刻限

都丸譲二

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第7話 影を追う

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 木曜の朝。
 桐ノ宮県警本部の大会議室は、前日にも増して殺気立った空気に包まれていた。
 刑事たちの目の下には隈が濃く、机の上にはコーヒーの紙コップが乱雑に並んでいる。

 モニターには、予告メールの文面と関連資料が映し出されていた。
「七日後」と記された言葉は、すでに三日前のもの。
 今は、九重誠治郎の目に見える数字と同じく、〈3d〉 に変わっていた。
 残り三日。
 赤い刻限は無慈悲に迫っていた。

 ⸻

 一課長が会議を仕切っていた。
「不審火、未遂事件との関連性は否定できない。だが、現時点で決定的な証拠はない」
「市内全域に警備を配置するには人員が足りない。中心部に絞るにも、裏付けが不十分だ」

 刑事たちの間から不満の声が漏れる。
「じゃあどうするんです? 黙って三日を待てってんですか」
「市民の安全が第一のはずだ」

 だが幹部たちは表情を変えず、冷静さを装っていた。
「過剰な警戒は市民生活を混乱させる。必要なのは冷静な判断だ」

 その言葉に、九重の胸の奥が熱を帯びた。

 ⸻

 彼は席を立ち、資料を机に広げた。
「過去の未遂事件を洗い直しました。工業地帯の不審火、駅前の不審物騒ぎ……どれも化学肥料が関わっています。
 さらに、市内の複数の倉庫で同じ種類の薬品が紛失している。偶然にしては不自然すぎる」

 会議室にざわめきが広がった。
 九重は続けた。
「狙いは桐ノ宮の中心部。薬品の運搬経路を辿れば、その可能性が濃厚です。
 今のうちに倉庫や配送ルートを徹底的に洗えば――」

 だが、一課長は首を横に振った。
「状況証拠に過ぎん。薬品の紛失は管理の甘さとも取れる。現時点では動かせない」

 九重は思わず声を荒げた。
「三日後なんです! 悠長に構えていたら――」

「九重!」
 桜井警部の叱責が飛び、室内の空気が一気に凍りついた。
「感情的になるな。捜査は証拠で動くんだ」

 ⸻

 重苦しい沈黙。
 九重は唇を噛み、拳を膝に押し当てた。
 会議室の壁時計の針が、やけに大きく時を刻んでいるように聞こえる。

(証拠……証拠か。だが数字は確かに迫っている。あと三日しかないのに)

 机の上の資料に視線を落とす。
 赤いペンで結んだ線は、何度見ても桐ノ宮市の中心部に収束していた。
 それを信じられるのは自分だけだ。

 ⸻

 会議が終わり、刑事たちが席を立った。
 廊下に出ると、若林が隣に並んだ。
「お前、今のはまずかったぞ。上に逆らったら干される」

「……分かってる」

「だがよ、あんだけ必死なお前を見るのは初めてだ。何かあるんだろ」

 問いかけに、九重は言葉を飲み込んだ。
 答えれば、数字のことを話してしまいそうだった。

「気のせいだ。ただ、気になることがあるだけだ」
「そうかよ……」

 若林は疑わしげな視線を残して去っていった。

 ⸻

 九重は一人、会議室に残された資料を拾い上げた。
 紙の端を握る指が震えている。
 赤い数字は残り三日を刻んでいた。

(もう時間はない。証拠を掴むしかない)

 九重は深く息を吐き、資料を抱えて部屋を出た。
 廊下の窓から差し込む光の下で、赤い数字が頭上にちらついていた。

 午後。
 国木署の三階、古い蛍光灯が唸る資料室の隅で、九重誠治郎はノートPCを開き、紙束と突き合わせながら表計算のセルを埋めていった。
 項目は三つ――品目、数量、経路。過去三年分の「不審火」「未遂」「原因不明」を再抽出して、付随資料の“備考欄”だけを拾い直す。肉眼では見落とすような小さな記載――「化学肥料容器の紛失」「倉庫内で不明臭」「配送伝票の訂正印」――を、すべて一行に変換していく。

(数字は〈3d〉……残り三日。書類の端に滲んだ違和感を拾うしかない)

 指先でページを繰り、別のファイルを開く。市内の資材卸が提出した月次の在庫報告。税務署の数字と若干ズレている社を色で塗り分ける。ズレは微小だが、三社で同じ月に同程度の“目減り”が起きていた。

「綜合資材桐ノ宮」「三光アグリ」「草壁化成」――いずれも郊外に中規模倉庫を持つ。
 目減りが発生した月、三社の搬出先欄に同じ略号が並んでいることに九重は気づいた。

 搬出先:KML-3

(KML……桐ノ宮ロジスティクスの略。第3倉庫?)

