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第10話 前哨の炎
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赤い光が、闇の中で脈打っていた。
廃ビルの一室。青いドラム缶が積まれ、その中心に黒い装置が置かれている。
装置の赤いランプは規則的に点滅し、耳の奥にまで染み込むような電子音を刻んでいた。
ピッ……ピッ……ピッ……
九重誠治郎は床に男を押さえつけ、銃口を額に突きつけながら視線を装置に走らせた。
女の頭上の数字は装置のランプと完全に同期している。
〈00h 02:05〉 → 〈00h 02:04〉 → 〈00h 02:03〉
残り二分。
秒針の音が、心臓の鼓動に変わって響いた。
⸻
装置を観察する。
基盤は市販品。配線はビニールテープで雑に固定されている。
時計から伸びたコードが導火線代わりの回路に直結している。
複雑さはない。
だからこそ、危険だった。
(……これじゃ解体は不可能だ。どの線を切っても即起爆だ。逆に“素人が作ったから安全”なんて思えない。単純すぎるほどに恐ろしい)
爆発物処理の教本が頭をよぎる。
「複雑な仕組みの方が解体の余地がある。単純な回路は“一発勝負”になる」――そう習った。
まさにそれだ。
⸻
女の声が、嗚咽混じりに震えた。
「おねがい……たすけて……」
息は荒く、胸が上下し、縛られた手首にロープが食い込んで血が滲んでいた。
頬に伝う涙が赤い光を反射し、数字と同じ色に染まって見えた。
〈00h 01:50〉 → 〈00h 01:49〉 → 〈00h 01:48〉
九重の喉が焼けるように乾いた。
⸻
考えろ。
選択肢は四つ――。
通報。
だが解体班が来るまでに二分では到底間に合わない。
射殺。
今ここで男を撃ち殺すか?
だが奴が体を痙攣させてスイッチに触れれば、即爆発。
解体。
配線を切る?
だがどの線を切っても爆発する仕組み。
“安全な線”など存在しない。
救出。
女を拘束から解き、引きずり出す。
だが背後の男が反撃してくるだろう。
そして、三十秒以上は必要だ。
⸻
(どれを選んでも危険……)
九重の視界が赤に染まった。
数字が残酷に減り続ける。
〈00h 01:30〉 → 〈00h 01:29〉 → 〈00h 01:28〉
結衣の顔が脳裏に浮かぶ。
笑って手を振る姿。
そして、街の雑踏に揺れる〈2d〉の数字たち。
それらが一斉にゼロに収束していく幻覚。
胃が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
(ここで救えなければ、二日後の本番も止められない……!)
⸻
男が嗤った。
「どうした? 刑事殿。選べないのか?」
口元から血を垂らしながらも、目は狂気に濡れている。
「解体はできん。俺を殺せば即起爆。通報も間に合わない。
――お前が迷ってる間に、死がやって来る」
「黙れ!」
九重は銃口をさらに押し付けた。
だが分かっている。
言葉の通りだ。
〈00h 01:10〉 → 〈00h 01:09〉 → 〈00h 01:08〉
秒針が心臓を突き刺すように響いた。
⸻
九重は女の拘束に目をやった。
太いロープが背もたれを二重三重に回り、手首と足首を固く縛っている。
ナイフを使えば切れる。
だが時間は……三十秒か四十秒。
その間に男の反撃を受ける可能性は高い。
(それでも、やるしかない……!)
