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第4巻 帝国編・前編 ―灰の秩序―
第4章 灰理局の影
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――帝国首都ヴァルシュタイン。
灰理局の中枢塔は、深夜にもかかわらず灯を絶やしていなかった。
観測室の壁一面に符波が投影され、灰域からの断続的な報告が乱れ飛んでいる。
緊急指令符には赤い刻印――“部隊壊滅”の報。
エルシア・ファロウは符盤に指を滑らせ、報告文を展開した。
文面には簡潔な一文だけが刻まれている。
《第七観測小隊 灰橋にて全滅。理波爆発を確認。原因不明。》
胸の奥が冷たくなる。
数値化された符波記録が、崩壊の瞬間を克明に残していた。
灰流の逆位相、制御波の破断――まるで“理そのものが反撃した”ようだった。
「……理に、触れすぎた。」
⸻
背後で扉が開く。
黒衣の参謀――ラザン・アルディウスが静かに入室した。
彼の顔には焦りも驚きもない。ただ“観測結果”を見届ける者の冷徹な眼。
「主任。報告は見たか。」
「ええ。……灰が、再び応えたようです。」
「ならば、なおさら確かめねばならん。
“理制御符盤”は完成したな?」
エルシアは唇を噛む。
机の上、実験台には一枚の黒銀の符盤――アーレンの理論を帝国技術で拡張した新型。
人の思考を媒介に灰流へ直接命令を送る、“理の掌握装置”。
「……制御ではありません。これは、干渉です。
観測と指令の境を越えたら、また――」
「越えねば支配はできん。」
ラザンの声が硬く響く。
「灰域で起きたあの現象は、偶発ではない。
“理が命を再生させた”――ならば、それを再現し、利用すればいい。」
「人の命を……理の素材にするつもりですか。」
「秩序のためだ。帝国は灰の再現を恐れない。」
⸻
ラザンは歩み寄り、破壊された符波の映像を見た。
灰の爆発の中、一瞬だけ映った金の光。
それは“彼女”――灰の灯、リュミナの反応だった。
「……美しいな。
命が理を超える瞬間だ。」
「あなたは、まだ理解していない。」
エルシアの声がかすかに震えた。
「理は人に与えられた力じゃない。
人が観測し続ける限り、理は“応える”。
支配しようとすれば、また同じ悲劇が――」
「それでもだ。」
ラザンは言葉を切り、鋭く言い放つ。
「理を支配する者が、世界を救う。
我らはそのためにここにいる。」
⸻
彼が去ったあと、観測室には灰流の音だけが残った。
符盤の光が、微かに脈を打つ。
その波は、人の心拍のように――そして、どこか怯えるように震えていた。
エルシアは、ふと小さく呟いた。
「……アーレン。
あなたが見た“理の底”を、私も見に行くことになるのかもしれない。」
灰の塔が、低く唸るように鳴った。
帝国の夜が、再び“理”を呼び覚ましていく。
夜の灰理局は静寂に包まれていた。
巨大な符盤塔の最上階――観測室には、エルシアただ一人。
窓の外では、首都ヴァルシュタインの灯が淡く霞んでいる。
遠く、灰を運ぶ風の音だけが響いていた。
机上には、完成したばかりの黒銀の符盤。
それはアーレンの理論を基礎に帝国が拡張した、“理制御符盤”の試作機。
その表面には、彼がかつて描いた数式と、帝国軍部が付け加えた命令文が並んでいた。
――「理の位相を固定し、観測者の意志を優先する」。
その一文が、彼女にはどうしても“呪い”のように見えた。
⸻
エルシアはそっと符盤に手を置いた。
符文の線が淡く光り、彼女の指先を照らす。
波が生まれる。理流の音。
それは低い脈動音となって観測室全体に広がった。
「……応答、開始。」
彼女は小さく呟き、通信符を起動する。
だが、いつもの符号音ではなかった。
符盤の中央で、音が“歪んだ”。
――……エルシア。
人の声のようだった。
しかし機械には、そんな出力機能はない。
「……誰?」
返答はない。
代わりに、波形がゆっくりと変化していく。
