2 / 22
第2話 葛藤
しおりを挟む
土曜の夜。
桐ノ宮市の繁華街・中央通りは、昼間以上の熱気に包まれていた。
居酒屋の戸口からは笑い声が溢れ、キャバクラの呼び込みが甲高い声を張り上げ、ラーメン屋の排気口から漂う豚骨スープの匂いが煙草の煙と混じって鼻を刺す。
酔客たちの怒鳴り声、タクシーのクラクション、店先で鳴る演歌の有線放送――全てがごちゃ混ぜになり、まるでこの通り全体がひとつの渦を巻いているかのようだった。
そんな喧騒を切り裂くように、国木署の無線がけたたましく鳴った。
「こちら110番。中央通りで乱闘発生。刃物を所持している模様。至急現場確認を」
ハンドルを握っていた若い巡査が反射的にサイレンを鳴らし、赤色灯が街を血のように染めた。
九重誠治郎は助手席から身を乗り出し、前方を鋭く睨んだ。
パトカーが停まるや否やドアを開け、濡れた路面に靴音を響かせる。
夜の街のざわめきが、ただの酔客の声ではなく、緊迫と恐怖を帯びた騒ぎに変わっているのが肌で分かった。
「国木署、刑事一課の九重だ! 道を開けろ!」
低い声で群衆を押し分ける。
野次馬たちは酔いが覚めたように顔を強張らせ、肩をすくめて後ろへ退いた。
だが奥からはまだ怒声と悲鳴が混じり合い、瓶の割れる音が響いている。
群衆の間を抜けた途端、酒と鉄錆が混じった臭気が鼻を突いた。
乱闘の中心にいたのは二人の男だった。
大柄の男が額から血を流し、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
痩せ型の男は右手に光る刃物を握り、肩で荒い息を繰り返していた。
その目は充血し、酔いと恐怖と攻撃性が混じった獣じみた光を帯びている。
周囲の床には倒れた椅子や割れたグラス。
流れ出した酒が血に混じり、黒ずんだ水溜まりを作っていた。
照明を反射するその光景が、不気味に煌めく。
「刃物を持ってるぞ! 全員下がれ!」
制服警官が声を張り上げ、拳銃のグリップに手をかけた。
群衆が悲鳴を上げ、後ずさる。
空気が一気に張り詰め、次の瞬間に何かが壊れそうな危うさが漂った。
その時だった。
九重の視線が、痩せ型の男の頭上で“それ”を捉えた。
〈0d 00:00:10〉
赤い数字。
宙に浮かび、デジタル時計のように無機質な光を放っている。
そして――刻一刻と、確実に減っていく。
〈0d 00:00:09〉
〈0d 00:00:08〉
「……っ」
息が詰まる。
あの交差点で轢かれた青年。
横断歩道で救った子供。
脳裏に蘇る数字の残像。
(また……!)
背筋に冷たいものが走った。
なぜか分からない。
ただ、この場で“死ぬ”のは目の前の男だという確信だけが全身を支配した。
大柄の男が怒声を上げ、ガラス瓶を振り上げた。
狙いは、痩せ型の男の喉元。
その軌跡が光を反射し、群衆が悲鳴を重ねる。
〈0d 00:00:07〉
九重の胸に重い葛藤が突き刺さる。
助けるべきか、見捨てるべきか。
加害者だ。人を傷つけている人間だ。
だが――このまま放っておけば、数字はゼロになり、命は絶たれる。
〈0d 00:00:06〉
耳鳴りのように心臓が打ち、喉が渇き、視界の端が揺らぐ。
群衆のざわめきが遠のき、世界が数字だけを中心に回り始めた。
〈0d 00:00:05〉
(……どうする?)
