刻限

都丸譲二

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第10話 前哨の炎

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 赤い光が、闇の中で脈打っていた。
 廃ビルの一室。青いドラム缶が積まれ、その中心に黒い装置が置かれている。
 装置の赤いランプは規則的に点滅し、耳の奥にまで染み込むような電子音を刻んでいた。

 ピッ……ピッ……ピッ……

 九重誠治郎は床に男を押さえつけ、銃口を額に突きつけながら視線を装置に走らせた。
 女の頭上の数字は装置のランプと完全に同期している。

 〈00h 02:05〉 → 〈00h 02:04〉 → 〈00h 02:03〉

 残り二分。
 秒針の音が、心臓の鼓動に変わって響いた。

 ⸻

 装置を観察する。
 基盤は市販品。配線はビニールテープで雑に固定されている。
 時計から伸びたコードが導火線代わりの回路に直結している。
 複雑さはない。
 だからこそ、危険だった。

(……これじゃ解体は不可能だ。どの線を切っても即起爆だ。逆に“素人が作ったから安全”なんて思えない。単純すぎるほどに恐ろしい)

 爆発物処理の教本が頭をよぎる。
「複雑な仕組みの方が解体の余地がある。単純な回路は“一発勝負”になる」――そう習った。
 まさにそれだ。

 ⸻

 女の声が、嗚咽混じりに震えた。
「おねがい……たすけて……」
 息は荒く、胸が上下し、縛られた手首にロープが食い込んで血が滲んでいた。
 頬に伝う涙が赤い光を反射し、数字と同じ色に染まって見えた。

 〈00h 01:50〉 → 〈00h 01:49〉 → 〈00h 01:48〉

 九重の喉が焼けるように乾いた。

 ⸻

 考えろ。
 選択肢は四つ――。

 通報。
 だが解体班が来るまでに二分では到底間に合わない。

 射殺。
 今ここで男を撃ち殺すか?
 だが奴が体を痙攣させてスイッチに触れれば、即爆発。

 解体。
 配線を切る?
 だがどの線を切っても爆発する仕組み。
 “安全な線”など存在しない。

 救出。
 女を拘束から解き、引きずり出す。
 だが背後の男が反撃してくるだろう。
 そして、三十秒以上は必要だ。

 ⸻

(どれを選んでも危険……)

 九重の視界が赤に染まった。
 数字が残酷に減り続ける。

 〈00h 01:30〉 → 〈00h 01:29〉 → 〈00h 01:28〉

 結衣の顔が脳裏に浮かぶ。
 笑って手を振る姿。
 そして、街の雑踏に揺れる〈2d〉の数字たち。
 それらが一斉にゼロに収束していく幻覚。

 胃が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
(ここで救えなければ、二日後の本番も止められない……!)

 ⸻

 男が嗤った。
「どうした? 刑事殿。選べないのか?」
 口元から血を垂らしながらも、目は狂気に濡れている。
「解体はできん。俺を殺せば即起爆。通報も間に合わない。
 ――お前が迷ってる間に、死がやって来る」

「黙れ!」
 九重は銃口をさらに押し付けた。
 だが分かっている。
 言葉の通りだ。

 〈00h 01:10〉 → 〈00h 01:09〉 → 〈00h 01:08〉

 秒針が心臓を突き刺すように響いた。

 ⸻

 九重は女の拘束に目をやった。
 太いロープが背もたれを二重三重に回り、手首と足首を固く縛っている。
 ナイフを使えば切れる。
 だが時間は……三十秒か四十秒。
 その間に男の反撃を受ける可能性は高い。

(それでも、やるしかない……!)

 拳銃を握る手が汗で滑りそうになる。
 九重は深く息を吸い、決断を固めた。

 銃口を男から外し、ナイフを抜いて女の背後に回り込む。

 赤いランプが一際強く点滅した。

 〈00h 00:59〉 → 〈00h 00:58〉 → 〈00h 00:57〉

 時間は無慈悲に削られていく。

 ナイフの刃先がロープに触れた瞬間、九重誠治郎の背中に冷たい汗が流れた。
 繊維のきしむ音が耳にまとわりつく。
 椅子に縛られた女性は涙に濡れた目で必死にこちらを見上げ、息を切らしながら小さく頷いた。