灰色の線が震え、数値の代わりに“文”を描いた。
《観測者に問う。理は、何を求める?》
⸻
エルシアの胸がざわめく。
符盤の表面に、淡い光の粒――灰が浮かんでいた。
塔の外から風が吹くはずもない。
だが、その灰は確かに“生きている”ように脈打っている。
「……理は求めてなどいない。
求めているのは、人間の方よ。」
彼女は符盤に手を重ね、静かに応えた。
その瞬間、灰の光が強くなった。
《人は理を支配したい。理は人を記録したい。》
「……記録?」
《命の痕跡を残す。それが理の本能。
あなたたちはそれを“制御”と呼ぶ。》
エルシアの背筋に寒気が走った。
符盤は今、まるで“意思”を持っているようだった。
理そのものが、帝国の観測網を通して言葉を紡いでいる。
⸻
彼女は震える手で符盤の光を弱めた。
しかし波は止まらない。
壁面の符文灯が次々と点滅し、灰色の波形が天井を満たしていく。
「……やめなさい。もう充分よ。」
《止められない。
あなたが“聴いた”から。》
音が消えた。
静寂が戻る。
ただ、エルシアの掌には微かな熱――まるで心臓の鼓動のような残滓が残っていた。
⸻
そのとき、扉が開く音。
灰理局副官が入ってきた。
「主任、帝国上層より通達です。
“灰域作戦”が正式に承認されました。明朝には第一部隊が出立します。」
エルシアはゆっくりと振り返った。
瞳の奥には、恐怖と諦めが混じっていた。
「……理を支配しようとする者たちは、きっと理に“観測される”わ。」
「は?」
「いいえ、なんでもないわ。――準備を進めて。」
⸻
副官が去ったあと、彼女はもう一度符盤に触れた。
だが先ほどの光は消え、ただ冷たい金属の感触だけが残る。
エルシアは小さく笑った。
「アーレン。あなたは、この結末を知っていたのね。」
外では、再び灰の風が吹いていた。
ヴァルシュタインの空に、灰の月が浮かぶ。
その光が塔を照らし、理の回路に淡い影を落とした。
――灰理局中央庁舎、地下一階・作戦統制室。
円形の室内には、帝国旗と双頭の鷲の紋章。
壁面の符盤群が脈を打ち、灰色の光が室内を揺らしていた。
中央には一つの巨大な理制御盤。
その前に、ラザン・アルディウスとエルシア・ファロウが立っていた。
床面の投影には、灰域全域の理流図が浮かんでいる。
灰色の地表に、赤い光点がいくつも走る。
それは符眼の分布、そして灰流の乱れを示す――“観測地図”だった。
⸻
「……三隊を北西方面へ展開。
灰理塔跡地を中心に索敵を行え。」
ラザンの声が響く。
その背後で、将校たちが一斉に符盤を操作した。
符文光が波打ち、灰色の立体地図が細かく変化していく。
「塔の残骸から“理残響”を回収できれば、
灰域の観測を恒常化できる。……これが陛下の意志だ。」
エルシアは沈黙していた。
その視線は、投影地図の中央――かつてリゼノス王国があった地に向いていた。
「灰理塔の周囲はまだ不安定です。
符眼の安定波を入れすぎれば、再び“理の反射”が起きます。」
「だからこそ、我々が“制御”する。
理が観測者を拒むなら――観測者を理より高みに置けばいい。」
ラザンは微笑した。
その笑みは、かつてアーレンが見せたものに似ていた。
⸻
沈黙のあと、エルシアが静かに口を開いた。
「……あなたは、理を信じていないのですね。」
「信仰では世界は救えない。
我々は“理”を神から奪った。
ならば、恐れるより先に使いこなすべきだ。」
「それで、どれだけの命を焼いたか……忘れたのですか。」
「理災の犠牲か? 忘れるものか。
だが、あれは失敗ではない――“観測の未熟”だっただけだ。」
ラザンの言葉に、エルシアは唇を噛んだ。
その横で、符盤が低く唸りを上げた。
灰理局の機関音が、まるで生き物の鼓動のように響く。
⸻
「……アーレン・クロードは、理を創ろうとして失敗した。
あなたは、その失敗を繰り返すつもりですか。」
「彼は個人だった。だが、帝国は“秩序”だ。
理を再現できるのは、個の天才ではなく“国家”の意志だ。」
