21 / 22
第21話 決断
しおりを挟む
制御区画の奥に据えられた灰色のケースは、まるで獣の心臓のように脈動していた。
赤いランプがけたたましく点滅し、その度に鋭い光が金属壁に反射して、狭い空間を真紅に染め上げる。
警告音は耳を削るような高音で鳴り響き、九重誠治郎の鼓膜を容赦なく叩いた。
視界に浮かぶ赤い数字は冷酷に進み続けている。
〈2m59s〉
残り三分を切った。
それは都市全体の命の残り時間に等しかった。
⸻
九重は膝をつき、汗に濡れた手を震わせながら配線に目を凝らす。
束ねられた何十本ものコードが、灰色のケースから蜘蛛の巣のように四方へ伸びていた。
赤、青、黄、黒――それぞれが同じ太さで、同じように見える。
一本でも誤れば即座に起爆する。
だがその中に、一本だけ、わずかに焼け焦げた痕跡があった。
先ほど主犯が慌てて隠そうとした場面が、脳裏に鮮明に蘇る。
(……これが鍵か……? だが、本当に……?)
喉が張り付くように乾き、呼吸は浅く荒い。
額から滴る汗が目に入り、視界を曇らせた。
九重は袖で乱暴に拭い、震える手を無理に押さえ込む。
⸻
その時、不意に頭に浮かんだのは、これまで出会ってきた人々の姿だった。
歩道橋で、トラックに轢かれそうになった子供。
地下街で、混乱の中を必死に避難していった市民たち。
そして、自分の娘・彩音の笑顔。
小さな声で「おかえり」と言ってくれた時の、あの温もり。
(……守るんだ。どんな形でも……この命に代えても……)
全身に重くのしかかる疲労が、再び力に変わる。
⸻
背後から掠れた声が響いた。
壁際に崩れた主犯が、血に濡れた口元で笑みを浮かべている。
「切れるのか……?
その線を断った瞬間、この区画ごと……街ごと吹き飛ぶかもしれない。
お前の“正義”なんて、結局は勘頼みじゃないか」
挑発的な声に、九重は振り返らず答えた。
「勘じゃない。俺は信じる……この目に映る“刻限”を」
その言葉に、主犯の笑いが途切れた。
虚勢の奥に、わずかな動揺が垣間見える。
⸻
〈2m10s〉
数字は容赦なく進み、赤い光がさらに強く瞬く。
警告音が一層激しさを増し、まるで「選べ」と迫ってくるようだった。
九重は深く息を吸い、震える指を焦げ跡の配線にかけた。
耳の奥で自分の鼓動が轟き、世界のすべてがその一点に収束する。
(……あと二分。もう迷っている時間はない……)
刃を握り直し、九重は静かに呟いた。
「ここで、終わらせる」
九重誠治郎の手の中で、刃がわずかに揺れていた。
握る掌は汗で濡れ、金属の冷たさがじりじりと皮膚に染み込む。
目の前の束ねられた配線は複雑に絡み合い、まるで彼を嘲笑うように見えた。
視界の隅では、赤い数字が刻々と進む。
〈1m59s〉
残りは、わずか二分。
街全体の運命を決める時間が、砂時計の最後の一粒のように削られていく。
⸻
背後の主犯が、血に濡れた肩を押さえながら声を発した。
掠れ、途切れ途切れの声。
それでも挑発の響きは消えていなかった。
「切ってみろよ……。
外れれば、ここも……市民も……お前の娘も……全部吹き飛ぶ」
九重の背中を冷たいものが走った。
だが目は逸らさなかった。
(……彩音……)
脳裏に浮かぶのは、小さな手で握った折り紙。
元妻の結衣に寄り添う姿。
そして「おかえり」と言ってくれた笑顔。
あの笑顔を二度と失わせるわけにはいかなかった。
⸻
九重は震える息を吐き出し、低く呟いた。
「俺は……信じる。命を。
この目に映る“刻限”が……答えだ」
主犯の目に、一瞬、迷いがよぎる。
「やめろ……刑事……お前に……できるはずが……」
その声はかすれ、血で掻き消えた。
⸻
〈1m20s〉
警告音が一層激しさを増し、赤いランプは狂ったように点滅している。
汗が額から滴り落ち、配線に落ちる寸前で刃が震えた。
ほんの僅かなためらいが、全てを無にする。
(……ここで迷えば、全て終わる……)
九重は大きく息を吸い込み、心臓の鼓動を押さえ込むように目を閉じた。
これまで救った人々の顔が次々に浮かぶ。
歩道橋で助けた子供。
混乱の中で逃げ惑った市民たち。
彼らが生きているという事実が、九重の決意を支えた。
(……信じろ。俺が選んだ道を……!)
