創られし命と灰の研究者

都丸譲二

文字の大きさ
4 / 65
第1巻 理を識る者たち

第2章 雨の街へ

しおりを挟む
 地下室の重たい扉を開くと、湿った夜気が流れ込んだ。
 石畳を叩く雨の音が、途端に鮮やかに響きわたる。

 リュミナはフードの影から空を見上げた。
 掌を広げ、落ちてきた雨粒に触れる。
 ひやりとした感触に肩を震わせ、きゅっと指を握る。

 アーレンはその様子を見て、静かに言った。
「冷たいだろう。それが雨だ」

「……つ、め……」
 リュミナは小さく声を出した。
 言葉というより、音を真似るように。
 彼女の瞳は、意味を確かめるようにアーレンを見上げている。

「冷たい。つめたい、だ」
 アーレンはゆっくりと言葉を繰り返す。

「……つめたい」
 今度は少しはっきりと発音できた。

 リュミナはまた掌を差し出し、雨を受ける。
 眉を寄せながらも、今度はそのまま手を開いていた。
 やがて小さな笑みが浮かぶ。

「……」
 言葉にはならなかったが、その表情がすべてを語っていた。

 アーレンは胸の奥に温かさを覚える。
 世界を初めて知る存在に、ひとつひとつ言葉を与えていく。
 その行為が、自分自身にとっても救いになっていると気づいた。

 二人は路地を選んで歩いた。
 軒先から滴が落ち、油火の灯りが雨粒に揺れる。
 リュミナは足元を気にしながら、ぎこちなくついてくる。

「これから……どうする」
 その声は途切れ途切れで、しかし確かに問いかけだった。

「旅支度を整える。食べるもの、着るもの、地図も必要だ」
 アーレンは答える。

「……たび?」

「そうだ。遠くへ歩くこと。行ったことのない場所へ行くこと」

 リュミナはその音を真似して繰り返した。
「……たび」

 まだ意味は伴っていない。
 けれど確かに、彼女の中に刻まれていく。

 雨は強さを増していった。
 リュミナは再び手を差し出し、ぽたりと落ちる雫を見つめる。
 そして小さな声で、今度は自分の意志で言葉をつむいだ。

「……すき」

 アーレンは思わず足を止める。
 生まれたばかりの存在が、世界を好きだと口にした。
 それは何よりの証明だった。

「なら……もっと見せてやろう」
 アーレンはフードを深くかぶせ、彼女の肩を抱いた。

 人影の少ない裏通りへと、二人は足を速めた。
 雨音が二人の足跡を覆い隠すように響いていた。

 裏道を選んで歩き、やがて小さな広場に出た。
 夜の雨の中でも、いくつかの露店にはまだ灯りがともっている。
 干し肉、果実、古着――旅人や労働者が最後の買い物をしていた。

 リュミナは立ち止まり、目を瞬かせる。
 見慣れぬ光、声、人の匂い。
 その全てを吸い込むように眺めていた。

 アーレンは彼女の肩を引き寄せる。
「人の目を避けろ。……君は目立ちすぎる」

「……めだつ」
 リュミナは拙い声で真似し、うつむいてアーレンの外套の影に隠れた。

 アーレンは露店で干し肉と乾いたパンを選び、代金を渡す。
 商人は品を包みながら、ちらりとリュミナの髪を見て言った。
「ほう……珍しい色だな。北方の血筋か?」

 アーレンは瞬時に答えを作る。
「遠い北の村の出だ。寒さに強いが、街に慣れていなくてね」

 商人は納得したように肩をすくめ、代金を受け取った。
 アーレンは心の中で息をつく。――危うい。長くここにはいられない。

 次に立ち寄った古着屋で、灰色の麻布のワンピースを選んだ。
 リュミナに袖を通させると、少し大きすぎて指先まで隠れた。
 彼女はその布をつまんで、不思議そうに見つめる。