ラザンの瞳には狂気と確信が混じっていた。
その奥に、何かを越えた者だけが持つ“理をも恐れぬ光”があった。
「……理を支配できると信じた瞬間、人は理に支配される。」
「いいや、エルシア。
理に支配されるのは、“理解を恐れる者”だけだ。」
⸻
ラザンが歩み寄り、エルシアの肩に手を置く。
その声は低く、そして冷たかった。
「君は聡明だ。だが、理に怯えすぎている。
恐怖は、観測を曇らせる。
理を恐れる者に、真の支配はできん。」
エルシアは視線を逸らさなかった。
その掌には、符盤の冷たい金属の感触。
指先に、あの夜の“声”が蘇る。
――《観測者に問う。理は、何を求める?》
彼女は小さく、呟いた。
「……理は、あなたを見ているわ。」
「ほう?」
ラザンの眉が動く。
「“観測者”を観測している。
あなたの目が理を測るたび、理もあなたを記録する。」
ラザンはわずかに笑った。
「それで構わん。記録こそ、存在の証だ。」
⸻
作戦灯が点灯する。
灰色の地図上に、三つの赤い光点が拡散した。
灰理局の遠征部隊が、灰域へ向けて出発する合図だった。
将校の報告が響く。
「灰理局第壱・第弐・第参観測隊、出立準備完了!」
「作戦名、“アーク・プロトコル”――理制御実験、開始します!」
ラザンが手を上げた。
「よろしい。――観測を始めろ。」
⸻
符盤の光が増幅し、塔全体が震えた。
灰理局の巨大な装置群が一斉に稼働を始め、
帝都の上空に灰色の環が形成される。
それは理の“瞳”――
世界を覗く巨大な符眼の誕生だった。
⸻
エルシアはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……アーレン。あなたが止めた理を、
今度はこの国が再び開こうとしている。」
塔の影が、彼女の頬を覆った。
その眼差しには、祈りにも似た決意が宿っていた。
――風が止んだ。
灰原を渡る気流が、まるで息を潜めたように静まる。
その異変を、最初に感じ取ったのはリュミナだった。
胸の灰核が、規則正しい鼓動を乱し始めていた。
「……アーレン。灰が、ざわめいてる。」
アーレンは符盤を展開し、理流を読み取る。
灰流の線が乱れ、周期が微妙にずれている。
それは自然の現象ではない。――外部からの干渉だ。
「……来たな。帝国の“観測波”だ。」
⸻
空に、淡い灰光が走る。
それは雲でも風でもなく、世界の理が“軋む”ような閃光だった。
灰の粒子が音を帯び、低い唸りをあげて共鳴する。
ノアが怯えたように耳を塞ぐ。
「なに、これ……! 音が、空から降ってくる!」
「音じゃない、理の反響だ。帝国が――“灰そのもの”を観測している。」
アーレンは歯を食いしばり、符盤の遮断式を起動する。
光の輪が地面を走り、周囲の灰を封じ込めようとする。
だが、理流は止まらない。逆に、彼の符式を“解こう”としていた。
⸻
帝国灰理局・観測塔。
「主任、観測反応あり。灰域全域が応答波を発生――!」
エルシアが符盤を覗き込む。
波形は整っている。乱流ではない。
“灰そのもの”が、帝国の観測に合わせて歌うように動いている。
「……理が、受け入れている……?」
彼女の呟きに、ラザンが薄く笑う。
「見ろ、これが秩序だ。
理は理解を拒まぬ――我々が正しく観測すれば、従うのだ。」
「違う……これは“返答”です。帝国が観測しているのではなく、理が“応えている”。」
「それでいい。ならば、我々は問う者であり続ければいい。」
⸻
灰原。
リュミナの髪がふわりと浮かび、灰の粒が彼女の周囲に集まり始める。
灰核が脈打ち、淡い光が空へと伸びていく。
「……あの光、どこかで見たことがある……」
ノアの声が震える。
「帝国の符眼だ。」
アーレンが答える。
「理標が確立された。灰域の“観測座標”が結ばれたんだ。」
⸻
上空の灰雲が割れ、
光の柱が垂直に降りる。
灰が浮き上がり、世界の重力そのものが歪む。
地面に刻まれた符が、自然に浮かび上がった。
それは誰も描いていないはずの式――