拳に力がこもる。
汗が掌ににじみ、背広の下で肩の筋肉が震えた。
もう迷っている時間はなかった。
「くそっ!」
九重は叫び、群衆を突き抜けて前へ飛び込んだ。
数字が冷たい光を放ちながら、なおも縮んでいくのを背に受けながら――。
「どけぇっ!」
九重の怒号が路地を震わせた。
群衆が一斉に息を呑み、視線が一点に集まる。
振り下ろされるガラス瓶。
その軌道は刃物を握る痩せ型の男の喉を正確に狙っていた。
鋭い破裂音が耳の奥で鳴り、時間が引き延ばされたように感じられる。
九重の体は、思考よりも先に動いていた。
地面を蹴り、二人の間に割って入る。
腕を振り上げ、ガラス瓶に打ちつけた。
ガシャァンッ。
硬い衝撃が手に走り、瓶は粉々に砕け散った。
破片が四方に飛び散り、街灯を反射して白い閃光を放つ。
群衆から悲鳴が上がり、誰かが尻もちをつく音が響いた。
「なっ……!」
大柄の男が目を見開き、拳を固める。
痩せ型の男は一瞬動きを止め、刃物を持つ手を震わせながら九重を見上げた。
その頭上に――まだ数字が残っていた。
〈0d 00:00:01〉
「……!」
呼吸が止まる。
次の瞬間、赤い光はふっと掻き消えた。
数字がゼロを迎えるより早く、九重が割って入ったことで未来は変わった。
子供のときと同じ。
死の刻限を、自分が消してしまったのだ。
⸻
「この野郎!」
大柄の男が再び向かってくる。
怒りに任せた拳が振り下ろされるが、九重は体をひねって受け流した。
「落ち着け! もうやめろ!」
低い声で制止するが、相手の目には理性が残っていない。
その隙を突くように、痩せ型の男が再び刃物を振り上げた。
金属が街灯に光り、鋭い線を描く。
九重はすぐさま腕を伸ばし、相手の手首を掴んでねじり上げた。
「ぐっ……!」
痩せ型の男が呻き声を上げる。
九重はそのまま体重を乗せ、肩口に膝を入れて押し倒した。
アスファルトに叩きつけられた衝撃で、刃物が男の手から転がり落ちる。
「今だ、押さえろ!」
制服警官が駆け寄り、即座に男を抑え込む。
手錠の金属音がカチリと響き、乱闘はようやく終息に向かった。
⸻
群衆のざわめきが少しずつ遠のき、路地に重苦しい沈黙が降りる。
赤色灯が回転し、割れたガラス片に赤い光を反射させる。
九重は拳を握りしめたまま、呼吸を整えようとした。
痩せ型の男の頭上には、もう数字は浮かんでいない。
死ぬはずの未来を、自分が救った。
だがそれは――救うべき命だったのか?
胸に冷たいものが広がる。
子供のときは迷いがなかった。
救えたことに疑いはなかった。
だが今回は違う。
その命が、また誰かを傷つけるかもしれない。
(……俺は、何をしたんだ)
拳を見下ろす。
ガラス瓶を弾いたときにできた細かな切り傷から血がにじみ、赤黒い滴となって指先を伝っていた。
その痛みすら、現実感を薄れさせる。
⸻
「九重さん、危なかったですね!」
制服警官が駆け寄ってきた。
「あと少し遅れていたら……」
「……」
九重は返事をせず、大きく息を吐いた。
言葉にできるものなど、何もなかった。
助けたのは事実。
だが、それは“善”ではなく“悪”をも含む。
数字は善悪を選ばずに現れる。
ならば、自分はこれから何人の“悪”を救うのか。
胸の奥で、苦い鉄の味が広がっていった。
乱闘が収束しても、現場の熱はすぐには冷めなかった。
赤色灯が回転し続け、舗道に散らばったガラス片が赤黒い光を反射する。
人垣は徐々に解けていったが、まだ多くの野次馬が携帯を構え、警官に制止されながらざわめきを残している。
酔った女が「こわい……」と泣き、別の男は「動画撮ったぞ」と得意げに叫んでいた。
九重誠治郎は、制服警官に加害者を引き渡した後も、その場に立ち尽くしていた。
手錠をかけられた痩せ型の男は、なおも口汚く叫び、二人がかりでパトカーに押し込まれていく。
その頭上には――もう何も浮かんでいなかった。
(……助けてしまった)
九重の胸に、重い鉛のような感覚が沈む。
子供を救ったときは迷いがなかった。
あのときは、ただ「助けてよかった」と思えた。
だが今は違う。
