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第5話 家族
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月曜の午後。
国木署の合同捜査本部では、爆破予告メールの分析が続いていた。
だが会議が一段落すると、九重誠治郎は静かに席を立った。
「すみません、私用で少し抜けさせていただきます」
桜井警部が眉をひそめた。
「今は一刻を争う状況だぞ」
「承知しています。ただ……どうしても外せない用事で」
短く頭を下げると、それ以上は追及されなかった。
署を出ると、冬の冷気が頬を刺した。
七日後に迫る刻限を思えば、プライベートな時間など許されない。
それでも、どうしても会っておきたい相手がいた。
⸻
車を走らせながら、九重はポケットに仕舞った一枚の紙を思い出していた。
離婚届の控え。
三年前、三十二歳のときに妻と別れた。
刑事という仕事は、家庭に安らぎをもたらさない。
夜勤、長時間の張り込み、突発的な呼び出し。
当初は理解してくれていた妻も、次第に疲弊していった。
「あなたにとって家族はいつも二番目なのね」
別れ際に告げられた言葉は、今も胸に刺さっている。
娘の結衣は妻のもとに引き取られ、九重に残されたのは数ヶ月に一度の面会だけ。
それでも彼にとって結衣は唯一の救いだった。
(会いたい……。だが、もし結衣の頭上にも数字が浮かんでいたら……)
想像するだけで背中を冷たい汗が伝った。
⸻
夕暮れの住宅街。
二階建ての集合住宅の前に立ち、インターホンを押す。
しばらくしてドアが開き、元妻の美咲が現れた。
「……誠治郎」
エプロン姿で髪を束ねた彼女は、落ち着いた表情ながら、どこか距離を取るような声音だった。
「急に悪い。少しだけ、彩音に会わせてくれ」
「ええ。彩音は中にいるわ」
九重は頷き、玄関をくぐった。
⸻
居間に入ると、そこに彩音がいた。
小学二年生。
床に座って絵本を広げていた少女は、父親の姿を見つけると顔を輝かせて立ち上がった。
「パパ!」
元気な声とともに、勢いよく抱きついてくる。
九重は思わず笑みを浮かべ、その小さな体を抱きしめた。
温かさが胸に沁みる。
だが同時に、視線は自然と頭上へと吸い寄せられた。
〈6d xx:xx:xx〉
赤い数字が冷酷に浮かんでいた。
(彩音まで……!)
心臓を握りつぶされたような衝撃に、呼吸が止まる。
笑顔でしがみつく娘に、数字を告げることなどできなかった。
⸻
「久しぶりね。……三ヶ月ぶりかしら」
美咲がソファに腰を下ろしながら言った。
「もっと会いに来ればいいのに。彩音はあなたを楽しみにしてるのよ」
九重は娘の髪を撫で、ぎこちなく答えた。
「すまない。仕事が立て込んでいて」
「仕事、ね」
美咲の声には皮肉が滲んでいた。
家庭を壊した言葉そのものだからだ。
彩音は父を見上げ、無邪気に笑う。
「ねえパパ、今度一緒に動物園行こうね!」
「……ああ。必ず」
喉が締めつけられる。
数字が示す未来では、その約束は六日後に絶たれる。
⸻
数十分の面会が過ぎ、九重は立ち上がった。
「また来る」
「ええ」
美咲は淡々と答えた。
玄関先で、彩音が小さな手を振る。
その頭上には、やはり赤い数字が燃えていた。
九重は振り返らずに住宅街を歩き出した。
夜風が頬を刺し、娘の声が遠ざかる。
(結衣まで……。絶対に、この刻限を止めなければならない)
拳を握りしめた。
刑事としてではない。
父としての決意が、胸に深く刻まれた。
住宅街を離れ、九重誠治郎は夜道を歩いていた。
冬の冷たい風が頬を刺す。
わずか十分ほどの滞在だったが、娘の笑顔と声が胸に焼きついて離れなかった。
小さな体を抱きしめたときの温もりはまだ腕に残っている。
だが、その頭上に浮かんでいた数字の残像がすべてを覆い尽くしていた。
〈6d xx:xx:xx〉