拳銃を握る手が汗で滑りそうになる。
九重は深く息を吸い、決断を固めた。
銃口を男から外し、ナイフを抜いて女の背後に回り込む。
赤いランプが一際強く点滅した。
〈00h 00:59〉 → 〈00h 00:58〉 → 〈00h 00:57〉
時間は無慈悲に削られていく。
ナイフの刃先がロープに触れた瞬間、九重誠治郎の背中に冷たい汗が流れた。
繊維のきしむ音が耳にまとわりつく。
椅子に縛られた女性は涙に濡れた目で必死にこちらを見上げ、息を切らしながら小さく頷いた。
〈00h 00:54〉 → 〈00h 00:53〉 → 〈00h 00:52〉
赤い数字が彼女の頭上で点滅し、刃の動きと同じテンポで刻まれていく。
カウントダウンに追い立てられるように、九重の呼吸は荒くなった。
⸻
「……逃がす気か」
床に押さえつけられていた男が嗤った。
血に濡れた口元から、低い声が洩れる。
「無駄だ。切り終わる前に爆ぜるぞ」
九重は答えない。
返す言葉に意味はなかった。
刃先に力を込め、ロープを切り裂く。
繊維が弾け、皮膚に食い込んでいた縄がわずかに緩んだ。
女がかすれ声で叫ぶ。
「……はやく……!」
⸻
九重は次に足首を縛るロープへ刃を移した。
だがその隙を突き、男が床を転がって距離を詰めてきた。
鉄パイプを掴み、振り上げる。
「クソッ!」
九重はとっさに椅子ごと女を横へ倒した。
次の瞬間、パイプが床を叩き割り、破片が飛び散った。
九重は肘で男の顔面を殴り返し、再びロープにナイフを入れる。
繊維が裂け、女の足が自由を取り戻した。
〈00h 00:35〉 → 〈00h 00:34〉 → 〈00h 00:33〉
残り三十秒。
鼓動が爆音となって頭蓋を揺らした。
⸻
「立て!」
九重は女の腕を掴み、椅子から引きずり起こした。
拘束は完全には解けていない。
だが時間はない。
男が背後から再び迫る。
「ここで一緒に死ね!」
鉄パイプが振り下ろされる。
九重は女を庇い、肩で受けた。
鈍い衝撃と激痛が走り、視界が白く弾けた。
だが倒れるわけにはいかない。
九重は残った力で男の胴を蹴り飛ばし、女を出口へ押しやった。
⸻
装置の赤いランプが激しく点滅し、数字は無情に減り続けていた。
〈00h 00:20〉 → 〈00h 00:19〉 → 〈00h 00:18〉
女の頭上、そして九重自身の頭上。
ふたつの刻限が重なり合い、ゼロに向かって走っていた。
九重は奥歯を噛みしめ、女の背を押した。
「走れ!」
赤い光に照らされた廃ビルの中で、死と救済の境界線はわずか数秒しか残されていなかった。
女を出口へ押しやった瞬間、背後から再び殺気が走った。
九重誠治郎は反射的に振り返る。
黒いパーカーの男が血まみれの顔で笑い、鉄パイプを両手で振り下ろしてきた。
「死ぬのはお前だ、刑事ッ!」
咄嗟に九重は銃口を向けた。
だが引き金を引く前に、男の体がぶつかり、銃が弾かれた。
乾いた音を立てて銃が床に転がる。
九重の背がドラム缶に叩きつけられ、肺から息が奪われた。
鉄が軋み、薬品の匂いが鼻を焼く。
視界がぐらりと揺れ、赤いランプの点滅が網膜に焼き付いた。
〈00h 00:14〉 → 〈00h 00:13〉 → 〈00h 00:12〉
(残り十数秒……!)
⸻
男のナイフが閃いた。
九重はとっさに左腕で受け止めた。
鋭い痛みが走り、袖が裂け、血が飛び散る。
だが怯む暇はない。
右拳を振り抜き、男の顎を打ち上げた。
骨がきしみ、男の頭が揺れる。
それでも奴は笑った。
「いい……その必死な顔が見たかった……」
血走った目に狂気が宿り、息を荒げながら襲い掛かる。
九重も吠えた。
「ふざけるなッ!」
二人の体が激しくぶつかり合い、床に転げる。
鉄パイプが弾かれ、コンクリートに響く甲高い音が爆音のように響いた。
⸻
赤い数字がさらに減る。
〈00h 00:09〉 → 〈00h 00:08〉
残り一桁。
鼓動が爆弾のカウントと同調し、世界がその数字だけで支配されていた。
男は九重の喉を締め上げ、血走った眼で叫んだ。
「ここで一緒に終わるんだ! これが俺たちの選んだ未来だ!」
九重の視界が暗転しかける。
だが脳裏に浮かんだのは結衣の笑顔だった。
(まだ……ここで終われるか!)
