刻限

都丸譲二

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第2話 葛藤

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 土曜の夜。
 桐ノ宮市の繁華街・中央通りは、昼間以上の熱気に包まれていた。
 居酒屋の戸口からは笑い声が溢れ、キャバクラの呼び込みが甲高い声を張り上げ、ラーメン屋の排気口から漂う豚骨スープの匂いが煙草の煙と混じって鼻を刺す。
 酔客たちの怒鳴り声、タクシーのクラクション、店先で鳴る演歌の有線放送――全てがごちゃ混ぜになり、まるでこの通り全体がひとつの渦を巻いているかのようだった。

 そんな喧騒を切り裂くように、国木署の無線がけたたましく鳴った。
「こちら110番。中央通りで乱闘発生。刃物を所持している模様。至急現場確認を」

 ハンドルを握っていた若い巡査が反射的にサイレンを鳴らし、赤色灯が街を血のように染めた。
 九重誠治郎は助手席から身を乗り出し、前方を鋭く睨んだ。
 パトカーが停まるや否やドアを開け、濡れた路面に靴音を響かせる。
 夜の街のざわめきが、ただの酔客の声ではなく、緊迫と恐怖を帯びた騒ぎに変わっているのが肌で分かった。

「国木署、刑事一課の九重だ! 道を開けろ!」

 低い声で群衆を押し分ける。
 野次馬たちは酔いが覚めたように顔を強張らせ、肩をすくめて後ろへ退いた。
 だが奥からはまだ怒声と悲鳴が混じり合い、瓶の割れる音が響いている。
 群衆の間を抜けた途端、酒と鉄錆が混じった臭気が鼻を突いた。

 乱闘の中心にいたのは二人の男だった。
 大柄の男が額から血を流し、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
 痩せ型の男は右手に光る刃物を握り、肩で荒い息を繰り返していた。
 その目は充血し、酔いと恐怖と攻撃性が混じった獣じみた光を帯びている。

 周囲の床には倒れた椅子や割れたグラス。
 流れ出した酒が血に混じり、黒ずんだ水溜まりを作っていた。
 照明を反射するその光景が、不気味に煌めく。

「刃物を持ってるぞ! 全員下がれ!」

 制服警官が声を張り上げ、拳銃のグリップに手をかけた。
 群衆が悲鳴を上げ、後ずさる。
 空気が一気に張り詰め、次の瞬間に何かが壊れそうな危うさが漂った。

 その時だった。

 九重の視線が、痩せ型の男の頭上で“それ”を捉えた。

 〈0d 00:00:10〉

 赤い数字。
 宙に浮かび、デジタル時計のように無機質な光を放っている。
 そして――刻一刻と、確実に減っていく。

 〈0d 00:00:09〉
 〈0d 00:00:08〉

「……っ」

 息が詰まる。
 あの交差点で轢かれた青年。
 横断歩道で救った子供。
 脳裏に蘇る数字の残像。

(また……!)

 背筋に冷たいものが走った。
 なぜか分からない。
 ただ、この場で“死ぬ”のは目の前の男だという確信だけが全身を支配した。

 大柄の男が怒声を上げ、ガラス瓶を振り上げた。
 狙いは、痩せ型の男の喉元。
 その軌跡が光を反射し、群衆が悲鳴を重ねる。

 〈0d 00:00:07〉

 九重の胸に重い葛藤が突き刺さる。
 助けるべきか、見捨てるべきか。
 加害者だ。人を傷つけている人間だ。
 だが――このまま放っておけば、数字はゼロになり、命は絶たれる。

 〈0d 00:00:06〉

 耳鳴りのように心臓が打ち、喉が渇き、視界の端が揺らぐ。
 群衆のざわめきが遠のき、世界が数字だけを中心に回り始めた。

 〈0d 00:00:05〉

(……どうする?)

 拳に力がこもる。
 汗が掌ににじみ、背広の下で肩の筋肉が震えた。

 もう迷っている時間はなかった。

「くそっ!」

 九重は叫び、群衆を突き抜けて前へ飛び込んだ。
 数字が冷たい光を放ちながら、なおも縮んでいくのを背に受けながら――。

「どけぇっ!」

 九重の怒号が路地を震わせた。
 群衆が一斉に息を呑み、視線が一点に集まる。

 振り下ろされるガラス瓶。
 その軌道は刃物を握る痩せ型の男の喉を正確に狙っていた。
 鋭い破裂音が耳の奥で鳴り、時間が引き延ばされたように感じられる。

 九重の体は、思考よりも先に動いていた。
 地面を蹴り、二人の間に割って入る。
 腕を振り上げ、ガラス瓶に打ちつけた。

 ガシャァンッ。
 硬い衝撃が手に走り、瓶は粉々に砕け散った。
 破片が四方に飛び散り、街灯を反射して白い閃光を放つ。
 群衆から悲鳴が上がり、誰かが尻もちをつく音が響いた。

