創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第4巻 帝国編・前編 ―灰の秩序―

第9章 理の再生

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 ――灰が、呼吸を取り戻していた。

 長い沈黙のあと、ようやく風が戻ってきた。
 灰の粒がわずかに浮かび、きらめく。
 それはかつての暴走の前兆ではなく、まるで“眠りから醒める”ような穏やかな動きだった。

 アーレンは灰岩の庇の下で、符盤の微弱な光を見つめていた。
 ひび割れた符刻の間を、久しく止まっていた波形がゆっくりと動き始めている。

「……流れてる。まだ弱いけど、灰が“生きてる”。」

 焚き火のような灰の炎を見つめながら、リュミナが小さく頷いた。
「灰が……痛くなくなったの。
 あの日みたいにざわめかない。静かで、でもあたたかい。」

 アーレンは符盤に手を置いた。
 灰流の周期がゆっくりと整いはじめている。
 まるで世界そのものが、少しずつ呼吸を合わせてくるようだった。

「沈黙が終わったのかもしれない。」



 彼らが暮らすのは、灰理塔跡から北へ半日の場所。
 崩れた街道の壁面を利用した小さな岩窟に、灰を固めて作った住居があった。
 壁は灰で断熱し、屋根は古い鉄片で覆われている。
 夜は冷えるが、灰を熱して灯りをとる術をアーレンが編み出していた。

 ノアが外で灰根(はいこん)を掘りながら、振り返って言った。
「ねぇ……空、前より明るくなってない?」

 アーレンは頷く。
「灰の粒が変質してる。光を吸わなくなった。」

「灰が……変わってるの?」
「いや、たぶん“戻ってる”。」

 風の流れが、かつての大地の呼吸を取り戻すように吹き抜けた。



 夜。

 リュミナは外に出て、灰の丘に立った。
 空はまだ白く濁っているが、遠くに淡い星のような光が浮かんでいる。

 ――……アーレン。

 声がした。
 灰の粒が震え、耳ではなく胸の奥で響くような微かな囁き。

 リュミナは両手を胸に当てた。
「……聞こえる。また……灰が、呼んでる。」

 その声は、はるか北から届いていた。



 翌朝。

 アーレンは符盤の異常な波形を読み取り、眉をひそめた。
「灰流の流れが北へ引かれてる。……何かが生まれてる。」

「“何か”って?」とノアが問う。

「分からない。ただ、これは帝国の観測波じゃない。
 もっと自然で、でも強い――まるで“理そのもの”が動いている。」

 リュミナの灰核が脈を打つ。
 光が胸から漏れ、北の方角を照らした。

 灰原の沈黙が、ゆっくりと破られていく。
 それは希望か、それとも――新たな理の胎動か。



帝国首都ヴァルシュタイン。
 灰理局中央塔の最上層――理封以降、沈黙していた導管が、久方ぶりに低い唸りを上げた。

 符盤群がひとつ、またひとつと点灯していく。
 まるで眠りから醒めた機械が、再び脈を取り戻したかのようだった。

 灰理局局長――エルシア・ファロウは、報告を聞くよりも早く動いていた。
 手元の符盤に浮かぶ波形を見つめ、その震えを指先で確かめる。

「……これは、“封印波”ではない。
 理封の層を下から突き上げている……?」

 副官が声を震わせる。
「局長、理封式の外殻値が低下しています! ですが、外部からの侵入波形はありません!」

「なら内部から……理そのものが“応答”しているのね。」

 エルシアの声には恐れよりも、どこか懐かしさがあった。
 理封布告から三ヶ月。
 灰を“沈黙”させるために帝国は膨大な理波障壁を展開し、灰域を完全に隔離していた。
 それが今、内側から呼吸を始めている。

 ――まるで、理が「目を開けた」かのように。



 会議層の扉が開き、報告官が駆け込んだ。
「局長、北部観測塔が反応を検知! 灰域北端より、未確認理波を感知しました!」

「規模は?」
「第三封鎖層を突破できるほどです。推定、理波階位は“人為”を超えています。」

 その一言に、室内が凍りついた。

 エルシアは符盤を閉じ、静かに立ち上がる。
 白衣の裾が理光を受けて揺れる。

「……やっぱり、止められなかった。」
「局長、理封解除の手続きを――」

「いいえ、放置します。」

「放置……?」

「無理に抑えれば、また“理災”になる。
 灰が動くということは、世界が再び観測を始めたということ。
 私たちにできるのは、観測することじゃない――見届けることよ。」