救ったのは、刃物を振り回し、人を傷つけようとした男だ。
数字は確かにゼロへ向かっていた。
あのまま放っておけば死んでいたはずだ。
それを、自分が変えてしまった。
(俺の行動で……生き延びた命だ)
だが、その命はまた誰かを傷つけるかもしれない。
もし次に犠牲になるのが、無関係な市民だったとしたら――。
その血の責任は、自分にあるのではないか。
九重は、拳を握りしめた。
割れたガラスをはじいたときの傷が痛み、赤黒い血がまだにじんでいる。
その生々しさが、胸の奥をさらにざらつかせた。
⸻
「おい、九重!」
声をかけてきたのは、現場に駆けつけた捜査二課の笠松刑事だった。
五十代半ば、白髪交じりの頭を乱し、口に煙草をくわえている。
「お前、また無茶しやがって……。刃物持ちに突っ込むなんて命知らずだな」
「……死人は出なかった」
九重は短く答えた。
笠松は目を細め、煙草に火をつけた。
「まあな。だが、もし瓶が直撃してたら、あいつは死んでたろう。
――そうなっても、不思議じゃなかったんだ」
紫煙が夜風に流れる。
九重はその煙を見つめながら、言葉を飲み込んだ。
“数字が見えた”などとは口が裂けても言えない。
笠松は煙を吐き出し、肩をすくめた。
「まあ……生かして裁くのが警察の役目だ。死んじまえば、誰も裁けねえ」
そう言い残し、現場の指揮に戻っていった。
⸻
残された九重は、舗道に立ち尽くす。
人々のざわめきは遠ざかり、赤色灯の点滅だけが視界を染めていた。
(……生かして裁く、か)
それは警察官として当然の理屈だ。
だが自分は、裁きではなく“数字”に縛られて動いた。
目の前でゼロになる未来を知り、それを無意識に回避してしまった。
(善か悪かなんて関係ない。ただ……数字に抗っただけだ)
胸の奥に渦巻く苦さは消えない。
あの子供を救ったときと同じ仕組み。
だが結果はまるで違う。
自分は“悪人”をも生き残らせた。
その選択の是非を問う者はいない。
だが、九重自身の中でだけは、答えの出ない問いが膨れ上がっていた。
⸻
深夜。
署に戻った九重は、報告書を書き上げた後も机に突っ伏し、長く動けなかった。
蛍光灯の白い光が、広げられた紙と万年筆を照らす。
時計の針は午前二時を回っている。
(子供を救ったときは迷いがなかった。
だが今日、俺は“悪”をも救った。
数字は善悪を選ばない。ならば……俺は、これからどう動く?)
答えは出ない。
ただ胸の奥に、鉄の味が広がっていくばかりだった。
翌朝の刑事課は、いつもより静かだった。
昨夜の乱闘事件の書類処理に追われたせいか、課員たちの顔には疲労の色が濃い。
コーヒーメーカーから立ちのぼる香りだけが、白い蛍光灯の下でささやかな安堵を与えていた。
九重誠治郎は、自分の机に座り、タイプ音を響かせて報告書を仕上げていた。
指先の動きは正確だが、心の中は重苦しい。
痩せ型の男の頭上に浮かんでいた数字。
〈0d 00:00:10〉から刻一刻と減り、ゼロを迎える前に自分が割って入った瞬間に消えた。
――間違いなく、救ってしまったのだ。
「おはよう、九重」
柔らかい声に顔を上げる。
佐伯警部補。四十代前半。温厚で部下思いの上司。
九重にとって、数少ない信頼を寄せられる相手だった。
「昨日は大変だったな」
佐伯は紙コップを手に、机の端に腰を下ろした。
「乱闘の加害者、前科持ちだったらしい。酔って暴れたにしても、危険すぎる。お前が止めなきゃ死人が出てたかもしれん」
九重は視線を落としたまま、ペンを握り直す。
褒め言葉に救われるどころか、胸の苦さを強める。
助けたことが、本当に正しかったのか。
「……佐伯さん」
意を決して、声を出した。
「もし、人がいつ死ぬか……それが前もって分かるとしたら、どうしますか」
佐伯の眉がわずかに上がる。
「どういう意味だ?」
「数字か何かで……寿命みたいに見えて、ゼロになると人が死ぬ。
そんなものがもし見えてしまったら……」
言葉を探しながら口にした。
心臓が速く打ち、手のひらが汗で湿る。
これを口にするのは危険だと分かっていた。
だが、誰かに言わずにはいられなかった。