 〈00h 00:54〉 → 〈00h 00:53〉 → 〈00h 00:52〉

 赤い数字が彼女の頭上で点滅し、刃の動きと同じテンポで刻まれていく。
 カウントダウンに追い立てられるように、九重の呼吸は荒くなった。

 ⸻

「……逃がす気か」
 床に押さえつけられていた男が嗤った。
 血に濡れた口元から、低い声が洩れる。
「無駄だ。切り終わる前に爆ぜるぞ」

 九重は答えない。
 返す言葉に意味はなかった。
 刃先に力を込め、ロープを切り裂く。
 繊維が弾け、皮膚に食い込んでいた縄がわずかに緩んだ。

 女がかすれ声で叫ぶ。
「……はやく……!」

 ⸻

 九重は次に足首を縛るロープへ刃を移した。
 だがその隙を突き、男が床を転がって距離を詰めてきた。
 鉄パイプを掴み、振り上げる。

「クソッ!」
 九重はとっさに椅子ごと女を横へ倒した。
 次の瞬間、パイプが床を叩き割り、破片が飛び散った。

 九重は肘で男の顔面を殴り返し、再びロープにナイフを入れる。
 繊維が裂け、女の足が自由を取り戻した。

 〈00h 00:35〉 → 〈00h 00:34〉 → 〈00h 00:33〉

 残り三十秒。
 鼓動が爆音となって頭蓋を揺らした。

 ⸻

「立て!」
 九重は女の腕を掴み、椅子から引きずり起こした。
 拘束は完全には解けていない。
 だが時間はない。

 男が背後から再び迫る。
「ここで一緒に死ね!」

 鉄パイプが振り下ろされる。
 九重は女を庇い、肩で受けた。
 鈍い衝撃と激痛が走り、視界が白く弾けた。

 だが倒れるわけにはいかない。
 九重は残った力で男の胴を蹴り飛ばし、女を出口へ押しやった。

 ⸻

 装置の赤いランプが激しく点滅し、数字は無情に減り続けていた。

 〈00h 00:20〉 → 〈00h 00:19〉 → 〈00h 00:18〉

 女の頭上、そして九重自身の頭上。
 ふたつの刻限が重なり合い、ゼロに向かって走っていた。

 九重は奥歯を噛みしめ、女の背を押した。
「走れ!」

 赤い光に照らされた廃ビルの中で、死と救済の境界線はわずか数秒しか残されていなかった。

 女を出口へ押しやった瞬間、背後から再び殺気が走った。
 九重誠治郎は反射的に振り返る。
 黒いパーカーの男が血まみれの顔で笑い、鉄パイプを両手で振り下ろしてきた。

「死ぬのはお前だ、刑事ッ!」

 咄嗟に九重は銃口を向けた。
 だが引き金を引く前に、男の体がぶつかり、銃が弾かれた。
 乾いた音を立てて銃が床に転がる。

 九重の背がドラム缶に叩きつけられ、肺から息が奪われた。
 鉄が軋み、薬品の匂いが鼻を焼く。
 視界がぐらりと揺れ、赤いランプの点滅が網膜に焼き付いた。

 〈00h 00:14〉 → 〈00h 00:13〉 → 〈00h 00:12〉

(残り十数秒……!)

 ⸻

 男のナイフが閃いた。
 九重はとっさに左腕で受け止めた。
 鋭い痛みが走り、袖が裂け、血が飛び散る。
 だが怯む暇はない。

 右拳を振り抜き、男の顎を打ち上げた。
 骨がきしみ、男の頭が揺れる。
 それでも奴は笑った。

「いい……その必死な顔が見たかった……」

 血走った目に狂気が宿り、息を荒げながら襲い掛かる。
 九重も吠えた。
「ふざけるなッ!」

 二人の体が激しくぶつかり合い、床に転げる。
 鉄パイプが弾かれ、コンクリートに響く甲高い音が爆音のように響いた。

 ⸻

 赤い数字がさらに減る。

 〈00h 00:09〉 → 〈00h 00:08〉

 残り一桁。
 鼓動が爆弾のカウントと同調し、世界がその数字だけで支配されていた。

 男は九重の喉を締め上げ、血走った眼で叫んだ。
「ここで一緒に終わるんだ! これが俺たちの選んだ未来だ!」

 九重の視界が暗転しかける。
 だが脳裏に浮かんだのは結衣の笑顔だった。
(まだ……ここで終われるか!)

 九重は喉を押さえる腕を掴み、体を捻って男を投げ飛ばした。
 二人の体がドラム缶にぶつかり、金属が激しく共鳴した。

 ⸻

 女の悲鳴が飛ぶ。
「早く逃げて!」

 九重は視線を爆弾に走らせた。
 赤いランプが激しく明滅し、秒数は残酷に落ちていく。

 〈00h 00:07〉 → 〈00h 00:06〉

 男がふらつきながら立ち上がり、血を吐きながら嗤った。
「逃げろよ……! どうせ間に合わない……!」

 九重は拳銃を探した。
 床に転がった黒い影を掴み取り、即座に男へ向ける。
「黙れ!」

 引き金を引く。
 銃声が轟き、弾丸が男の太腿を撃ち抜いた。
 肉が裂け、血が飛び散る。
 男が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。

 ⸻

 だがまだ終わらない。
 奴は這いつくばりながら、爆弾の装置へと手を伸ばしていた。
 血の跡を残し、指先が赤いランプへと近づいていく。

 九重の頭上に、新たな数字が点滅した。

 〈00h 00:05〉

(……俺も巻き込まれる!)