(彩音まで……六日後に死ぬなんて、あってたまるか)
心の中で叫んでも、数字は変わらない。
秒単位で刻まれる冷酷な表示は、父親の願いをあざ笑うかのようだった。
娘は「今度動物園に行こうね」と無邪気に笑っていた。
だが数字が示す未来では、その約束は果たされることなく途絶える。
⸻
駐車場に停めた車に乗り込み、ハンドルを握る。
エンジンをかけても、すぐに走り出す気にはなれなかった。
額に手を当て、目を閉じて深く息を吸う。
(最初に見えたのは、交差点で車に轢かれかけた少年……。
次は居酒屋の乱闘の男。
駅前の群衆。
同僚の刑事たち。
そして、彩音……)
見えるのは、身近かどうかに関係なく「一年以内に死ぬ人間」。
それは理解していた。
だが、娘の頭上に数字が現れたことで、その理解が一気に現実味を帯びて襲いかかってきた。
(死ぬのは誰かの父であり、母であり、子供だ。……そして彩音も例外じゃないのか)
胸が軋んだ。
ハンドルを握る手に力がこもり、革が軋む音が夜に響いた。
⸻
車を走らせ、国木市から桐ノ宮へ抜ける幹線道路に出る。
繁華街に差しかかると、夜の光と雑踏に飲み込まれた。
居酒屋から吐き出される酔客。
タクシーに手を挙げるサラリーマン。
若者たちの笑い声。
その中に、赤い数字が点々と浮かんでいた。
〈6d 05:12:44〉
〈6d 17:33:09〉
十人に一人ほど。
寿命が迫っている者にだけ現れる数字。
だが今夜、彼らは一様に「六日後」を背負っていた。
数字のない者は、何事もなかったかのように歩き去っていく。
その対比は残酷だった。
「生き延びる者」と「六日後に死ぬ者」が、同じ街を行き交い、笑い、肩を並べている。
だがそれに気づいているのは、九重ただ一人だった。
(これは偶然じゃない。……七日後と宣告された爆破予告が、一日減った今、数字も確実に減った)
(街全体を呑み込む大災厄が来る。それが六日後だ)
背筋を冷たいものが伝った。
⸻
署に戻ると、廊下で佐伯警部補が待っていた。
「おい九重、どこ行ってた。顔色が悪いぞ」
「……少し私用で。すみません」
短く答えたが、声はかすれていた。
佐伯は怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
自席に戻ると、若林刑事が書類の束をどさりと置いた。
「おいおい、こっちは山のように仕事だぞ。お前まで抜けたらまわらねぇ」
苦笑しながら文句を言う若林。
だが九重の視線は、その頭上にちらつく赤い光から目を逸らせなかった。
〈6d 12:41:27〉
(若林まで……。やっぱり六日後だ)
九重は唇を噛み、視線を机に落とした。
⸻
夜遅く、会議室に資料を抱えて入ると、刑事たちの疲弊した声が飛び交っていた。
「予告メールは挑発に過ぎないかもしれない」
「だが、過去の事件と関連を考えると無視できない」
「場所が曖昧すぎる。市全体をどう守れっていうんだ」
彼らにとって「六日後」は、犯人が指定した期限にすぎない。
だが九重にとっては、自分の娘を含む人々の死期を告げる数字そのものだった。
その隔たりが、孤独感をさらに強めていく。
(言えない……。言えるはずがない。
だが、知っているのは俺だけだ)
重く沈むような孤立感の中で、九重は決意を新たにした。
(六日後、街を救う。……そして結衣を守る。たとえ俺一人でも)
赤い数字の雨が降りしきる世界で、九重の瞳だけが鋭い光を宿していた。
翌朝。
国木署の合同捜査本部には、夜を徹して作られた資料が山のように積み上がっていた。
刑事たちの顔には疲労が濃く刻まれ、紙コップのコーヒーがいくつも転がっている。
電話と無線の声が途切れず飛び交い、空気は張りつめていた。
「桐ノ宮市内の主要駅と大型施設は警戒を強化する。警備部とも連携して監視を強める」
桜井警部が冷ややかに告げる。