「……あたたかい」
 小さな声。それは自分の意志で言葉にした最初の“感覚”だった。

 アーレンは胸の奥で静かにうなずく。
 そうだ――彼女は“生きている”。
 だからこそ、この世界を歩かせなければならない。

 二人が店を出ると、路地の奥に黒い影が立っていた。
 外套をまとい、顔は見えない。
 雨に濡れながら、じっとこちらを見ている。

 リュミナが不安そうに袖をつかむ。
「……だれ?」

「関わるな。行くぞ」

 アーレンは自然な歩調を保ちながら、彼女の手を握った。
 二人は灯りの少ない裏道へと消えていく。
 背後の影は、雨の中で動かずに見送り続けていた。


雨を避けて軒下に集まっていた酔客たちの前を通ろうとしたとき、
 一人の男がふらつきながらリュミナに近づいた。

「おい……見ろよ、この髪。銀だぜ、銀!」

 リュミナは身をすくめてフードを深くかぶる。
 だが男は酒臭い息を吐きながら、彼女の肩に手を伸ばした。

「ちょっと触らせろよ。珍しい色だなぁ」

 リュミナの体がびくりと震えた。
 恐怖に突き動かされ、無我夢中で腕を動かす。
 ただ避けたくて、振り払おうとした――その一瞬。

 ――空気が弾けた。

 小さな動きが異様な衝撃を生み、男の体は弾き飛ばされて石畳に叩きつけられた。
 酒瓶が砕け、酒と雨が混じって飛び散る。

「な、なんだ今の……!」
「おい、大丈夫か!」

 仲間たちが叫び、倒れた男に駆け寄る。
 リュミナは腕を見つめ、震える声を漏らした。
「……わたし、ただ……こわくて……」

 アーレンは一瞬だけ酔客たちを睨み、リュミナの手を取った。
「行くぞ」

「えっ、おい! 待ちやがれ!」
 背後から怒鳴り声が上がる。

 だが二人は雨の闇に紛れ、狭い路地を駆け抜けた。
 残された酔客たちは混乱し、倒れた仲間を抱え上げるのに手いっぱいで追えなかった。

 アーレンは走りながら低く言う。
「……目立ったな。これで隠れて暮らすのは難しい」

 リュミナは息を切らし、濡れた袖を強く握りしめた。
 その手はまだ小刻みに震えていた。

 濡れた路地を抜け、二人は古い倉庫の裏手に身を隠した。
 木箱が積まれ、ひさしの下だけは雨が届かない。
 そこでようやく足を止めると、リュミナは膝を抱えて座り込んだ。

 彼女の細い肩は小刻みに震えている。
 濡れた袖を握りしめ、視線は地面に落ちたままだった。

「……わたし、ふれたくなかった……ただ、どきたくて……なのに」
 言葉が途切れ途切れに漏れる。

 アーレンはしばらく黙って彼女を見つめ、外套を脱いで肩に掛けた。
「君のせいじゃない。自分を守ろうとしただけだ。それは誰も責められない」

 リュミナはおそるおそる顔を上げた。
 雨に濡れた睫毛の奥で、瞳が揺れている。

「でも……こわい。アーレン、わたし……なに?」

 アーレンは答えに詰まった。
 問いに即答できるほどの知識も確信も、まだ自分にはない。
 だが、一つだけ確かなことがあった。

「……君はリュミナだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 その言葉に、リュミナは少しだけ瞬きをした。
 納得したわけではない。
 ただ、否定されなかったことに安堵したようだった。

 アーレンは濡れた髪をかき上げ、声を低める。
「……今夜の出来事はすぐ噂になる。学院や教会の耳に届くのも時間の問題だ」

 リュミナが息をのむ。
 アーレンはその小さな手を握り、静かに続けた。

「だから旅を続ける。安全な場所を探すだけじゃない。君が世界を知り、学び、人として歩むために」

 リュミナはしばらく沈黙していたが、やがて小さく頷いた。
「……アーレンが、いるなら……」

 その声はか細いが、決意の色を帯びていた。
 アーレンは短く笑い、外套の裾を整えた。

 ひさしを叩く雨はまだ強い。
 だがその音は、二人を包み込む子守唄のようにも聞こえた。

 こうして彼らは、逃亡者としてだけでなく、旅人としての一歩を踏み出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

正しい聖女さまのつくりかた

みるくてぃー
ファンタジー
王家で育てられた(自称)平民少女が、学園で起こすハチャメチャ学園(ラブ?)コメディ。 同じ年の第二王女をはじめ、優しい兄姉(第一王女と王子)に見守られながら成長していく。 一般常識が一切通用しない少女に友人達は振り回されてばかり、「アリスちゃんメイドを目指すのになぜダンスや淑女教育が必要なの!?」 そこには人知れず王妃と王女達によるとある計画が進められていた! 果たしてアリスは無事に立派なメイドになれるのか!? たぶん無理かなぁ……。 聖女シリーズ第一弾「正しい聖女さまのつくりかた」

