に変わった瞬間、彼はそのまま車道に足を踏み出した。
「危ないっ!」
九重の声が夜に響いた。
だが届かない。
右手側から、トラックのライトが眩く迫ってくる。
耳をつんざくようなクラクション。
タイヤが水を弾き、悲鳴のようなブレーキ音を上げる。
それでも、重い車体は止まり切れなかった。
衝撃音。
若い男の身体が宙に舞う。
傘が弾け飛び、人々の悲鳴が交差点に渦巻いた。
スローモーションのように、全てが遅く見える。
血が路面に散り、赤黒い滲みを広げる。
その頭上にあった数字は――
ゼロを示したまま、ふっと消えた。
⸻
「……っ」
喉が詰まる。
胸の奥に冷たいものが流れ込む感覚。
周囲は混乱していた。
駆け寄る人、立ちすくむ人、口元を押さえて震える人。
「救急車!」「誰か、救急車を!」
叫び声が飛び交う。
だが九重の耳には遠く、かすれて聞こえた。
視線はただ、消えた数字の残像を追っていた。
(……ゼロになった瞬間に、消えた……)
まるで、役目を終えたタイマーのように。
事故の瞬間と、数字の消失。
偶然とは思えない。
「何だ、あれは……」
唇が震え、言葉がこぼれる。
寿命、という言葉が脳裏をよぎったが、すぐに振り払った。
軽々しく結びつけていいものではない。
それでも、ゼロと同時に命が絶たれた事実は、目の前に突きつけられていた。
雨上がりの夜気が冷たく肌を刺す。
だが背筋を這う寒気の方が、ずっと深く重かった。
午後三時を少し過ぎたころ。
国木市の住宅街にある小学校の校門前は、下校する子供たちの声でにぎわっていた。
雨雲は切れ、秋の斜陽が濡れた路面を照らし、乾いた落ち葉の匂いが漂っている。
九重誠治郎は、付近での聞き込みを終えて署へ戻る途中だった。
無意識に校門の方へ視線を向ける。
黄色い帽子とランドセルの列。親に手を引かれる子もいれば、友達同士で笑い合いながら駆け出す子もいる。
そんな中、一人だけ群れから外れて、横断歩道へ向かう小さな背中が目に入った。
そして――その頭上に浮かぶ赤い数字が、九重の足を止めた。
〈0d 00:00:12〉
「……っ」
息が詰まる。
胸に冷たい鉄の塊を押し込まれたような感覚。
数字は容赦なく、秒ごとに減っていく。
〈0d 00:00:11〉
〈0d 00:00:10〉
子供は左右を確認せず、ランドセルを揺らして車道に足を踏み出した。
交差点の向こうから、一台の乗用車がスピードを上げて近づいてくる。
運転席の男はスマートフォンを片手に持ち、前方をろくに見ていない。
(間に合わない……!)
九重の体が先に動いた。
地面を蹴り、スーツの裾をはためかせて走り出す。
濡れたアスファルトで靴底がわずかに滑るが、踏み込みを強めて速度を上げた。
数字はなおも減り続ける。
〈0d 00:00:07〉
〈0d 00:00:06〉
周囲の時間が引き延ばされたように感じた。
ランドセルの赤がやけに鮮烈で、車体のフロントガラスが夕陽を反射してギラリと光る。
耳に響くのは心臓の鼓動と、靴底が地面を叩く音だけだった。
〈0d 00:00:05〉
子供が車道の中央に差しかかった。
その顔がふとこちらを向く。驚きに目を丸くして、次の瞬間には光の反射に表情がかき消された。
「うおおっ!」
九重は全力で腕を伸ばし、子供の体を抱きかかえるようにして歩道へ突き飛ばした。
直後、車のブレーキ音が耳を裂いた。
タイヤが水を弾き、焦げたゴムの臭いが立ちこめる。
車体は九重のすぐ脇をかすめて停止した。
肩に鋭い痛み。スーツの生地が裂け、血がにじむ。
だが、それどころではなかった。
九重は、抱えた子供の頭上を見た。
そこにあったはずの赤い数字は――
消えていた。
⸻
「……消えた……」
荒い息の合間に、かすれた声が漏れた。
〈0d 00:00:12〉から始まった秒読み。
ゼロになる前に、自分が断ち切った。
そして数字は、跡形もなく消えた。
母親が駆け寄り、泣きじゃくる子供を抱きしめる。
彼女は九重に何度も頭を下げ、「ありがとうございました」と繰り返した。
その声が背中に降りかかるたび、九重の胸はさらにざわめいた。
(死ぬはずだった未来が……消えた?)