 その言葉に、報告官たちは顔を見合わせた。
 しかし誰も、彼女を止めようとはしなかった。



 塔の外――。

 夜空は赤でも灰でもなかった。
 雲の切れ間から、ほんのわずかに星が見えた。
 それは、理封以来初めての“星光”だった。

 エルシアはバルコニーに出て、冷たい風を受けた。
 彼女の頬に、一粒の灰が触れて消える。

「……アーレン。あなたがまだ理の中にいるのなら――
 どうか、この世界をもう一度“生かして”あげて。」

 彼女の胸元で、古い符章が淡く光った。
 かつて、王立学院で彼が使っていた研究用符章。
 灰理局の封印の外でも、まだ彼の理式が“息づいている”証だった。

 風が吹き抜け、夜が静かに震えた。



 一方、灰域北部。

 アーレンは符盤の異常な波を見上げ、息を詰めた。
 空の灰が――脈を打っている。
 それは暴走でも、帝国の干渉でもない。
 もっと原始的で、もっと“根源的な理”の鼓動。

「……やっぱり、世界が動き出してる。」

 灰の光が、ゆっくりと北の地平へ吸い込まれていく。
 その先に、彼らがまだ知らぬ“中心”があった。


 ――灰が、流れていた。

 だがそれは風ではない。
 まるで大地そのものが呼吸を始めたかのように、灰粒が一定のリズムで脈打っていた。

 アーレンは符盤を広げ、光の波形を追う。
 波は地中深くに潜り込み、北へ――灰原の底へと吸い込まれていく。

「……理流が、一本に収束してる。まるで“血管”みたいだ。」

 リュミナが膝をつき、灰の表面に手を当てる。
 触れた指先の下で、灰が微かに光を放った。

「ねぇ、これ……あたたかい。」

 アーレンは頷く。
「理の流れだ。封印が解けて、灰そのものが“記録”を動かしている。」

「記録って……昔の世界のこと?」
 ノアの問いに、アーレンは少し考えてから答えた。

「……いや、もっと根源的な。
 “生きようとした意思”そのものかもしれない。」

 灰は静かに震え、遠くで鈍い地響きを上げた。
 まるで誰かの心臓が、再び鼓動を始めたかのように。



 夜が更け、風が止む。
 空は灰雲に覆われているのに、どこか淡い光が降り注いでいた。

 リュミナがふと、顔を上げた。
 灰雲の向こう、見えないはずの空の奥に、微かな“線”が走っていた。
 金でも銀でもない、灰の光――理の筋。

「……見える。理の“道”が。」

 アーレンは彼女の視線を追った。
 符盤の波形と完全に一致している。
 理流は地を這い、空へ昇り、再び地へと降りている。
 まるで、世界の記憶そのものが循環しているようだった。

