刻限

都丸譲二

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第22話 余波

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 制御区画を出て、地上へ続く非常階段をゆっくりと登った。
 足は鉛のように重く、一段上がるたびに呼吸が荒くなる。
 九重誠治郎は壁に手をつきながら、汗と血の匂いが混じる空気を振り払うように深く息を吐いた。

 鉄製の扉を押し開けると、夜の街のざわめきが一気に押し寄せた。
 広場には規制線が張られ、無数の赤色灯が暗闇を断ち切っている。
 救急車が列をなし、担架が行き交う。
 報道カメラのフラッシュが夜空を白く切り裂き、記者たちの声が重なり合って飛び込んできた。

「解除は本当か!」
「主犯はどうなった!」
「被害の規模は!」

 一斉に向けられる声と光。
 だが九重の耳には、遠い雑音のようにしか響かなかった。

 ⸻

 地上に集まった市民の顔が目に入る。
 誰もが不安と安堵の狭間に揺れていた。
 泣き崩れる者、抱き合って無事を喜ぶ者、ただ呆然と立ち尽くす者。

 その頭上に、数字が浮かんでいた。
 〈202d〉
 〈314d〉
 一部の人々だけに刻まれた赤い光。
 街は生き延びても、命の終わりは静かに刻まれている。

 九重は拳を握りしめ、俯いた。

(……守ったはずなのに……救えなかった命の方が目につく……)

 歓声や安堵の声が溢れる中で、九重だけが取り残されたように感じていた。

 ⸻

 合同捜査本部のテントから佐伯係長が駆け寄ってきた。
 その顔には疲労の影が濃く刻まれていたが、目には確かな光があった。

「九重!」
「……爆弾は解除。主犯は死亡を確認」

 短く報告すると、佐伯は深く頷き、九重の肩を強く叩いた。
「よくやった。お前が止めなければ、この街は終わっていた」

 その言葉を受けても、九重の表情は動かなかった。
 唇の奥に重く固いものがこびりつき、声にならない。

 夜風が吹き抜け、汗に濡れたシャツを冷たく撫でた。
 それでも胸の奥の熱は消えなかった。

 広場一帯は、警察車両と救急車で埋め尽くされていた。
 サイレンの音はすでに止んでいたが、赤色灯はなおも闇を裂き、規制線の外には多くの市民と報道陣が押し寄せていた。
 ざわめきは波のように途切れず、緊張と安堵と恐怖が入り混じった空気を作り出している。

「爆弾は解除されたらしいぞ!」
「死者は……? 被害はどのくらいだ!」
「誰が止めたんだ……刑事か……?」

 不安と好奇心がないまぜになった声が飛び交い、人々の目は一斉に規制線の内側へ注がれていた。

 ⸻

 報道各社の中継車が並び、アナウンサーたちが硬い表情でマイクを握っている。
 〈国木市中心部で発生した大規模テロ未遂〉
 〈警察が爆弾を解除、被害は最小限〉
 〈主犯死亡、共犯者の一部は逃走〉

 スクリーン越しに流れる言葉は淡々としていたが、受け取る市民の表情は一様ではなかった。
 胸を撫で下ろす者もいれば、ただ呆然と空を仰ぐ者もいた。

 九重誠治郎は規制線の内側に立ち、その光景を黙って見ていた。
 安堵の声も、マイクに向けられる質問も、すべてが遠い。
 耳の奥ではまだ、数分前の警告音と秒読みが残響していた。

 ⸻

 すれ違う市民の頭上に、数字が浮かぶ。
 何も映らない者が大半だ。
 だが――

 〈202d〉
 〈314d〉
 赤い光がわずかに浮かぶ者たちもいる。
 生き延びたはずの街に、確実に刻限を背負う命がある。

 九重は視線を逸らし、奥歯を噛みしめた。

(……終わったはずなのに、俺には終わらない……。
 爆弾は止めても、“刻限”は消えていない……)