⸻
〈0m58s〉
九重は目を開き、刃を焦げ跡の配線へ押し当てた。
全身の神経が一点に集中し、世界が張り詰めた糸のように震えていた。
「ここで……終わらせる!」
声と同時に、刃が振り下ろされた。
金属の裂ける音が制御区画に響き渡る。
刃が焦げた配線を断ち切った瞬間、甲高い音と共に火花が四方へ飛び散った。
九重誠治郎は息を殺し、刃を握ったまま動けなくなった。
全身の神経が一点に集まり、耳鳴りだけが世界を満たす。
視界の端の数字は――
〈0m57s〉
〈0m56s〉
なおも進み続けていた。
(……駄目か……!? 街は……ここで……)
胃が裏返るような吐き気が込み上げ、指先が痙攣する。
全身から冷たい汗が噴き出し、背中を濡らしていく。
⸻
だが次の瞬間。
赤いランプが不規則に点滅を繰り返し、明滅の速度が落ちていった。
「ピッ……ピ……」と掠れた警告音が途切れ、やがて完全に沈黙する。
視界に浮かんでいた数字は揺らぎ、霧散した。
〈 〉
無音。
制御区画を満たすのは、低い機械の唸りと、自分の荒い呼吸だけ。
九重は刃を握りしめたまま、かすれ声を吐いた。
「……止まった……」
膝が震え、額から汗が滴って床を濡らした。
その音がやけに大きく響いた。
⸻
「……ば、馬鹿な……」
背後から呻き声がした。
振り返ると、主犯が壁に凭れ、肩から血を流していた。
口元に泡立つ血を吐き、荒い呼吸を繰り返している。
「そんな……はずは……ない……。俺の計画は……完璧……だった……」
目は焦点を失い、混乱と恐怖に揺れていた。
さきほどまで狂気に燃えていた瞳が、いまはただの人間のそれに変わっている。
⸻
九重はゆっくりと立ち上がり、彼を睨んだ。
「終わったんだ……。街は、お前の思い通りにはならなかった」
主犯は首を振ろうとしたが、力なく壁に背を預ける。
血が床を濡らし、鉄と油の匂いに混じって生臭さを広げた。
「……俺は……まだ……」
その言葉は途切れ、呼吸は次第に浅く、短くなっていく。
だが、まだ生きている。
死は近いが、終わりを迎えたわけではない。
⸻
九重は拳を握りしめ、静かに言った。
「お前の“正義”はここで終わりだ。残るのは……無力な現実だけだ」
主犯は答えず、虚空を睨み続けていた。
その瞳に宿る光が、ゆっくりと消えていくのを九重は見つめていた。
制御区画には、安堵とも虚無ともつかない沈黙が広がった。
制御区画を満たすのは、重苦しい静寂だった。
警告音は止み、赤いランプも消えた。
あれほど容赦なく迫っていた“刻限”の数字も、いまはどこにも映っていない。
だが、胸を締め付ける圧迫感は消えていなかった。
九重誠治郎は刃を握ったまま立ち尽くし、背後で荒い息をする主犯に視線を向けた。
⸻
主犯は壁に凭れかかり、胸を上下させながら血に濡れた顔を九重に向けた。
唇の端には乾いた笑みが張り付いている。
「……結局……俺も……刻限からは逃れられなかった……か」
声はかすれ、風が途切れるように細かった。
その目に浮かぶのは、もはや狂気ではなかった。
自分の終わりを知る者の、淡い諦念。
九重は歩み寄り、冷静に見下ろした。
「お前が選んだのは……破壊だけだった。
犠牲の上に築いた“正義”なんて、誰も救わない」
⸻
主犯は首を振るように、力なく笑った。
「……人は……痛みを……知らなければ……変わらない……。
俺は……その役を……」
咳に咽び、鮮血が飛び散る。
その赤は鉄の匂いを濃くしていった。
「……信じていたんだ……これが……唯一の……正義だと……」
声がしぼみ、目は虚ろに揺れた。
やがて光が少しずつ抜け落ち、焦点が合わなくなる。
最後に唇が動いた。
「……俺は……間違って……」
その言葉を言い切る前に、頭がぐらりと垂れ、体は壁伝いに滑り落ちた。
⸻
九重はその場に立ち尽くした。
主犯の頭上にあった赤い数字は、完全に消えていた。
死とは、こうして唐突に訪れる。
刻限を背負った人間にとって、それは必然であり、逃れようのない終点だった。