九重は喉を押さえる腕を掴み、体を捻って男を投げ飛ばした。
二人の体がドラム缶にぶつかり、金属が激しく共鳴した。
⸻
女の悲鳴が飛ぶ。
「早く逃げて!」
九重は視線を爆弾に走らせた。
赤いランプが激しく明滅し、秒数は残酷に落ちていく。
〈00h 00:07〉 → 〈00h 00:06〉
男がふらつきながら立ち上がり、血を吐きながら嗤った。
「逃げろよ……! どうせ間に合わない……!」
九重は拳銃を探した。
床に転がった黒い影を掴み取り、即座に男へ向ける。
「黙れ!」
引き金を引く。
銃声が轟き、弾丸が男の太腿を撃ち抜いた。
肉が裂け、血が飛び散る。
男が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。
⸻
だがまだ終わらない。
奴は這いつくばりながら、爆弾の装置へと手を伸ばしていた。
血の跡を残し、指先が赤いランプへと近づいていく。
九重の頭上に、新たな数字が点滅した。
〈00h 00:05〉
(……俺も巻き込まれる!)
喉が焼け、全身が震える。
それでも銃口を向け直し、叫んだ。
「やめろッ!」
弾丸が放たれ、男の腕を貫いた。
骨が砕け、指先が痙攣して装置に届かなかった。
⸻
だが赤い数字は止まらない。
〈00h 00:04〉 → 〈00h 00:03〉
女は出口に向かって走り、九重に手を伸ばした。
「早く!」
九重は息を切らしながら走り出す。
だが背後で男の笑い声が響いた。
「無駄だ……もう、止まらん!」
爆弾の鼓動が最高潮に達する。
赤い光が室内を血のように染め、数字が最後の瞬間を告げていた。
〈00h 00:02〉
⸻
九重は女を抱えるようにして出口へ飛び込んだ。
背後で男が膝をつき、狂気に満ちた笑みを浮かべたまま赤い光を見上げていた。
〈00h 00:01〉
爆炎の予感が背中を焼いた。
時間は、もはや一秒しか残されていなかった。
爆音が世界を裂いた。
九重誠治郎は女を抱え込み、床を転がった。
背後で閃光が弾け、衝撃波が壁を吹き飛ばす。
肺を叩きつける熱風。
鼓膜を焼く轟音。
瓦礫が雨のように降り注ぎ、視界は白く弾けた。
……だが、建物全体は消し飛んでいない。
九重は耳鳴りに耐えながら顔を上げた。
壁の一部は崩壊している。
だが、十数本並んでいたドラム缶の半分以上は爆発していなかった。
黒煙を吐くものもあるが、連鎖は起きていない。
(……不完全爆発か……!)
⸻
女は嗚咽を漏らしながら九重にしがみついた。
震えは止まらない。
頭上に浮かんでいた数字は、霧のように消えていた。
「……助かったんですか……?」
九重は荒い息を吐きながら頷いた。
「ここはな……だが、まだ危険だ。立て!」
床の下で爆ぜる音がした。
ガス管か、二次的な爆発か。
火の粉が飛び散り、空気が焦げ臭くなる。
九重は女を肩に抱え、倒れた鉄骨の隙間をかき分けながら出口を目指した。
⸻
その途中――。
崩れた瓦礫の下から、黒いパーカーの男が腕を突き出した。
血にまみれた顔でなお笑みを浮かべ、かすれ声を絞り出す。
「……これで終わりだと思うな……」
「これは……ただの前哨……本番は……街の中心で……」
九重は一瞬、足を止めた。
だが次の瞬間、背後で炎が唸りを上げ、ドラム缶の一つが破裂した。
「くそっ!」
九重は女を抱え直し、走り出した。
振り返ったとき、男の姿は炎と煙に呑み込まれていた。
⸻
出口の扉を蹴破る。
外気が肺に流れ込み、煙に焼けた喉を洗った。
夜空に黒煙が立ち上り、炎の柱が窓から噴き出している。
「走れ!」
九重は女の背を押し、道路へ飛び出した。
次の瞬間、建物の一部が崩れ落ち、火花と瓦礫が降り注いだ。
二人は転がるように歩道に倒れ込み、肩で荒い呼吸を繰り返した。
⸻
サイレンが遠くから近づいてくる。
消防、救急、そして警察。
