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第6巻 再生の旅一灰の記憶-
第3章 灰の記録
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――声が、聞こえた。
それは人の言葉ではなかった。
灰の粒が震え、世界の底から湧き上がるように、音にならない“記録”が流れ込んでくる。
リュミナは息を呑み、目の前に広がる光景を見つめた。
そこは、灰市の地下ではなかった。
無数の符盤が並び、白衣の人々が忙しく動いている。
空気の匂いが違う。金属と灰と、焦げた理流の匂い。
「……ここ、どこ……?」
返事はない。
ただ、灰が囁く。
――《記録:灰生命実験 第25号》。
リュミナの胸の灰核が脈を打つ。
そして、目の前にひとりの青年が現れた。
銀の髪を束ね、細い指で符盤を操作する姿――。
その顔を見た瞬間、リュミナの呼吸が止まった。
「……アーレン……?」
⸻
灰の光が世界を包み、時間が流れ出す。
リュミナは“記録の中”で彼の背中を追っていた。
触れようとしても、指先は灰をすり抜ける。
それでも彼の声は、はっきりと耳に届いた。
「理流、安定域に達した……。これなら――」
アーレンの前に、もうひとりの女性がいた。
柔らかな茶髪を束ね、研究用符章を胸に付けた女性。
優しい笑みを浮かべながら、青年の隣に立っている。
「ルシア……。」
名前を呼んだのはリュミナではない。
アーレンの声だった。
その響きに、リュミナの胸の奥が小さく痛む。
⸻
灰槽の中で、光が形を成していく。
人の形――いや、“命の模倣”。
灰が流れ、符文が脈を打ち、世界が息をしていた。
「これが……命を創る瞬間……。」
リュミナの声は震えていた。
だが、その美しさに目を奪われる。
灰が歌い、理が応答している。
それはまるで、祈りそのもののようだった。
だが次の瞬間、光が跳ねた。
室内の符盤が軋み、警告符が閃光を放つ。
灰の流れが逆転し、世界が崩れる。
「危険よ、アーレン!」
ルシアの声が響く。
灰槽が震え、符文が崩壊していく。
灰の粒が光の奔流となり、ふたりを飲み込んだ。
リュミナは悲鳴を上げた。
だが声は、届かない。
彼女はただ、見ているしかなかった。
アーレンが手を伸ばし、ルシアがその手を掴もうとして――。
光が爆ぜた。
灰の海がすべてを覆い、彼女の姿がほどけていく。
⸻
静寂。
世界が止まった。
灰が宙を舞い、そのひとつひとつが言葉のように光を放つ。
――《記録、完了》。
リュミナの頬を涙が伝った。
彼女はその灰の光に手を伸ばす。
触れた指先が温かい。
まるで、失われた命がまだそこに息づいているかのようだった。
「灰は……拒んでない。」
リュミナの声が震える。
「命を、受け入れようとしてた……。」
⸻
遠くから声が聞こえる。
現実の声――アーレンの呼ぶ声。
「リュミナ! 戻ってこい!」
灰の記録が揺らぎ、光が崩れていく。
リュミナは振り返り、最後にもう一度ルシアを見た。
彼女は微笑んでいた。
その唇が、灰の光の中で静かに動く。
――「理は拒まないわ。拒むのは、いつだって人の恐れ。」
その声を胸に、リュミナは光の中へ還っていった。
⸻
次の瞬間、彼女は現実へと戻った。
灰市の地下。アーレンが彼女の肩を抱き、必死に名を呼んでいる。
「リュミナ! 大丈夫か!」
彼女は息を吸い込み、震える声で言った。
「……見たの。アーレンの“記録”を。」
アーレンの瞳が揺れた。
灰が静かに舞い、過去と現在の狭間で――ふたりの記録が、重なっていた。
――沈黙が続いていた。
灰市の地下。
暴走した灰流は収まり、洞窟の壁に残る符光だけがゆらめいている。