だが――胸の奥に広がったのは、勝利の実感ではなかった。
重苦しい空虚と、どうしようもない虚無感だった。
(……敵であっても、人間の死は重い……。
俺の目に映る数字は、結局、誰の命も救えはしないのかもしれない……)
⸻
その時、無線がノイズを混じえて割り込んだ。
「九重! 応答しろ! 状況はどうなっている!」
佐伯係長の声が、遠くの現実へと九重を引き戻す。
九重はしばらく目を閉じ、呼吸を整えてから答えた。
「……爆弾は解除を確認。主犯……死亡」
短い報告を終えると、肩から力が抜けた。
全身が鉛のように重く、膝が震え、床に膝をつく。
視界にはもう何も浮かんでいない。
あるのは、自分の呼吸と機械の唸りだけ。
九重は目を伏せ、呟いた。
「……これで、終わったのか……」
制御区画に残ったその声は、誰に届くこともなく、静かに消えていった。
制御区画の扉が重々しく閉まり、外から駆け込んできた処理班の足音が響いた。
彼らの視線が灰色のケースに注がれると、一斉に安堵の息が漏れる。
「……止まっている……」
「爆発の兆候はなし、確認しました!」
だが九重誠治郎は、報告や歓声を耳の端で聞きながら、ただ静かに立ち尽くしていた。
視線の先には、壁際で力尽きた主犯の亡骸。
まだ血の匂いが濃く漂い、鉄骨に滴る赤が光を反射していた。
⸻
「九重巡査部長!」
処理班の一人が駆け寄り、声をかける。
「ご無事ですか!」
九重は小さく頷いた。
だが声は出なかった。
喉に重い石を押し込まれたように、言葉が詰まっていた。
(……俺は、生かしたのか。
それとも、ただ死を先延ばしにしただけなのか……)
刻限の数字は、爆弾が止まった瞬間に消えた。
だが、道すがらで見かけた人々の頭上には、いまだ数字が浮かんでいた。
〈202d〉
〈314d〉
生き延びてもなお、必ず訪れる終わりが、静かに刻まれている。
⸻
佐伯の声が無線から響く。
「九重! そっちはどうなっている!」
九重は深く息を吸い、答えた。
「……爆弾は無力化。主犯、死亡。制御区画は制圧済み」
一拍の沈黙のあと、無線の向こうで抑えきれない安堵の声が重なった。
「よくやった!」
「被害を防いだぞ!」
九重は静かに目を閉じた。
歓声は現実の音だ。だが、自分の胸の奥にあるのは別の感情だった。
(……この力は消えない。事件が終わっても、俺の目には“刻限”が映り続ける。
これからも、俺は……命の終わりを見続けるのか……)
⸻
扉の外では、救急隊や記者たちのざわめきが広がり始めていた。
街は生き延びた。
しかし九重の心は、静かな孤独に沈んでいた。
彼はふと、ズボンのポケットに忍ばせていた折り紙を思い出す。
彩音が手渡してくれた、ぎこちない鶴。
不格好だが、その形は確かに「生」を象徴していた。
(……守らなければならないものは、まだある。
俺がこの目を持つ意味も……きっとそこにあるはずだ)
九重はゆっくりと目を開け、深い息を吐いた。
疲労は極限まで達している。
それでも彼は歩き出した。
次に待つのは、街の余波。
生き延びた者たちの歓声と、救えなかった命の重み。
その狭間に立つのが、九重誠治郎という刑事だった。
赤いランプがけたたましく点滅し、その度に鋭い光が金属壁に反射して、狭い空間を真紅に染め上げる。
警告音は耳を削るような高音で鳴り響き、九重誠治郎の鼓膜を容赦なく叩いた。
視界に浮かぶ赤い数字は冷酷に進み続けている。
〈2m59s〉
残り三分を切った。
それは都市全体の命の残り時間に等しかった。
⸻
九重は膝をつき、汗に濡れた手を震わせながら配線に目を凝らす。
束ねられた何十本ものコードが、灰色のケースから蜘蛛の巣のように四方へ伸びていた。
赤、青、黄、黒――それぞれが同じ太さで、同じように見える。
一本でも誤れば即座に起爆する。
だがその中に、一本だけ、わずかに焼け焦げた痕跡があった。
先ほど主犯が慌てて隠そうとした場面が、脳裏に鮮明に蘇る。
(……これが鍵か……? だが、本当に……?)
