刻限

都丸譲二

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第19話 追走

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 歩道橋の爆弾を止めた直後も、街は静まることを知らなかった。
 焦げ臭い煙が風に煽られて路地へ流れ込み、サイレンの音が絶え間なく響いている。
 九重誠治郎は煤と汗にまみれた顔を拭い、拳銃を握り直した。
 銃身は熱を帯び、掌に鈍い痛みを残す。

 視線を巡らせると、石畳の上に不自然に続く足跡があった。
 黒いブーツの跡――主犯のものだ。
 爆発の混乱に紛れ、裏通りへ抜けたのだろう。

「佐伯係長!」
 九重は振り返りざまに声を張る。
「主犯は裏へ回った! 俺が追います!」

「待て、増援を待ってから――」
 佐伯の言葉は最後まで届かなかった。
 九重はすでに走り出していた。

 ⸻

 裏通りは表の喧騒が嘘のように静かだった。
 昼間でも薄暗く、雨水に濡れたアスファルトが鈍く光る。
 古びた配管が壁を這い、電線が頭上を蜘蛛の巣のように覆っている。
 ゴミ袋が風に揺れ、犬の遠吠えがどこかで響いた。

 九重の足音が反響し、狭い路地に不気味なリズムを刻む。
 肺の奥に溜まった煤が咳を誘ったが、構っていられない。

 前方に、黒いフードの影。
 主犯が肩越しに振り返り、ためらいなく引き金を引いた。

 乾いた銃声。
 弾丸が壁を削り、破片が九重の頬をかすめた。
 皮膚が裂け、じわりと血が滲む。

 九重は身を伏せ、錆びたドラム缶の影に滑り込む。
 心臓が耳の奥で脈打ち、残弾の少なさが重くのしかかった。

(……残り二発。リロードの余裕はない……)

 ⸻

 主犯はなおも走り続ける。
 その手に光るタブレットの画面が、闇にちらりと浮かんだ。
 赤い数字が並び、脈動している。

 〈22m〉

 九重の目が鋭く光った。
(……次の爆破……二十二分後……!)

 だが考える間もなく、主犯は路地の角を曲がる。
 追いつかなければ、次の刻限に間に合わない。

「逃がすか!」

 九重は痛む脚を押さえつけるように力を込め、全身で駆け出した。

 ⸻

 角を回った瞬間、路地に転がされた金属缶が視界に飛び込んだ。
 塗装の剥げたプロパンボンベ。
 火花が散ったのを見た次の瞬間、爆発が狭い空間を満たした。

 轟音。
 熱風が壁を叩きつけ、九重の体を後方へ吹き飛ばす。
 背中が石畳に叩きつけられ、肺から息が漏れた。
 視界が白く弾け、耳の奥で金属が軋むような音が響く。

(……くそ……!)

 霞む視界の先で、黒い影が揺れながら遠ざかっていった。
 煙に紛れ、主犯はまた角を曲がって消える。

 九重は歯を食いしばり、膝を押さえながら立ち上がった。
 銃を握る手は汗と血で滑っていたが、視線は決して逸らさなかった。

(逃がさない……絶対に!)

 大通りは異様な静けさに支配されていた。
 昼下がりの時間帯だというのに、市民の姿はほとんどない。
 通行人は封鎖線の外へ退かされ、残っているのは警察の人員と、赤色灯の光に照らされた無人の車両ばかり。
 空気はぴんと張り詰め、遠くで鳴るサイレンが反響している。

 交差点の先には、市庁舎の塔屋が白く聳えていた。
 国旗が陽を受けて揺れ、その背後に青空が広がっている。
 封鎖線の前には機動隊の車両が並び、武装した警官たちが配置についていた。
 銃口は地面に下ろされてはいたが、その表情には緊張が張り付いている。

 ⸻

(……あれだけ警官がいるなら、叫べば応援に来る……。
 だが、それでは封鎖が崩れる。
 もしこれが囮なら、警察を庁舎に縛りつける思うつぼだ……)

 九重は唇を噛んだ。
 呼吸のたびに胸が焼けるように痛み、拳銃を握る手は汗で滑っていた。
 だが声を上げなかった。
 応援を求めれば、主犯の狙いに自ら加担することになると直感していた。

 ⸻

 無線が耳元でざらつき、甲高いノイズの向こうから声が届く。
「本部より。市庁舎周辺の電力網に不審な信号を検知。
 爆発の可能性が高い。警戒を強めろ!」

 直後、佐伯係長の声が割り込んだ。
「九重! 本部の分析と一致した! 市庁舎を狙っている!」

「了解……!」
 九重は短く応じ、さらに速度を上げた。
 だが胸の奥には違和感が渦を巻いていた。

 ⸻

 封鎖線の手前に立つ警官たち。
 その頭上に、赤い数字が浮かんでいる。

 〈22m〉
 〈22m〉
 〈22m〉

 揃って同じ刻限。
 赤い光は脈動し、まるで合図のように点滅していた。

(……揃いすぎている……)

