創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第4巻 帝国編・前編 ―灰の秩序―

第4章 灰理局の影

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 ――帝国首都ヴァルシュタイン。

 灰理局の中枢塔は、深夜にもかかわらず灯を絶やしていなかった。
 観測室の壁一面に符波が投影され、灰域からの断続的な報告が乱れ飛んでいる。
 緊急指令符には赤い刻印――“部隊壊滅”の報。

 エルシア・ファロウは符盤に指を滑らせ、報告文を展開した。
 文面には簡潔な一文だけが刻まれている。

 《第七観測小隊 灰橋にて全滅。理波爆発を確認。原因不明。》

 胸の奥が冷たくなる。
 数値化された符波記録が、崩壊の瞬間を克明に残していた。
 灰流の逆位相、制御波の破断――まるで“理そのものが反撃した”ようだった。

「……理に、触れすぎた。」



 背後で扉が開く。
 黒衣の参謀――ラザン・アルディウスが静かに入室した。
 彼の顔には焦りも驚きもない。ただ“観測結果”を見届ける者の冷徹な眼。

「主任。報告は見たか。」

「ええ。……灰が、再び応えたようです。」

「ならば、なおさら確かめねばならん。
 “理制御符盤”は完成したな?」

 エルシアは唇を噛む。
 机の上、実験台には一枚の黒銀の符盤――アーレンの理論を帝国技術で拡張した新型。
 人の思考を媒介に灰流へ直接命令を送る、“理の掌握装置”。

「……制御ではありません。これは、干渉です。
 観測と指令の境を越えたら、また――」

「越えねば支配はできん。」
 ラザンの声が硬く響く。
「灰域で起きたあの現象は、偶発ではない。
 “理が命を再生させた”――ならば、それを再現し、利用すればいい。」

「人の命を……理の素材にするつもりですか。」

「秩序のためだ。帝国は灰の再現を恐れない。」



 ラザンは歩み寄り、破壊された符波の映像を見た。
 灰の爆発の中、一瞬だけ映った金の光。
 それは“彼女”――灰の灯、リュミナの反応だった。

「……美しいな。
 命が理を超える瞬間だ。」

「あなたは、まだ理解していない。」
 エルシアの声がかすかに震えた。
「理は人に与えられた力じゃない。
 人が観測し続ける限り、理は“応える”。
 支配しようとすれば、また同じ悲劇が――」

「それでもだ。」
 ラザンは言葉を切り、鋭く言い放つ。
「理を支配する者が、世界を救う。
 我らはそのためにここにいる。」



 彼が去ったあと、観測室には灰流の音だけが残った。
 符盤の光が、微かに脈を打つ。
 その波は、人の心拍のように――そして、どこか怯えるように震えていた。

 エルシアは、ふと小さく呟いた。

「……アーレン。
 あなたが見た“理の底”を、私も見に行くことになるのかもしれない。」

 灰の塔が、低く唸るように鳴った。
 帝国の夜が、再び“理”を呼び覚ましていく。


 夜の灰理局は静寂に包まれていた。
 巨大な符盤塔の最上階――観測室には、エルシアただ一人。
 窓の外では、首都ヴァルシュタインの灯が淡く霞んでいる。
 遠く、灰を運ぶ風の音だけが響いていた。

 机上には、完成したばかりの黒銀の符盤。
 それはアーレンの理論を基礎に帝国が拡張した、“理制御符盤”の試作機。
 その表面には、彼がかつて描いた数式と、帝国軍部が付け加えた命令文が並んでいた。

 ――「理の位相を固定し、観測者の意志を優先する」。

 その一文が、彼女にはどうしても“呪い”のように見えた。



 エルシアはそっと符盤に手を置いた。
 符文の線が淡く光り、彼女の指先を照らす。
 波が生まれる。理流の音。
 それは低い脈動音となって観測室全体に広がった。

「……応答、開始。」

 彼女は小さく呟き、通信符を起動する。
 だが、いつもの符号音ではなかった。
 符盤の中央で、音が“歪んだ”。

 ――……エルシア。

 人の声のようだった。
 しかし機械には、そんな出力機能はない。

「……誰?」

 返答はない。
 代わりに、波形がゆっくりと変化していく。
 灰色の線が震え、数値の代わりに“文”を描いた。

 《観測者に問う。理は、何を求める?》



 エルシアの胸がざわめく。
 符盤の表面に、淡い光の粒――灰が浮かんでいた。
 塔の外から風が吹くはずもない。
 だが、その灰は確かに“生きている”ように脈打っている。