喉が張り付くように乾き、呼吸は浅く荒い。
額から滴る汗が目に入り、視界を曇らせた。
九重は袖で乱暴に拭い、震える手を無理に押さえ込む。
⸻
その時、不意に頭に浮かんだのは、これまで出会ってきた人々の姿だった。
歩道橋で、トラックに轢かれそうになった子供。
地下街で、混乱の中を必死に避難していった市民たち。
そして、自分の娘・彩音の笑顔。
小さな声で「おかえり」と言ってくれた時の、あの温もり。
(……守るんだ。どんな形でも……この命に代えても……)
全身に重くのしかかる疲労が、再び力に変わる。
⸻
背後から掠れた声が響いた。
壁際に崩れた主犯が、血に濡れた口元で笑みを浮かべている。
「切れるのか……?
その線を断った瞬間、この区画ごと……街ごと吹き飛ぶかもしれない。
お前の“正義”なんて、結局は勘頼みじゃないか」
挑発的な声に、九重は振り返らず答えた。
「勘じゃない。俺は信じる……この目に映る“刻限”を」
その言葉に、主犯の笑いが途切れた。
虚勢の奥に、わずかな動揺が垣間見える。
⸻
〈2m10s〉
数字は容赦なく進み、赤い光がさらに強く瞬く。
警告音が一層激しさを増し、まるで「選べ」と迫ってくるようだった。
九重は深く息を吸い、震える指を焦げ跡の配線にかけた。
耳の奥で自分の鼓動が轟き、世界のすべてがその一点に収束する。
(……あと二分。もう迷っている時間はない……)
刃を握り直し、九重は静かに呟いた。
「ここで、終わらせる」
九重誠治郎の手の中で、刃がわずかに揺れていた。
握る掌は汗で濡れ、金属の冷たさがじりじりと皮膚に染み込む。
目の前の束ねられた配線は複雑に絡み合い、まるで彼を嘲笑うように見えた。
視界の隅では、赤い数字が刻々と進む。
〈1m59s〉
残りは、わずか二分。
街全体の運命を決める時間が、砂時計の最後の一粒のように削られていく。
⸻
背後の主犯が、血に濡れた肩を押さえながら声を発した。
掠れ、途切れ途切れの声。
それでも挑発の響きは消えていなかった。
「切ってみろよ……。
外れれば、ここも……市民も……お前の娘も……全部吹き飛ぶ」
九重の背中を冷たいものが走った。
だが目は逸らさなかった。
(……彩音……)
脳裏に浮かぶのは、小さな手で握った折り紙。
元妻の結衣に寄り添う姿。
そして「おかえり」と言ってくれた笑顔。
あの笑顔を二度と失わせるわけにはいかなかった。
⸻
九重は震える息を吐き出し、低く呟いた。
「俺は……信じる。命を。
この目に映る“刻限”が……答えだ」
主犯の目に、一瞬、迷いがよぎる。
「やめろ……刑事……お前に……できるはずが……」
その声はかすれ、血で掻き消えた。
⸻
〈1m20s〉
警告音が一層激しさを増し、赤いランプは狂ったように点滅している。
汗が額から滴り落ち、配線に落ちる寸前で刃が震えた。
ほんの僅かなためらいが、全てを無にする。
(……ここで迷えば、全て終わる……)
九重は大きく息を吸い込み、心臓の鼓動を押さえ込むように目を閉じた。
これまで救った人々の顔が次々に浮かぶ。
歩道橋で助けた子供。
混乱の中で逃げ惑った市民たち。
彼らが生きているという事実が、九重の決意を支えた。
(……信じろ。俺が選んだ道を……!)