 署内端末では一般公開分しか見られない。九重は内線を取り、渉外係を通さずに直接、物流会社の古い知り合いに電話を入れた。数年前、万引きグループの追跡で協力してくれた総務の主任だ。

「九重です。悪い、KMLの倉庫コード、今も“3”は豊浜の埠頭だよな」
『相変わらず直球だな……まあ、そうだ。第3は豊浜。海沿い。どうした』
「最近の搬入出、異常ないか。訂正伝票が多いとか、夜間搬入が続いたとか」
『夜間は増えてる。港の工事で昼を避けてるって話だが……それと、出入口ゲートログの時間が連続して“15分の欠落”になる日がちょくちょくある。機械の不調って言ってたが、気味が悪い』
「いつから」
『二週間ぐらい前からだ。そういや、カメラの#12がときどき死ぬとも聞いた』

 インカム越しの雑音、その向こうで紙をめくる気配。主任はぼそりと付け足した。
『お前、あくまで“一般的な質問”にしとけよ。現場がピリついてる』

 通話を切ると同時に、九重は地図を開いた。豊浜埠頭――桐ノ宮市の南外れ、海風の強い人工島の物流エリア。周辺でここ数カ月に起きた小規模火災、不審者通報をピンで打つ。三つ、四つ……赤い点が海沿いに寄っていった。

(第3倉庫。ゲートログの“15分の欠落”。カメラ#12の死角)

 机の端に置いた紙コップのコーヒーは冷めきっていた。九重はそれを一気に流し込み、次に車両の出入りを洗い始めた。道路管制センターに照会を飛ばすのは大事になる。なので“個人的なメモ”という体で、かつて協力してくれた監視員に昼休みの雑談を装って問い合わせる。

「豊浜のゲート前、夜間に停車するトラック、最近増えてないか」
『コーンを避けて停まる奴はいるな。ナンバー? 映像の保存は短いぞ』
「断片でいい。側面にシートを増設してるタイプとか、後部ナンバーを角度で反射させて読みにくくしてる車両とか」
『……いる。毎週同じ時間帯に来る。21時台と23時台。ナンバーは“品”の地域名で、下二桁が“08”と“30”。多分同一会社の車』

 メモに走り書き。
(“品”……市外。第3倉庫に、市外の同じ会社の車が定期で出入り。時間は夜)

 続けて、資材卸の帳簿をページの隅までめくる。搬入伝票に訂正印が二重、送り状の品目コードに手書きの上書き。均質な帳票に混じって、そこだけ“人の手の温度”が残っている。

(数字のごまかしは大抵、端っこに出る)

 ファイルの奥から、三年前の小火(ぼや)の報告書を取りだす。被害は軽微、「経年劣化で処理」と結語にあるが、写真の片隅に青いドラム缶が写っていた。張り紙の一部が剥げ、かすれたロゴの輪郭――拡大すると、海外資材メーカーの下請けブランドが読めた。

(同じ系列が、今年の未遂現場でも転がっていたはずだ)

 記憶の引き出しから別事件のフォルダを抜き、写真を並べる。青いドラム缶、搬入口の切り傷、フォークリフトの爪跡。現場は違うのに、運搬と保管の癖が似通っている。爪の幅、巻き上げた粉塵の跡――運ぶ者が似た手順で動いている証拠だった。

(“人”が同じだ)

 時計を見ると、もう夕方を回っていた。〈3d〉は容赦なく減っていく。九重は資料をファイルに戻し、上着を羽織ると席を立った。誰にも言わずに庁舎を出る。海風の匂いが混ざった冷気が肺を刺した。