空気は重く、灰の匂いがまだ微かに鼻を刺した。
アーレンは膝をつき、リュミナの手を握っていた。
彼女の瞳はようやく焦点を取り戻し、灰の光を映している。
「……戻ったか。」
リュミナはゆっくりと頷いた。
胸の灰核が淡く光を帯び、まるで彼女の代わりに息をしているようだった。
「アーレン……。あの中で、見たの。」
その声は震えていた。
しかし、恐れではなく、確信の色を帯びていた。
「わたし……あなたの“記録”を見たの。
灰が、あなたの過去を……“夢”みたいに見せてくれた。」
アーレンはしばらく何も言わなかった。
沈黙の中で、焚き火のように灰の光が揺れる。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……そうか。あれを、見たんだな。」
⸻
「命を創ろうとしたあの日……あなたは、理を信じてたのね。」
「信じていた、というより、すがっていたんだろう。」
アーレンは灰の粒を掬い、手のひらに広げる。
淡い光が指の隙間を抜けていく。
「この灰が“生きる”ことを望んでいるように感じた。
だから、命を与えれば、何かが救われると思った。
でも――それは俺の傲慢だった。」
「……ルシア。」
リュミナの声が灰に溶ける。
その名を呼ぶたびに、アーレンの胸の奥が疼いた。
「彼女は、あなたを責めていなかった。」
リュミナはまっすぐに見つめる。
「最後まで、“理は拒まない”って言ってた。」
アーレンの指が止まる。
灰が手から零れ落ち、静かに地に還る。
「……あの言葉まで、記録に残っていたのか。」
「灰が覚えてたの。きっと、ルシアの“心”ごと。」
⸻
しばし、ふたりは何も言わなかった。
灰市の上からは、遠く市場のざわめきがかすかに届く。
それはまるで、誰かの記憶がまだ続いているような音だった。
「アーレン……灰はね、あなたを拒んでない。
理も、命も、きっと同じ。
“終わり”じゃなくて、“記録”してるだけ。」
「……記録、か。」
アーレンは小さく笑った。
その笑みは、痛みとわずかな救いを含んでいた。
「もしそうなら――俺はまだ、“赦されてはいない”が、“残されて”いるんだな。」
リュミナは静かに首を振った。
「違う。“赦される”んじゃない。“共に在る”の。
わたしたちが歩く限り、灰はそれを“見ている”のよ。」
⸻
灰の光がふたりの間を流れた。
それは暖かく、柔らかく、まるで命の鼓動のようだった。
ノアが背後からそっと近づき、息を潜めて言う。
「……灰、市の上、さっきから揺れてる。灰流がまた動いてるみたいだ。」
アーレンは立ち上がり、符盤を展開した。
波形がわずかに脈打ち、北の方角へと流れを描いている。
「記録が、次を示してる。……灰はまだ、語ろうとしている。」
リュミナはその光を見つめ、胸に手を当てた。
「じゃあ、聞かなきゃね。灰が見ている“続きを”。」
⸻
彼らは灰の洞を出た。
市場の喧騒が戻りつつある。
だがその空気の底に、どこか静かな変化があった。
灰が呼吸し、理が記録を刻み続けている。
リュミナはふと空を見上げた。
灰色の天蓋の向こう――ほんのわずかに、金の筋が走っていた。
「ねぇ、アーレン。灰が、夢を見てる気がする。」
彼は微笑んで答えた。
「夢なら、きっと“命の続きを”描いてる。」
その言葉を残し、ふたりは再び灰の街を歩き出した。
――灰は、金になる。
それが、灰市(はいし)の合言葉だった。
灰を削り、焼き、精製して“理粉(ことわりこ)”と呼ばれる微粒子を作る。
それを燃料にすれば、符術は安定し、古代機構の動力としても使える。
理災で荒廃した世界において、それは“新しい資源”であり、最も高価な取引品でもあった。
だがその光の下には、灰を恐れ、忌む者たちの影もあった。
⸻
アーレンたちは、灰市の中心街を歩いていた。