⸻
〈0m58s〉
九重は目を開き、刃を焦げ跡の配線へ押し当てた。
全身の神経が一点に集中し、世界が張り詰めた糸のように震えていた。
「ここで……終わらせる!」
声と同時に、刃が振り下ろされた。
金属の裂ける音が制御区画に響き渡る。
刃が焦げた配線を断ち切った瞬間、甲高い音と共に火花が四方へ飛び散った。
九重誠治郎は息を殺し、刃を握ったまま動けなくなった。
全身の神経が一点に集まり、耳鳴りだけが世界を満たす。
視界の端の数字は――
〈0m57s〉
〈0m56s〉
なおも進み続けていた。
(……駄目か……!? 街は……ここで……)
胃が裏返るような吐き気が込み上げ、指先が痙攣する。
全身から冷たい汗が噴き出し、背中を濡らしていく。
⸻
だが次の瞬間。
赤いランプが不規則に点滅を繰り返し、明滅の速度が落ちていった。
「ピッ……ピ……」と掠れた警告音が途切れ、やがて完全に沈黙する。
視界に浮かんでいた数字は揺らぎ、霧散した。
〈 〉
無音。
制御区画を満たすのは、低い機械の唸りと、自分の荒い呼吸だけ。
九重は刃を握りしめたまま、かすれ声を吐いた。
「……止まった……」
膝が震え、額から汗が滴って床を濡らした。
その音がやけに大きく響いた。
⸻
「……ば、馬鹿な……」
背後から呻き声がした。
振り返ると、主犯が壁に凭れ、肩から血を流していた。
口元に泡立つ血を吐き、荒い呼吸を繰り返している。
「そんな……はずは……ない……。俺の計画は……完璧……だった……」
目は焦点を失い、混乱と恐怖に揺れていた。
さきほどまで狂気に燃えていた瞳が、いまはただの人間のそれに変わっている。
⸻
九重はゆっくりと立ち上がり、彼を睨んだ。
「終わったんだ……。街は、お前の思い通りにはならなかった」
主犯は首を振ろうとしたが、力なく壁に背を預ける。
血が床を濡らし、鉄と油の匂いに混じって生臭さを広げた。
「……俺は……まだ……」
その言葉は途切れ、呼吸は次第に浅く、短くなっていく。
だが、まだ生きている。
死は近いが、終わりを迎えたわけではない。
⸻
九重は拳を握りしめ、静かに言った。
「お前の“正義”はここで終わりだ。残るのは……無力な現実だけだ」
主犯は答えず、虚空を睨み続けていた。
その瞳に宿る光が、ゆっくりと消えていくのを九重は見つめていた。
制御区画には、安堵とも虚無ともつかない沈黙が広がった。
制御区画を満たすのは、重苦しい静寂だった。
警告音は止み、赤いランプも消えた。
あれほど容赦なく迫っていた“刻限”の数字も、いまはどこにも映っていない。
だが、胸を締め付ける圧迫感は消えていなかった。
九重誠治郎は刃を握ったまま立ち尽くし、背後で荒い息をする主犯に視線を向けた。
⸻
主犯は壁に凭れかかり、胸を上下させながら血に濡れた顔を九重に向けた。
唇の端には乾いた笑みが張り付いている。
「……結局……俺も……刻限からは逃れられなかった……か」
声はかすれ、風が途切れるように細かった。
その目に浮かぶのは、もはや狂気ではなかった。
自分の終わりを知る者の、淡い諦念。
九重は歩み寄り、冷静に見下ろした。
「お前が選んだのは……破壊だけだった。
犠牲の上に築いた“正義”なんて、誰も救わない」
⸻
主犯は首を振るように、力なく笑った。
「……人は……痛みを……知らなければ……変わらない……。
俺は……その役を……」
咳に咽び、鮮血が飛び散る。
その赤は鉄の匂いを濃くしていった。
「……信じていたんだ……これが……唯一の……正義だと……」
声がしぼみ、目は虚ろに揺れた。
やがて光が少しずつ抜け落ち、焦点が合わなくなる。
最後に唇が動いた。
「……俺は……間違って……」
その言葉を言い切る前に、頭がぐらりと垂れ、体は壁伝いに滑り落ちた。
⸻
九重はその場に立ち尽くした。
主犯の頭上にあった赤い数字は、完全に消えていた。
死とは、こうして唐突に訪れる。