交差点で見た若者はゼロと同時に死に、数字も消えた。
だがこの子は生き、同じように数字が消えた。
数字は――死を告げるもの。
だがそれは絶対ではない。
人の行動次第で、未来は変えられる。
背筋に冷たい汗が流れる。
同時に胸の奥には、熱い衝動が芽生えていた。
(……俺の行動で、人を救える……)
誰にも信じてもらえないだろう。
それでも、この目に見えてしまう以上、背を向けることはできなかった。
その夜、九重誠治郎は署に戻らず、まっすぐ自宅のマンションに帰った。
エントランスは人影もなく、湿った風が自動ドアから吹き込む。
靴を脱ぎ、暗い部屋に入る。
玄関の電灯を点けても、冷蔵庫に水のボトルが一本、机の上に資料が積まれているだけの空間。
独身生活の簡素さが、今日の出来事をいっそう鮮やかに浮かび上がらせた。
ソファに腰を下ろすと、濡れたスーツが冷たく肌に貼りついた。
肩に走った痛みを確かめるように触れると、布の下からじんわり血がにじんでいる。
昼間の衝撃がまだ体に残っていた。
目を閉じると、鮮明に蘇る。
〈0d 00:00:12〉――秒ごとに減る赤い数字。
ランドセルの赤。夕陽に照らされて光ったフロントガラス。
そして、子供を抱き上げた瞬間に消えた数字。
(……死ぬはずの未来を、俺は消した……)
頭では信じきれなくても、目で見てしまった。
交差点での若者はゼロになり、数字と命を同時に失った。
だが今日の子供は生き、数字はゼロを待たずに消えた。
「……助ければ、消える」
ぽつりと声にした言葉が、暗い部屋に沈んだ。
数字は死を告げるタイマー。
だが、それは絶対ではない。
人の行動で、未来は変わる。
九重は額に手を当てた。
刑事として数多くの死を見てきたが、これほど理不尽で、そして救いのある仕組みを前にしたのは初めてだった。
⸻
それでも、口にする相手はいない。
もし署で「人の頭上に数字が見える」などと言えば、どうなるかは明白だ。
心配されるか、笑われるか。最悪は職務に支障ありとして外される。
刑事として培ってきた直感が告げていた。
――このことは、誰にも話してはならない。
窓辺に立つと、国木市の夜景が広がっていた。
マンションの向かいの歩道を、数人の人影が行き交う。
街灯に照らされるその頭上には、やはり数字が浮かぶ者と、何もない者とがいた。
〈254d 11:59:03〉
〈87d 02:44:12〉
知らなければよかった。
だが、見えてしまった以上、無視はできない。
数字を背負った人々が、この街で笑い、歩き、明日を信じて暮らしている。
自分だけがその「刻限」を知り、見過ごすことができるのか。
喉の奥が渇く。
タバコに火を点け、煙を大きく吐き出した。
紫煙が窓の外に流れ、夜の街に溶けていく。
(……この力は、呪いか……それとも)
子供の泣き声と、母親の必死な礼の言葉が蘇る。
その瞬間、胸の奥で何かが熱を帯びた。
(俺は――救う。救わずにはいられない)
決意とも、衝動ともつかない思い。
それが彼の心を確かに突き動かしていた。
暗い部屋の中、九重はソファに腰を戻した。
頭上に数字は浮かんでいない。
だが、彼の瞳には確かに赤い光が映っていた。
自分だけが背負う「刻限」を、どうにかして見届ける覚悟とともに。
九重誠治郎は、机に広げた調書の文字を無言で追っていた。
黒髪を短く刈り上げ、百八十センチを超える体躯を背広に包んで椅子に収めている姿は、黙っているだけで周囲に圧を与える。
だが本人にその自覚は薄い。ただ、与えられた仕事を粛々とこなしているにすぎなかった。
壁の時計は、すでに二十三時を回っている。
同僚の若手刑事が「今日はこのへんで」と立ち上がるのを横目に、九重は最後まで席を立たなかった。