帝国が上空から投影した理式だった。
「……まさか、遠隔制御……!」
アーレンの声が低く響く。
空の光は彼の符盤と干渉し、勝手に数式を書き換えていく。
帝国の観測装置が、アーレン自身の符盤を媒介に理を再現していたのだ。
「やめろ……それは――!」
⸻
リュミナの瞳が金に染まる。
灰核が激しく脈打ち、空気が震える。
「アーレン……理が……“呼んでる”……!」
「応じるな、リュミナ! それは――!」
声が届く前に、光が爆ぜた。
白い閃光が灰原を包み、全ての輪郭を溶かしていく。
灰が空へ吸い上げられ、風が止んだ。
⸻
帝国観測塔。
「主任! 灰域中央、異常反応! 観測波が反転しています!」
「反転? ……理が、我々を観測してるのよ!」
エルシアの叫びに、ラザンが笑った。
「いいだろう。ならば――理に見られる覚悟を持て。」
塔の照明が落ち、灰光が支配する。
帝都の空に巨大な瞳が浮かび上がる。
それはもはや象徴でも比喩でもなく、
理そのものが“観測者”を見返している光だった。
⸻
灰原。
リュミナは崩れ落ちる。
灰核の光が弱まり、アーレンがその体を抱きとめた。
「……帝国が、理を動かした……」
アーレンは、崩れ落ちる灰を見上げながら、静かに呟いた。
「――世界が、また“覗かれた”。」
⸻
その夜。
帝都ヴァルシュタイン上空、灰雲の狭間で巨大な飛行艦隊が音もなく姿を現す。
符紋を刻んだ船体が灰光を反射し、甲板に無数の符装兵が整列していた。
「遠征群“灰翼隊”――全艦、理標座標へ転移準備。」
通信符の声が響く。
灰理局の紋章を掲げた旗艦《アルト=ゼルヴァ》の甲板で、
ラザンが外套を翻し、塔の方角を見つめていた。
「灰は目覚めた。ならば、我々が“掴み取る”番だ。」
その眼差しは、確信に満ちていた。
帝国は、理を“再現する国”として歩み始める。
――そして、灰の海の向こうで、アーレンもまたそれを感じ取っていた。
「……来るぞ。」
彼の低い声が、灰に沈む夜に溶けた。
灰理局の中枢塔は、深夜にもかかわらず灯を絶やしていなかった。
観測室の壁一面に符波が投影され、灰域からの断続的な報告が乱れ飛んでいる。
緊急指令符には赤い刻印――“部隊壊滅”の報。
エルシア・ファロウは符盤に指を滑らせ、報告文を展開した。
文面には簡潔な一文だけが刻まれている。
《第七観測小隊 灰橋にて全滅。理波爆発を確認。原因不明。》
胸の奥が冷たくなる。
数値化された符波記録が、崩壊の瞬間を克明に残していた。
灰流の逆位相、制御波の破断――まるで“理そのものが反撃した”ようだった。
「……理に、触れすぎた。」
⸻
背後で扉が開く。
黒衣の参謀――ラザン・アルディウスが静かに入室した。
彼の顔には焦りも驚きもない。ただ“観測結果”を見届ける者の冷徹な眼。
「主任。報告は見たか。」
「ええ。……灰が、再び応えたようです。」
「ならば、なおさら確かめねばならん。
“理制御符盤”は完成したな?」
エルシアは唇を噛む。
机の上、実験台には一枚の黒銀の符盤――アーレンの理論を帝国技術で拡張した新型。
人の思考を媒介に灰流へ直接命令を送る、“理の掌握装置”。
「……制御ではありません。これは、干渉です。
観測と指令の境を越えたら、また――」
「越えねば支配はできん。」
ラザンの声が硬く響く。
「灰域で起きたあの現象は、偶発ではない。
“理が命を再生させた”――ならば、それを再現し、利用すればいい。」
「人の命を……理の素材にするつもりですか。」
「秩序のためだ。帝国は灰の再現を恐れない。」
⸻
ラザンは歩み寄り、破壊された符波の映像を見た。
灰の爆発の中、一瞬だけ映った金の光。
それは“彼女”――灰の灯、リュミナの反応だった。
「……美しいな。
命が理を超える瞬間だ。」
「あなたは、まだ理解していない。」
エルシアの声がかすかに震えた。
「理は人に与えられた力じゃない。
人が観測し続ける限り、理は“応える”。
支配しようとすれば、また同じ悲劇が――」
「それでもだ。」