街の夜を切り裂く赤と青の光が次々と集まってきた。
九重は膝に手をつき、燃え上がるビルを睨んだ。
不完全爆発――。
だが、もし完全に誘爆していれば、半径五百メートルは火の海だった。
(……これが“予行演習”なら、本番は……)
頭上に街の人々の数字が脳裏に浮かぶ。
〈2d〉――残り二日。
あの光景はやはり、間違いなく“中心街の消滅”を示していた。
⸻
女が震える声で言った。
「……あの人……最後に……なんて……」
九重は短く答えた。
「本番は、まだ来る……」
拳を固め、燃え盛る建物を背にした。
刻限は、一時的に遠ざかっただけだ。
本当の地獄は、まだ街に迫っている。
廃ビルの一室。青いドラム缶が積まれ、その中心に黒い装置が置かれている。
装置の赤いランプは規則的に点滅し、耳の奥にまで染み込むような電子音を刻んでいた。
ピッ……ピッ……ピッ……
九重誠治郎は床に男を押さえつけ、銃口を額に突きつけながら視線を装置に走らせた。
女の頭上の数字は装置のランプと完全に同期している。
〈00h 02:05〉 → 〈00h 02:04〉 → 〈00h 02:03〉
残り二分。
秒針の音が、心臓の鼓動に変わって響いた。
⸻
装置を観察する。
基盤は市販品。配線はビニールテープで雑に固定されている。
時計から伸びたコードが導火線代わりの回路に直結している。
複雑さはない。
だからこそ、危険だった。
(……これじゃ解体は不可能だ。どの線を切っても即起爆だ。逆に“素人が作ったから安全”なんて思えない。単純すぎるほどに恐ろしい)
爆発物処理の教本が頭をよぎる。
「複雑な仕組みの方が解体の余地がある。単純な回路は“一発勝負”になる」――そう習った。
まさにそれだ。
⸻
女の声が、嗚咽混じりに震えた。
「おねがい……たすけて……」
息は荒く、胸が上下し、縛られた手首にロープが食い込んで血が滲んでいた。
頬に伝う涙が赤い光を反射し、数字と同じ色に染まって見えた。
〈00h 01:50〉 → 〈00h 01:49〉 → 〈00h 01:48〉
九重の喉が焼けるように乾いた。
⸻
考えろ。
選択肢は四つ――。
通報。
だが解体班が来るまでに二分では到底間に合わない。
射殺。
今ここで男を撃ち殺すか?
だが奴が体を痙攣させてスイッチに触れれば、即爆発。
解体。
配線を切る?
だがどの線を切っても爆発する仕組み。
“安全な線”など存在しない。
救出。
女を拘束から解き、引きずり出す。
だが背後の男が反撃してくるだろう。
そして、三十秒以上は必要だ。
⸻
(どれを選んでも危険……)
九重の視界が赤に染まった。
数字が残酷に減り続ける。
〈00h 01:30〉 → 〈00h 01:29〉 → 〈00h 01:28〉
結衣の顔が脳裏に浮かぶ。
笑って手を振る姿。
そして、街の雑踏に揺れる〈2d〉の数字たち。
それらが一斉にゼロに収束していく幻覚。
胃が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
(ここで救えなければ、二日後の本番も止められない……!)
⸻
男が嗤った。
「どうした? 刑事殿。選べないのか?」
口元から血を垂らしながらも、目は狂気に濡れている。
「解体はできん。俺を殺せば即起爆。通報も間に合わない。
――お前が迷ってる間に、死がやって来る」
「黙れ!」
九重は銃口をさらに押し付けた。
だが分かっている。
言葉の通りだ。
〈00h 01:10〉 → 〈00h 01:09〉 → 〈00h 01:08〉
秒針が心臓を突き刺すように響いた。
⸻
九重は女の拘束に目をやった。
太いロープが背もたれを二重三重に回り、手首と足首を固く縛っている。
ナイフを使えば切れる。
だが時間は……三十秒か四十秒。
その間に男の反撃を受ける可能性は高い。
(それでも、やるしかない……!)
