創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第1巻 理を識る者たち

第1章 雨の地下にて

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 雨の音が、地上から石の隙間を伝って落ちてくる。
 地下室の空気は冷たく、湿り気を帯びて重かった。

 アーレンはひとり、坩堝の前に立っていた。
 白金で作られた容器の中には、銀色の液体が満たされ、かすかに光を放っている。
 それは長年追い求め続けた実験の結晶。
 失敗を繰り返し、嘲笑を浴び、同僚に見捨てられ――残ったのは、この地下での孤独と、ただ一つの執念だけだった。

 小瓶を傾け、最後の赤い滴を垂らす。
 自らの血。生命を呼ぶための媒介。

 液体がうねった。
 ぐつぐつと泡立ち、内側に影が生じる。
 それは線のように細く、しかしやがて繋がっていく。

 ――骨。

 アーレンの喉がひくりと動いた。
 影が輪郭を描き、背骨が走り、胸郭が広がる。
 骨に肉が巻きつき、皮膚が覆っていく。
 乳白色の人の形が、粘液の中から立ち上がろうとしていた。

 指が震える。
 肩がわずかに持ち上がる。
 胸が上下する。

「……呼吸している」

 アーレンは思わず口にした。
 肺が空気を求め、かすかな吐息が漏れる。

 やがて、閉じられた瞼が震えた。
 ゆっくりと開かれた瞳は、湖のように澄み、奥で灯が瞬いている。
 その光がアーレンを映した。

 最初の声は、声とも呼べぬ掠れ。

「……あ」

 次に、もつれるように言葉が続いた。

「……イ、タイ?」

 アーレンは心臓を打ち抜かれたように息を呑む。
 言葉。問いかけ。
 確かに“生きた”証だ。

「痛くない。大丈夫だ……君は、生きている」

 腕を伸ばし、抱き上げる。
 その体は驚くほど軽く、冷たいのに確かに温もりがあった。
 細い指が、彼の袖を掴む。

 アーレンは、十年前から心の中で用意していた名を告げた。

「――リュミナ」

 瞳がかすかに光を返す。
 雨の音が遠ざかり、地下室に二人だけの静寂が広がった。

 世界で初めてのホムンクルスが、ここに誕生した。
 まだ誰も知らない、密やかな奇跡として。

 アーレンの腕の中で、リュミナはしばらく静かに息をしていた。
 瞳は閉じられたり開かれたりを繰り返し、光に慣れようとしているようだった。

 やがて小さな唇が動く。
 かすれた声が漏れる。

「……あ……レ、ン?」

 アーレンは驚きに目を見開いた。
 呼んだ。まだ拙い音の並びだが、自分の名を。
 彼の胸を、熱がゆっくりと満たしていく。

「そうだ。私はアーレン。……君は、リュミナ」

 彼女はその名を繰り返すように口を動かした。

「リュ……ミナ」

 声は不安定で、幼子のようだ。だが確かに言葉になっている。
 アーレンは思わず笑みを浮かべた。十年の孤独は、今この瞬間のためにあったのだと。

 リュミナはふと首をかしげ、周囲を見回した。
 石の壁、明かり、滴る水音――彼女にとってはすべてが初めての世界だった。

「ここ……どこ?」

「……地下室だ。私の研究室。君が生まれた場所だよ」

 説明は幼い耳に届くかどうか分からなかったが、リュミナは真剣に聞くように瞳を向けていた。
 やがて彼女は体をもぞりと動かす。アーレンの腕を抜け出し、ぎこちなく床に足を下ろした。