「なっ……!」
 大柄の男が目を見開き、拳を固める。
 痩せ型の男は一瞬動きを止め、刃物を持つ手を震わせながら九重を見上げた。

 その頭上に――まだ数字が残っていた。

 〈0d 00:00:01〉

「……!」

 呼吸が止まる。
 次の瞬間、赤い光はふっと掻き消えた。

 数字がゼロを迎えるより早く、九重が割って入ったことで未来は変わった。
 子供のときと同じ。
 死の刻限を、自分が消してしまったのだ。

 ⸻

「この野郎!」
 大柄の男が再び向かってくる。
 怒りに任せた拳が振り下ろされるが、九重は体をひねって受け流した。
「落ち着け! もうやめろ!」
 低い声で制止するが、相手の目には理性が残っていない。

 その隙を突くように、痩せ型の男が再び刃物を振り上げた。
 金属が街灯に光り、鋭い線を描く。
 九重はすぐさま腕を伸ばし、相手の手首を掴んでねじり上げた。

「ぐっ……!」
 痩せ型の男が呻き声を上げる。
 九重はそのまま体重を乗せ、肩口に膝を入れて押し倒した。
 アスファルトに叩きつけられた衝撃で、刃物が男の手から転がり落ちる。

「今だ、押さえろ!」
 制服警官が駆け寄り、即座に男を抑え込む。
 手錠の金属音がカチリと響き、乱闘はようやく終息に向かった。

 ⸻

 群衆のざわめきが少しずつ遠のき、路地に重苦しい沈黙が降りる。
 赤色灯が回転し、割れたガラス片に赤い光を反射させる。
 九重は拳を握りしめたまま、呼吸を整えようとした。

 痩せ型の男の頭上には、もう数字は浮かんでいない。
 死ぬはずの未来を、自分が救った。
 だがそれは――救うべき命だったのか?

 胸に冷たいものが広がる。
 子供のときは迷いがなかった。
 救えたことに疑いはなかった。
 だが今回は違う。
 その命が、また誰かを傷つけるかもしれない。

(……俺は、何をしたんだ)

 拳を見下ろす。
 ガラス瓶を弾いたときにできた細かな切り傷から血がにじみ、赤黒い滴となって指先を伝っていた。
 その痛みすら、現実感を薄れさせる。

 ⸻

「九重さん、危なかったですね!」
 制服警官が駆け寄ってきた。
「あと少し遅れていたら……」

「……」

 九重は返事をせず、大きく息を吐いた。
 言葉にできるものなど、何もなかった。

 助けたのは事実。
 だが、それは“善”ではなく“悪”をも含む。
 数字は善悪を選ばずに現れる。
 ならば、自分はこれから何人の“悪”を救うのか。

 胸の奥で、苦い鉄の味が広がっていった。

 乱闘が収束しても、現場の熱はすぐには冷めなかった。
 赤色灯が回転し続け、舗道に散らばったガラス片が赤黒い光を反射する。
 人垣は徐々に解けていったが、まだ多くの野次馬が携帯を構え、警官に制止されながらざわめきを残している。
 酔った女が「こわい……」と泣き、別の男は「動画撮ったぞ」と得意げに叫んでいた。

 九重誠治郎は、制服警官に加害者を引き渡した後も、その場に立ち尽くしていた。
 手錠をかけられた痩せ型の男は、なおも口汚く叫び、二人がかりでパトカーに押し込まれていく。
 その頭上には――もう何も浮かんでいなかった。

(……助けてしまった)

 九重の胸に、重い鉛のような感覚が沈む。
 子供を救ったときは迷いがなかった。
 あのときは、ただ「助けてよかった」と思えた。
 だが今は違う。

 救ったのは、刃物を振り回し、人を傷つけようとした男だ。
 数字は確かにゼロへ向かっていた。
 あのまま放っておけば死んでいたはずだ。
 それを、自分が変えてしまった。

(俺の行動で……生き延びた命だ)

 だが、その命はまた誰かを傷つけるかもしれない。
 もし次に犠牲になるのが、無関係な市民だったとしたら――。
 その血の責任は、自分にあるのではないか。

 九重は、拳を握りしめた。
 割れたガラスをはじいたときの傷が痛み、赤黒い血がまだにじんでいる。
 その生々しさが、胸の奥をさらにざらつかせた。

 ⸻

「おい、九重!」
 声をかけてきたのは、現場に駆けつけた捜査二課の笠松刑事だった。
 五十代半ば、白髪交じりの頭を乱し、口に煙草をくわえている。
「お前、また無茶しやがって……。刃物持ちに突っ込むなんて命知らずだな」

「……死人は出なかった」
 九重は短く答えた。

 笠松は目を細め、煙草に火をつけた。
「まあな。だが、もし瓶が直撃してたら、あいつは死んでたろう。
 ――そうなっても、不思議じゃなかったんだ」

 紫煙が夜風に流れる。
 九重はその煙を見つめながら、言葉を飲み込んだ。
 “数字が見えた”などとは口が裂けても言えない。

 笠松は煙を吐き出し、肩をすくめた。
「まあ……生かして裁くのが警察の役目だ。死んじまえば、誰も裁けねえ」
 そう言い残し、現場の指揮に戻っていった。

 ⸻

 残された九重は、舗道に立ち尽くす。
 人々のざわめきは遠ざかり、赤色灯の点滅だけが視界を染めていた。

(……生かして裁く、か)