露店には灰を詰めた瓶、符術の欠片、帝国製の部品、そしてどこから持ち出したのか灰核の破片までもが並んでいる。
「……まるで、理災そのものを“見世物”にしてるみたいだ。」
ノアが吐き捨てるように言った。
「生きるためだよ。」
通りすがりの老商人が答える。
「灰を恐れてたら、飯は食えねぇ。理が何かなんて、もう誰も気にしちゃいない。」
アーレンは無言で立ち止まった。
灰の匂いが濃い。だが、それは理そのものではなく――人の欲望が焦げた匂いだった。
⸻
「……君が“灰理士”か。」
声をかけてきたのは、漆黒の外套を纏った男。
金糸の刺繍を施した手袋、磨かれた符章。
見ただけで“金の匂い”がする男――セルヴァン商会の代表だった。
「灰を観測し、理を読む者だろう? 君の噂は聞いている。
帝国の灰理局に匹敵する観測技術を持つ、と。」
アーレンは警戒を隠さずに答えた。
「……観測じゃない。“理解”だ。」
「同じことだよ。」
セルヴァンは笑った。
「灰を理解すれば、理を制御できる。理を制御できれば、世界を再構できる。
そしてそれは、“金”になる。」
リュミナが顔をしかめる。
胸の灰核が、かすかに脈を打った。
「灰は“物”じゃないわ。」
セルヴァンは彼女を見やる。
その瞳に、好奇と欲望が宿る。
「……君の中にも“灰”があるのか。なるほど、貴重な標本だ。」
アーレンが一歩前に出た。
符盤を展開し、淡い光を走らせる。
「もう一度言ってみろ。」
「おや、怒ったのか。」
セルヴァンは笑う。
「安心しなさい。君を敵に回す気はない。
――むしろ、取引を持ちかけたい。」
⸻
彼は懐から小型の符板を取り出した。
そこには、古い学院式の理式構文が刻まれていた。
アーレンの目が見開かれる。
「……それを、どこで。」
「遺構の奥だ。古い研究施設跡から発掘された。
“灰生命実験”という名が記されていた。君なら心当たりがあるんじゃないか?」
その名を聞いた瞬間、アーレンの胸の奥で何かが弾けた。
手のひらが震え、符盤がわずかに反応する。
「それを――誰にも触らせるな。」
「残念だが、すでに遅い。」
セルヴァンは、わずかに唇の端を上げた。
「理構文の一部はすでに解析済みだ。“命を灰に還す術式”――興味深いね。」
アーレンの瞳が鋭く光った。
「……お前、それをどうする気だ。」
「どうもしないさ。ただ、“売る”だけだ。」
セルヴァンの声は穏やかだった。
「理は秩序、秩序は商品。
灰を恐れる時代は終わった。これからは――灰を利用する時代だ。」
ノアが叫んだ。
「それでまた、世界を壊すつもりかよ!」
しかし、セルヴァンは微笑を崩さなかった。
「壊れるかどうかは、“理が決める”ことだ。」
⸻
その瞬間、リュミナの胸の灰核が強く脈を打った。
周囲の灰が揺らぎ、空気が低く鳴る。
市場の照明が瞬き、灰瓶が割れ、光の粒が舞い上がる。
「……理の共鳴が、起きてる。」
アーレンが呟く。
セルヴァンは一歩下がりながら、それを見上げた。
「ほう……まるで理が怒っているようだ。
君たち、“灰”に気に入られているらしい。」
アーレンは符盤を構えた。
「お前が触れたのは、“記録”だ。灰はそれを許さない。」
「許さない? 面白い。では確かめてみよう。」
セルヴァンは懐の符板を起動させた。
次の瞬間、市場全体の灰が揺れた。
地の底から、低く長い唸りが響く。
灰の粒が集まり、螺旋を描き、光の渦となる。
――《灰生命実験第25号》。
符文が空中に浮かび、アーレンの視界を覆った。
リュミナが息を呑む。
その光の中に、アーレンがかつて見た“あの日”の記録が映っていた。
研究室の光、ルシアの微笑み、そして灰に呑まれる瞬間――。
セルヴァンの声が遠くで響いた。
「これが、君たちの創った“命”の記録だ。」