「だが爆破予告の文面は抽象的だ。施設を特定できない以上、市全域を守ろうとすれば警備は分散する」
「市民に知らせるべきじゃないか? だがパニックになれば混乱が拡大する」
意見が飛び交い、会議室の空気は重さを増した。
その中で九重誠治郎は黙り込み、資料の字を追いながらも、頭の奥では別のことを考えていた。
⸻
(数字は寿命なんかじゃない。
大規模な事件の刻限そのものだ)
七日後と宣告したメールが届いたその日、街に見えた数字も〈7d〉だった。
そして一夜が明けると、全員が〈6d〉に変わった。
娘の結衣の頭上にまで、同じ数字が浮かんでいた。
(六日後、街は炎に包まれる。結衣も、仲間も、巻き込まれる)
机の端を握りしめ、拳に力がこもった。
木目が皮膚に食い込み、白く跡が残る。
⸻
休憩時間。
若林刑事が肩を叩いてきた。
「おい九重、昨日どこ行ってた? お前が抜けると倍忙しいんだぞ」
「悪かった」
声を絞り出したが、目を合わせられなかった。
若林の頭上にも確かに〈6d〉があった。
気安く文句を言ってくる同僚が、六日後に死ぬ――その事実を知っているのは自分だけ。
胃の奥に重い石を押し込まれたような感覚に、言葉が続かなかった。
(言えるわけがない。信じてもらえるはずがない)
孤独感が胸を締めつけ、視界の端が暗くなる。
⸻
午後、本部から渡された地図を広げる。
過去の不審火や爆発未遂の現場に赤いマーカーが印されていた。
桐ノ宮市を中心に、円を描くように散らばっている。
(狙いはやはり市の中心……。予告文の“桐ノ宮の街”という曖昧さは、街そのものを標的にしているからだ)
ペン先で地図をなぞる。
仮説にすぎない。
だが数字の一致が背中を押していた。
(六日後、必ずここで何かが起こる)
⸻
夜。
自宅に戻った九重は、机に散らばる資料を睨み続けていた。
赤い線で結んだ事件現場は、いびつな円を描きながら中心部に収束していた。
窓の外を歩く人々の頭上に、また数字が浮かぶ。
〈6d 21:04:15〉
無関係に見える通行人も、同じ「六日後」を背負っている。
数字が示す未来は抽象ではない。
一つの巨大な出来事に、人々の寿命が呑み込まれていく。
九重は鏡に目をやった。
映る自分の頭上にも、冷酷な数字が輝いていた。
〈6d 23:11:32〉
背筋に冷たいものが走る。
だが視線を逸らさず、赤い刻限を睨み返した。
⸻
(守るんだ。彩音を。街を。仲間を)
胸の奥で熱が渦巻き、喉を焦がす。
父として、刑事として――もう後戻りはできない。
「俺が止める。必ず」
低く呟いた九重は、机に散らかった資料へ手を伸ばした。
震える指先が赤い線をなぞり、未来を読み解こうとする。
秒を刻む数字は冷酷に減り続ける。
だが九重もまた、行動を始めようとしていた。
翌日の午前。
国木署の合同捜査本部は再び慌ただしく動いていた。
県警本部から新たな指示が下り、桐ノ宮市内の警戒体制をさらに強化することになったのだ。
制服警官の増員、公共交通機関への監視カメラ設置、市役所や警備会社との連携。
机の上の電話はひっきりなしに鳴り、刑事たちは受話器を取り合っていた。
九重誠治郎はその喧騒を背に、地図を睨んでいた。
数字は残酷に減り続けている。
昨日〈6d〉だった刻限は、今朝には〈5d〉になっていた。
街のあちこちで、人々の頭上に赤い数字が点々と浮かんでいる。
(残り五日……。もう迷っている暇はない)
⸻
九重の胸にあったのは、父としての思いだった。
彩音の笑顔。
「動物園に行こうね」と弾んだ声。
あの約束を破る未来など、あってはならない。
刑事として街を守る責務と、父として娘を守る本能。
その二つが渦を巻き、九重を突き動かしていた。
⸻
昼休み。
九重は署の屋上に上がり、携帯を取り出した。
画面に表示された番号を前に、親指がしばらく止まる。
美咲――元妻の番号。
押すか、押さないか。
言うべきか、黙っておくべきか。