 それは警察官として当然の理屈だ。
 だが自分は、裁きではなく“数字”に縛られて動いた。
 目の前でゼロになる未来を知り、それを無意識に回避してしまった。

(善か悪かなんて関係ない。ただ……数字に抗っただけだ)

 胸の奥に渦巻く苦さは消えない。
 あの子供を救ったときと同じ仕組み。
 だが結果はまるで違う。
 自分は“悪人”をも生き残らせた。

 その選択の是非を問う者はいない。
 だが、九重自身の中でだけは、答えの出ない問いが膨れ上がっていた。

 ⸻

 深夜。
 署に戻った九重は、報告書を書き上げた後も机に突っ伏し、長く動けなかった。
 蛍光灯の白い光が、広げられた紙と万年筆を照らす。
 時計の針は午前二時を回っている。

(子供を救ったときは迷いがなかった。
 だが今日、俺は“悪”をも救った。
 数字は善悪を選ばない。ならば……俺は、これからどう動く?)

 答えは出ない。
 ただ胸の奥に、鉄の味が広がっていくばかりだった。

 翌朝の刑事課は、いつもより静かだった。
 昨夜の乱闘事件の書類処理に追われたせいか、課員たちの顔には疲労の色が濃い。
 コーヒーメーカーから立ちのぼる香りだけが、白い蛍光灯の下でささやかな安堵を与えていた。

 九重誠治郎は、自分の机に座り、タイプ音を響かせて報告書を仕上げていた。
 指先の動きは正確だが、心の中は重苦しい。
 痩せ型の男の頭上に浮かんでいた数字。
 〈0d 00:00:10〉から刻一刻と減り、ゼロを迎える前に自分が割って入った瞬間に消えた。
 ――間違いなく、救ってしまったのだ。

「おはよう、九重」

 柔らかい声に顔を上げる。
 佐伯警部補。四十代前半。温厚で部下思いの上司。
 九重にとって、数少ない信頼を寄せられる相手だった。

「昨日は大変だったな」
 
 佐伯は紙コップを手に、机の端に腰を下ろした。

「乱闘の加害者、前科持ちだったらしい。酔って暴れたにしても、危険すぎる。お前が止めなきゃ死人が出てたかもしれん」

 九重は視線を落としたまま、ペンを握り直す。
 褒め言葉に救われるどころか、胸の苦さを強める。
 助けたことが、本当に正しかったのか。

「……佐伯さん」
 
 意を決して、声を出した。

「もし、人がいつ死ぬか……それが前もって分かるとしたら、どうしますか」

 佐伯の眉がわずかに上がる。

「どういう意味だ?」

「数字か何かで……寿命みたいに見えて、ゼロになると人が死ぬ。
 そんなものがもし見えてしまったら……」

 言葉を探しながら口にした。
 心臓が速く打ち、手のひらが汗で湿る。
 これを口にするのは危険だと分かっていた。
 だが、誰かに言わずにはいられなかった。

 佐伯は数秒黙し、やがて小さく笑った。
「九重、お前……疲れてるんだろう。昨日だって命がけだったんだ。変な夢でも見たんじゃないか」

「……夢、ですか」

「刑事ってのは、死を間近に見すぎる仕事だ。時に幻覚や妄想を抱えることだってある。
 俺だって若い頃、一週間寝ずに張り込みをして、ありもしない“黒い影”を見たことがある」

 佐伯は軽く肩を叩いた。

「だから休め。お前は真面目すぎるんだ。少し気を抜いていい」

 その言葉は優しさだった。
 だが九重には、鋭い刃のように突き刺さった。

(……やはり、信じてもらえない)

 頭上に数字が見える。
 死を告げる刻限が。
 その事実を知っているのは、自分だけ。

 ⸻

 夜。
 仕事を終えた九重は、国木市の雑踏に身を置いていた。
 ネオンに照らされた歩道を人々が行き交う。
 笑い、電話し、買い物袋を提げる。
 その頭上に、数字が浮かぶ者と浮かばない者がいる。

 〈211d 13:44:05〉
 〈87d 02:19:48〉

 知らなければ、ただの風景。
 だが九重には、それぞれの人間に迫る“終わり”が見えてしまう。

(俺だけが、この街の刻限を知っている)

 立ち止まり、ポケットの中で拳を握りしめる。
 救うべきか、見過ごすべきか。
 その選択を迫られるのは、自分だけだ。

 孤独が全身を覆う。
 だが同時に、胸の奥には燃えるような決意も生まれていた。

(俺は……救う。誰であろうと、救える命は救う)

 赤い数字が視界に滲み、街の光に混ざり合う。
 その中を歩く刑事の背に、誰も気づかない重さがのしかかっていた。
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