 守った命の数と同じだけ、救えなかった命を突きつけられる。
 それがこの目に課せられた罰のように思えた。

 ⸻

 無線を片手に、佐伯係長が隣に立った。
「九重……よくやったな」

 低い声だったが、そこには確かな感情が込められていた。
 しかし九重は、わずかに頷いただけだった。
 その瞳に安堵の色はなかった。

 周囲では歓声と拍手が巻き起こり、記者たちのフラッシュが夜を白く切り裂いていた。
 だが九重の胸には、静かな孤独が沈んでいた。

 街は救われた。
 だが彼自身の戦いは、まだ終わっていなかった。

 規制線の外側に出たとき、九重誠治郎は思わず足を止めた。
 押し寄せる報道陣や市民の群れの奥に、見慣れた姿を見つけたからだ。

 結衣――元妻。
 そして彼女の隣には、娘の彩音が小さな手を握りしめて立っていた。

 ⸻

 結衣の顔は蒼白で、唇を強く噛みしめていた。
 その眼差しは、怒りでも安堵でもなく、ただ九重の生存を確かめるように揺れていた。
 彼女の背に庇われるようにして立つ彩音は、目を大きく見開き、泣き出しそうに九重を見つめている。

「……パパ……」

 その小さな声が群衆のざわめきの中でもはっきりと届いた。
 九重の胸が強く締め付けられる。

 ⸻

 彼は人波をかき分け、二人の前に立った。
 彩音は一瞬ためらったあと、駆け寄り、九重の足にしがみついた。
「パパ……死んじゃったかと思った……」

 小さな体の温もりが伝わり、九重の膝が震えた。
 答えようとしたが、喉が詰まり、声にならなかった。

 結衣がゆっくりと口を開いた。
「……生きてて……よかった」

 彼女の声も震えていた。
 かつて夫婦であった時間の重さが、その一言に滲んでいた。

 ⸻

 だが九重の視線は、無意識に彩音の頭上を見上げていた。
 そこには、確かに数字が浮かんでいた。

 〈312d〉

 一年に満たない、残酷な光。
 娘の命にも、刻限が迫っている。

 九重の胸に、氷の刃のような痛みが突き刺さった。
(……守らなきゃ……。絶対に……)

 腕にしがみつく彩音の体を強く抱きしめ、九重は奥歯を噛みしめた。

 ⸻

 彩音の笑顔と泣き顔、結衣の揺れる瞳。
 救えなかった命の数々。
 街を覆う虚脱と安堵のざわめき。

 そのすべてを胸に刻みながら、九重は心の奥で静かに誓った。
(……まだ終わらない。俺は、この目で見た命を……守り抜く)

 広場の喧騒は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
 救急車が負傷者を運び去り、規制線の外では市民たちが肩を寄せ合い、互いの無事を確かめ合っている。
 テレビ局のカメラが煌々と光を放ち、記者の声が夜の闇に響き続けていた。

「国木市を揺るがした前代未聞のテロ未遂は――警察によって阻止されました!」
「市民の多くは無事。しかし、一部に混乱と負傷者が……」

 その声は確かに街へ安堵を伝えていた。
 だが九重誠治郎には、遠い世界の音にしか聞こえなかった。

 ⸻

 結衣と彩音が去ったあと、九重は規制線の外から街を見つめていた。
 頭上には、何も数字のない人々と、淡い光を背負った人々が入り混じっていた。

 〈202d〉
 〈89d〉
 〈314d〉

 街は救った。
 だが“刻限”の終わりは、日常に紛れて静かに進んでいる。

(……この目に映るものは消えない。
 事件を止めても、命の終わりはそこら中にある……)

 胸の奥に重い影が広がった。

 ⸻

 合同捜査本部のテントに戻ると、佐伯係長が報告を取りまとめていた。
 机の上には山積みの資料と無線機、モニターには市内の映像が映し出されている。
 誰もが疲弊しきった表情をしていたが、その瞳には使命感が残っていた。

「九重」
 佐伯がこちらを振り返る。
「お前が止めた。街を救ったのは紛れもなくお前だ」

 九重は答えず、ただ小さく頭を下げた。
 だが心の奥では、自分の正義が本当に意味を持ったのか、答えを出せずにいた。

 ⸻

 夜風がテントの隙間から吹き込み、血と汗で湿ったシャツを冷たく撫でた。
 九重は深く息を吸い、夜空を仰いだ。

 黒々とした空には星がかすかに瞬いていた。
 その光は美しく、そして遠い。
 刻限を背負う人々の赤い数字とは違う、静かな輝きだった。

(……まだ終わらない。
 新しい刻限は、もう街のどこかで始まっている……)

 九重は静かに目を閉じた。
 その瞼の裏で、再び数字が赤く灯った気がした。



 第1章 完結
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