 ――豊浜へ。

 ⸻

 埠頭への高架道路は、夜に近づくほど交通量が増えた。港のオレンジのナトリウム灯が、遠く水面に筋を引く。工場の排気塔が低く唸り、波消しブロックに白い泡が砕ける。

 第3倉庫は、外から見ればどこにでもある角張った箱だった。金網フェンス、ゲートの詰所、社名看板。だが、近づけばわずかな違和感が層のように乗ってくる。防犯カメラの向きが一本だけ不自然に上を向いている。ゲート前の路面にタイヤのスリップ痕。そして、フェンスの端に新しい結束バンド――付け替えられた痕跡。

 九重は敷地から少し離れた月極駐車場に車を入れ、暗がりに身を沈めた。フロントガラス越しにゲートを望む。詰所の蛍光灯、モニターの明滅、交代のガードマン。腕時計を見る。21時10分。

 二分後、国道側からヘッドライトの列。大型のウィング車がゆっくり減速し、ゲート手前でブレーキランプを赤く灯した。側面に増設された銀色のシートが街灯を弾く。後部ナンバーは斜めに傾けられ、反射材が白く飛ぶ。

(来たな……“品”ナンバー、下二桁“08”)

 ドライバーが窓を下ろし、書類を差し出す。詰所での手続きは早い。バーが上がると、車は滑り込むように構内へ消えた。続いて23時過ぎ、もう一台。今度は下二桁“30”。同じ動き。詰所のモニターは点きっぱなしだが、ゲートの外側を映すカメラの一つが暗い。

(#12か……)

 風向きが変わり、潮と鉄の匂いの奥、微かに甘い薬品臭が混じった気がした。鼻先を掠める、言葉にしづらい匂い。鼻腔に張り付くような重さ。九重は息を浅くして、窓を少しだけ開けた。

(断定できる匂いじゃない。だが“ここで”何かが動いている)

 倉庫のシャッターが音もなく少し上がり、フォークリフトのランプが赤く瞬く。影が交差し、パレットが滑っていく。フォークの爪幅が、写真で見た跡と同じ。足元の粉塵が舞い、ヘッドライトの束で白く煙る。

(現認は十分。だが踏み込むには薄い……)

 ポケットの中で携帯が震えた。画面に若林の名前。躊躇してから通話を押す。

「どこだ、今。会議書類の押印が――」
「すまん、外回りだ。後で戻る」
「外回り? 夜に? お前、個人で――」
「後で話す」

 通話を切る。夜気が一層冷たく感じられた。
 九重は車内灯を点けず、膝の上のメモに短い行を挟む。

 ・KML第3/21:12入構“品-08”、23:06入構“品-30”
 ・ゲート外カメラ#12暗転、15分周期の欠落(係員談)
 ・シャッター小開→FL稼働、爪幅一致
 ・フェンス端 新バンド/路面スリップ痕
 ・微弱な薬品臭(風下)

 腕時計の秒針が、暗がりで淡く光る。〈3d〉が頭上に浮かび、冷たい数字が視界の隅を掠めた。ゲートの詰所で交代が行われ、ガードマンが伸びをする。その横を、作業着の男が二人、キャップを深くかぶり素早い歩幅で横切った。顔は見えない。だが肩の沈みと歩幅のクセ――工場系の荷扱いに慣れた身体の動きだ。

(“人”が同じなら、ルートも同じだ)

 九重はエンジンをかけず、車をそっと後退させた。倉庫裏手に回る生活道路。街灯の切れ目があり、そこから海側のフェンス裏が覗ける。双眼鏡を取り出し、暗視の弱いレンズで影の往来を追う。トラックのテールランプが一瞬きらめき、荷台の隙間から養生シートの青が覗いた。巻き込み防止のベルトは新しく、バックルの形状が二台とも一致している。

(同一会社の車両、同じ整備……どこかで一括管理している)

 九重はメモにもう一行、短く書き足す。

 ・車両管理 同一整備拠点の可能性

 潮風が強くなり、風に乗って甲高い金属音が遠くで跳ねた。埠頭の別区画、鉄のシャッターが落ちる音。時計は23時半。ラストの便が出る時間帯だ。

(引き上げた後の残り香が一番、痕跡を露わにする)