 喉が焼け、全身が震える。
 それでも銃口を向け直し、叫んだ。
「やめろッ!」

 弾丸が放たれ、男の腕を貫いた。
 骨が砕け、指先が痙攣して装置に届かなかった。

 ⸻

 だが赤い数字は止まらない。

 〈00h 00:04〉 → 〈00h 00:03〉

 女は出口に向かって走り、九重に手を伸ばした。
「早く!」

 九重は息を切らしながら走り出す。
 だが背後で男の笑い声が響いた。
「無駄だ……もう、止まらん!」

 爆弾の鼓動が最高潮に達する。
 赤い光が室内を血のように染め、数字が最後の瞬間を告げていた。

 〈00h 00:02〉

 ⸻

 九重は女を抱えるようにして出口へ飛び込んだ。
 背後で男が膝をつき、狂気に満ちた笑みを浮かべたまま赤い光を見上げていた。

 〈00h 00:01〉

 爆炎の予感が背中を焼いた。
 時間は、もはや一秒しか残されていなかった。


 爆音が世界を裂いた。
 九重誠治郎は女を抱え込み、床を転がった。
 背後で閃光が弾け、衝撃波が壁を吹き飛ばす。

 肺を叩きつける熱風。
 鼓膜を焼く轟音。
 瓦礫が雨のように降り注ぎ、視界は白く弾けた。

 ……だが、建物全体は消し飛んでいない。

 九重は耳鳴りに耐えながら顔を上げた。
 壁の一部は崩壊している。
 だが、十数本並んでいたドラム缶の半分以上は爆発していなかった。
 黒煙を吐くものもあるが、連鎖は起きていない。

(……不完全爆発か……!)

 ⸻

 女は嗚咽を漏らしながら九重にしがみついた。
 震えは止まらない。
 頭上に浮かんでいた数字は、霧のように消えていた。

「……助かったんですか……?」

 九重は荒い息を吐きながら頷いた。
「ここはな……だが、まだ危険だ。立て!」

 床の下で爆ぜる音がした。
 ガス管か、二次的な爆発か。
 火の粉が飛び散り、空気が焦げ臭くなる。

 九重は女を肩に抱え、倒れた鉄骨の隙間をかき分けながら出口を目指した。

 ⸻

 その途中――。
 崩れた瓦礫の下から、黒いパーカーの男が腕を突き出した。
 血にまみれた顔でなお笑みを浮かべ、かすれ声を絞り出す。

「……これで終わりだと思うな……」
「これは……ただの前哨……本番は……街の中心で……」

 九重は一瞬、足を止めた。
 だが次の瞬間、背後で炎が唸りを上げ、ドラム缶の一つが破裂した。

「くそっ!」
 九重は女を抱え直し、走り出した。

 振り返ったとき、男の姿は炎と煙に呑み込まれていた。

 ⸻

 出口の扉を蹴破る。
 外気が肺に流れ込み、煙に焼けた喉を洗った。
 夜空に黒煙が立ち上り、炎の柱が窓から噴き出している。

「走れ!」
 九重は女の背を押し、道路へ飛び出した。

 次の瞬間、建物の一部が崩れ落ち、火花と瓦礫が降り注いだ。
 二人は転がるように歩道に倒れ込み、肩で荒い呼吸を繰り返した。

 ⸻

 サイレンが遠くから近づいてくる。
 消防、救急、そして警察。
 街の夜を切り裂く赤と青の光が次々と集まってきた。

 九重は膝に手をつき、燃え上がるビルを睨んだ。
 不完全爆発――。
 だが、もし完全に誘爆していれば、半径五百メートルは火の海だった。

(……これが“予行演習”なら、本番は……)

 頭上に街の人々の数字が脳裏に浮かぶ。
 〈2d〉――残り二日。
 あの光景はやはり、間違いなく“中心街の消滅”を示していた。

 ⸻

 女が震える声で言った。
「……あの人……最後に……なんて……」

 九重は短く答えた。
「本番は、まだ来る……」

 拳を固め、燃え盛る建物を背にした。
 刻限は、一時的に遠ざかっただけだ。
 本当の地獄は、まだ街に迫っている。
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