「封印で止まっていた“流れ”が、再び繋がってる……」
 アーレンは呟く。



 その時、符盤が突然ノイズを吐き出した。
 光の波が乱れ、符文が勝手に走り出す。

「干渉波……? いや、違う、これは――」

 符盤の上に、淡い文字が浮かんだ。
 それは数字でも符文でもなく、“言葉”だった。

《記録ノ地脈、開ク》

 リュミナの灰核が同時に反応する。
 胸の奥で、低い鼓動が響いた。

「……アーレン、呼んでる。」

「どこに?」

「――北の果て。“灰の心臓”へ。」



 アーレンは符盤を閉じ、立ち上がる。
 灰原の風が静かに流れ、遠くの地平が淡く脈動している。

「理封で眠っていた記録が、いま再び流れ出している。
 あそこが、“灰の記憶”の中心……。」

 ノアが不安げに見上げた。
「そこに行ったら……また理災が起きるの?」

 アーレンは首を振った。
「違う。今度は“応答”だ。
 世界が、自分を思い出そうとしている。」

 リュミナがゆっくりと立ち上がる。
 金の瞳が夜の光を受け、柔らかく輝く。

「なら、行こう。
 ――理がわたしたちを“見ている”なら、ちゃんと見返さなきゃ。」

 アーレンは短く笑みをこぼし、北を見据えた。

 灰の風が再び吹く。
 その中に、かすかに人の声が混じっていた。

 ――……オマエハ、ナニヲ、創ル。

 灰は問いかけていた。
 理が、再び“命”に興味を持ち始めていた。



 ――夜が明けた。

 灰雲の切れ間から、わずかに光が差し込む。
 それは太陽ではなかった。灰に反射した理光が、大地をゆっくりと照らしている。

 アーレンは丘の上に立ち、符盤を展開した。
 灰流の波形が静かに脈を打ち、北の方角を指している。

「……完全に、“導かれて”るな。」

 ノアが背負った荷を下ろし、顔をしかめた。
「ほんとに行くの? この先、灰しかないよ。」

 アーレンは短く頷く。
「灰しかない場所だからこそ、理は“記録”を残した。
 そこが、理の地脈――“灰の心臓”だ。」

 リュミナが小さく息を吸い、胸に手を当てる。
 灰核が淡く光り、波が符盤と共鳴する。

「この光……怖くないの。
 でも、見てる気がする。遠くで、誰かが。」

 アーレンはその言葉に、わずかに口元を緩めた。
「なら、確かめよう。
 ――理が何を見て、何を記そうとしているのかを。」



 彼らは歩き出した。
 灰の丘を越え、崩れた街道の跡を辿り、廃墟のような塔の影を抜けていく。
 かつて人が理を学び、祈り、そして滅んだ地。
 灰の中には、今も無数の“記録”が眠っていた。

 歩くたびに、灰がざらりと音を立てて形を変える。
 まるで彼らの足跡を“記録”しているかのようだった。

 ノアが不安げに問う。
「ねえ、理って、記録ばかりして……何を望んでるんだろう。」

 アーレンは少し考えた。
「――たぶん、“理解”だ。
 命が、どうして生まれて、どうして壊れるのか。
 理はきっと、それを“思い出そう”としてる。」

 リュミナが静かに歩きながら呟いた。
「じゃあ、わたしたちは……その思い出の中にいるの?」

「そうかもしれない。」
 アーレンは空を見上げる。灰色の雲の向こうに、かすかに金の筋が走った。
「でも、俺たちが歩くことで――新しい“記録”を刻める。」



 そのとき。

 リュミナの灰核が不規則に脈を打った。
 符盤の波形が乱れ、遠くの地平線に微かな閃光が走る。

「……今の、何?」
 ノアが声を上げた。

「帝国の符流だ。」
 アーレンの表情が硬くなる。
「まだ残っていたか。……いや、違う。これは“探してる”波だ。」

 符盤の片隅に、淡い符文が浮かび上がる。
 帝国製の識別符――《灰理局式符眼残響信号》。

 エルシアのものだった。

「……まだ、彼女は“見ている”。」
 アーレンは目を細めた。

 リュミナがそっと彼を見上げる。
「……敵なの?」

「敵じゃない。ただ、彼女は――“答え”を求めてる。」



 風が吹いた。灰が渦を巻き、空に金色の粒を散らす。
 リュミナの灰核が応えるように光り、符盤の波が穏やかに収束する。

「理の流れが安定してきた。封印が解けて……世界が動き始めてる。」
 アーレンは小さく呟いた。

「だったら、止まらなきゃいい。」
 リュミナが言った。
「止まったら、また“怖い夢”を見る。
 あの塔みたいに、何もかも眠ってしまう。」

 彼女の声は、どこか祈りに似ていた。



 遠く、北の空に淡い光柱が立った。
 灰の地平を貫く、理の道――それは彼らが目指すべき“灰の心臓”の方角を照らしていた。

 アーレンは静かに言う。
「行こう。
 これは、理が選んだ“記録の再開”だ。」

 灰風が吹く。
 その音の中で、微かに“声”が重なった。

 ――記憶ヲ継グ者ヨ、還レ。

 アーレンは符盤を閉じ、歩き出した。
 灰原の向こう、薄明の光が広がる。

 世界はまだ、終わっていなかった。


ーー第4巻    【完】
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