佐伯は数秒黙し、やがて小さく笑った。
「九重、お前……疲れてるんだろう。昨日だって命がけだったんだ。変な夢でも見たんじゃないか」
「……夢、ですか」
「刑事ってのは、死を間近に見すぎる仕事だ。時に幻覚や妄想を抱えることだってある。
俺だって若い頃、一週間寝ずに張り込みをして、ありもしない“黒い影”を見たことがある」
佐伯は軽く肩を叩いた。
「だから休め。お前は真面目すぎるんだ。少し気を抜いていい」
その言葉は優しさだった。
だが九重には、鋭い刃のように突き刺さった。
(……やはり、信じてもらえない)
頭上に数字が見える。
死を告げる刻限が。
その事実を知っているのは、自分だけ。
⸻
夜。
仕事を終えた九重は、国木市の雑踏に身を置いていた。
ネオンに照らされた歩道を人々が行き交う。
笑い、電話し、買い物袋を提げる。
その頭上に、数字が浮かぶ者と浮かばない者がいる。
〈211d 13:44:05〉
〈87d 02:19:48〉
知らなければ、ただの風景。
だが九重には、それぞれの人間に迫る“終わり”が見えてしまう。
(俺だけが、この街の刻限を知っている)
立ち止まり、ポケットの中で拳を握りしめる。
救うべきか、見過ごすべきか。
その選択を迫られるのは、自分だけだ。
孤独が全身を覆う。
だが同時に、胸の奥には燃えるような決意も生まれていた。
(俺は……救う。誰であろうと、救える命は救う)
赤い数字が視界に滲み、街の光に混ざり合う。
その中を歩く刑事の背に、誰も気づかない重さがのしかかっていた。
桐ノ宮市の繁華街・中央通りは、昼間以上の熱気に包まれていた。
居酒屋の戸口からは笑い声が溢れ、キャバクラの呼び込みが甲高い声を張り上げ、ラーメン屋の排気口から漂う豚骨スープの匂いが煙草の煙と混じって鼻を刺す。
酔客たちの怒鳴り声、タクシーのクラクション、店先で鳴る演歌の有線放送――全てがごちゃ混ぜになり、まるでこの通り全体がひとつの渦を巻いているかのようだった。
そんな喧騒を切り裂くように、国木署の無線がけたたましく鳴った。
「こちら110番。中央通りで乱闘発生。刃物を所持している模様。至急現場確認を」
ハンドルを握っていた若い巡査が反射的にサイレンを鳴らし、赤色灯が街を血のように染めた。
九重誠治郎は助手席から身を乗り出し、前方を鋭く睨んだ。
パトカーが停まるや否やドアを開け、濡れた路面に靴音を響かせる。
夜の街のざわめきが、ただの酔客の声ではなく、緊迫と恐怖を帯びた騒ぎに変わっているのが肌で分かった。
「国木署、刑事一課の九重だ! 道を開けろ!」
低い声で群衆を押し分ける。
野次馬たちは酔いが覚めたように顔を強張らせ、肩をすくめて後ろへ退いた。
だが奥からはまだ怒声と悲鳴が混じり合い、瓶の割れる音が響いている。
群衆の間を抜けた途端、酒と鉄錆が混じった臭気が鼻を突いた。
乱闘の中心にいたのは二人の男だった。
大柄の男が額から血を流し、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
痩せ型の男は右手に光る刃物を握り、肩で荒い息を繰り返していた。
その目は充血し、酔いと恐怖と攻撃性が混じった獣じみた光を帯びている。
周囲の床には倒れた椅子や割れたグラス。
流れ出した酒が血に混じり、黒ずんだ水溜まりを作っていた。
照明を反射するその光景が、不気味に煌めく。
「刃物を持ってるぞ! 全員下がれ!」
制服警官が声を張り上げ、拳銃のグリップに手をかけた。
群衆が悲鳴を上げ、後ずさる。
空気が一気に張り詰め、次の瞬間に何かが壊れそうな危うさが漂った。
その時だった。
九重の視線が、痩せ型の男の頭上で“それ”を捉えた。
〈0d 00:00:10〉
赤い数字。
宙に浮かび、デジタル時計のように無機質な光を放っている。
そして――刻一刻と、確実に減っていく。
〈0d 00:00:09〉
〈0d 00:00:08〉
「……っ」
息が詰まる。
あの交差点で轢かれた青年。
横断歩道で救った子供。
脳裏に蘇る数字の残像。
(また……!)