灰の光が、過去を呼び覚ます。
そして世界は、再び“記録”を開いた。
それは人の言葉ではなかった。
灰の粒が震え、世界の底から湧き上がるように、音にならない“記録”が流れ込んでくる。
リュミナは息を呑み、目の前に広がる光景を見つめた。
そこは、灰市の地下ではなかった。
無数の符盤が並び、白衣の人々が忙しく動いている。
空気の匂いが違う。金属と灰と、焦げた理流の匂い。
「……ここ、どこ……?」
返事はない。
ただ、灰が囁く。
――《記録:灰生命実験 第25号》。
リュミナの胸の灰核が脈を打つ。
そして、目の前にひとりの青年が現れた。
銀の髪を束ね、細い指で符盤を操作する姿――。
その顔を見た瞬間、リュミナの呼吸が止まった。
「……アーレン……?」
⸻
灰の光が世界を包み、時間が流れ出す。
リュミナは“記録の中”で彼の背中を追っていた。
触れようとしても、指先は灰をすり抜ける。
それでも彼の声は、はっきりと耳に届いた。
「理流、安定域に達した……。これなら――」
アーレンの前に、もうひとりの女性がいた。
柔らかな茶髪を束ね、研究用符章を胸に付けた女性。
優しい笑みを浮かべながら、青年の隣に立っている。
「ルシア……。」
名前を呼んだのはリュミナではない。
アーレンの声だった。
その響きに、リュミナの胸の奥が小さく痛む。
⸻
灰槽の中で、光が形を成していく。
人の形――いや、“命の模倣”。
灰が流れ、符文が脈を打ち、世界が息をしていた。
「これが……命を創る瞬間……。」
リュミナの声は震えていた。
だが、その美しさに目を奪われる。
灰が歌い、理が応答している。
それはまるで、祈りそのもののようだった。
だが次の瞬間、光が跳ねた。
室内の符盤が軋み、警告符が閃光を放つ。
灰の流れが逆転し、世界が崩れる。
「危険よ、アーレン!」
ルシアの声が響く。
灰槽が震え、符文が崩壊していく。
灰の粒が光の奔流となり、ふたりを飲み込んだ。
リュミナは悲鳴を上げた。
だが声は、届かない。
彼女はただ、見ているしかなかった。
アーレンが手を伸ばし、ルシアがその手を掴もうとして――。
光が爆ぜた。
灰の海がすべてを覆い、彼女の姿がほどけていく。
⸻
静寂。
世界が止まった。
灰が宙を舞い、そのひとつひとつが言葉のように光を放つ。
――《記録、完了》。
リュミナの頬を涙が伝った。
彼女はその灰の光に手を伸ばす。
触れた指先が温かい。
まるで、失われた命がまだそこに息づいているかのようだった。
「灰は……拒んでない。」
リュミナの声が震える。
「命を、受け入れようとしてた……。」
⸻
遠くから声が聞こえる。
現実の声――アーレンの呼ぶ声。
「リュミナ! 戻ってこい!」
灰の記録が揺らぎ、光が崩れていく。
リュミナは振り返り、最後にもう一度ルシアを見た。
彼女は微笑んでいた。
その唇が、灰の光の中で静かに動く。
――「理は拒まないわ。拒むのは、いつだって人の恐れ。」
その声を胸に、リュミナは光の中へ還っていった。
⸻
次の瞬間、彼女は現実へと戻った。
灰市の地下。アーレンが彼女の肩を抱き、必死に名を呼んでいる。
「リュミナ! 大丈夫か!」
彼女は息を吸い込み、震える声で言った。
「……見たの。アーレンの“記録”を。」
アーレンの瞳が揺れた。
灰が静かに舞い、過去と現在の狭間で――ふたりの記録が、重なっていた。
――沈黙が続いていた。
灰市の地下。
暴走した灰流は収まり、洞窟の壁に残る符光だけがゆらめいている。
空気は重く、灰の匂いがまだ微かに鼻を刺した。
アーレンは膝をつき、リュミナの手を握っていた。
彼女の瞳はようやく焦点を取り戻し、灰の光を映している。
「……戻ったか。」
リュミナはゆっくりと頷いた。