 これまで目にしてきた刻限は、一人ひとりが異なっていた。
 子供、妊婦、通行人――すべて違う死の時を刻んでいた。
 だが今は、この場の全員が同じ「二十二分後」を示している。
 まるで一斉に終わりを告げられているように。

 ⸻

「これは……見せかけだ……」
 九重は走りながら低く呟いた。

 封鎖線の奥に目を凝らす。
 黒いフードの主犯が振り返り、フードの影で口角を吊り上げた。
 嘲笑とも挑発ともとれる表情。
 それからまた前を向き、市庁舎の石段を駆け上がっていく。

(……やはり誘導している……!)

 九重の胸に冷たい予感が走った。
 声を上げれば応援は来る。
 だがそれをすれば、この封鎖線は崩れる。
 警察の戦力はすべて市庁舎に縛り付けられ、本命から遠ざかる。

(追うしかない……俺一人で)

 九重は歯を食いしばり、脚に力を込めて速度を上げた。
 鼓動と靴音が重なり合い、赤い数字の残像が視界を覆っていた。

 市庁舎前の広場は、異様な緊張に包まれていた。
 赤色灯がビルの壁面を照らし、盾を構えた機動隊員たちが正面玄関を守っている。
 昼休みの人々でにぎわうはずの空間には、市民の姿は一人もない。
 代わりに、武装した警官たちの視線が一点に集中していた。

 黒いフードの男――主犯が、堂々と石段に姿を現したのだ。

 ⸻

「止まれ!」
「動くな!」

 怒号と共に銃口が一斉に向けられる。
 だが主犯は怯むことなく、むしろゆっくりと口角を上げた。
 その態度は、銃の威嚇すら舞台演出の一部であるかのようだった。

(……堂々としすぎている……)

 九重誠治郎は走り込みながら歯を食いしばる。
 主犯の行動には、追い詰められた者の焦りがまるでなかった。

 ⸻

 その時だった。
 主犯が腰のポーチから金属筒を抜き取り、足元へ投げつけた。

「下がれ!」
 警官の誰かが叫ぶ。

 次の瞬間、白い閃光と轟音が広場を満たした。
 視界を覆う濃煙が立ち込め、空気を切り裂くような耳鳴りが残る。
 盾を構えた隊員たちは咄嗟に防御姿勢を取り、誰も追撃に移れなかった。

 ⸻

 九重は咳き込みながらも、煙の向こうへ目を凝らした。
 かすかに揺れる黒い影。
 主犯は人垣を突破するのではなく、煙幕の裏で方向を変えていた。
 正面ではなく――庁舎の裏手へ。

(……やはり逃げ道は別か……!)

 煙に怯んだ警官たちは正面の死守に意識を取られ、裏へ回る影には気づかない。
 気づけるのは、この位置にいた自分だけ。

 ⸻

 その時、九重の視界に再び赤い光が揺らめいた。
 広場を取り囲む警官たちの頭上に、同じ数字が浮かんでいる。

 〈21m〉
 〈21m〉
 〈21m〉

 全員が揃って同じ刻限を示していた。
 これまでの数字は常にばらばらだった。
 だが今、この場所では一つの時を共有するかのように光っている。

(……やはり囮だ……!)

 ⸻

 足元から低い振動が伝わってきた。
 石畳がわずかに鳴動し、靴底を震わせる。
 地下からの唸りが、広場全体を覆っていた。

 九重の脳裏に、庁舎の地下へ広がる巨大な鉄道網が浮かんだ。
 数万人が日々利用する都市の心臓部――国木中央ターミナル。

(……本命は地下鉄……!)

 ⸻

 無線に叫ぶ。
「係長! 庁舎は囮です! 主犯は裏手へ! 本命は地下鉄です!」

 だが応答はノイズにかき消される。
 指揮系統は混乱し、誰にも届かない。

 九重は歯を食いしばり、煙の向こうに消えた影を追った。
 広場の緊張を背に、彼一人だけが裏手の闇へと駆け込んでいった。

 〈20m〉
 冷酷な数字が、なおも視界に脈打っていた。

 煙幕の中を駆け抜け、九重誠治郎は庁舎裏手の通路へ飛び込んだ。
 白煙が背後に広がり、咳き込む警官たちの声と無線の錯綜が遠ざかっていく。
 主犯の影はすでに細い地下道へ消えようとしていた。

(……やはり地下だ……!)