「……理は求めてなどいない。
 求めているのは、人間の方よ。」

 彼女は符盤に手を重ね、静かに応えた。
 その瞬間、灰の光が強くなった。

 《人は理を支配したい。理は人を記録したい。》

「……記録?」

 《命の痕跡を残す。それが理の本能。
 あなたたちはそれを“制御”と呼ぶ。》

 エルシアの背筋に寒気が走った。
 符盤は今、まるで“意思”を持っているようだった。
 理そのものが、帝国の観測網を通して言葉を紡いでいる。



 彼女は震える手で符盤の光を弱めた。
 しかし波は止まらない。
 壁面の符文灯が次々と点滅し、灰色の波形が天井を満たしていく。

 「……やめなさい。もう充分よ。」

 《止められない。
 あなたが“聴いた”から。》

 音が消えた。
 静寂が戻る。
 ただ、エルシアの掌には微かな熱――まるで心臓の鼓動のような残滓が残っていた。



 そのとき、扉が開く音。
 灰理局副官が入ってきた。

「主任、帝国上層より通達です。
 “灰域作戦”が正式に承認されました。明朝には第一部隊が出立します。」

 エルシアはゆっくりと振り返った。
 瞳の奥には、恐怖と諦めが混じっていた。

「……理を支配しようとする者たちは、きっと理に“観測される”わ。」

「は?」

「いいえ、なんでもないわ。――準備を進めて。」



 副官が去ったあと、彼女はもう一度符盤に触れた。
 だが先ほどの光は消え、ただ冷たい金属の感触だけが残る。

 エルシアは小さく笑った。
「アーレン。あなたは、この結末を知っていたのね。」

 外では、再び灰の風が吹いていた。
 ヴァルシュタインの空に、灰の月が浮かぶ。
 その光が塔を照らし、理の回路に淡い影を落とした。



 ――灰理局中央庁舎、地下一階・作戦統制室。
 円形の室内には、帝国旗と双頭の鷲の紋章。
 壁面の符盤群が脈を打ち、灰色の光が室内を揺らしていた。
 中央には一つの巨大な理制御盤。
 その前に、ラザン・アルディウスとエルシア・ファロウが立っていた。