 最初の一歩。
 膝が震え、前につんのめりそうになる。アーレンは慌てて支えた。

「無理をするな、まだ体は安定していない」

 だがリュミナは小さく首を振った。
 再び足を出し、よろけながらも次の一歩を踏み出す。

「……あるく」

 その言葉に、アーレンは胸が詰まった。
 生命は作った瞬間に完成するのではない。
 こうして歩みを重ね、学んでいく。
 リュミナはまさに今、それを示していた。

 彼女は三歩、四歩と進み、石壁に手をついて振り返った。
 汗ばむ額にかかる髪を払い、わずかに笑みを浮かべる。

「アーレン……できた」

 アーレンは言葉を失った。
 ただ、胸の奥で何かが静かに崩れ、代わりに温かなものが広がっていく。

 ――孤独は終わった。
 この瞬間から、自分は一人ではない。

 滴る雨の音が拍子のように響いていた。
 リュミナは石の床に裸足を置き、まだ不安定な足取りで、それでも確かに立っていた。

 リュミナは壁づたいに歩きながら、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
 見慣れぬ道具や瓶、光を反射する金属片に指先を伸ばしては、首をかしげる。

「これ、なに?」

「秤だ。重さを測る道具」

「これは?」

「薬草を乾かす棚だ」

 問いは途切れず、アーレンは一つひとつ答えた。
 答えるうちに、自分がどれほど長い間“誰にも説明する必要がなかった”かを痛感する。
 独り言のような研究の日々に、今は相槌を打つ相手がいる。
 それだけで部屋の空気が変わっていた。

 やがてリュミナは机の上の古い書物に手を触れた。
 表紙に刻まれた文字をなぞりながら、首をかしげる。

「……よめない」

「それはいい。君はまだ生まれたばかりだ」

 そう言いながらも、アーレンの胸には熱が広がった。
 読めないのは当然だ。だが“読もうとした”ことが尊い。
 作られた存在であっても、学ぶ意志を持つ――それが生命の証だと、彼は確信した。

 リュミナは再びアーレンを見上げる。
 真新しい瞳が、真っすぐに射抜くように光る。

「リュミナ……わたし?」

「そうだ。君はリュミナ。光の名だ」

「……アーレンが、くれた?」

「ああ。君が生まれるずっと前から、用意していた」

 リュミナはしばらくその名を口に転がしていた。
 「リュミナ……リュミナ……」
 呼ぶたびに、その存在が確かになっていくようだった。

 やがて彼女は椅子に腰を下ろし、ぽつりと呟く。

「……おそと、みたい」

 アーレンは思わず黙り込んだ。
 外――そこには雨、風、星空、そして人々の目がある。
 まだ誰にも知られてはならない存在を、どう導くべきか。

 それでも、瞳に宿る好奇心を否定することはできなかった。

「……わかった。だがその前に、着るものを用意しよう」

 アーレンは布を探し、外套を引き寄せる。
 それをリュミナの肩にかけると、彼女は少し驚いた顔をして、やがて微笑んだ。

「……あたたかい」

 その表情を見て、アーレンは静かに息をついた。
 生まれたばかりの存在が、寒さを知り、温もりを知る。
 それを一つずつ教えていくのが、自分の役割なのだと。

 外套をかけたリュミナは、机の上の瓶や本に興味を示しながらも、その瞳に淡い光が揺れる。

「……おそと、みたい」

 生まれたばかりの存在が、もう外を求めている。
 けれど同時に、ここに留まる危うさを彼は誰よりも理解していた。

 学院は常に監視している。
 王国も、教会も、生命創造の噂を嗅ぎつければ放ってはおかない。
 この地下室はもはや隠れ家ではなく、ただの檻だ。

 アーレンはランプを消し、暗がりの中でリュミナの小さな手を握った。

「……ここにいては、すぐに見つかる。だが、外に出れば――世界は広い。君にとってすべてが新しいはずだ」

 リュミナは首をかしげる。
「せかい……?」

「ああ。草や木、海、空。人々の声、歌、街並み……。君はそれを知らなければならない」

 彼は一瞬だけ迷った。
 この選択は危険だ。
 だが、彼女が“ただの研究成果”で終わることを望んではいなかった。

「行こう、リュミナ。――外へ。君が生きるために。そして、私自身が確かめるために」

 リュミナは彼の手をぎゅっと握り返した。
 その温もりは弱々しくも確かな決意を帯びていた。

 雨の音が、地上から絶え間なく響いてくる。
 二人の物語は、その雨の向こうから始まろうとしていた。
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