上司の佐伯警部補が「無理をするな」と一声かけて出て行った後、ようやくペンを置いた。
(……ここまでにしておくか)
肩を回し、背広の内ポケットに手帳をしまう。
机の上に残った書類は、明日の朝一番で目を通すことにした。
彼にとって、捜査資料を家に持ち帰ることはしないと決めているルールだった。
生活の場と仕事を、せめてそこでだけは線引きしていた。
執務室を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。
エレベーターの小さな箱に一人で乗り込み、地下一階の駐車場を横目に、雨に濡れた夜の街へと足を運ぶ。
⸻
国木市の夜は、秋雨に煙っていた。
終電が近づいた駅前は、人影もまばらだ。
街灯と信号が濡れたアスファルトに滲み、赤や緑の光が水面のように揺らめいている。
九重は傘を持っていなかった。
肩口から滴る雨はスーツに染み込み、冷たさがじわりと肌を這った。
それでも気にした様子はなく、無言で歩を進める。
独身の彼に待つ家は、暗い部屋だけだ。
電気を点ければ冷蔵庫に水のボトルが一本、机の上には読みかけの本か新聞が置いてある程度。
温もりのない帰宅に急ぐ必要はなかった。
それでも視線は鋭く保たれている。
職業柄か、道を歩くときも周囲を観察する癖が染みついていた。
路地に潜む人影、スピードを上げて走る車の挙動、通りを横切る酔客の足取り。
何気ない夜の街に、事件の兆しを探すような目つき。
その時だった。
すれ違ったサラリーマン風の男の頭上に、異様なものが現れた。
〈12d 06:45:21〉
赤い数字。
デジタル時計のように発光し、雨粒に滲むこともなく、宙に固定されるように浮かんでいる。
しかも、秒ごとに確実に減っていく。
「……なんだ?」
誠治郎は立ち止まった。
瞬きをしても、目をこすっても消えない。
男が歩き去ると、その頭上から離れることなく遠ざかっていった。
周囲の誰も気づいていない。
傘を差したカップルも、タクシーを待つ男も、怪訝な顔を見せることはない。
見えているのは、自分だけだ。
冷たい雨よりも、不気味な寒気が背筋を這い上がった。
誠治郎はゆっくりと歩を進めたが、視界の端には残像のように赤い数字がちらついて離れなかった。
自宅に戻っても、その数字の明滅は脳裏から消えず、眠りは浅く途切れ途切れだった。
――あれは、なんだ?
ただの幻覚か。
疲労のせいか。
だが、刑事として培った勘は「ただの幻」では片づけられないと囁いていた。
数日後の夕刻。
国木駅前の交差点は、帰宅を急ぐ人々で溢れていた。
小雨は止んでいたが、濡れた路面は街灯や車のライトを映してまだらに輝いている。
排気ガスの匂いと、傘から落ちた水滴の冷たさが混じる。
九重誠治郎は信号待ちの列に立ち、無意識に人々の頭上を見渡していた。
ここ数日で、視線の癖はすっかり抜けなくなっていた。
人の頭上に――あの赤い数字が浮かぶかどうか。
〈317d 14:02:59〉
赤ん坊を抱いた母親。
〈29d 02:11:45〉
コンビニ袋を下げた学生。
そして、何も出ていない者が大多数。
数字が見える者と、見えない者。その違いは何なのか。
(どういう基準なんだ……?)
ただの幻覚にしては、あまりに規則的だ。
それでいて、誰にも気づかれていない。
正体は分からないまま、疑念だけが胸の奥に積もっていく。
その時だった。
視界の端に、異様な数字が飛び込んできた。
スマートフォンを操作しながら立つ若い男性。
その頭上に浮かんでいたのは――
〈0d 00:00:05〉
息が止まった。
赤い数字は容赦なく減っていく。
〈0d 00:00:04〉
〈0d 00:00:03〉
(……カウントダウン?)