背筋に冷たいものが走った。
なぜか分からない。
ただ、この場で“死ぬ”のは目の前の男だという確信だけが全身を支配した。
大柄の男が怒声を上げ、ガラス瓶を振り上げた。
狙いは、痩せ型の男の喉元。
その軌跡が光を反射し、群衆が悲鳴を重ねる。
〈0d 00:00:07〉
九重の胸に重い葛藤が突き刺さる。
助けるべきか、見捨てるべきか。
加害者だ。人を傷つけている人間だ。
だが――このまま放っておけば、数字はゼロになり、命は絶たれる。
〈0d 00:00:06〉
耳鳴りのように心臓が打ち、喉が渇き、視界の端が揺らぐ。
群衆のざわめきが遠のき、世界が数字だけを中心に回り始めた。
〈0d 00:00:05〉
(……どうする?)
拳に力がこもる。
汗が掌ににじみ、背広の下で肩の筋肉が震えた。
もう迷っている時間はなかった。
「くそっ!」
九重は叫び、群衆を突き抜けて前へ飛び込んだ。
数字が冷たい光を放ちながら、なおも縮んでいくのを背に受けながら――。
「どけぇっ!」
九重の怒号が路地を震わせた。
群衆が一斉に息を呑み、視線が一点に集まる。
振り下ろされるガラス瓶。
その軌道は刃物を握る痩せ型の男の喉を正確に狙っていた。
鋭い破裂音が耳の奥で鳴り、時間が引き延ばされたように感じられる。
九重の体は、思考よりも先に動いていた。
地面を蹴り、二人の間に割って入る。
腕を振り上げ、ガラス瓶に打ちつけた。
ガシャァンッ。
硬い衝撃が手に走り、瓶は粉々に砕け散った。
破片が四方に飛び散り、街灯を反射して白い閃光を放つ。
群衆から悲鳴が上がり、誰かが尻もちをつく音が響いた。
「なっ……!」
大柄の男が目を見開き、拳を固める。
痩せ型の男は一瞬動きを止め、刃物を持つ手を震わせながら九重を見上げた。
その頭上に――まだ数字が残っていた。
〈0d 00:00:01〉
「……!」
呼吸が止まる。
次の瞬間、赤い光はふっと掻き消えた。
数字がゼロを迎えるより早く、九重が割って入ったことで未来は変わった。
子供のときと同じ。
死の刻限を、自分が消してしまったのだ。
⸻
「この野郎!」
大柄の男が再び向かってくる。
怒りに任せた拳が振り下ろされるが、九重は体をひねって受け流した。
「落ち着け! もうやめろ!」
低い声で制止するが、相手の目には理性が残っていない。
その隙を突くように、痩せ型の男が再び刃物を振り上げた。
金属が街灯に光り、鋭い線を描く。
九重はすぐさま腕を伸ばし、相手の手首を掴んでねじり上げた。
「ぐっ……!」
痩せ型の男が呻き声を上げる。
九重はそのまま体重を乗せ、肩口に膝を入れて押し倒した。
アスファルトに叩きつけられた衝撃で、刃物が男の手から転がり落ちる。
「今だ、押さえろ!」
制服警官が駆け寄り、即座に男を抑え込む。
手錠の金属音がカチリと響き、乱闘はようやく終息に向かった。
⸻
群衆のざわめきが少しずつ遠のき、路地に重苦しい沈黙が降りる。
赤色灯が回転し、割れたガラス片に赤い光を反射させる。
九重は拳を握りしめたまま、呼吸を整えようとした。
痩せ型の男の頭上には、もう数字は浮かんでいない。
死ぬはずの未来を、自分が救った。
だがそれは――救うべき命だったのか?