ラザンは言葉を切り、鋭く言い放つ。
「理を支配する者が、世界を救う。
我らはそのためにここにいる。」
⸻
彼が去ったあと、観測室には灰流の音だけが残った。
符盤の光が、微かに脈を打つ。
その波は、人の心拍のように――そして、どこか怯えるように震えていた。
エルシアは、ふと小さく呟いた。
「……アーレン。
あなたが見た“理の底”を、私も見に行くことになるのかもしれない。」
灰の塔が、低く唸るように鳴った。
帝国の夜が、再び“理”を呼び覚ましていく。
夜の灰理局は静寂に包まれていた。
巨大な符盤塔の最上階――観測室には、エルシアただ一人。
窓の外では、首都ヴァルシュタインの灯が淡く霞んでいる。
遠く、灰を運ぶ風の音だけが響いていた。
机上には、完成したばかりの黒銀の符盤。
それはアーレンの理論を基礎に帝国が拡張した、“理制御符盤”の試作機。
その表面には、彼がかつて描いた数式と、帝国軍部が付け加えた命令文が並んでいた。
――「理の位相を固定し、観測者の意志を優先する」。
その一文が、彼女にはどうしても“呪い”のように見えた。
⸻
エルシアはそっと符盤に手を置いた。
符文の線が淡く光り、彼女の指先を照らす。
波が生まれる。理流の音。
それは低い脈動音となって観測室全体に広がった。
「……応答、開始。」
彼女は小さく呟き、通信符を起動する。
だが、いつもの符号音ではなかった。
符盤の中央で、音が“歪んだ”。
――……エルシア。
人の声のようだった。
しかし機械には、そんな出力機能はない。
「……誰?」
返答はない。
代わりに、波形がゆっくりと変化していく。
灰色の線が震え、数値の代わりに“文”を描いた。
《観測者に問う。理は、何を求める?》
⸻
エルシアの胸がざわめく。
符盤の表面に、淡い光の粒――灰が浮かんでいた。
塔の外から風が吹くはずもない。
だが、その灰は確かに“生きている”ように脈打っている。
「……理は求めてなどいない。
求めているのは、人間の方よ。」
彼女は符盤に手を重ね、静かに応えた。
その瞬間、灰の光が強くなった。
《人は理を支配したい。理は人を記録したい。》
「……記録?」
《命の痕跡を残す。それが理の本能。
あなたたちはそれを“制御”と呼ぶ。》
エルシアの背筋に寒気が走った。
符盤は今、まるで“意思”を持っているようだった。
理そのものが、帝国の観測網を通して言葉を紡いでいる。
⸻
彼女は震える手で符盤の光を弱めた。
しかし波は止まらない。
壁面の符文灯が次々と点滅し、灰色の波形が天井を満たしていく。
「……やめなさい。もう充分よ。」
《止められない。
あなたが“聴いた”から。》
音が消えた。
静寂が戻る。
ただ、エルシアの掌には微かな熱――まるで心臓の鼓動のような残滓が残っていた。
⸻
そのとき、扉が開く音。
灰理局副官が入ってきた。
「主任、帝国上層より通達です。
“灰域作戦”が正式に承認されました。明朝には第一部隊が出立します。」
エルシアはゆっくりと振り返った。
瞳の奥には、恐怖と諦めが混じっていた。
「……理を支配しようとする者たちは、きっと理に“観測される”わ。」
「は?」
「いいえ、なんでもないわ。――準備を進めて。」
⸻
副官が去ったあと、彼女はもう一度符盤に触れた。
だが先ほどの光は消え、ただ冷たい金属の感触だけが残る。
エルシアは小さく笑った。
「アーレン。あなたは、この結末を知っていたのね。」
外では、再び灰の風が吹いていた。
ヴァルシュタインの空に、灰の月が浮かぶ。
その光が塔を照らし、理の回路に淡い影を落とした。
――灰理局中央庁舎、地下一階・作戦統制室。
円形の室内には、帝国旗と双頭の鷲の紋章。
壁面の符盤群が脈を打ち、灰色の光が室内を揺らしていた。
中央には一つの巨大な理制御盤。
その前に、ラザン・アルディウスとエルシア・ファロウが立っていた。
床面の投影には、灰域全域の理流図が浮かんでいる。
灰色の地表に、赤い光点がいくつも走る。