心臓が強く脈打つ。
男は画面に夢中で、顔を上げない。
信号が青に変わった瞬間、彼はそのまま車道に足を踏み出した。
「危ないっ!」
九重の声が夜に響いた。
だが届かない。
右手側から、トラックのライトが眩く迫ってくる。
耳をつんざくようなクラクション。
タイヤが水を弾き、悲鳴のようなブレーキ音を上げる。
それでも、重い車体は止まり切れなかった。
衝撃音。
若い男の身体が宙に舞う。
傘が弾け飛び、人々の悲鳴が交差点に渦巻いた。
スローモーションのように、全てが遅く見える。
血が路面に散り、赤黒い滲みを広げる。
その頭上にあった数字は――
ゼロを示したまま、ふっと消えた。
⸻
「……っ」
喉が詰まる。
胸の奥に冷たいものが流れ込む感覚。
周囲は混乱していた。
駆け寄る人、立ちすくむ人、口元を押さえて震える人。
「救急車!」「誰か、救急車を!」
叫び声が飛び交う。
だが九重の耳には遠く、かすれて聞こえた。
視線はただ、消えた数字の残像を追っていた。
(……ゼロになった瞬間に、消えた……)
まるで、役目を終えたタイマーのように。
事故の瞬間と、数字の消失。
偶然とは思えない。
「何だ、あれは……」
唇が震え、言葉がこぼれる。
寿命、という言葉が脳裏をよぎったが、すぐに振り払った。
軽々しく結びつけていいものではない。
それでも、ゼロと同時に命が絶たれた事実は、目の前に突きつけられていた。
雨上がりの夜気が冷たく肌を刺す。
だが背筋を這う寒気の方が、ずっと深く重かった。
午後三時を少し過ぎたころ。
国木市の住宅街にある小学校の校門前は、下校する子供たちの声でにぎわっていた。
雨雲は切れ、秋の斜陽が濡れた路面を照らし、乾いた落ち葉の匂いが漂っている。
九重誠治郎は、付近での聞き込みを終えて署へ戻る途中だった。
無意識に校門の方へ視線を向ける。
黄色い帽子とランドセルの列。親に手を引かれる子もいれば、友達同士で笑い合いながら駆け出す子もいる。
そんな中、一人だけ群れから外れて、横断歩道へ向かう小さな背中が目に入った。
そして――その頭上に浮かぶ赤い数字が、九重の足を止めた。
〈0d 00:00:12〉
「……っ」
息が詰まる。
胸に冷たい鉄の塊を押し込まれたような感覚。
数字は容赦なく、秒ごとに減っていく。
〈0d 00:00:11〉
〈0d 00:00:10〉
子供は左右を確認せず、ランドセルを揺らして車道に足を踏み出した。
交差点の向こうから、一台の乗用車がスピードを上げて近づいてくる。
運転席の男はスマートフォンを片手に持ち、前方をろくに見ていない。
(間に合わない……!)
九重の体が先に動いた。
地面を蹴り、スーツの裾をはためかせて走り出す。
濡れたアスファルトで靴底がわずかに滑るが、踏み込みを強めて速度を上げた。
数字はなおも減り続ける。
〈0d 00:00:07〉
〈0d 00:00:06〉
周囲の時間が引き延ばされたように感じた。
ランドセルの赤がやけに鮮烈で、車体のフロントガラスが夕陽を反射してギラリと光る。
耳に響くのは心臓の鼓動と、靴底が地面を叩く音だけだった。
〈0d 00:00:05〉
子供が車道の中央に差しかかった。
その顔がふとこちらを向く。驚きに目を丸くして、次の瞬間には光の反射に表情がかき消された。
「うおおっ!」
九重は全力で腕を伸ばし、子供の体を抱きかかえるようにして歩道へ突き飛ばした。
直後、車のブレーキ音が耳を裂いた。
タイヤが水を弾き、焦げたゴムの臭いが立ちこめる。
車体は九重のすぐ脇をかすめて停止した。
肩に鋭い痛み。スーツの生地が裂け、血がにじむ。
だが、それどころではなかった。
九重は、抱えた子供の頭上を見た。
そこにあったはずの赤い数字は――
消えていた。
⸻
「……消えた……」
荒い息の合間に、かすれた声が漏れた。
〈0d 00:00:12〉から始まった秒読み。
ゼロになる前に、自分が断ち切った。
そして数字は、跡形もなく消えた。
母親が駆け寄り、泣きじゃくる子供を抱きしめる。
彼女は九重に何度も頭を下げ、「ありがとうございました」と繰り返した。
その声が背中に降りかかるたび、九重の胸はさらにざわめいた。
(死ぬはずだった未来が……消えた?)