拳銃を握る手が汗で滑りそうになる。
九重は深く息を吸い、決断を固めた。
銃口を男から外し、ナイフを抜いて女の背後に回り込む。
赤いランプが一際強く点滅した。
〈00h 00:59〉 → 〈00h 00:58〉 → 〈00h 00:57〉
時間は無慈悲に削られていく。
ナイフの刃先がロープに触れた瞬間、九重誠治郎の背中に冷たい汗が流れた。
繊維のきしむ音が耳にまとわりつく。
椅子に縛られた女性は涙に濡れた目で必死にこちらを見上げ、息を切らしながら小さく頷いた。
〈00h 00:54〉 → 〈00h 00:53〉 → 〈00h 00:52〉
赤い数字が彼女の頭上で点滅し、刃の動きと同じテンポで刻まれていく。
カウントダウンに追い立てられるように、九重の呼吸は荒くなった。
⸻
「……逃がす気か」
床に押さえつけられていた男が嗤った。
血に濡れた口元から、低い声が洩れる。
「無駄だ。切り終わる前に爆ぜるぞ」
九重は答えない。
返す言葉に意味はなかった。
刃先に力を込め、ロープを切り裂く。
繊維が弾け、皮膚に食い込んでいた縄がわずかに緩んだ。
女がかすれ声で叫ぶ。
「……はやく……!」
⸻
九重は次に足首を縛るロープへ刃を移した。
だがその隙を突き、男が床を転がって距離を詰めてきた。
鉄パイプを掴み、振り上げる。
「クソッ!」
九重はとっさに椅子ごと女を横へ倒した。
次の瞬間、パイプが床を叩き割り、破片が飛び散った。
九重は肘で男の顔面を殴り返し、再びロープにナイフを入れる。
繊維が裂け、女の足が自由を取り戻した。
〈00h 00:35〉 → 〈00h 00:34〉 → 〈00h 00:33〉
残り三十秒。
鼓動が爆音となって頭蓋を揺らした。
⸻
「立て!」
九重は女の腕を掴み、椅子から引きずり起こした。
拘束は完全には解けていない。
だが時間はない。
男が背後から再び迫る。
「ここで一緒に死ね!」
鉄パイプが振り下ろされる。
九重は女を庇い、肩で受けた。
鈍い衝撃と激痛が走り、視界が白く弾けた。
だが倒れるわけにはいかない。
九重は残った力で男の胴を蹴り飛ばし、女を出口へ押しやった。
⸻
装置の赤いランプが激しく点滅し、数字は無情に減り続けていた。
〈00h 00:20〉 → 〈00h 00:19〉 → 〈00h 00:18〉
女の頭上、そして九重自身の頭上。
ふたつの刻限が重なり合い、ゼロに向かって走っていた。
九重は奥歯を噛みしめ、女の背を押した。
「走れ!」
赤い光に照らされた廃ビルの中で、死と救済の境界線はわずか数秒しか残されていなかった。
女を出口へ押しやった瞬間、背後から再び殺気が走った。
九重誠治郎は反射的に振り返る。
黒いパーカーの男が血まみれの顔で笑い、鉄パイプを両手で振り下ろしてきた。
「死ぬのはお前だ、刑事ッ!」
咄嗟に九重は銃口を向けた。
だが引き金を引く前に、男の体がぶつかり、銃が弾かれた。
乾いた音を立てて銃が床に転がる。
九重の背がドラム缶に叩きつけられ、肺から息が奪われた。
鉄が軋み、薬品の匂いが鼻を焼く。
視界がぐらりと揺れ、赤いランプの点滅が網膜に焼き付いた。
〈00h 00:14〉 → 〈00h 00:13〉 → 〈00h 00:12〉
(残り十数秒……!)
⸻
男のナイフが閃いた。
九重はとっさに左腕で受け止めた。
鋭い痛みが走り、袖が裂け、血が飛び散る。
だが怯む暇はない。
右拳を振り抜き、男の顎を打ち上げた。
骨がきしみ、男の頭が揺れる。
それでも奴は笑った。
「いい……その必死な顔が見たかった……」
血走った目に狂気が宿り、息を荒げながら襲い掛かる。
九重も吠えた。
「ふざけるなッ!」
二人の体が激しくぶつかり合い、床に転げる。
鉄パイプが弾かれ、コンクリートに響く甲高い音が爆音のように響いた。
⸻
赤い数字がさらに減る。
〈00h 00:09〉 → 〈00h 00:08〉
残り一桁。
鼓動が爆弾のカウントと同調し、世界がその数字だけで支配されていた。
男は九重の喉を締め上げ、血走った眼で叫んだ。
「ここで一緒に終わるんだ! これが俺たちの選んだ未来だ!」
九重の視界が暗転しかける。
だが脳裏に浮かんだのは結衣の笑顔だった。
(まだ……ここで終われるか!)