(「六日後に死ぬ」なんて言えるわけがない。だが、黙っていれば……彩音は……)
逡巡の末、通話ボタンに触れる直前で指を止めた。
根拠のない言葉で脅かせば、狂人扱いされるだけだ。
信じてもらえず、娘を二度と会わせてもらえなくなるかもしれない。
「……まだだ」
九重は携帯を閉じ、ポケットに押し込んだ。
⸻
午後の会議。
桜井警部が淡々と告げた。
「不審者の通報が増えている。市内の警戒は続けるが、現状では爆破予告の信憑性は五分五分だ」
会議室の空気がざわめく。
「五分五分って……これだけの前兆があって?」
「市民の不安を煽るわけにはいかないってことだ」
九重は歯を食いしばった。
数字を見ている自分には、五分五分などあり得なかった。
これは必ず起きる。
六日後ではなく、もう五日後に迫っている。
⸻
会議が終わった後、九重は一人、資料を抱えて廊下に立ち尽くしていた。
手のひらに汗がにじむ。
誰にも打ち明けられない。
だが黙っていれば、結衣も、仲間も、街も――全てが炎に呑まれる。
(なら、俺がやるしかない)
独り言のように胸の奥で呟いた。
刑事としての立場を超え、父としての衝動が背中を押す。
⸻
夜。
自宅の机に地図を広げ、九重はマーカーで円を描いていた。
これまでの事件現場、不審火、爆発未遂。
点と点を結ぶと、桐ノ宮市の中心に向かって収束していく。
「……中心だ。奴らの狙いは」
赤いペンを握る手が震える。
数字が示す未来と、地図上の収束点。
二つが重なった瞬間、九重の中で確信が芽生えた。
(五日後、必ずここで爆発が起きる。
それを止められるのは……俺しかいない)
九重は散らかった資料を一枚ずつ拾い上げ、分類を始めた。
眠気も疲労も感じない。
赤い数字が刻む秒針に追われながら、ただ未来を変える手がかりを探し続けた。
国木署の合同捜査本部では、爆破予告メールの分析が続いていた。
だが会議が一段落すると、九重誠治郎は静かに席を立った。
「すみません、私用で少し抜けさせていただきます」
桜井警部が眉をひそめた。
「今は一刻を争う状況だぞ」
「承知しています。ただ……どうしても外せない用事で」
短く頭を下げると、それ以上は追及されなかった。
署を出ると、冬の冷気が頬を刺した。
七日後に迫る刻限を思えば、プライベートな時間など許されない。
それでも、どうしても会っておきたい相手がいた。
⸻
車を走らせながら、九重はポケットに仕舞った一枚の紙を思い出していた。
離婚届の控え。
三年前、三十二歳のときに妻と別れた。
刑事という仕事は、家庭に安らぎをもたらさない。
夜勤、長時間の張り込み、突発的な呼び出し。
当初は理解してくれていた妻も、次第に疲弊していった。
「あなたにとって家族はいつも二番目なのね」
別れ際に告げられた言葉は、今も胸に刺さっている。
娘の結衣は妻のもとに引き取られ、九重に残されたのは数ヶ月に一度の面会だけ。
それでも彼にとって結衣は唯一の救いだった。
(会いたい……。だが、もし結衣の頭上にも数字が浮かんでいたら……)
想像するだけで背中を冷たい汗が伝った。
⸻
夕暮れの住宅街。
二階建ての集合住宅の前に立ち、インターホンを押す。
しばらくしてドアが開き、元妻の美咲が現れた。
「……誠治郎」
エプロン姿で髪を束ねた彼女は、落ち着いた表情ながら、どこか距離を取るような声音だった。
「急に悪い。少しだけ、彩音に会わせてくれ」
「ええ。彩音は中にいるわ」
九重は頷き、玄関をくぐった。
⸻
居間に入ると、そこに彩音がいた。
小学二年生。
床に座って絵本を広げていた少女は、父親の姿を見つけると顔を輝かせて立ち上がった。
「パパ!」
元気な声とともに、勢いよく抱きついてくる。
九重は思わず笑みを浮かべ、その小さな体を抱きしめた。
温かさが胸に沁みる。
だが同時に、視線は自然と頭上へと吸い寄せられた。
〈6d xx:xx:xx〉
赤い数字が冷酷に浮かんでいた。
(彩音まで……!)