 足元から伝わる低い振動は、確信を裏付けていた。
 庁舎の地下深くに広がる国木中央ターミナル――
 数本の路線が交差し、一日に数十万人が利用する都市最大の交通拠点。
 そこに爆弾を仕掛けられれば、被害は計り知れない。

 ⸻

 九重は必死に脚を動かした。
 肺は焼けつくように痛み、膝は先の爆風でまだ痺れている。
 だが止まるわけにはいかなかった。

 薄暗い通路を抜けると、地下鉄の入口が口を開けていた。
 避難誘導が始まったのか、構内から押し寄せる人波が階段を塞いでいる。
 叫び声と怒号が重なり、雑踏の熱気が狭い空間を満たしていた。

「押すな! 順番に!」
「子どもがいるんだ、先に行かせろ!」

 混乱はすでに始まっていた。

 ⸻

 九重の目には、その群衆の頭上に赤い光が次々と浮かんでいた。

 〈18m〉
 〈18m〉
 〈18m〉

 全員が同じ数字を刻んでいる。
 残された時間は十八分。
 避難が終わる前に爆発が起きれば、この混雑そのものが惨劇に変わる。

(……間に合わない……!)

 九重は歯を食いしばり、人波をかき分けて階段を駆け下りた。
 足を踏み外す者を肩で支え、押し寄せる人々を払いのけながら前へ進む。

 ⸻

 構内に降り立った瞬間、耳をつんざくようなアナウンスが響いた。
「現在、緊急事態発生につき列車の運行を停止します。係員の指示に従って――」

 だが人々の耳には届いていなかった。
 逃げ惑う足音と叫びが渦巻き、改札は人の壁と化していた。
 非常口は開放されていたが、そこへ至る通路はすでに詰まり始めている。

 九重は壁際をすり抜けながら目を凝らした。
 主犯の姿――黒いフードが、人波の奥でちらりと揺れた。
 彼は改札を通らず、係員用の通路へ滑り込んでいく。

(……やはり制御室か……!)

 ⸻

 地下鉄の奥には、配電盤や監視システムを管理する中枢区画がある。
 そこを爆破されれば、ターミナル全体が火の海になる。

「九重、聞こえるか!」
 無線が割れた。佐伯係長の声だ。
「処理班を急行させているが、設置場所が特定できない! お前が目視で探せ!」

「了解!」
 九重は短く返事をし、さらに奥へ駆け込んだ。

 視界の端で赤い光がまた瞬く。

 〈17m〉
 〈17m〉
 〈17m〉

 数字は容赦なく減り続けていた。

 ⸻

(……追いつかなければ……!)

 九重は歯を食いしばり、銃を握る手に力を込めた。
 熱気と喧騒の渦中で、ただ一つの影を目指して走り続けた。

 九重は地下鉄ターミナルの構内に踏み込み、人波をかき分けて走った。
 頭上の蛍光灯は避難指示で赤く点滅し、アナウンスの声が混線している。
「慌てず、係員の指示に――」
 だが現場は制御不能だった。
 押し合い、叫び声、泣き声。
 転倒する者も多く、誰かの悲鳴が床に反響して広がっていった。

 ⸻

 黒いフードの主犯の姿が、群衆の奥にちらりと揺れた。
 九重は肩を入れて押し進み、そこへ向かおうとする。
 だがすぐ横で子供の泣き声が響いた。

「お母さん! こわい!」

 小さな女の子が転んで取り残されていた。
 人波が容赦なく押し寄せ、今にも踏まれそうになる。

「くそっ……!」

 九重は一瞬迷ったが、すぐに駆け寄って子供を抱き上げた。
 母親が必死に手を伸ばし、九重はその腕へと子供を渡す。
「しっかり抱いて、非常口へ!」
 言葉を残し、再び人波を突き進んだ。

 ⸻

 だがそのわずかな時間で、主犯の影は完全に消えていた。
 構内の奥、係員用通路の扉がかすかに揺れている。

(……あそこか……!)

 九重は近づき、扉の隙間に目を凝らした。
 焦げた匂いが漂い、床には金属片のような部品が落ちていた。
 爆破装置の一部に違いない。

(……やはり制御区画に向かった……)

 ⸻

 視界の端で、群衆の頭上に浮かぶ数字が一斉に点滅した。

 〈15m〉
 〈15m〉
 〈15m〉

 たった数分で七分も縮まっている。
 主犯が起爆装置を操作したのだ。

(……時間を削ってきやがった……!)

 九重は拳銃を握り直し、扉を押し開けた。
 冷たい金属の階段が闇の底へと続いている。

 汗が背中を伝い、喉が乾く。
 だが足は止まらなかった。

(――追い詰める。絶対に)

 赤い数字の残像が視界に散り、無慈悲に点滅を続けていた。
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