胸の灰核が淡く光を帯び、まるで彼女の代わりに息をしているようだった。
「アーレン……。あの中で、見たの。」
その声は震えていた。
しかし、恐れではなく、確信の色を帯びていた。
「わたし……あなたの“記録”を見たの。
灰が、あなたの過去を……“夢”みたいに見せてくれた。」
アーレンはしばらく何も言わなかった。
沈黙の中で、焚き火のように灰の光が揺れる。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……そうか。あれを、見たんだな。」
⸻
「命を創ろうとしたあの日……あなたは、理を信じてたのね。」
「信じていた、というより、すがっていたんだろう。」
アーレンは灰の粒を掬い、手のひらに広げる。
淡い光が指の隙間を抜けていく。
「この灰が“生きる”ことを望んでいるように感じた。
だから、命を与えれば、何かが救われると思った。
でも――それは俺の傲慢だった。」
「……ルシア。」
リュミナの声が灰に溶ける。
その名を呼ぶたびに、アーレンの胸の奥が疼いた。
「彼女は、あなたを責めていなかった。」
リュミナはまっすぐに見つめる。
「最後まで、“理は拒まない”って言ってた。」
アーレンの指が止まる。
灰が手から零れ落ち、静かに地に還る。
「……あの言葉まで、記録に残っていたのか。」
「灰が覚えてたの。きっと、ルシアの“心”ごと。」
⸻
しばし、ふたりは何も言わなかった。
灰市の上からは、遠く市場のざわめきがかすかに届く。
それはまるで、誰かの記憶がまだ続いているような音だった。
「アーレン……灰はね、あなたを拒んでない。
理も、命も、きっと同じ。
“終わり”じゃなくて、“記録”してるだけ。」
「……記録、か。」
アーレンは小さく笑った。
その笑みは、痛みとわずかな救いを含んでいた。
「もしそうなら――俺はまだ、“赦されてはいない”が、“残されて”いるんだな。」
リュミナは静かに首を振った。
「違う。“赦される”んじゃない。“共に在る”の。
わたしたちが歩く限り、灰はそれを“見ている”のよ。」
⸻
灰の光がふたりの間を流れた。
それは暖かく、柔らかく、まるで命の鼓動のようだった。
ノアが背後からそっと近づき、息を潜めて言う。
「……灰、市の上、さっきから揺れてる。灰流がまた動いてるみたいだ。」
アーレンは立ち上がり、符盤を展開した。
波形がわずかに脈打ち、北の方角へと流れを描いている。
「記録が、次を示してる。……灰はまだ、語ろうとしている。」
リュミナはその光を見つめ、胸に手を当てた。
「じゃあ、聞かなきゃね。灰が見ている“続きを”。」
⸻
彼らは灰の洞を出た。
市場の喧騒が戻りつつある。
だがその空気の底に、どこか静かな変化があった。
灰が呼吸し、理が記録を刻み続けている。
リュミナはふと空を見上げた。
灰色の天蓋の向こう――ほんのわずかに、金の筋が走っていた。
「ねぇ、アーレン。灰が、夢を見てる気がする。」
彼は微笑んで答えた。
「夢なら、きっと“命の続きを”描いてる。」
その言葉を残し、ふたりは再び灰の街を歩き出した。
――灰は、金になる。
それが、灰市(はいし)の合言葉だった。
灰を削り、焼き、精製して“理粉(ことわりこ)”と呼ばれる微粒子を作る。
それを燃料にすれば、符術は安定し、古代機構の動力としても使える。
理災で荒廃した世界において、それは“新しい資源”であり、最も高価な取引品でもあった。
だがその光の下には、灰を恐れ、忌む者たちの影もあった。
⸻
アーレンたちは、灰市の中心街を歩いていた。
露店には灰を詰めた瓶、符術の欠片、帝国製の部品、そしてどこから持ち出したのか灰核の破片までもが並んでいる。
「……まるで、理災そのものを“見世物”にしてるみたいだ。」