心臓を握りつぶされたような衝撃に、呼吸が止まる。
笑顔でしがみつく娘に、数字を告げることなどできなかった。
⸻
「久しぶりね。……三ヶ月ぶりかしら」
美咲がソファに腰を下ろしながら言った。
「もっと会いに来ればいいのに。彩音はあなたを楽しみにしてるのよ」
九重は娘の髪を撫で、ぎこちなく答えた。
「すまない。仕事が立て込んでいて」
「仕事、ね」
美咲の声には皮肉が滲んでいた。
家庭を壊した言葉そのものだからだ。
彩音は父を見上げ、無邪気に笑う。
「ねえパパ、今度一緒に動物園行こうね!」
「……ああ。必ず」
喉が締めつけられる。
数字が示す未来では、その約束は六日後に絶たれる。
⸻
数十分の面会が過ぎ、九重は立ち上がった。
「また来る」
「ええ」
美咲は淡々と答えた。
玄関先で、彩音が小さな手を振る。
その頭上には、やはり赤い数字が燃えていた。
九重は振り返らずに住宅街を歩き出した。
夜風が頬を刺し、娘の声が遠ざかる。
(結衣まで……。絶対に、この刻限を止めなければならない)
拳を握りしめた。
刑事としてではない。
父としての決意が、胸に深く刻まれた。
住宅街を離れ、九重誠治郎は夜道を歩いていた。
冬の冷たい風が頬を刺す。
わずか十分ほどの滞在だったが、娘の笑顔と声が胸に焼きついて離れなかった。
小さな体を抱きしめたときの温もりはまだ腕に残っている。
だが、その頭上に浮かんでいた数字の残像がすべてを覆い尽くしていた。
〈6d xx:xx:xx〉
(彩音まで……六日後に死ぬなんて、あってたまるか)
心の中で叫んでも、数字は変わらない。
秒単位で刻まれる冷酷な表示は、父親の願いをあざ笑うかのようだった。
娘は「今度動物園に行こうね」と無邪気に笑っていた。
だが数字が示す未来では、その約束は果たされることなく途絶える。
⸻
駐車場に停めた車に乗り込み、ハンドルを握る。
エンジンをかけても、すぐに走り出す気にはなれなかった。
額に手を当て、目を閉じて深く息を吸う。
(最初に見えたのは、交差点で車に轢かれかけた少年……。
次は居酒屋の乱闘の男。
駅前の群衆。
同僚の刑事たち。
そして、彩音……)
見えるのは、身近かどうかに関係なく「一年以内に死ぬ人間」。
それは理解していた。
だが、娘の頭上に数字が現れたことで、その理解が一気に現実味を帯びて襲いかかってきた。
(死ぬのは誰かの父であり、母であり、子供だ。……そして彩音も例外じゃないのか)
胸が軋んだ。
ハンドルを握る手に力がこもり、革が軋む音が夜に響いた。
⸻
車を走らせ、国木市から桐ノ宮へ抜ける幹線道路に出る。
繁華街に差しかかると、夜の光と雑踏に飲み込まれた。
居酒屋から吐き出される酔客。
タクシーに手を挙げるサラリーマン。
若者たちの笑い声。
その中に、赤い数字が点々と浮かんでいた。
〈6d 05:12:44〉
〈6d 17:33:09〉
十人に一人ほど。
寿命が迫っている者にだけ現れる数字。
だが今夜、彼らは一様に「六日後」を背負っていた。
数字のない者は、何事もなかったかのように歩き去っていく。
その対比は残酷だった。
「生き延びる者」と「六日後に死ぬ者」が、同じ街を行き交い、笑い、肩を並べている。
だがそれに気づいているのは、九重ただ一人だった。
(これは偶然じゃない。……七日後と宣告された爆破予告が、一日減った今、数字も確実に減った)
(街全体を呑み込む大災厄が来る。それが六日後だ)
背筋を冷たいものが伝った。
⸻
署に戻ると、廊下で佐伯警部補が待っていた。
「おい九重、どこ行ってた。顔色が悪いぞ」
「……少し私用で。すみません」
短く答えたが、声はかすれていた。
佐伯は怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