それは符眼の分布、そして灰流の乱れを示す――“観測地図”だった。
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「……三隊を北西方面へ展開。
灰理塔跡地を中心に索敵を行え。」
ラザンの声が響く。
その背後で、将校たちが一斉に符盤を操作した。
符文光が波打ち、灰色の立体地図が細かく変化していく。
「塔の残骸から“理残響”を回収できれば、
灰域の観測を恒常化できる。……これが陛下の意志だ。」
エルシアは沈黙していた。
その視線は、投影地図の中央――かつてリゼノス王国があった地に向いていた。
「灰理塔の周囲はまだ不安定です。
符眼の安定波を入れすぎれば、再び“理の反射”が起きます。」
「だからこそ、我々が“制御”する。
理が観測者を拒むなら――観測者を理より高みに置けばいい。」
ラザンは微笑した。
その笑みは、かつてアーレンが見せたものに似ていた。
⸻
沈黙のあと、エルシアが静かに口を開いた。
「……あなたは、理を信じていないのですね。」
「信仰では世界は救えない。
我々は“理”を神から奪った。
ならば、恐れるより先に使いこなすべきだ。」
「それで、どれだけの命を焼いたか……忘れたのですか。」
「理災の犠牲か? 忘れるものか。
だが、あれは失敗ではない――“観測の未熟”だっただけだ。」
ラザンの言葉に、エルシアは唇を噛んだ。
その横で、符盤が低く唸りを上げた。
灰理局の機関音が、まるで生き物の鼓動のように響く。
⸻
「……アーレン・クロードは、理を創ろうとして失敗した。
あなたは、その失敗を繰り返すつもりですか。」
「彼は個人だった。だが、帝国は“秩序”だ。
理を再現できるのは、個の天才ではなく“国家”の意志だ。」
ラザンの瞳には狂気と確信が混じっていた。
その奥に、何かを越えた者だけが持つ“理をも恐れぬ光”があった。
「……理を支配できると信じた瞬間、人は理に支配される。」
「いいや、エルシア。
理に支配されるのは、“理解を恐れる者”だけだ。」
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ラザンが歩み寄り、エルシアの肩に手を置く。
その声は低く、そして冷たかった。
「君は聡明だ。だが、理に怯えすぎている。
恐怖は、観測を曇らせる。
理を恐れる者に、真の支配はできん。」
エルシアは視線を逸らさなかった。
その掌には、符盤の冷たい金属の感触。
指先に、あの夜の“声”が蘇る。
――《観測者に問う。理は、何を求める?》
彼女は小さく、呟いた。
「……理は、あなたを見ているわ。」
「ほう?」
ラザンの眉が動く。
「“観測者”を観測している。
あなたの目が理を測るたび、理もあなたを記録する。」
ラザンはわずかに笑った。
「それで構わん。記録こそ、存在の証だ。」
⸻
作戦灯が点灯する。
灰色の地図上に、三つの赤い光点が拡散した。
灰理局の遠征部隊が、灰域へ向けて出発する合図だった。
将校の報告が響く。
「灰理局第壱・第弐・第参観測隊、出立準備完了!」
「作戦名、“アーク・プロトコル”――理制御実験、開始します!」
ラザンが手を上げた。
「よろしい。――観測を始めろ。」
⸻
符盤の光が増幅し、塔全体が震えた。
灰理局の巨大な装置群が一斉に稼働を始め、
帝都の上空に灰色の環が形成される。
それは理の“瞳”――
世界を覗く巨大な符眼の誕生だった。
⸻
エルシアはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……アーレン。あなたが止めた理を、
今度はこの国が再び開こうとしている。」
塔の影が、彼女の頬を覆った。
その眼差しには、祈りにも似た決意が宿っていた。
――風が止んだ。
灰原を渡る気流が、まるで息を潜めたように静まる。
その異変を、最初に感じ取ったのはリュミナだった。
胸の灰核が、規則正しい鼓動を乱し始めていた。
「……アーレン。灰が、ざわめいてる。」