ノアが吐き捨てるように言った。
「生きるためだよ。」
通りすがりの老商人が答える。
「灰を恐れてたら、飯は食えねぇ。理が何かなんて、もう誰も気にしちゃいない。」
アーレンは無言で立ち止まった。
灰の匂いが濃い。だが、それは理そのものではなく――人の欲望が焦げた匂いだった。
⸻
「……君が“灰理士”か。」
声をかけてきたのは、漆黒の外套を纏った男。
金糸の刺繍を施した手袋、磨かれた符章。
見ただけで“金の匂い”がする男――セルヴァン商会の代表だった。
「灰を観測し、理を読む者だろう? 君の噂は聞いている。
帝国の灰理局に匹敵する観測技術を持つ、と。」
アーレンは警戒を隠さずに答えた。
「……観測じゃない。“理解”だ。」
「同じことだよ。」
セルヴァンは笑った。
「灰を理解すれば、理を制御できる。理を制御できれば、世界を再構できる。
そしてそれは、“金”になる。」
リュミナが顔をしかめる。
胸の灰核が、かすかに脈を打った。
「灰は“物”じゃないわ。」
セルヴァンは彼女を見やる。
その瞳に、好奇と欲望が宿る。
「……君の中にも“灰”があるのか。なるほど、貴重な標本だ。」
アーレンが一歩前に出た。
符盤を展開し、淡い光を走らせる。
「もう一度言ってみろ。」
「おや、怒ったのか。」
セルヴァンは笑う。
「安心しなさい。君を敵に回す気はない。
――むしろ、取引を持ちかけたい。」
⸻
彼は懐から小型の符板を取り出した。
そこには、古い学院式の理式構文が刻まれていた。
アーレンの目が見開かれる。
「……それを、どこで。」
「遺構の奥だ。古い研究施設跡から発掘された。
“灰生命実験”という名が記されていた。君なら心当たりがあるんじゃないか?」
その名を聞いた瞬間、アーレンの胸の奥で何かが弾けた。
手のひらが震え、符盤がわずかに反応する。
「それを――誰にも触らせるな。」
「残念だが、すでに遅い。」
セルヴァンは、わずかに唇の端を上げた。
「理構文の一部はすでに解析済みだ。“命を灰に還す術式”――興味深いね。」
アーレンの瞳が鋭く光った。
「……お前、それをどうする気だ。」
「どうもしないさ。ただ、“売る”だけだ。」
セルヴァンの声は穏やかだった。
「理は秩序、秩序は商品。
灰を恐れる時代は終わった。これからは――灰を利用する時代だ。」
ノアが叫んだ。
「それでまた、世界を壊すつもりかよ!」
しかし、セルヴァンは微笑を崩さなかった。
「壊れるかどうかは、“理が決める”ことだ。」
⸻
その瞬間、リュミナの胸の灰核が強く脈を打った。
周囲の灰が揺らぎ、空気が低く鳴る。
市場の照明が瞬き、灰瓶が割れ、光の粒が舞い上がる。
「……理の共鳴が、起きてる。」
アーレンが呟く。
セルヴァンは一歩下がりながら、それを見上げた。
「ほう……まるで理が怒っているようだ。
君たち、“灰”に気に入られているらしい。」
アーレンは符盤を構えた。
「お前が触れたのは、“記録”だ。灰はそれを許さない。」
「許さない? 面白い。では確かめてみよう。」
セルヴァンは懐の符板を起動させた。
次の瞬間、市場全体の灰が揺れた。
地の底から、低く長い唸りが響く。
灰の粒が集まり、螺旋を描き、光の渦となる。
――《灰生命実験第25号》。
符文が空中に浮かび、アーレンの視界を覆った。
リュミナが息を呑む。
その光の中に、アーレンがかつて見た“あの日”の記録が映っていた。
研究室の光、ルシアの微笑み、そして灰に呑まれる瞬間――。
セルヴァンの声が遠くで響いた。
「これが、君たちの創った“命”の記録だ。」
灰の光が、過去を呼び覚ます。
そして世界は、再び“記録”を開いた。
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