自席に戻ると、若林刑事が書類の束をどさりと置いた。
「おいおい、こっちは山のように仕事だぞ。お前まで抜けたらまわらねぇ」
苦笑しながら文句を言う若林。
だが九重の視線は、その頭上にちらつく赤い光から目を逸らせなかった。
〈6d 12:41:27〉
(若林まで……。やっぱり六日後だ)
九重は唇を噛み、視線を机に落とした。
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夜遅く、会議室に資料を抱えて入ると、刑事たちの疲弊した声が飛び交っていた。
「予告メールは挑発に過ぎないかもしれない」
「だが、過去の事件と関連を考えると無視できない」
「場所が曖昧すぎる。市全体をどう守れっていうんだ」
彼らにとって「六日後」は、犯人が指定した期限にすぎない。
だが九重にとっては、自分の娘を含む人々の死期を告げる数字そのものだった。
その隔たりが、孤独感をさらに強めていく。
(言えない……。言えるはずがない。
だが、知っているのは俺だけだ)
重く沈むような孤立感の中で、九重は決意を新たにした。
(六日後、街を救う。……そして結衣を守る。たとえ俺一人でも)
赤い数字の雨が降りしきる世界で、九重の瞳だけが鋭い光を宿していた。
翌朝。
国木署の合同捜査本部には、夜を徹して作られた資料が山のように積み上がっていた。
刑事たちの顔には疲労が濃く刻まれ、紙コップのコーヒーがいくつも転がっている。
電話と無線の声が途切れず飛び交い、空気は張りつめていた。
「桐ノ宮市内の主要駅と大型施設は警戒を強化する。警備部とも連携して監視を強める」
桜井警部が冷ややかに告げる。
「だが爆破予告の文面は抽象的だ。施設を特定できない以上、市全域を守ろうとすれば警備は分散する」
「市民に知らせるべきじゃないか? だがパニックになれば混乱が拡大する」
意見が飛び交い、会議室の空気は重さを増した。
その中で九重誠治郎は黙り込み、資料の字を追いながらも、頭の奥では別のことを考えていた。
⸻
(数字は寿命なんかじゃない。
大規模な事件の刻限そのものだ)
七日後と宣告したメールが届いたその日、街に見えた数字も〈7d〉だった。
そして一夜が明けると、全員が〈6d〉に変わった。
娘の結衣の頭上にまで、同じ数字が浮かんでいた。
(六日後、街は炎に包まれる。結衣も、仲間も、巻き込まれる)
机の端を握りしめ、拳に力がこもった。
木目が皮膚に食い込み、白く跡が残る。
⸻
休憩時間。
若林刑事が肩を叩いてきた。
「おい九重、昨日どこ行ってた? お前が抜けると倍忙しいんだぞ」
「悪かった」
声を絞り出したが、目を合わせられなかった。
若林の頭上にも確かに〈6d〉があった。
気安く文句を言ってくる同僚が、六日後に死ぬ――その事実を知っているのは自分だけ。
胃の奥に重い石を押し込まれたような感覚に、言葉が続かなかった。
(言えるわけがない。信じてもらえるはずがない)
孤独感が胸を締めつけ、視界の端が暗くなる。
⸻
午後、本部から渡された地図を広げる。
過去の不審火や爆発未遂の現場に赤いマーカーが印されていた。
桐ノ宮市を中心に、円を描くように散らばっている。
(狙いはやはり市の中心……。予告文の“桐ノ宮の街”という曖昧さは、街そのものを標的にしているからだ)
ペン先で地図をなぞる。
仮説にすぎない。
だが数字の一致が背中を押していた。
(六日後、必ずここで何かが起こる)
⸻
夜。
自宅に戻った九重は、机に散らばる資料を睨み続けていた。
赤い線で結んだ事件現場は、いびつな円を描きながら中心部に収束していた。
窓の外を歩く人々の頭上に、また数字が浮かぶ。
〈6d 21:04:15〉
無関係に見える通行人も、同じ「六日後」を背負っている。
数字が示す未来は抽象ではない。
一つの巨大な出来事に、人々の寿命が呑み込まれていく。