アーレンは符盤を展開し、理流を読み取る。
灰流の線が乱れ、周期が微妙にずれている。
それは自然の現象ではない。――外部からの干渉だ。
「……来たな。帝国の“観測波”だ。」
⸻
空に、淡い灰光が走る。
それは雲でも風でもなく、世界の理が“軋む”ような閃光だった。
灰の粒子が音を帯び、低い唸りをあげて共鳴する。
ノアが怯えたように耳を塞ぐ。
「なに、これ……! 音が、空から降ってくる!」
「音じゃない、理の反響だ。帝国が――“灰そのもの”を観測している。」
アーレンは歯を食いしばり、符盤の遮断式を起動する。
光の輪が地面を走り、周囲の灰を封じ込めようとする。
だが、理流は止まらない。逆に、彼の符式を“解こう”としていた。
⸻
帝国灰理局・観測塔。
「主任、観測反応あり。灰域全域が応答波を発生――!」
エルシアが符盤を覗き込む。
波形は整っている。乱流ではない。
“灰そのもの”が、帝国の観測に合わせて歌うように動いている。
「……理が、受け入れている……?」
彼女の呟きに、ラザンが薄く笑う。
「見ろ、これが秩序だ。
理は理解を拒まぬ――我々が正しく観測すれば、従うのだ。」
「違う……これは“返答”です。帝国が観測しているのではなく、理が“応えている”。」
「それでいい。ならば、我々は問う者であり続ければいい。」
⸻
灰原。
リュミナの髪がふわりと浮かび、灰の粒が彼女の周囲に集まり始める。
灰核が脈打ち、淡い光が空へと伸びていく。
「……あの光、どこかで見たことがある……」
ノアの声が震える。
「帝国の符眼だ。」
アーレンが答える。
「理標が確立された。灰域の“観測座標”が結ばれたんだ。」
⸻
上空の灰雲が割れ、
光の柱が垂直に降りる。
灰が浮き上がり、世界の重力そのものが歪む。
地面に刻まれた符が、自然に浮かび上がった。
それは誰も描いていないはずの式――
帝国が上空から投影した理式だった。
「……まさか、遠隔制御……!」
アーレンの声が低く響く。
空の光は彼の符盤と干渉し、勝手に数式を書き換えていく。
帝国の観測装置が、アーレン自身の符盤を媒介に理を再現していたのだ。
「やめろ……それは――!」
⸻
リュミナの瞳が金に染まる。
灰核が激しく脈打ち、空気が震える。
「アーレン……理が……“呼んでる”……!」
「応じるな、リュミナ! それは――!」
声が届く前に、光が爆ぜた。
白い閃光が灰原を包み、全ての輪郭を溶かしていく。
灰が空へ吸い上げられ、風が止んだ。
⸻
帝国観測塔。
「主任! 灰域中央、異常反応! 観測波が反転しています!」
「反転? ……理が、我々を観測してるのよ!」
エルシアの叫びに、ラザンが笑った。
「いいだろう。ならば――理に見られる覚悟を持て。」
塔の照明が落ち、灰光が支配する。
帝都の空に巨大な瞳が浮かび上がる。
それはもはや象徴でも比喩でもなく、
理そのものが“観測者”を見返している光だった。
⸻
灰原。
リュミナは崩れ落ちる。
灰核の光が弱まり、アーレンがその体を抱きとめた。
「……帝国が、理を動かした……」
アーレンは、崩れ落ちる灰を見上げながら、静かに呟いた。
「――世界が、また“覗かれた”。」
⸻
その夜。
帝都ヴァルシュタイン上空、灰雲の狭間で巨大な飛行艦隊が音もなく姿を現す。
符紋を刻んだ船体が灰光を反射し、甲板に無数の符装兵が整列していた。
「遠征群“灰翼隊”――全艦、理標座標へ転移準備。」
通信符の声が響く。
灰理局の紋章を掲げた旗艦《アルト=ゼルヴァ》の甲板で、
ラザンが外套を翻し、塔の方角を見つめていた。
「灰は目覚めた。ならば、我々が“掴み取る”番だ。」
その眼差しは、確信に満ちていた。
帝国は、理を“再現する国”として歩み始める。
――そして、灰の海の向こうで、アーレンもまたそれを感じ取っていた。
「……来るぞ。」
彼の低い声が、灰に沈む夜に溶けた。
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