 九重は車をゆっくり発進させ、大通りへ戻った。すぐには帰らない。倉庫から離れるトラックの**“後”**を、距離を取りながら追うつもりだ。尾行灯は点けない。信号で自然に前に入らせ、ルートを記憶する。豊浜から内陸へ。海風の匂いが薄れ、代わりにアスファルトと排気が鼻を刺した。

(この車が向かう先――保管か、分散か)

 交差点の歩道には、帰宅を急ぐ人の列。彼らの頭上に、淡い赤がまたちらついた。
 〈3d 07:02:11〉
 〈3d 19:44:39〉

 視界の隅で数字が減る。街は何も知らない顔で流れていく。
 九重はハンドルを握り直し、前方のテールを見失わないようにアクセルを踏んだ。
 倉庫、車両、ルート――点は徐々に線になりつつある。
 線の先にあるのは、桐ノ宮の中心だ。
 そして、刻限。

 翌日の朝。
 国木署の刑事課はいつにも増してざわついていた。
 電話が鳴り続け、コピー機が紙を吐き出し、誰もが焦燥に駆られたように動き回っている。
 九重誠治郎は机に広げた地図を折り畳み、昨日のメモを胸ポケットに忍ばせた。
 豊浜の第3倉庫で見た光景――不審なトラックと甘い薬品臭。
 それは確かに“何か”を物語っていた。

 だが、言えるはずがなかった。
 証拠と呼ぶには薄すぎる。
 数字が見えることを前提にした観察を説明できるはずもない。

 ⸻

「九重、ちょっと来い」

 声をかけてきたのは佐伯警部補だった。
 落ち着いた表情の奥に、鋭い光が宿っている。
 会議室に呼ばれると、そこには若林刑事もいた。

「……何ですか」

 椅子に座る間もなく、若林が切り出した。
「昨夜どこに行ってた?」

「外回りです」

 即答したが、若林は食い下がった。
「嘘だな。押印の書類に名前がなかった。深夜まで署に戻ってない」

 九重は黙り込んだ。
 ポケットのメモが肌に貼りつき、やけに重く感じられた。

 ⸻

 佐伯が腕を組み、低い声で続けた。
「お前、何か掴んでいるな」

「……根拠のない勘にすぎません」

「その勘で昨夜、豊浜に行ってたんじゃないのか?」

 心臓が跳ねた。
 どうしてそこまで――と思った瞬間、若林が机を叩いた。

「港の警備会社に当たったら、国木署の刑事が車で張り込んでたって話が出たんだ。お前しかいねぇだろ!」

 声が鋭く突き刺さる。
 九重は俯き、言葉を選んだ。

「……確証はない。ただ、過去の帳簿と事件を洗ったら、豊浜の倉庫に不自然な動きが見えた。だから確認に行っただけだ」

 ⸻

「確認って……一人でか?」
 若林の声は苛立ちに満ちていた。
「お前、何考えてんだ。万が一敵と鉢合わせしたらどうする。死ぬ気か」

 その言葉に、九重の背中を冷たい汗が流れた。
 死ぬ――まさにその刻限を、自分も含めて背負っている。

「危険な真似はするな。……俺たちはチームだ」
 佐伯が静かに言った。
「本部の方針から外れる行動は、ただの暴走だぞ」

 九重は唇を噛んだ。
(暴走……そうかもしれない。だが、黙って待っていたら三日後に全員死ぬ)

 言えない言葉が喉を塞ぎ、呼吸が詰まりそうになる。

 ⸻

「なあ九重」
 若林が声を潜めた。
「俺たち、十年以上一緒にやってきただろ。お前が何を隠してるのかは分からねえ。けど、俺を信じられないのか」

 信じたい。だが――信じさせることはできない。
 数字のことを告げた瞬間、相棒は自分から離れていくだろう。
 その恐怖が九重の口を塞いだ。

「……今は言えない。ただ、必ず掴む」

 かろうじて絞り出した言葉は、嘘と本音の狭間にあった。
 若林はしばらく九重を睨んでいたが、最後に舌打ちして視線を逸らした。
「好きにしろ。ただし……一人で死ぬなよ」