九重は鏡に目をやった。
映る自分の頭上にも、冷酷な数字が輝いていた。
〈6d 23:11:32〉
背筋に冷たいものが走る。
だが視線を逸らさず、赤い刻限を睨み返した。
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(守るんだ。彩音を。街を。仲間を)
胸の奥で熱が渦巻き、喉を焦がす。
父として、刑事として――もう後戻りはできない。
「俺が止める。必ず」
低く呟いた九重は、机に散らかった資料へ手を伸ばした。
震える指先が赤い線をなぞり、未来を読み解こうとする。
秒を刻む数字は冷酷に減り続ける。
だが九重もまた、行動を始めようとしていた。
翌日の午前。
国木署の合同捜査本部は再び慌ただしく動いていた。
県警本部から新たな指示が下り、桐ノ宮市内の警戒体制をさらに強化することになったのだ。
制服警官の増員、公共交通機関への監視カメラ設置、市役所や警備会社との連携。
机の上の電話はひっきりなしに鳴り、刑事たちは受話器を取り合っていた。
九重誠治郎はその喧騒を背に、地図を睨んでいた。
数字は残酷に減り続けている。
昨日〈6d〉だった刻限は、今朝には〈5d〉になっていた。
街のあちこちで、人々の頭上に赤い数字が点々と浮かんでいる。
(残り五日……。もう迷っている暇はない)
⸻
九重の胸にあったのは、父としての思いだった。
彩音の笑顔。
「動物園に行こうね」と弾んだ声。
あの約束を破る未来など、あってはならない。
刑事として街を守る責務と、父として娘を守る本能。
その二つが渦を巻き、九重を突き動かしていた。
⸻
昼休み。
九重は署の屋上に上がり、携帯を取り出した。
画面に表示された番号を前に、親指がしばらく止まる。
美咲――元妻の番号。
押すか、押さないか。
言うべきか、黙っておくべきか。
(「六日後に死ぬ」なんて言えるわけがない。だが、黙っていれば……彩音は……)
逡巡の末、通話ボタンに触れる直前で指を止めた。
根拠のない言葉で脅かせば、狂人扱いされるだけだ。
信じてもらえず、娘を二度と会わせてもらえなくなるかもしれない。
「……まだだ」
九重は携帯を閉じ、ポケットに押し込んだ。
⸻
午後の会議。
桜井警部が淡々と告げた。
「不審者の通報が増えている。市内の警戒は続けるが、現状では爆破予告の信憑性は五分五分だ」
会議室の空気がざわめく。
「五分五分って……これだけの前兆があって?」
「市民の不安を煽るわけにはいかないってことだ」
九重は歯を食いしばった。
数字を見ている自分には、五分五分などあり得なかった。
これは必ず起きる。
六日後ではなく、もう五日後に迫っている。
⸻
会議が終わった後、九重は一人、資料を抱えて廊下に立ち尽くしていた。
手のひらに汗がにじむ。
誰にも打ち明けられない。
だが黙っていれば、結衣も、仲間も、街も――全てが炎に呑まれる。
(なら、俺がやるしかない)
独り言のように胸の奥で呟いた。
刑事としての立場を超え、父としての衝動が背中を押す。
⸻
夜。
自宅の机に地図を広げ、九重はマーカーで円を描いていた。
これまでの事件現場、不審火、爆発未遂。
点と点を結ぶと、桐ノ宮市の中心に向かって収束していく。
「……中心だ。奴らの狙いは」
赤いペンを握る手が震える。
数字が示す未来と、地図上の収束点。
二つが重なった瞬間、九重の中で確信が芽生えた。
(五日後、必ずここで爆発が起きる。
それを止められるのは……俺しかいない)
九重は散らかった資料を一枚ずつ拾い上げ、分類を始めた。
眠気も疲労も感じない。
赤い数字が刻む秒針に追われながら、ただ未来を変える手がかりを探し続けた。
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