胸に冷たいものが広がる。
子供のときは迷いがなかった。
救えたことに疑いはなかった。
だが今回は違う。
その命が、また誰かを傷つけるかもしれない。
(……俺は、何をしたんだ)
拳を見下ろす。
ガラス瓶を弾いたときにできた細かな切り傷から血がにじみ、赤黒い滴となって指先を伝っていた。
その痛みすら、現実感を薄れさせる。
⸻
「九重さん、危なかったですね!」
制服警官が駆け寄ってきた。
「あと少し遅れていたら……」
「……」
九重は返事をせず、大きく息を吐いた。
言葉にできるものなど、何もなかった。
助けたのは事実。
だが、それは“善”ではなく“悪”をも含む。
数字は善悪を選ばずに現れる。
ならば、自分はこれから何人の“悪”を救うのか。
胸の奥で、苦い鉄の味が広がっていった。
乱闘が収束しても、現場の熱はすぐには冷めなかった。
赤色灯が回転し続け、舗道に散らばったガラス片が赤黒い光を反射する。
人垣は徐々に解けていったが、まだ多くの野次馬が携帯を構え、警官に制止されながらざわめきを残している。
酔った女が「こわい……」と泣き、別の男は「動画撮ったぞ」と得意げに叫んでいた。
九重誠治郎は、制服警官に加害者を引き渡した後も、その場に立ち尽くしていた。
手錠をかけられた痩せ型の男は、なおも口汚く叫び、二人がかりでパトカーに押し込まれていく。
その頭上には――もう何も浮かんでいなかった。
(……助けてしまった)
九重の胸に、重い鉛のような感覚が沈む。
子供を救ったときは迷いがなかった。
あのときは、ただ「助けてよかった」と思えた。
だが今は違う。
救ったのは、刃物を振り回し、人を傷つけようとした男だ。
数字は確かにゼロへ向かっていた。
あのまま放っておけば死んでいたはずだ。
それを、自分が変えてしまった。
(俺の行動で……生き延びた命だ)
だが、その命はまた誰かを傷つけるかもしれない。
もし次に犠牲になるのが、無関係な市民だったとしたら――。
その血の責任は、自分にあるのではないか。
九重は、拳を握りしめた。
割れたガラスをはじいたときの傷が痛み、赤黒い血がまだにじんでいる。
その生々しさが、胸の奥をさらにざらつかせた。
⸻
「おい、九重!」
声をかけてきたのは、現場に駆けつけた捜査二課の笠松刑事だった。
五十代半ば、白髪交じりの頭を乱し、口に煙草をくわえている。
「お前、また無茶しやがって……。刃物持ちに突っ込むなんて命知らずだな」
「……死人は出なかった」
九重は短く答えた。
笠松は目を細め、煙草に火をつけた。
「まあな。だが、もし瓶が直撃してたら、あいつは死んでたろう。
――そうなっても、不思議じゃなかったんだ」
紫煙が夜風に流れる。
九重はその煙を見つめながら、言葉を飲み込んだ。
“数字が見えた”などとは口が裂けても言えない。
笠松は煙を吐き出し、肩をすくめた。
「まあ……生かして裁くのが警察の役目だ。死んじまえば、誰も裁けねえ」
そう言い残し、現場の指揮に戻っていった。
⸻
残された九重は、舗道に立ち尽くす。
人々のざわめきは遠ざかり、赤色灯の点滅だけが視界を染めていた。
(……生かして裁く、か)
それは警察官として当然の理屈だ。
だが自分は、裁きではなく“数字”に縛られて動いた。
目の前でゼロになる未来を知り、それを無意識に回避してしまった。
(善か悪かなんて関係ない。ただ……数字に抗っただけだ)
胸の奥に渦巻く苦さは消えない。
あの子供を救ったときと同じ仕組み。
だが結果はまるで違う。
自分は“悪人”をも生き残らせた。
その選択の是非を問う者はいない。
だが、九重自身の中でだけは、答えの出ない問いが膨れ上がっていた。
⸻
深夜。
署に戻った九重は、報告書を書き上げた後も机に突っ伏し、長く動けなかった。
蛍光灯の白い光が、広げられた紙と万年筆を照らす。
時計の針は午前二時を回っている。
(子供を救ったときは迷いがなかった。
だが今日、俺は“悪”をも救った。
数字は善悪を選ばない。ならば……俺は、これからどう動く?)