九重は喉を押さえる腕を掴み、体を捻って男を投げ飛ばした。
二人の体がドラム缶にぶつかり、金属が激しく共鳴した。
⸻
女の悲鳴が飛ぶ。
「早く逃げて!」
九重は視線を爆弾に走らせた。
赤いランプが激しく明滅し、秒数は残酷に落ちていく。
〈00h 00:07〉 → 〈00h 00:06〉
男がふらつきながら立ち上がり、血を吐きながら嗤った。
「逃げろよ……! どうせ間に合わない……!」
九重は拳銃を探した。
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「黙れ!」
引き金を引く。
銃声が轟き、弾丸が男の太腿を撃ち抜いた。
肉が裂け、血が飛び散る。
男が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。
⸻
だがまだ終わらない。
奴は這いつくばりながら、爆弾の装置へと手を伸ばしていた。
血の跡を残し、指先が赤いランプへと近づいていく。
九重の頭上に、新たな数字が点滅した。
〈00h 00:05〉
(……俺も巻き込まれる!)
喉が焼け、全身が震える。
それでも銃口を向け直し、叫んだ。
「やめろッ!」
弾丸が放たれ、男の腕を貫いた。
骨が砕け、指先が痙攣して装置に届かなかった。
⸻
だが赤い数字は止まらない。
〈00h 00:04〉 → 〈00h 00:03〉
女は出口に向かって走り、九重に手を伸ばした。
「早く!」
九重は息を切らしながら走り出す。
だが背後で男の笑い声が響いた。
「無駄だ……もう、止まらん!」
爆弾の鼓動が最高潮に達する。
赤い光が室内を血のように染め、数字が最後の瞬間を告げていた。
〈00h 00:02〉
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九重は女を抱えるようにして出口へ飛び込んだ。
背後で男が膝をつき、狂気に満ちた笑みを浮かべたまま赤い光を見上げていた。
〈00h 00:01〉
爆炎の予感が背中を焼いた。
時間は、もはや一秒しか残されていなかった。
爆音が世界を裂いた。
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背後で閃光が弾け、衝撃波が壁を吹き飛ばす。
肺を叩きつける熱風。
鼓膜を焼く轟音。
瓦礫が雨のように降り注ぎ、視界は白く弾けた。
……だが、建物全体は消し飛んでいない。
九重は耳鳴りに耐えながら顔を上げた。
壁の一部は崩壊している。
だが、十数本並んでいたドラム缶の半分以上は爆発していなかった。
黒煙を吐くものもあるが、連鎖は起きていない。
(……不完全爆発か……!)
⸻
女は嗚咽を漏らしながら九重にしがみついた。
震えは止まらない。
頭上に浮かんでいた数字は、霧のように消えていた。
「……助かったんですか……?」
九重は荒い息を吐きながら頷いた。
「ここはな……だが、まだ危険だ。立て!」
床の下で爆ぜる音がした。
ガス管か、二次的な爆発か。
火の粉が飛び散り、空気が焦げ臭くなる。
九重は女を肩に抱え、倒れた鉄骨の隙間をかき分けながら出口を目指した。
⸻
その途中――。
崩れた瓦礫の下から、黒いパーカーの男が腕を突き出した。
血にまみれた顔でなお笑みを浮かべ、かすれ声を絞り出す。
「……これで終わりだと思うな……」
「これは……ただの前哨……本番は……街の中心で……」
九重は一瞬、足を止めた。
だが次の瞬間、背後で炎が唸りを上げ、ドラム缶の一つが破裂した。
「くそっ!」
九重は女を抱え直し、走り出した。
振り返ったとき、男の姿は炎と煙に呑み込まれていた。
⸻
出口の扉を蹴破る。
外気が肺に流れ込み、煙に焼けた喉を洗った。
夜空に黒煙が立ち上り、炎の柱が窓から噴き出している。
「走れ!」
九重は女の背を押し、道路へ飛び出した。
次の瞬間、建物の一部が崩れ落ち、火花と瓦礫が降り注いだ。
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⸻
サイレンが遠くから近づいてくる。
消防、救急、そして警察。
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九重は膝に手をつき、燃え上がるビルを睨んだ。
不完全爆発――。
だが、もし完全に誘爆していれば、半径五百メートルは火の海だった。
(……これが“予行演習”なら、本番は……)
頭上に街の人々の数字が脳裏に浮かぶ。
〈2d〉――残り二日。
あの光景はやはり、間違いなく“中心街の消滅”を示していた。
⸻
女が震える声で言った。
「……あの人……最後に……なんて……」
九重は短く答えた。
「本番は、まだ来る……」
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