創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第4巻 帝国編・前編 ―灰の秩序―

第3章 灰風の追跡者

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 ――灰理塔が崩れてから、三日が経った。

 灰原を渡る風は、乾いて冷たかった。
 灰は舞い上がっては沈み、どこまでも地平を覆っている。
 世界の輪郭がぼやけ、遠くの山も、かつての街道も灰に呑まれていた。

 リュミナの胸の灰核が、時折かすかに光を放つ。
 塔で受けた“理の残響”が、まだ彼女の内で続いているのだ。
 そのたびに、アーレンは符盤を覗き、流れを確認していた。

「脈が速いな。理波の収束がまだ不安定だ。」

「……これ、痛くはないけど、重い感じがするの。」
 リュミナは胸に手を当て、小さく息をついた。

「塔が崩れた時の波がまだ体に残ってるんだろう。
 無理はするな。灰は、感情にも反応する。」

 その会話を聞いていたノアが、不安げに辺りを見回した。
「……こんな場所、ずっと歩いてたら、どこまで行けるのかな。」

 アーレンは笑みを浮かべた。
「それを確かめるために歩いてるんだ。」



 昼過ぎ。

 灰原の空が、突然、音もなく光った。
 瞬間、アーレンは足を止める。
 符盤の端に、異常な波形――人工の理波が走った。

「……帝国の観測波だ。」

「観測……波?」
 ノアが首をかしげる。

「理を測るための“目”だ。
 帝国は、灰理塔の異常を感知して動き出したらしい。
 今の波形、距離からしてこの灰域の上空――すぐ近くに来てる。」

 アーレンは符盤を閉じ、周囲の灰を一握り掴んだ。
 指の間から、灰が細い筋を描いて流れ落ちる。
 その動きが――風ではなく“何かの力”に導かれているようだった。



 リュミナが顔を上げる。
 灰の空に、ゆっくりと黒い影が浮かび上がった。

 最初は一つ、そして二つ――やがて十を超える。
 金属質の球体が浮遊しながら、赤い光を点滅させていた。
 表面には幾何学の符文が刻まれ、中心部の光が地面をなぞる。

 アーレンは息を詰めた。
「符眼(ふがん)だ。
 帝国の観測装置……いや、“監視兵器”だな。」

 球体の一つが急降下し、地表を這うように滑る。
 灰を巻き上げながら、赤い光がアーレンたちの進行方向を走査する。



「見つかった?」
 ノアが声を潜める。

「ああ。灰理塔の波形を追ってる。
 塔が崩れた時に漏れた“理の座標”が、俺たちの位置を結びつけたんだ。」

 リュミナの灰核が、微かに脈を打った。
「……私、呼ばれてる。灰が……声を出してる。」

「落ち着け。呼ばれているのは“理”の残響だ。」
 アーレンは符盤を構えた。
 光の輪が空中に展開し、灰流の波を乱すように符を打ち込む。

「灰の流れをずらす。符眼の波を狂わせるんだ。」

 指先が素早く動く。
 淡い光が地表に走り、風が反転した。
 灰が旋回し、符眼の赤光を一瞬だけ遮る。



「いまだ。北西へ抜けるぞ。」
 アーレンが短く指示を出す。

「北西って……灰嵐の峡谷だよ!」
 ノアが悲鳴を上げる。

「だからいい。
 符眼は灰嵐の理乱を解析できない。
 “理を読めない場所”なら、奴らの目も届かない。」

 リュミナがうなずき、足元の灰を踏みしめる。
 灰核が淡く光り、灰の粒が二人の足跡を覆い隠していく。

「……アーレン、行こう。」

 風が再び吹いた。
 灰が地平を這い、光を乱反射させながら渦を巻く。



 その背後――
 符眼群の中央で、一際大きな球体が動きを止めた。

 内部に光が走り、通信符が展開される。

『目標、灰域北西にて符応反応を確認。理残響値、臨界域。』
『灰理局に報告――追撃部隊、発進。』

 球体の瞳が赤く輝き、風を裂いて飛び立った。



 その頃、灰原を渡る三人の姿があった。
 アーレンの符盤が淡く光り、灰流を制御しながら足場を確保する。
 リュミナが背後を振り返ると、空に無数の赤い点が浮かんでいた。

「追ってきてる……!」

「もう止まらない。
 “理を観る国”が、俺たちを見つけた。」

 アーレンの声は静かだった。
 だがその目には、かすかな怒りが宿っていた。

 灰原の風が唸り、符眼の光が空を裂く。
 世界が、再び理の名のもとに動き出した。


 灰の風が止まった。
 その静寂の中、金属の靴音が響く。

 灰原の向こうから、黒鉄の装甲服に身を包んだ兵士たちが現れた。
 肩と胸には符文の刻印。帝国灰理局直属――灰紋隊(かいもんたい)。
 背には符装銃、腰には短符刀。
 彼らは灰を踏みしめ、理を測る者の歩幅で進んでくる。



 アーレンは符盤を展開した。
 光の円が地表を走り、灰流の波形を解析する。
 数十メートル先の灰が、兵士たちの歩みに合わせてわずかに振動していた。

「……符眼の位置波と連動してるな。
 視界だけじゃない、地形の“理構造”ごと測ってる。」

 リュミナが眉を寄せた。
「どうすれば……止められる?」

「止める必要はない。」
 アーレンは指先を光の符に滑らせた。
 灰がざわめく。

「理を“曲げる”。」



 符盤が一瞬、悲鳴のような音を立てた。
 周囲の灰が舞い上がり、空気が歪む。
 アーレンの掌から伸びる符線が灰流を掴み、逆流させる。

 灰は、風のように流れるもの。
 だが今、それが“牙”を持った。

 渦が起こり、帝国兵の一人を飲み込む。
 灰が鎧の隙間に入り込み、符刻を焼き切った。
 金属が軋み、倒れた兵の姿が灰に沈む。



「アーレン、それ――!」
 リュミナの声が震える。

「……わかってる!」

 彼の腕に刻まれた符文が赤く焼ける。
 符盤が過負荷を起こし、灰が制御を超えて動き始めていた。
 理の流れが、命の意志を持ったかのように暴れ回る。

 兵たちが叫び、符装銃を構えた。
 撃ち出された符弾が光の矢となって灰を裂く。
 理と理の衝突。
 灰が火花を散らし、空に赤い線を描いた。



「ノア、下がれ!」
 アーレンの叫びと同時に、爆音が響いた。
 符弾の一発が近くの灰岩を砕き、破片がノアの頬をかすめた。
 血が、一筋。

 ノアは膝をつき、手を押さえる。
「……いたい……!」

 リュミナが駆け寄り、ノアを抱き寄せる。
 灰核が強く輝き、周囲の灰が一瞬だけ静止した。

 空気が、凍った。



 兵たちの符弾が止まる。
 風の代わりに、灰が空を覆った。
 リュミナの髪がゆっくりと舞い上がり、瞳の奥に淡い光がともる。

「やめて……!」

 灰核が共鳴した。
 灰原全体が振動し、兵士たちの符盤が一斉にエラーを起こす。
 符刻が焼け、制御波が逆流。

 灰が、牙のように立ち上がった。



 アーレンがリュミナに手を伸ばす。
「だめだ、止めろリュミナ! その流れは――!」

 彼女は振り返らなかった。
 ただ、涙を流していた。

「……どうして、壊そうとするの……!」

 灰の壁が一気に広がり、兵たちを包み込む。
 音が消える。
 灰が、世界を丸ごと呑み込んだ。



 次の瞬間、光が弾けた。
 衝撃波が走り、アーレンたちは吹き飛ばされる。
 灰が空高く舞い上がり、視界を覆う。

 アーレンは這うように立ち上がった。
 符盤の表面はひび割れ、灰に焼け焦げている。

「……制御を……失った……」

 その声に、リュミナは息を呑んだ。
 自分の手のひらに、まだ淡い光が残っていた。
 それが“命を守る力”なのか、“理を壊す力”なのか――彼女には分からなかった。



 灰嵐が止み、風が戻る。
 残されたのは、焼け焦げた符装と灰に沈んだ鉄片。

 ノアが震える声で呟いた。
「……みんな、消えたの?」

「違う。」
 アーレンは符盤を閉じ、灰の波を見つめた。

「理に“還った”。
 灰は奪うんじゃない。
 ただ、元の記録へ戻しただけだ。」



 リュミナは膝を抱え、沈黙していた。
 彼女の中で、灰核が小さく鳴る。
 それは泣き声にも似ていた。

 灰の嵐が止んだあと、世界は音を失っていた。

 灰原に倒れた鉄片の群れが、朝の光を鈍く反射している。
 空気は静まり返り、ただ遠くで、灰がさらさらと流れる音だけが響いていた。

 アーレンは灰の中に膝をつき、焼け焦げた符盤を拾い上げた。
 ひび割れた表面を指でなぞる。符刻は半分以上が消えていた。

「……制御率が四割以下か。
 符盤がもう、理流を読み切れない。」

 彼の声は掠れていた。
 理を支配するつもりはなかった。
 だが、灰は人の意志を測りもしない。
 ただ“応じる”だけだ――その結果が、これだった。



 リュミナは崩れた岩の上に座り、両手を膝に置いていた。
 灰核の光はほとんど消えている。
 けれど、その内側では何かが“さざめいて”いた。

「……ねえ、アーレン。」

「どうした。」

「さっき、灰が……喋った気がしたの。」

 アーレンの手が止まる。
「“喋った”?」

「うん。言葉じゃないけど……“だいじょうぶ”って。」
 彼女の声は震えていた。
 まるで、誰かの夢を語るように。



 アーレンはしばらく黙ってから、符盤を再起動した。
 残存波形を解析する。
 符面に微弱な波――リュミナの灰核から発せられた“信号”が残っていた。

「……確かに、反応がある。」

「ほんとに?」
 ノアが身を乗り出した。

「ああ。理の残響が、彼女に語りかけた。
 塔で崩壊した理心核の断片……それがまだ、どこかに漂ってる。」

「じゃあ、それが……リュミナを呼んでる?」

「そうかもしれない。」
 アーレンは目を細める。
 灰の流れがわずかに北を指していた。



 その頃――
 遠く帝国灰理局・中央観測塔。

「主任、灰域北西部より“自律符波”を検出!」
「またか?」

 エルシアが符盤を覗き込む。
 波形はなめらかで、周期的――まるで“心臓の鼓動”のようだった。

「……この波、まさか。」

 背後からラザンの声が響いた。
「間違いない。理災時の記録と一致している。
 理が再び“人を観測”し始めたんだ。」

「ですが、まだ規模は小さい。発振源は単一です。」

「単一なら捕まえればいい。」
 ラザンは冷たく笑った。
「“灰の灯”を生け捕りにしろ。理の記録ごと連れ帰る。」



 灰原。

 風が再び吹いた。
 リュミナが顔を上げる。
 灰の粒が、光のようにきらめきながら彼女の手のひらに落ちた。

 その一粒が、微かに震えた。

『……リュ……ミナ……』

 かすかな声。
 彼女は息を呑んだ。

「い、今……!」

 アーレンが振り返る。
「聞こえたのか?」

「うん……誰かが……呼んでる。
 でも、“灰の中”から。」



 灰が舞い上がり、渦を描いた。
 彼女の灰核がそれに呼応するように脈を打つ。
 符盤が自動的に反応し、解析式が浮かび上がった。

「理の断片が反応してる……場所は、北だ。」
 アーレンが呟く。

「北……?」
 ノアが震える声で問う。

「ああ。灰理塔よりもさらに向こう――“灰の北”と呼ばれる領域だ。」

 リュミナは目を細めた。
 灰の風が彼女の髪を撫で、光を散らす。

「……そこに、“声”の主がいるの?」

「もしくは――“理”そのものだ。」



 沈黙。
 灰原に残るのは、風の音と心臓の鼓動だけだった。

 アーレンは符盤を閉じ、立ち上がる。
 視線は北へ。

「行こう。」

 リュミナが頷き、ノアが不安げに後ろを見た。
 遠く、灰煙の向こうに赤い閃光が揺れていた。

 帝国の符眼群。
 追撃は、まだ終わっていない。

 灰原の先に、途切れた街道があった。
 地平線のように広がる灰の海を渡り、崩れ落ちた石橋が姿を現す。
 その向こうは深い渓谷。灰流が川のように流れ込み、底は見えない。

「ここが……“灰の橋”か。」
 アーレンが息を整えた。

 かつて王国と帝国を繋いだ街道の名残。
 理災の時に崩れ、灰流に沈んだ。
 今は灰が橋を形づくっており、まるで理そのものが“記録をなぞっている”ようだった。



 リュミナが足元を見下ろす。
 灰の層がゆらゆらと揺れ、流れるたびに微かな光を帯びる。

「……これ、歩いても大丈夫?」

「安定してる。理が形を保っているうちは、崩れない。」
 アーレンが答える。
「ただし、乱せば――沈む。」

 ノアは喉を鳴らした。
「じゃあ、渡るの?」

「渡るしかない。」
 アーレンは符盤を構えた。
「帝国が追ってくる。ここで止まれば、挟まれる。」



 その瞬間だった。
 灰原の風が一変する。
 渦を巻くように逆流し、橋の反対側から複数の符文光が点灯した。

「……来たな。」

 アーレンの声と同時に、閃光が走る。
 灰の橋に符弾が突き刺さり、光の柱が立ち上がる。

「帝国符術師部隊!」
 ノアが叫ぶ。

 渓谷の向こう側、黒衣の符術師たちが陣形を組んでいた。
 手にした符盤が展開され、橋の理流を“逆制御”している。



「符盤をあんな風に……!」
 アーレンが目を見開く。
 兵たちの符盤に刻まれた文様――
 それは、彼が学院時代に完成させた理式そのものだった。

 対流式符文構造・連環理流固定式。
 ――まさしく、自分が書いた式だ。

「まさか……帝国が、俺の研究を……!」

 符盤が一斉に発光する。
 橋の理流が逆巻き、灰が弾けた。



「下がって!」
 アーレンが叫ぶと同時に、リュミナが両手を突き出した。
 灰核が輝き、空気が振動する。

 瞬間、彼女の周囲に光の膜が広がった。
 灰が壁のように立ち上がり、符弾を受け止める。

「……これは……!」
 アーレンは息を呑む。

 灰の防壁――理の流れを“遮断”している。
 理を理で打ち消す。
 人間には不可能とされてきた、理の“防御転換”だった。



「リュミナ……お前、どうやって――」

「わかんない。でも、“守らなきゃ”って思ったら、灰が……動いたの。」
 彼女の声は震えていたが、その瞳は確かに光を宿していた。

 帝国符術師たちが次の符文を展開する。
 今度は灰流を切り裂くような鋭い符波。
 灰が共鳴し、盾が軋む。

「耐えられない!」
 ノアが叫ぶ。

「橋を崩す!」
 アーレンは叫び、符盤を叩きつけた。



 符盤が赤く光り、理流が逆転する。
 橋の灰がひび割れ、崩れ落ちる音が響いた。
 帝国兵の一部が足を取られ、渓谷へと沈んでいく。

 灰の風がうねり、渦が立つ。
 アーレンはリュミナの手を掴み、ノアを抱えて跳んだ。

 灰の壁が彼らを包み、落下の衝撃を和らげる。
 下方には灰の川が流れ、彼らはその上に転がり込むように着地した。



 橋の上では、帝国符術師の一人が怒声を上げた。
「灰理制御波、完全に破断! 理構造が……崩壊していく!」

 上空の符眼が光を瞬かせ、データを収集している。
 灰理局への報告が、即座に送信された。

『目標、灰流制御能力を確認。対象、理防御式を発動。』
『符理構造、アーレン・クロード論文と一致。』



 灰の川を流されながら、アーレンは息を荒げていた。
 符盤の光は弱く、腕には火傷のような痕が浮かんでいる。

「帝国は、俺たちの理を盗んだ……。」
 その声には怒りではなく、静かな絶望が滲んでいた。

 リュミナはその横顔を見つめていた。
 灰核が脈を打ち、まるで共鳴するように微かに輝く。

「……だったら、取り戻そう。
 “理”は、あなたのものなんでしょ?」

 アーレンは答えず、ただ灰の流れを見つめていた。
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