 床面の投影には、灰域全域の理流図が浮かんでいる。
 灰色の地表に、赤い光点がいくつも走る。
 それは符眼の分布、そして灰流の乱れを示す――“観測地図”だった。



「……三隊を北西方面へ展開。
 灰理塔跡地を中心に索敵を行え。」

 ラザンの声が響く。
 その背後で、将校たちが一斉に符盤を操作した。
 符文光が波打ち、灰色の立体地図が細かく変化していく。

「塔の残骸から“理残響”を回収できれば、
 灰域の観測を恒常化できる。……これが陛下の意志だ。」

 エルシアは沈黙していた。
 その視線は、投影地図の中央――かつてリゼノス王国があった地に向いていた。

「灰理塔の周囲はまだ不安定です。
 符眼の安定波を入れすぎれば、再び“理の反射”が起きます。」

「だからこそ、我々が“制御”する。
 理が観測者を拒むなら――観測者を理より高みに置けばいい。」

 ラザンは微笑した。
 その笑みは、かつてアーレンが見せたものに似ていた。



 沈黙のあと、エルシアが静かに口を開いた。

「……あなたは、理を信じていないのですね。」

「信仰では世界は救えない。
 我々は“理”を神から奪った。
 ならば、恐れるより先に使いこなすべきだ。」

「それで、どれだけの命を焼いたか……忘れたのですか。」

「理災の犠牲か? 忘れるものか。
 だが、あれは失敗ではない――“観測の未熟”だっただけだ。」

 ラザンの言葉に、エルシアは唇を噛んだ。
 その横で、符盤が低く唸りを上げた。
 灰理局の機関音が、まるで生き物の鼓動のように響く。



「……アーレン・クロードは、理を創ろうとして失敗した。
 あなたは、その失敗を繰り返すつもりですか。」

「彼は個人だった。だが、帝国は“秩序”だ。
 理を再現できるのは、個の天才ではなく“国家”の意志だ。」

 ラザンの瞳には狂気と確信が混じっていた。
 その奥に、何かを越えた者だけが持つ“理をも恐れぬ光”があった。

「……理を支配できると信じた瞬間、人は理に支配される。」

「いいや、エルシア。
 理に支配されるのは、“理解を恐れる者”だけだ。」



 ラザンが歩み寄り、エルシアの肩に手を置く。
 その声は低く、そして冷たかった。

「君は聡明だ。だが、理に怯えすぎている。
 恐怖は、観測を曇らせる。
 理を恐れる者に、真の支配はできん。」

 エルシアは視線を逸らさなかった。
 その掌には、符盤の冷たい金属の感触。
 指先に、あの夜の“声”が蘇る。

 ――《観測者に問う。理は、何を求める?》

 彼女は小さく、呟いた。

「……理は、あなたを見ているわ。」

「ほう?」
 ラザンの眉が動く。

「“観測者”を観測している。
 あなたの目が理を測るたび、理もあなたを記録する。」

 ラザンはわずかに笑った。
「それで構わん。記録こそ、存在の証だ。」



 作戦灯が点灯する。
 灰色の地図上に、三つの赤い光点が拡散した。
 灰理局の遠征部隊が、灰域へ向けて出発する合図だった。

 将校の報告が響く。

「灰理局第壱・第弐・第参観測隊、出立準備完了!」
「作戦名、“アーク・プロトコル”――理制御実験、開始します!」

 ラザンが手を上げた。
「よろしい。――観測を始めろ。」



 符盤の光が増幅し、塔全体が震えた。
 灰理局の巨大な装置群が一斉に稼働を始め、
 帝都の上空に灰色の環が形成される。

 それは理の“瞳”――
 世界を覗く巨大な符眼の誕生だった。



 エルシアはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。

「……アーレン。あなたが止めた理を、
 今度はこの国が再び開こうとしている。」

 塔の影が、彼女の頬を覆った。
 その眼差しには、祈りにも似た決意が宿っていた。



 ――風が止んだ。

 灰原を渡る気流が、まるで息を潜めたように静まる。
 その異変を、最初に感じ取ったのはリュミナだった。
 胸の灰核が、規則正しい鼓動を乱し始めていた。

「……アーレン。灰が、ざわめいてる。」

 アーレンは符盤を展開し、理流を読み取る。
 灰流の線が乱れ、周期が微妙にずれている。
 それは自然の現象ではない。――外部からの干渉だ。

「……来たな。帝国の“観測波”だ。」



 空に、淡い灰光が走る。
 それは雲でも風でもなく、世界の理が“軋む”ような閃光だった。
 灰の粒子が音を帯び、低い唸りをあげて共鳴する。

 ノアが怯えたように耳を塞ぐ。
「なに、これ……! 音が、空から降ってくる!」

「音じゃない、理の反響だ。帝国が――“灰そのもの”を観測している。」

 アーレンは歯を食いしばり、符盤の遮断式を起動する。
 光の輪が地面を走り、周囲の灰を封じ込めようとする。
 だが、理流は止まらない。逆に、彼の符式を“解こう”としていた。



 帝国灰理局・観測塔。

「主任、観測反応あり。灰域全域が応答波を発生――!」

 エルシアが符盤を覗き込む。
 波形は整っている。乱流ではない。
 “灰そのもの”が、帝国の観測に合わせて歌うように動いている。

「……理が、受け入れている……?」

 彼女の呟きに、ラザンが薄く笑う。
「見ろ、これが秩序だ。
 理は理解を拒まぬ――我々が正しく観測すれば、従うのだ。」

「違う……これは“返答”です。帝国が観測しているのではなく、理が“応えている”。」

「それでいい。ならば、我々は問う者であり続ければいい。」



 灰原。

 リュミナの髪がふわりと浮かび、灰の粒が彼女の周囲に集まり始める。
 灰核が脈打ち、淡い光が空へと伸びていく。

「……あの光、どこかで見たことがある……」
 ノアの声が震える。

「帝国の符眼だ。」
 アーレンが答える。
 「理標が確立された。灰域の“観測座標”が結ばれたんだ。」



 上空の灰雲が割れ、
 光の柱が垂直に降りる。

 灰が浮き上がり、世界の重力そのものが歪む。
 地面に刻まれた符が、自然に浮かび上がった。
 それは誰も描いていないはずの式――
 帝国が上空から投影した理式だった。

「……まさか、遠隔制御……!」

 アーレンの声が低く響く。

 空の光は彼の符盤と干渉し、勝手に数式を書き換えていく。
 帝国の観測装置が、アーレン自身の符盤を媒介に理を再現していたのだ。

「やめろ……それは――!」



 リュミナの瞳が金に染まる。
 灰核が激しく脈打ち、空気が震える。

「アーレン……理が……“呼んでる”……!」

「応じるな、リュミナ! それは――!」

 声が届く前に、光が爆ぜた。
 白い閃光が灰原を包み、全ての輪郭を溶かしていく。
 灰が空へ吸い上げられ、風が止んだ。



 帝国観測塔。

「主任! 灰域中央、異常反応! 観測波が反転しています!」

「反転? ……理が、我々を観測してるのよ!」

 エルシアの叫びに、ラザンが笑った。
「いいだろう。ならば――理に見られる覚悟を持て。」

 塔の照明が落ち、灰光が支配する。
 帝都の空に巨大な瞳が浮かび上がる。
 それはもはや象徴でも比喩でもなく、
 理そのものが“観測者”を見返している光だった。



 灰原。
 リュミナは崩れ落ちる。
 灰核の光が弱まり、アーレンがその体を抱きとめた。

「……帝国が、理を動かした……」

 アーレンは、崩れ落ちる灰を見上げながら、静かに呟いた。

「――世界が、また“覗かれた”。」



 その夜。
 帝都ヴァルシュタイン上空、灰雲の狭間で巨大な飛行艦隊が音もなく姿を現す。
 符紋を刻んだ船体が灰光を反射し、甲板に無数の符装兵が整列していた。

「遠征群“灰翼隊”――全艦、理標座標へ転移準備。」

 通信符の声が響く。
 灰理局の紋章を掲げた旗艦《アルト=ゼルヴァ》の甲板で、
 ラザンが外套を翻し、塔の方角を見つめていた。

「灰は目覚めた。ならば、我々が“掴み取る”番だ。」

 その眼差しは、確信に満ちていた。
 帝国は、理を“再現する国”として歩み始める。
 ――そして、灰の海の向こうで、アーレンもまたそれを感じ取っていた。

「……来るぞ。」

 彼の低い声が、灰に沈む夜に溶けた。
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