交差点で見た若者はゼロと同時に死に、数字も消えた。
だがこの子は生き、同じように数字が消えた。
数字は――死を告げるもの。
だがそれは絶対ではない。
人の行動次第で、未来は変えられる。
背筋に冷たい汗が流れる。
同時に胸の奥には、熱い衝動が芽生えていた。
(……俺の行動で、人を救える……)
誰にも信じてもらえないだろう。
それでも、この目に見えてしまう以上、背を向けることはできなかった。
その夜、九重誠治郎は署に戻らず、まっすぐ自宅のマンションに帰った。
エントランスは人影もなく、湿った風が自動ドアから吹き込む。
靴を脱ぎ、暗い部屋に入る。
玄関の電灯を点けても、冷蔵庫に水のボトルが一本、机の上に資料が積まれているだけの空間。
独身生活の簡素さが、今日の出来事をいっそう鮮やかに浮かび上がらせた。
ソファに腰を下ろすと、濡れたスーツが冷たく肌に貼りついた。
肩に走った痛みを確かめるように触れると、布の下からじんわり血がにじんでいる。
昼間の衝撃がまだ体に残っていた。
目を閉じると、鮮明に蘇る。
〈0d 00:00:12〉――秒ごとに減る赤い数字。
ランドセルの赤。夕陽に照らされて光ったフロントガラス。
そして、子供を抱き上げた瞬間に消えた数字。
(……死ぬはずの未来を、俺は消した……)
頭では信じきれなくても、目で見てしまった。
交差点での若者はゼロになり、数字と命を同時に失った。
だが今日の子供は生き、数字はゼロを待たずに消えた。
「……助ければ、消える」
ぽつりと声にした言葉が、暗い部屋に沈んだ。
数字は死を告げるタイマー。
だが、それは絶対ではない。
人の行動で、未来は変わる。
九重は額に手を当てた。
刑事として数多くの死を見てきたが、これほど理不尽で、そして救いのある仕組みを前にしたのは初めてだった。
⸻
それでも、口にする相手はいない。
もし署で「人の頭上に数字が見える」などと言えば、どうなるかは明白だ。
心配されるか、笑われるか。最悪は職務に支障ありとして外される。
刑事として培ってきた直感が告げていた。
――このことは、誰にも話してはならない。
窓辺に立つと、国木市の夜景が広がっていた。
マンションの向かいの歩道を、数人の人影が行き交う。
街灯に照らされるその頭上には、やはり数字が浮かぶ者と、何もない者とがいた。
〈254d 11:59:03〉
〈87d 02:44:12〉
知らなければよかった。
だが、見えてしまった以上、無視はできない。
数字を背負った人々が、この街で笑い、歩き、明日を信じて暮らしている。
自分だけがその「刻限」を知り、見過ごすことができるのか。
喉の奥が渇く。
タバコに火を点け、煙を大きく吐き出した。
紫煙が窓の外に流れ、夜の街に溶けていく。
(……この力は、呪いか……それとも)
子供の泣き声と、母親の必死な礼の言葉が蘇る。
その瞬間、胸の奥で何かが熱を帯びた。
(俺は――救う。救わずにはいられない)
決意とも、衝動ともつかない思い。
それが彼の心を確かに突き動かしていた。
暗い部屋の中、九重はソファに腰を戻した。
頭上に数字は浮かんでいない。
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