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

企業再生のプロ、倒産寸前の貧乏伯爵に転生する 

namisan
ファンタジー
数々の倒産寸前の企業を立て直してきた敏腕コンサルタントの男は、過労の末に命を落とし、異世界で目を覚ます。  転生先は、帝国北部の辺境にあるアインハルト伯爵家の若き当主、アレク。  しかし、そこは「帝国の重荷」と蔑まれる、借金まみれで領民が飢える極貧領地だった。  凍える屋敷、迫りくる借金取り、絶望する家臣たち。  詰みかけた状況の中で、アレクは独自のユニーク魔法【構造解析(アナライズ)】に目覚める。  それは、物体の構造のみならず、組織の欠陥や魔法術式の不備さえも見抜き、再構築(クラフト)するチート能力だった。  「問題ない。この程度の赤字、前世の案件に比べれば可愛いものだ」  前世の経営知識と規格外の魔法で、アレクは領地の大改革に乗り出す。  痩せた土地を改良し、特産品を生み出し、隣国の経済さえも掌握していくアレク。  そんな彼の手腕に惹かれ、集まってくるのは一癖も二癖もある高貴な美女たち。 これは、底辺から這い上がった若き伯爵が、最強の布陣で自領を帝国一の都市へと発展させ、栄華を極める物語。

水神飛鳥の異世界茶会記 ~戦闘力ゼロの茶道家が、神業の【陶芸】と至高の【和菓子】で、野蛮な異世界を「癒やし」で侵略するようです~

月神世一
ファンタジー
「剣を下ろし、靴を脱いでください。……茶が入りましたよ」 ​ 猫を助けて死んだ茶道家・水神飛鳥(23歳)。 彼が転生したのは、魔法と闘気が支配する弱肉強食のファンタジー世界だった。 ​チート能力? 攻撃魔法? いいえ、彼が手にしたのは「茶道具一式」と「陶芸セット」が出せるスキルだけ。 ​「私がすべき事は、戦うことではありません。一服の茶を出し、心を整えることです」 ​ゴブリン相手に正座で茶を勧め、 戦場のど真ん中に「結界(茶室)」を展開して空気を変え、 牢屋にぶち込まれれば、そこを「隠れ家カフェ」にリフォームして看守を餌付けする。 ​そんな彼の振る舞う、異世界には存在しない「極上の甘味(カステラ・羊羹)」と、魔法よりも美しい「茶器」に、武闘派の獣人女王も、強欲な大商人も、次第に心を(胃袋を)掴まれていき……? ​「野暮な振る舞いは許しません」 ​これは、ブレない茶道家が、殺伐とした異世界を「おもてなし」で平和に変えていく、一期一会の物語。

元公爵令嬢は年下騎士たちに「用済みのおばさん」と捨てられる 〜今更戻ってこいと泣きつかれても献身的な美少年に溺愛されているのでもう遅いです〜

日々埋没。
ファンタジー
​「新しい従者を雇うことにした。おばさんはもう用済みだ。今すぐ消えてくれ」  ​かつて婚約破棄され、実家を追放された元公爵令嬢のレアーヌ。  その身分を隠し、年下の冒険者たちの身の回りを世話する『メイド』として献身的に尽くしてきた彼女に突きつけられたのは、あまりに非情な追放宣告だった。  ​レアーヌがこれまで教育し、支えてきた若い男たちは、新しく現れた他人の物を欲しがり子悪魔メイドに骨抜きにされ、彼女を「加齢臭のする汚いおばさん」と蔑み、笑いながら追い出したのだ。 ​ 地位も、居場所も、信じていた絆も……すべてを失い、絶望する彼女の前に現れたのは、一人の美少年だった。 ​「僕とパーティーを組んでくれませんか? 貴方が必要なんです」  ​新米ながら将来の可能性を感じさせる彼は、レアーヌを「おばさん」ではなく「一人の女性」として、甘く狂おしく溺愛し始める。  一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。  ​やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。  レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。

異世界転移物語

月夜
ファンタジー
このところ、日本各地で謎の地震が頻発していた。そんなある日、都内の大学に通う僕(田所健太)は、地震が起こったときのために、部屋で非常持出袋を整理していた。すると、突然、めまいに襲われ、次に気づいたときは、深い森の中に迷い込んでいたのだ……

【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました

小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。 しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!? 助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、 「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。 幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。 ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく! ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー

第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。

黒ハット
ファンタジー
 前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。  

処理中です...