 ⸻

 会議室を出た九重は、廊下の窓際に立ち尽くした。
 冬の光が差し込み、街を見下ろす。
 人々が行き交う歩道に、また赤い数字がちらついていた。

 〈3d 18:12:44〉
 〈3d 09:33:21〉

 秒単位で減り続ける刻限。
 彼らは笑い、話し、何も知らないまま歩いていく。
 その光景が九重の胸に突き刺さる。

(孤立しても構わない。……俺が掴むしかない)

 手のひらに握ったメモは、汗で湿っていた。
 そこに記した倉庫、車両、匂い――すべてが事件の核心へ繋がっている。
 三日後を待つわけにはいかない。

 九重はメモをポケットに戻し、無言で歩き出した。
 足取りは重くも、迷いはなかった。

 夜。
 九重誠治郎は桐ノ宮駅前に立っていた。
 金曜の夜ということもあり、街は活気に満ちていた。
 ネオンの明滅、飲食店の看板、スピーカーから流れる音楽。
 行き交う人々の笑い声と、酔いの回った叫び声が入り混じる。

 だが九重の目には、別のものが見えていた。

 〈3d 23:59:59〉
 〈3d 07:45:02〉
 〈3d 19:22:38〉

 群衆の頭上に、赤い数字が無数に浮かんでいた。
 秒針のように減り続ける数字が、街を冷たく覆っている。
 まるで都市そのものが巨大な時限爆弾と化したようだった。

 ⸻

 人波をかき分けながら歩く。
 すれ違う人々の笑顔は、赤い数字の光に照らされて不気味に歪んで見えた。
 数字のない者もいる。
 彼らは一年以上生きる者――この災厄を生き延びる者。
 だが大多数は〈3d〉を背負っていた。

(あと三日……)

 九重は歩道橋に上がり、見下ろした。
 交差点を埋め尽くす人の波。
 その半数以上の頭上に赤い数字が瞬き、秒単位で減っている。
 赤い雨が街に降り注ぐような光景だった。

 吐き出す息が白く揺れた。
 指先が震える。
 恐怖と焦燥が胸を掴み、押し潰そうとする。

 ⸻

 そのときだった。
 雑踏の中に、違和感を覚えた。

 人々の頭上には赤い数字が浮かんでいる。
 だが一人だけ――何も見えない男がいた。

 黒いパーカーのフードを深く被り、顔は街灯に隠れていた。
 大きめのリュックを背負い、人波に逆らうように速い歩幅で進んでいく。
 足取りには迷いがなく、目的地を知っている者の歩き方だった。

(……数字が、ない?)

 寿命が一年以上ある人間なら、数字が見えないのは当然だ。
 だが、この状況下で“事件の刻限”から外れていることが逆に不気味だった。

 ⸻

 九重は反射的に追った。
 人混みをすり抜け、男の背中を視界から外さないようにする。
 信号が変わり、群衆が流れる。
 男は赤信号を無視して横断し、タクシーのクラクションを浴びながら歩道へ渡った。

(落ち着け……追うだけだ。今は顔を確認する)

 距離を詰めようとした瞬間、男が不意に振り返った。
 街灯に一瞬だけ顔が照らされた。

 やせた頬、鋭い目。
 二十代後半から三十代前半。
 だが何より印象的だったのは、その目に宿る光――冷たい決意の色だった。

 九重と視線が交錯した。

 ⸻

 一瞬、時間が止まったように感じた。
 群衆のざわめきも、信号の電子音も消える。
 赤い数字だけが宙に浮かび、秒を刻んでいる。

 次の瞬間、男は人波に紛れて走り去った。
 九重も追う。
 だが人々の頭上に乱舞する数字が視界を埋め、目標を見失いそうになる。

「くそっ……!」

 雑踏をかき分け、角を曲がる。
 だがそこに男の姿はなかった。
 残されたのは、夜風に揺れるコンビニの袋と、微かに漂う薬品臭。

(……奴か)

 九重の胸に確信めいた重さが落ちた。
 あの男が、この事件の鍵を握っている。

 ⸻

 夜の街に戻ると、相変わらず赤い数字が光っていた。
 〈3d〉は減り続け、秒針の音が耳鳴りのように響いている。

 九重は息を荒げながら、胸の奥で呟いた。
(必ず見つける。……あの男を)

 人波の中、赤い刻限の海に溺れそうになりながら、九重は再び歩き出した。
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