答えは出ない。
ただ胸の奥に、鉄の味が広がっていくばかりだった。
翌朝の刑事課は、いつもより静かだった。
昨夜の乱闘事件の書類処理に追われたせいか、課員たちの顔には疲労の色が濃い。
コーヒーメーカーから立ちのぼる香りだけが、白い蛍光灯の下でささやかな安堵を与えていた。
九重誠治郎は、自分の机に座り、タイプ音を響かせて報告書を仕上げていた。
指先の動きは正確だが、心の中は重苦しい。
痩せ型の男の頭上に浮かんでいた数字。
〈0d 00:00:10〉から刻一刻と減り、ゼロを迎える前に自分が割って入った瞬間に消えた。
――間違いなく、救ってしまったのだ。
「おはよう、九重」
柔らかい声に顔を上げる。
佐伯警部補。四十代前半。温厚で部下思いの上司。
九重にとって、数少ない信頼を寄せられる相手だった。
「昨日は大変だったな」
佐伯は紙コップを手に、机の端に腰を下ろした。
「乱闘の加害者、前科持ちだったらしい。酔って暴れたにしても、危険すぎる。お前が止めなきゃ死人が出てたかもしれん」
九重は視線を落としたまま、ペンを握り直す。
褒め言葉に救われるどころか、胸の苦さを強める。
助けたことが、本当に正しかったのか。
「……佐伯さん」
意を決して、声を出した。
「もし、人がいつ死ぬか……それが前もって分かるとしたら、どうしますか」
佐伯の眉がわずかに上がる。
「どういう意味だ?」
「数字か何かで……寿命みたいに見えて、ゼロになると人が死ぬ。
そんなものがもし見えてしまったら……」
言葉を探しながら口にした。
心臓が速く打ち、手のひらが汗で湿る。
これを口にするのは危険だと分かっていた。
だが、誰かに言わずにはいられなかった。
佐伯は数秒黙し、やがて小さく笑った。
「九重、お前……疲れてるんだろう。昨日だって命がけだったんだ。変な夢でも見たんじゃないか」
「……夢、ですか」
「刑事ってのは、死を間近に見すぎる仕事だ。時に幻覚や妄想を抱えることだってある。
俺だって若い頃、一週間寝ずに張り込みをして、ありもしない“黒い影”を見たことがある」
佐伯は軽く肩を叩いた。
「だから休め。お前は真面目すぎるんだ。少し気を抜いていい」
その言葉は優しさだった。
だが九重には、鋭い刃のように突き刺さった。
(……やはり、信じてもらえない)
頭上に数字が見える。
死を告げる刻限が。
その事実を知っているのは、自分だけ。
⸻
夜。
仕事を終えた九重は、国木市の雑踏に身を置いていた。
ネオンに照らされた歩道を人々が行き交う。
笑い、電話し、買い物袋を提げる。
その頭上に、数字が浮かぶ者と浮かばない者がいる。
〈211d 13:44:05〉
〈87d 02:19:48〉
知らなければ、ただの風景。
だが九重には、それぞれの人間に迫る“終わり”が見えてしまう。
(俺だけが、この街の刻限を知っている)
立ち止まり、ポケットの中で拳を握りしめる。
救うべきか、見過ごすべきか。
その選択を迫られるのは、自分だけだ。
孤独が全身を覆う。
だが同時に、胸の奥には燃えるような決意も生まれていた。
(俺は……救う。誰であろうと、救える命は救う)
赤い数字が視界に滲み、街の光に混ざり合う。
その中を歩く刑事の背に、誰も気づかない重さがのしかかっていた。
1
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―
MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」
「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」
失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。
46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる