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第4巻 帝国編・前編 ―灰の秩序―
第8章 灰脈の息吹
しおりを挟む――灰が、流れなくなっていた。
アーレンは符盤を開き、針のような灰粒の動きを見つめていた。
いつもなら、灰は風に乗ってゆっくりと螺旋を描く。
だが、今は空気そのものが凍ったように、静止している。
「……灰流が、止まってる。」
小さく呟く。
符盤の波形は平坦で、脈がない。まるで世界が息を止めたようだった。
⸻
灰域の外れ、崩れた街道脇の洞窟。
そこが、彼らの今の住処だった。
灰岩を削って作った炉の上に、淡い光を放つ灰石が積まれている。
それが熱と光をわずかに生み、彼らの一日の営みを支えていた。
「水、できたよ!」
ノアが壊れた金属缶を両手で抱え、誇らしげに笑う。
缶の中では、符式で濾過された灰水がかすかに青く光っていた。
アーレンはうなずき、符盤の端にメモを残す。
《濾過成功。符構式No.3、灰反応率低下継続。理流不活性。》
“理が眠っている”――そうしか言いようがなかった。
⸻
リュミナは炉のそばで灰を掬っていた。
掌の中の灰が淡く脈を打ち、小さな光点が浮かぶ。
それは芽吹く寸前の“灰苔(かいごけ)”。
理災後にだけ現れる、光を食むように生きる不思議な植物だ。
「ねぇ、見て。少しだけ動いたの。生きてるんだよ。」
アーレンはそっと彼女の手を覗き込み、頷いた。
「理流が鈍ってても、まだ“命”は残ってる。
……理は沈黙しても、世界は生きようとしてるんだ。」
リュミナは微笑んだ。
けれど、灰核の光は弱かった。
それはまるで、彼女の命そのものが“灰の眠り”に引き込まれているかのように。
⸻
夜。
外の風が止み、洞窟の奥に静寂が満ちていく。
ノアは毛布代わりの布の下で小さく寝息を立てていた。
アーレンは焚き火の名残の前で符盤を広げる。
いつものように灰流を測ろうとしたが、針はまったく動かない。
理の呼吸が、ない。
「……誰かが、蓋をしたな。」
誰に言うでもなく呟いた。
リュミナが火の向こうから顔を上げる。
「蓋?」
「そうだ。理の流れがここまで鈍るなんて、人為的だ。
――帝国か、あるいは“理そのもの”が、自らを閉ざしたのか。」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、胸に手を当てる。
「でも、まだ……感じるの。
理は眠ってるだけ。夢を見てるみたいに、静かに……。」
アーレンは小さく頷き、符盤を閉じた。
⸻
洞窟の外に出ると、灰の空が広がっていた。
夜なのに、どこか白い。
風もなく、音もない。
リュミナが外へ出てきて、空を見上げた。
「……ねぇ、あれ、星?」
彼女の指の先に、ひとすじの光。
だがそれは星ではなかった。
灰雲を突き抜け、遠く地平にゆっくりと沈んでいく光――
まるで世界が最後の息を吐くような、淡い残光だった。
「……いや。」
アーレンは静かに首を振る。
「星は、もうずっと前に消えたよ。」
灰の光が彼の瞳に映り込む。
それはどこか、遠い記憶を思い出しているようだった。
⸻
風がひとすじ、洞窟に吹き込む。
リュミナが振り返ると、灰苔の芽がわずかに光を放った。
“理”がわずかに息を吹き返したように。
アーレンはその光を見つめたまま、呟く。
「……眠ってるだけなら、まだ起こせる。
理が夢を見てるなら、その続きを、俺たちが見せてやればいい。」
その声に、リュミナは微笑んだ。
灰の空の下、淡い灯りが三つだけ、息をしていた。
――帝都ヴァルシュタイン。
空が白かった。
雪ではない。灰だ。
理封令が発令されて以来、空から絶えず降り注ぐ“無色の灰”が街を覆い、
かつての帝都はまるで墓標のように静まり返っていた。
街路に人影はない。
符灯も、通信符も、全ての符術機構が停止していた。
理を通す導管が封鎖され、灰理塔は沈黙している。
音のない都。
それが、「理封」の代償だった。
⸻
帝国灰理局――かつての中央塔は、今や“局庁舎”と呼ばれていた。
理制御は全面停止、観測装置の大半は封印。
それでも、局長執務室だけは淡い光を放っている。
エルシア・ファロウ。
帝国理災を生き延びた唯一の符術研究者であり、
今や帝国暫定統治評議会の命により「灰理局長」となった女。
机の上には、破損した符盤の欠片。
それを光にかざすと、かすかに灰色の脈が走る。
「……まだ、生きている。」
彼女は小さく呟いた。
理は死なない。
けれど、人はそれを“使う”ことをやめた。
⸻
背後の扉が開く。
入ってきたのは、灰翼隊副官だったヴェルド。
今は軍籍を外され、理封軍警の警護主任としてエルシアに仕えていた。
「局長。封印区画の巡回、完了しました。」
「どうだった?」
「灰導管の一部に脈動があります。符盤からの共鳴ではなく……自然反応のようです。」
エルシアはわずかに顔を上げた。
「自然反応……灰域との同期、まだ途絶えていないのね。」
「封印を強化しますか?」
「いいえ。そのままで。」
「しかし、再び“理災”が――」
「……あれは災厄じゃない。応答よ。」
ヴェルドは沈黙した。
彼女の瞳には、かつての理塔でアーレンと見た“灰の光”が映っていた。
⸻
灰理局中枢封印室。
床一面に理封陣が刻まれ、無数の符刻が光を失って沈んでいる。
中央には一つの巨大な封印塔――
その内部には、崩壊した理制御符盤の断片が静かに鎮座していた。
エルシアはその前に立ち、手をかざした。
灰色の光が掌に集まり、封印陣の表面をかすかに照らす。
「……アーレン。あなたの理が、まだここに息をしてる。」
呟く声は誰にも届かない。
ただ、灰だけが応えるように舞い上がる。
⸻
封印塔の側面に刻まれた銘文が、わずかに光った。
《理は沈黙せよ。人は記録せよ。》
それが、帝国理封令の第一条だった。
だがエルシアはその文字を見つめ、唇を噛む。
「沈黙させるのではなく、“聞く”べきだったのよ……」
符盤の欠片を手に取ると、そこにかすかな脈動が走った。
まるで、遠くから呼びかける声のように。
――エルシア。
聞こえた気がした。
理封の結界を隔てて、灰の向こうから。
彼女は思わず封印塔に手を置いた。
灰がふわりと舞い、指先を包む。
「……あなた、まだ“観ている”のね。」
⸻
その夜。
帝都の空に、封印塔から一本の光柱が立ち上がった。
理封結界の余波――
“理”が、閉ざされたままでもなお世界に干渉している証。
街の誰もがそれを見上げ、息を呑んだ。
だがエルシアはただ、静かにその光を見つめながら呟いた。
「……理は、生きている。
だから私は、まだ終わらせない。」
その言葉は、灰の風にかき消された。
けれど、遥か灰域の彼方――
符盤の上で眠るアーレンの指先に、同じ波が触れていた。
わずかに光る符線。
“理封”の壁を越え、二つの鼓動が重なった。
――灰原の朝は、静かだった。
風はほとんど吹かず、空も灰色のまま止まっている。
鳥も、虫もいない。
ただ、灰が絶え間なく流れ、世界の輪郭を曖昧にしていた。
アーレンは灰の地面に符盤を置き、じっと波形を見つめていた。
数値は安定している。灰流の乱れもほとんどない。
それなのに、心のどこかが落ち着かなかった。
「……何かがおかしい。」
彼は符盤を軽く叩いた。
表示される理流の波が、まるで“息をしていない”。
世界全体が、呼吸を止めているようだった。
⸻
リュミナが背後から覗き込む。
胸の灰核が淡く光っている――が、その輝きもどこか鈍い。
「灰が……眠ってるみたい。」
「眠ってる、か。」
アーレンは小さく頷いた。
「確かに、“沈黙”している。理が動かないんだ。」
「理って、そんなふうに止まるの?」
「本来ならありえない。
けど――誰かが“封じた”んだ。観測も、干渉も、何もかも。」
彼の声に、かすかな怒りが混じっていた。
符盤の上で灰が薄く揺れ、微細な火花を散らす。
⸻
ノアが不安そうに尋ねた。
「……帝国のしわざ?」
アーレンは小さく息を吐いた。
「恐らくはな。
理を封じ、灰を止める――“理封”以外に説明がつかない。」
「でも、そんなことしたら、世界が……」
「世界が死ぬ。理の流れが止まれば、命も動きを失う。
それを分かっていて、やったんだ。」
アーレンは空を見上げた。
灰雲の奥で、かすかに帝国の符標灯が見えた気がした。
「理を恐れ、閉ざした。
まるで……理そのものを“病原体”扱いしているようだ。」
⸻
そのころ、帝都ヴァルシュタイン。
エルシアは局長室の窓際に立ち、遠くの灰空を見つめていた。
理封から十七日。
帝国内では符術事故も止み、街に秩序が戻りつつあった。
だが、それは“静けさ”というより、“凍結”だった。
符盤は点灯せず、理導管の鼓動もない。
灰理局はただ、“生きた死体”のように機能を保っているだけだった。
机の上の報告書には、こう書かれていた。
《灰域の脈動、完全沈静。灰流反応、零。》
完璧な静寂。
完璧な“死”。
⸻
そのときだった。
封印塔の方向から、わずかな震動が伝わった。
エルシアは顔を上げた。
壁面に埋め込まれた符盤が、一瞬だけ点滅する。
光――それも、“理光”だ。
「……まさか。」
彼女は符盤に手をかざした。
波形は確かに微弱だが、明らかに生体理流に近い形を取っている。
鼓動のように、一定のリズムを刻んでいた。
「理が……応答してる。」
部下たちがざわめき始める。
「局長、理封陣の再起動を!?」「封印が破れたのでは――」
「違う。」
エルシアはきっぱりと遮った。
「理は破られていない。……“呼んでいる”の。」
灰の中から――
まるで、誰かの声を探すように。
⸻
アーレンはそのころ、灰原の丘で手を止めていた。
符盤の端がわずかに光っている。
封印以来、初めての反応だった。
「……波が戻った。」
符面の数値が小刻みに震える。
リュミナの灰核が、まるで応えるように脈打った。
「アーレン、聞こえる?」
「聞こえる……? 何をだ?」
「声。すごく遠いけど、確かに“呼ばれてる”。」
灰がふわりと舞い、彼女の手のひらに集まる。
指先に淡い光が走る。
――リュミナ。
微かな声。
それは、封じられたはずの理の向こうから届いていた。
アーレンは息を詰めた。
「理封下で……通信波が通るはずがない。」
「でも、聞こえるの。
“こえ”というより……“おもい”みたいに。」
灰核が明滅する。
リュミナの瞳に、帝都の光景が一瞬だけ映った。
⸻
同じ瞬間、エルシアもまた符盤に手を置いていた。
灰理塔の奥、沈黙したはずの理流が、かすかに脈を刻む。
――リュミナ。
音にならない声が、彼女の胸に響いた。
エルシアは目を閉じ、静かに息を呑む。
「……やっぱり、生きてるのね。」
遠く、灰の向こうで。
彼女とアーレンの符盤が、同じ周波で光っていた。
⸻
風が戻った。
長い沈黙のあと、世界がほんの少しだけ呼吸を始める。
灰が舞い、空を撫でる。
アーレンは符盤を見つめながら、かすかに笑った。
「封じても、理は死なない。
だったら……もう一度、“聴いて”やるさ。」
リュミナの灰核が淡く脈を打ち、
その波が、帝都へ――封印の下を通り、届いていった。
――帝国首都ヴァルシュタイン。
灰理局・中央塔は、再び騒然としていた。
理封の儀から二十日。
沈黙していた符盤群が、次々に勝手に起動を始めたのだ。
封印されたはずの理導管が脈動し、光を放っている。
「局長! 封印層第三環に異常! 符盤が自律的に再起動しています!」
「出力を落とせ!」
「落ちません、理流が“内側”から押し上げています!」
報告が飛び交う中、エルシア・ファロウ局長は中央制御壇に立っていた。
白衣の裾が灰光に照らされ、まるで幽鬼のように見える。
彼女の瞳だけが、真っ直ぐに符盤の心臓部を見据えていた。
「……やっぱり、そう来たわね。」
⸻
封印の陣が“外側から”ではなく、“内部から”破られつつあった。
灰理塔そのものが、まるで生きているかのように、
理の流れを再び取り戻そうとしている。
エルシアは符盤に触れ、封印陣の理式を解析する。
そこに浮かび上がった数値――「共鳴点:灰域北」。
「……灰域の中心と、再び繋がってる。」
その言葉に、部下たちが一斉にざわめいた。
「局長! 理封の再構築を行うべきです!」
「このままでは、再び“理災”が――」
「黙りなさい。」
その声は静かだが、確固としていた。
「これは暴走じゃない。――“応答”よ。」
「応答……?」
「理は眠っていた。でも、今また息をしている。
人がそれを“脅威”と呼ぶ限り、世界は何度でも止まる。」
彼女は封印解除の鍵を取り出し、符盤の中心に差し込んだ。
「……このまま、理を閉ざすわけにはいかない。」
⸻
同時刻――灰域北部。
アーレンは丘の上で、符盤の異常な脈動を感じていた。
符線が明滅を繰り返し、灰が脈を打つように光っている。
「……誰かが、“封”を揺らしてる。」
リュミナが静かに頷いた。
「感じる。……向こうで、誰かが理に触れてる。」
灰がざわめき、空気が振動する。
符盤が高音を放ち、リュミナの灰核が応答するように輝いた。
「アーレン、痛くない。むしろ……あたたかい。」
「……理が“呼吸”してる。」
世界が、再び動き出していた。
⸻
帝国灰理局・中央制御層。
警報符が鳴り響く中、一人の参謀が駆け込んできた。
「局長! 封印解除は許可されていません! これは反逆行為です!」
エルシアはその言葉に振り向き、静かに言った。
「……命令ではなく、“理”に従うだけよ。」
「理は命令に従いません!」
「そうね。だからこそ――人が耳を傾けるべきなの。」
彼女の手が鍵をひねる。
次の瞬間、塔全体が光に包まれた。
理導管が再び流れを取り戻し、空に向かって光が伸びる。
“理封”は、終わった。
⸻
灰域。
アーレンの符盤が一気に明るくなった。
理流の波が押し寄せ、灰が花のように開いていく。
「……封が解けた。」
彼は思わず息を呑む。
空が、灰の空が――久しぶりに“動いて”いた。
風が吹き、灰が舞い、
まるで世界そのものが歓喜しているように見えた。
リュミナがそっと空を見上げる。
「理が……帰ってきた。」
アーレンは目を細め、微かに笑った。
「いいや。――“目覚めた”んだ。」
⸻
帝国では、議会が騒然としていた。
「局長が封印を解除!? あの女は何を考えている!」
「理は暴走するぞ! 理災の再来だ!」
だが、エルシアは静かに言った。
「理は、もう人を裁かない。
裁かれるべきは、“理を恐れる人間”の方よ。」
窓の外、塔の光が空を貫く。
遠く灰域の方角――アーレンのいる地平へと伸びていた。
⸻
灰原。
リュミナの灰核が、帝都の光と共鳴する。
アーレンは符盤を閉じ、灰を一掴みした。
「聞こえるか、エルシア。
――“理はまだ生きている”。」
その灰は、まるで答えるように光を放った。
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