刻限を背負った人間にとって、それは必然であり、逃れようのない終点だった。
だが――胸の奥に広がったのは、勝利の実感ではなかった。
重苦しい空虚と、どうしようもない虚無感だった。
(……敵であっても、人間の死は重い……。
俺の目に映る数字は、結局、誰の命も救えはしないのかもしれない……)
⸻
その時、無線がノイズを混じえて割り込んだ。
「九重! 応答しろ! 状況はどうなっている!」
佐伯係長の声が、遠くの現実へと九重を引き戻す。
九重はしばらく目を閉じ、呼吸を整えてから答えた。
「……爆弾は解除を確認。主犯……死亡」
短い報告を終えると、肩から力が抜けた。
全身が鉛のように重く、膝が震え、床に膝をつく。
視界にはもう何も浮かんでいない。
あるのは、自分の呼吸と機械の唸りだけ。
九重は目を伏せ、呟いた。
「……これで、終わったのか……」
制御区画に残ったその声は、誰に届くこともなく、静かに消えていった。
制御区画の扉が重々しく閉まり、外から駆け込んできた処理班の足音が響いた。
彼らの視線が灰色のケースに注がれると、一斉に安堵の息が漏れる。
「……止まっている……」
「爆発の兆候はなし、確認しました!」
だが九重誠治郎は、報告や歓声を耳の端で聞きながら、ただ静かに立ち尽くしていた。
視線の先には、壁際で力尽きた主犯の亡骸。
まだ血の匂いが濃く漂い、鉄骨に滴る赤が光を反射していた。
⸻
「九重巡査部長!」
処理班の一人が駆け寄り、声をかける。
「ご無事ですか!」
九重は小さく頷いた。
だが声は出なかった。
喉に重い石を押し込まれたように、言葉が詰まっていた。
(……俺は、生かしたのか。
それとも、ただ死を先延ばしにしただけなのか……)
刻限の数字は、爆弾が止まった瞬間に消えた。
だが、道すがらで見かけた人々の頭上には、いまだ数字が浮かんでいた。
〈202d〉
〈314d〉
生き延びてもなお、必ず訪れる終わりが、静かに刻まれている。
⸻
佐伯の声が無線から響く。
「九重! そっちはどうなっている!」
九重は深く息を吸い、答えた。
「……爆弾は無力化。主犯、死亡。制御区画は制圧済み」
一拍の沈黙のあと、無線の向こうで抑えきれない安堵の声が重なった。
「よくやった!」
「被害を防いだぞ!」
九重は静かに目を閉じた。
歓声は現実の音だ。だが、自分の胸の奥にあるのは別の感情だった。
(……この力は消えない。事件が終わっても、俺の目には“刻限”が映り続ける。
これからも、俺は……命の終わりを見続けるのか……)
⸻
扉の外では、救急隊や記者たちのざわめきが広がり始めていた。
街は生き延びた。
しかし九重の心は、静かな孤独に沈んでいた。
彼はふと、ズボンのポケットに忍ばせていた折り紙を思い出す。
彩音が手渡してくれた、ぎこちない鶴。
不格好だが、その形は確かに「生」を象徴していた。
(……守らなければならないものは、まだある。
俺がこの目を持つ意味も……きっとそこにあるはずだ)
九重はゆっくりと目を開け、深い息を吐いた。
疲労は極限まで達している。
それでも彼は歩き出した。
次に待つのは、街の余波。
生き延びた者たちの歓声と、救えなかった命の重み。
その狭間に立つのが、九重誠治郎という刑事だった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―
MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」
「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」
失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。
46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる