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レベル5.女騎士と女奴隷と告白
1.女奴隷とファーストキス
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「はーいよってらっしゃい! 美味しい串カステラだよー!」
「わたあめいかがっすかー!」
「じゃがバター食べてかないかーい?」
「金魚すくい。今ならポイ一本おまけしとくよー!」
「鯛焼き名人アルティメットフォーム!! スペシャルターボ!!」
ガヤガヤとざわめく道を腕を組んで歩く俺達。
さっきも通った場所なのに、こうしてみると味わう雰囲気が全然違う。心臓がドキドキしっぱなしだし、何か話そうにも切り出し方がわからない。
女と二人で歩くのが初めてなわけではないが、どうにも調子が狂う。
「やっぱりいろんなお店があるね! どこから行こっか?」
クローラは先程までと同様、いつもとは180度違う口調で明るく言うが、緊張しているのは彼女も同じらしい。押し付けられた彼女の胸から、熱い鼓動がしっかりと伝わってくる。
それが顔にも出ているのかどうかは、よくわからない。
なぜなら、クローラはさっきから俺と殆ど目を合わせようとしないからだ。
常に俺より半歩前を進んで歩くし、立ち止まっても顔を伏せたり変な方向を見たりして、こちらには絶対正面を向けない。
さっきの恥ずかしそうで、どこか悲しげな顔……。どうしてもあれが頭から離れなかった。
もしかして、無理してたりするんじゃないのかな。一緒に回ることに同意はしたけど、やはりそんな心配が脳にチラついてしまう。
思い切って彼女に問おうとはしているのだが、それを先読みするかのごとくクローラは何かと理由をつけて俺を引っ張っていくのである。
こんなふうに。
「あ、ねぇあそこにラーメンだって! あたし、あれ食べたい!」
「うぇ!? ちょっ」
半ば強引にそのラーメン屋の屋台の近くまで連行される俺。またタイミングを逃してしまった、と小さくため息を吐く。
だがそれがクローラの耳に届いてしまったのか、ぴたりと彼女は足を止めた。
「ごめんなさい……気が進まなかった?」
「いや、そんなことないよ! ラーメン、めっちゃ好きだし」
「そっか、よかった!」
相変わらず彼女は顔を見せない。そのかわりに、俺に絡ませる腕に少し力がこもる。言葉通り安堵の気持ちが伝わってくるようだった。
祭りでラーメンってのも珍しいな。カフェやってた俺らが言えたことじゃないけど。
どうやらチェーン店の特別出張らしく、実店舗も何回か利用したことのあるものだった。
暖簾をくぐり抜けると、カウンター及び大鍋と麺を茹でる器具を隔てて店員さん達数名が笑顔で出迎えてくれた。
「へいらっしゃい、なんにしましょ! っても、今日は八王子ラーメンだけなんですけどね」
「そ、そうなんですか」
まぁこういう野外だと材料的な問題とかがあるしな。しょうがない。
ちなみに八王子ラーメンとは聞けば分かると思うが、この八王子発祥の名物……所謂ご当地グルメである。
ごく一般的な醤油ラーメンなのだが、チャーシューやメンマの他に刻み玉ねぎをトッピングするのが大きな特徴だ。加えてお酢をお好みで入れると、普通とは全く違う味わいが体験できる一品だ。
店員さん達が麺を茹でたりスープの準備をしている中、クローラは小さく鼻歌を歌いながらラーメンを心待ちにしていた。よほど楽しみなんだろうな。その顔は垂れた横髪で見えなかったけど。
「ラーメン、好き?」
「うん、大好き。この世界に来てからいろんなモノを食べたけど、これは五本の指に入るくらいに好き」
こちらに顔を向けずに、というより顔を見られない絶妙な角度を維持したまま、彼女は返事をした。
「ねぇ覚えてる? こうやってラーメン屋さんに行った時のこと」
「ああ。覚えてるよ。あん時は結構大変だったよなぁ。色々」
「うん、でも楽しかったよ? その色々なこと、全部」
「クローラ……」
彼女は麺が茹で上がるのを見つめながら、感慨深そうに続けた。
「だって……初めてあなたと二人ででかけたところだもの」
「……」
「大切な人と一緒なら、どんなことでもすごく楽しくなる。そう思わない?」
「……そーだな」
大切な人か……なんかそう言われるとちょっと照れるな。
自分の顔が赤らんでいくのを感じた俺は、相変わらず生返事を返すしかない。
くそ、もっと気の利いたこと言えよ、せっかくクローラが頑張って話しかけてくれてるのに!
何言えばいいんだろ……えっと、えっと……。
「く、クローラ、あのな――」
「はい八王子ラーメン二人前お待たせしました!」
ドン! とでかいどんぶりが二つ俺らの前に勢いよく置かれる。ああもう、なんて間が悪い……。
クローラは待ってましたとばかりに割り箸を割ってケバを削ぐ。しゃぁない、今は食事に集中しよう。
醤油のいい香りとともに立つ湯気。たっぷり玉ねぎの乗った、シンプルだけど贅沢な一品。見てるだけで食欲がそそられる。
俺達は忘れずに手を合わせ、同時に言う。
「「いただきます」」
麺を箸で掴み、息を吹きかけながら噛みごたえ抜群のそれを一気にすする。
続けて蓮華でスープをすくい、煮干しダシのきいた味を堪能する。
うまい。やっぱこーゆう素朴なのが一番だな。何回食べても飽きが来ないし。
ふと隣を見てみると、クローラは片手で髪をかきあげながらお上品にラーメンを食していた。
まるでパスタのようにくるくると麺を箸で巻き取り、レンゲの中のスープの海に浸す。たっぷりと染み込ませたら、それを傾けて口内に入れ、ゆっくり咀嚼して呑み込む。
スープも飛び散らないし、音も静かだ。これから食事マナーを学ぶ子どものお手本にさせても問題ないくらいの完璧なフォルム。ただの食事風景なのになぜか魅入ってしまい、いつの間にか俺の箸を持つ手は止まっていた。
それに気がついたのか、彼女もピタリと動きを止めて、こちらを見ずに訊いてくる。
「ど、どうしたの?」
「え? ああいや、その……改めて見るとクローラの食べ方やっぱすごく綺麗だなー、って」
「たべかた……」
「うん、箸の使い方とかさ。すごく器用だよね。なんか思わず見とれちゃった」
「……」
褒めたつもりだが、彼女はすぐに返事をしなかった。それどころかリアクション一つ示さない。なんだろう、気に障るようなこと言ったかな?
「あ、ごめん。別に僻みとか嫌味を言ってるわけじゃなくて――」
「ううん、違うの」
ふるふると首を横に振って即座に彼女は否定した。
そして箸を上下に動かし、その先端部分を見つめながらこう続ける。
「ただ、あの時のこと思い出して……」
「あの時?」
「あなたの家で、初めてごはんを出してもらった時」
「……え? ああ」
「その時もラーメンだったよね。食べたの」
カップ麺だけどね。と、俺は苦笑いしながら肩をすくめた。
そっか、そういえばその頃からクローラは箸の使い方が上手かったよな。ワイヤードにはないカトラリーだったのにもかかわらず、である。
「あたしね、あれが初めてだったんだ」
「え? 何が?」
「誰かに褒められたの」
わずかに見える彼女の口元が綻んだ。
褒められた……初めて?
「ずっとあたしが言われてきたことは罵倒、誹り、非難……そればっかりだった。この世界に来た時も、正直いつそういうことを言われるのかなって思ってたの。でも違った」
「……」
「あなたは優しくて、いきなりここに住むなんていっても快く受け入れてくれて……それどころか『器用だね』って褒めてくれた……」
「それは……俺はただ、見たままの感想を言っただけで」
「それが嬉しかったの」
静かに蓮華を置いてクローラは言った。
「ありのままのあたしを見てくれてるから。立場とか、身分とか、経歴とか。そんなの関係なく、今のクローラ・クエリという人間を見てくれてる。だから……最初にそう言われたとき、本当にこの人の元に転生できてよかったって思った」
「……」
その言葉を聞いて、俺は喜ばしいとは思えなかった。
だって、今まではそうじゃなかったってことなんだろ? たとえ彼女がどんな人間であろうと、奴隷というだけでバカにされ、詰られ、侮蔑されてきた。たったそれだけのことを理由に。
だからこそ、あんな出来事を特別なものとしていつまでも覚えているのだろう。俺ですら忘れかけていた、些細なことを。
「それだけじゃない。あれからもいっぱいあなたは褒めてくれた。あたしのいいところをたくさん見つけてくれた……一杯頭、撫でてくれた……」
「……」
「あれ、すごく好き。ああやって撫でてもらえてる時が、一番幸せ」
「……そっか」
幸せ、か。
また少し照れくさくなってきた。彼女も恥ずかしさをごまかすように、急いでラーメンをかっ込む。さっきとは違ってワイルドな食べっぷりだ。俺も負けてらんないや。
麺の塊に食らいつき、丼を持ち上げてスープを最後まで飲み干すと、俺達はほぼ同時に完食。
「「ごっそさん」」
ハモって挨拶を忘れずに言い、据え置きのティッシュで口元を、布巾でカウンターを拭く。
「美味しかった?」
「うん。とっても。いつもよりもずぅっと」
「はは、そんなに?」
「もちろん。だって……あなたと一緒に食べられたから」
大切な人と一緒なら、食べるものも一層美味しく感じる……か。
まったくこいつは、なんでこうさっきからハズいことばかり言うんだか。
「さ、次のとこ行きましょう。時間ないし」
「え? ま、待ってよクローラ!」
店員さんに一礼して一足先に屋台から出ていってしまう彼女を、俺は支払いを手早く済ませて追いかけた。
○
さて、次の目的地は何だったかといいますと。
「カレー?」
「すごーい、いろんな辛さが選び放題なんだって!」
これも同じくチェーン店の出張店舗だったが、今度はキッチンカーでの販売だった。すごいなー、お祭りってこういうのも出てるんだ。
「それにしてもクルマの中に台所があるなんてすごく不思議……これ、普通に動くんだよね?」
「ああ。だから好きなところで停車すればそこがお店になるんだよ」
「素敵……こういうの見るとなんかワクワクするなぁ」
ワクワクする、か。最初の頃はこの世界特有の技術とか見ても「ふーん」ってつまらなそうな態度だったのに、ずいぶんな変わりようだ。
「ね? 食べていこうよ」
「はいよ」
彼女に導かれるようにして、俺はその小さなカレー屋さんに赴いた。
正直いろいろ喰った後で胃袋が悲鳴を上げそうだったので、俺は小盛りを注文。だがクローラの方は迷いもせずに大盛りを頼んだ。しかも味付けまで結構辛めのレベルに設定。
しばらくして出てきたカレーの皿とご対面。再び一緒にいただきますの挨拶の後、それを食す。
「ん、おいし♡」
ノリノリでスプーンを動かしてらっしゃるクローラ女史。辛いので大丈夫かなと心配だったが、杞憂だったようだ。
しかも喰うスピードも早い。どんどんさらに残ったカレーとご飯が消えていく。そのくせ服にもテーブルにもルーの一滴も飛んじゃいないんだからすごい。
「……すごい食べっぷりだね」
「大好きだからね」
いつもの「奴隷なのに食い意地張って申し訳ありません」とか言うのに比べたらすごく率直な返答である。ちょっと面食らった。
「ねぇ覚えてる? あたしがあなたの家に来た初日に食べたの、ラーメンの次がこれだったんだよ?」
「ああ。お前も作るの手伝ってくれたんだよな」
「うん。このカレーも美味しいけど、やっぱりあなたが作ってくれたのが一番かな」
「……ありがとう」
来たばかりなのに、一生懸命手伝うとか役に立ちたいとか言ってきて。ホント健気の一言に尽きる。いろいろ空回りしてた部分もありはしたけど。
「でも食い過ぎには注意しろよ。でないとまた太っちゃうぞ?」
「……っ!」
自身の嫌な思い出を掘り起こされたためか、また動きがフリーズしてしまうクローラさん。
確かにあの時は苦労したもんな。できれば忘れ去りたい記憶だろう。
「ごめんごめん。別に馬鹿にしたわけじゃないから。ただ――」
「心配してくれてるんだよね」
俺のセリフを先取りして彼女は言った。
今度は俺がフリーズする番だった。
「『だいえっと』……色々迷惑かけちゃったよね。食事の制限とか、運動とか、結構厳しかったし」
「……」
「でもあなたはあたしが太った時、真っ先にあたしの健康を気遣ってくれた。だって……普通だったら外見が醜いとか言うところだもん。後から思い返してみると、やっぱりあなたって優しいなって思った」
はむっ、とクローラはまたカレーを頬張る。
「大丈夫、同じ過ちは二度と繰り返さないから。あなたがだいえっとの時にアドバイスしてくれたこと、今もきちんと記憶して実践してるもの」
「そうか……ならよかった」
一安心すると、お互い自分の分のカレーに集中し始めた。
黙々と、時々感想を言い合いながら、やはりほぼ同タイミングで完食。
揃って手を合わせ、ごちそうさまをする俺達であった。
○
カレー屋を去り、俺達はまた腕を組んで大通りを放浪していた。
「美味しかったね、あなた」
「そーだね」
満足そうに言うクローラ、ようやく彼女の底なしの胃袋も満たされたみたいだ。よかったよかった。
「なんか今のラーメンもカレーも、さっきまで食べてたものよりずっとしっかり作り込んであった気がする。他にもメニューとか、調理器具とか、器とか……。あと結構人も大勢いた。ちょっと並んだし」
「そりゃチェーン店だからね。余裕も人気もあるせいでしょ」
「ちぇーん、てん……」
呆けた声で聞き慣れないであろうそのワードをたどたどしく繰り返すクローラ。
俺は慌てて補足しようとした。
「あぁチェーン店っていうのは――」
「個人で営業しているものとは違い、一つの企業が大規模に複数の店舗を構えている体制、のことだよね?」
それを聞いた俺はさぞ鳩が豆鉄砲を食ったような表情になっていたに違いない。そりゃそうでしょ、いきなりそんなペラペラ異世界人が現代の経営知識語られちゃあさ。いくらここで暮らし始めて結構経つとはいえ……。
「ふふっ、驚いてる?」
「いや……まぁ、それなりに」
「でも、これあなたが教えてくれたことなんだよ?」
「え? ……あ」
そう言えば、ラーメン屋連れてった時に話したんだっけ。相変わらず良く覚えてるなぁ。
「こうしたほうが名前を知ってもらえる機会も増える。そして有名になれば『ブランド力』が高まる。その名前だけで売れるようになる。合ってるでしょ?」
「……お、おう」
「あとは、中小の会社がその名前を借りて利用する『フランチャイズ』とか……ちゃんと記憶してるんだから」
ちょっと得意げに彼女は自分のこめかみを人差し指でつついた。
さすがは暗記の天才。一度頭に入れたことは完全に覚えてる。まさに脱帽モノだ。
「でも勘違いしないでね、あたしだってなんでもかんでも全部覚えてるわけじゃないんだから」
「え?」
「暗記してられるのは『あなたが教えてくれたこと』だからだよ?」
「……」
「忘れたくないもの……絶対」
殺し文句再び。
また俺の顔の体温が上昇してしまう。このままじゃ本当に顔から火が出そうだ。
だがそんな俺の心など知る由もなく、クローラはまた何か面白いものを見つけたらしく、腕を引っ張ってきた。
「あ、あれあれ! 今度はあれ寄ってこうよ!」
「わかった、わかったからちょっとは落ち着けって~」
○
「輪投げかぁ」
さすがに三連続飲食店ではなかったので、ホッと俺は胸を撫で下ろした。
その大きな屋台では、景品取得のために励む子供達で大賑わいだった。
そんな様子を見ながら、クローラは顎に手をやって呟く。
「さっきの射的と同じようなものかしら?」
「おう。これはあの輪っかを投げて、ああやって目標にはまるようにすればゲットできるってやつだな」
違うところと言えば、獲得の確実性がある程度保証されてるってとこか。
射的は当てても「下に落とさないと」という制約があるが、こっちの方は目標に入れば問答無用でゲットできるからな。
「やってみてもいい?」
「もちろん。すみませーん……」
店員さんに挑戦の旨を申し込んで、直径20センチほどのプラスチック製の輪を六個渡される。
フィールドには斜めに立てかけられた大きな板にいくつかの杭が刺さっている。そこには番号が振ってあって、入れば対応した景品が手に入る仕組みだ。
正直射的よりは難易度高そうだよな。他の人も結構苦戦してるみたい。
「はい」
と思ってたら、クローラがさも当然というふうに輪っかを三つこっちに渡してきた。
あーこりゃご丁寧にどうも。
……じゃなくて!
「俺もやるの!?」
「うん、その方が楽しいでしょ」
クローラはこちらに顔を向けずに、どの景品を狙うか品定めしながら言った。
まさかの展開。俺こういうの苦手なのに、半分も責任押し付けられたらたまったもんじゃないよ。
「よーし、じゃあ……あれ!」
浴衣の裾をまくりながら、彼女は棚に並べられた品々のうちの一つを指差す。
なにかと思って見てみたら……。
「ガンプラ?」
そう、知る人ぞ知るガンダムのプラモデル。確かこれ最高クラスに値段高い種類じゃなかったっけ? 外見だけでなく内部のパーツまで作り込んであって、組み立てるのがめちゃくちゃ難しいのだ。
こりゃあ結構強敵だぞ。大丈夫かな。
「うん、あたしあれが欲しいの。いいかな?」
「もちろん、いいともさ」
「よし、じゃあ頑張ろうね!」
そう意気込んだところでゲーム開始だ。
目標の杭は奥の方にある金色をした、ひときわ目立つ杭だった。遠いけど、チャンスが六回もあればなんとかなるかな。
と高をくくったものの、やはりそう安安とうまくいくはずもなく、一回目は全滅。ここであっさり引き下がるのも癪だからと、二回目に挑戦するも、これまた成果出ず。
思った通り結構ムズい。他の人も苦戦してるっぽいし。三度目の正直に期待するか……。
各々輪っかを構え、今度こそ狙いに当てるべく、神経を集中させて、投げる。
「とりゃ」
すぽっ、と。
意外にも俺の投げた輪が目的のピカピカ光る金色の杭に見事はまった。一瞬ビックリしたが、それはすぐに歓喜へと変わった。
「やった! 当たった!」
「すごーい! おめでとう!」
クローラも拍手して祝福してくれる。いやー、たかが輪投げで本気になってしまったけど、その分喜びも大きいな。
とにかく、これでガンプラは俺らのもんだ!
と思ってたら。
「残念だけど、まだ駄目だよ」
とか店員の兄ちゃんが澄まし顔でそう言ってきた。
は? おいどういうことだよ、ちゃんと当てただろ? これ以上俺らに何をしろってんだ!
そう文句をつけてやろうとするより前に、彼は店の壁に張ってあった注意書きを顎で示した。
黒色の杭:一個当てればゲット!
銀色の杭:二個当てればゲット!
金色の杭:三個当たればゲット!
……にゃろう。
そういうトリックかよ。誰だよ射的と違って確実性が保証されてるとか言った奴! 結局似た者同士じゃねーか!
一個当てるのすらゲキムズだってのに、あと二個も当てろだとぉ? 冗談じゃねーよ、できるわけないじゃんこんなの。
やめやめ、これ以上やったって意味なしだ。店で直接買った方が早いって。
一気に興が冷めた俺は、クローラにもう行こうぜと撤退を持ちかけようとしたのだが。
すぽんすぽん。
そんな音がしたかと思うと。
次の瞬間には、彼女の素早く投げた輪が二つ。目当ての杭にはまっている光景が広がっていた。
「これでいいですか?」
なんてことない、といったクールな口ぶりで、彼女は店員にそう言った。
○
「えへへ、やったね」
「だな。まさか二連続で入れるとは驚きだったけど」
ビニル袋に入った大きめのガンプラの箱を肩にかけながら俺はそう返事をした。
軽やかな足取りで隣を歩くクローラは、嬉しさ故かさっきよりも俺に身体を密着させてくる。
「ていうかさっきの射的のときもすごかったよな。最後の最後で一発逆転で当てちゃったしさ。」
俺は彼女が後生大事そうに片手に抱えている髪留めの箱を指差す。
するとクローラは照れくさそうに、自分の頬を人差し指でポリポリと掻いた。
「それほどでもないよ。ちょっとウラワザを使っただけだから」
「ウラワザ?」
渚の言ってたような強奪じみた真似とはまた違う何かってことか? でもそんなのやってたようには見えなかったけど。
答えが見つからずに首をひねっていると、クローラは無言で自分の首元を指さした。
鉄製の首輪。彼女が転生前から付けていた、奴隷の象徴。だがそこにはある秘密が隠されている。
正面部分に埋め込まれた、透明のガラス玉のような容器。
よく見てみると、内部は緑色に発光し、何か小さな旋風のようなものが渦巻いているのがわかる。
エレメント。元素のエネルギーを閉じ込め、好きな用途に使用できる異世界の技術。
まさか……。
「えへへ……ちょっとズルっこしちゃった」
「ったく……」
まったく呆れた。が、ズルは向こうもやってたことだし、これでおあいことも言えるよな。
「ねぇ覚えてる?」
「今度は何?」
「このぷらもでる……前に一緒に作ったことあったよね」
「ああ。あん時は盛大に散らかしてくれたっけなぁ」
「あはは……ごめんね」
「別にいいよ。でも、ってことはもしかしてリベンジしたかったから欲しかったのか? でも結構作るの大変だぞこれ」
「それもあるけど……」
彼女はそこで言葉を切ると、ちょっと言いにくそうに視線を地面に落とす。
しばらくして意を決したかのように俺の二の腕に指を食い込ませた。
「あなたと、もう一度作りたいなって思ったから」
「え……」
「色々教えてもらいながら組み立てるの……すごく楽しかったし」
「……」
またこいつは突拍子もないことをさらっと……。反応に困るでしょーが。
いや、でもいつまでもこんな調子でいるわけにもいかないな。
今度こそ、ちゃんと訊かないと。何かあったのか、無理してないか、って。
俺は深呼吸して準備を整えると、そこで足を止めた。
「あ、あのなクローラ」
「え?」
「……お前――」
だが俺の言葉の先は、また遮られることになる。
ひゅーーー、どどーーーん!!
という上空に響く轟音と。
「おーー始まった始まった!」
という周囲の歓声によって。
音の下法を見上げてみると、暗黒の空に光り輝く花がいくつも咲き乱れていた。
打ち上げられてすぐしなびくように消えていくが、また次の花が間髪入れずにきらびやかな花弁を広げていく。
「すごい……」
クローラも口を開けて完全にその華麗な満開の花々に魅了されていた。
もちろん俺も同じで、今まで言おうとしていたことは一瞬頭から消え去っていた。それほどまでに美しかった。
花火が、始まった。
結局当初の目的の席探しは達成できなかったけど、まぁこの位置でも十分見える。立ち見だけど。
渚達も連絡ないし、きっと向こうも向こうで楽しんでるだろ。結果オーライ、ってことにしとくか。
「これが、花火……」
「ああ。すごいだろ?」
「うん、とても綺麗だね……」
ポツリとこぼす彼女の言葉に、俺は頷いた。
確かに、来てよかったと心から思えるような、圧巻の一言に尽きる光景だ。
クローラもお気に召したようだし、花火大会大成功だな。
……。
今なら、言えるかな。
いや、今しかない。どうせこの後は渚達と合流することになるだろうから、これを逃したらまたズルズルと引き伸ばしていくことになる。
よし。
俺は覚悟を決めて、クローラに真剣に尋ねようとした。
が、その横顔を見て俺は固まった。
横髪の合間から覗いていた、頬を伝う一筋の涙。それが目に留まったからだ。
かすかに嗚咽も聞こえる。肩も若干震えている。
間違いなく、クローラは泣いていた。
ど、どういうことだ?
なんで? なんか俺悪いことしたか? 一体どうしちゃったんだよ。
出鼻をくじかれ、なんとか取り繕おうとするが、それよりも先に彼女が切り出した。
「……わかってます」
「え?」
「なんでいきなり、こんな人が変わったようなことしだしたか。って思ってるんですよね?」
その口調はいつもの、奴隷としてのクローラ・クエリのものだった。
彼女は打ち上げられる花火を見つめながら、消え入りそうな声で続けた。
「しかもこんな立て続けに無礼な行いを働いて。半ばご主人様を引きずり回して我儘に突き合わせて。ワイヤードだったら即刻捨てられるようなことを……自分でもいけないことだとわかっててやってました」
「クローラ……」
「どれだけ謝っても、許されないこと……。何度償っても、足りないくらいの大罪……。大きな罰を受けることも承知の上で、私は……」
やっぱり。彼女は無理をしていた。
自分を偽って、別人のようになって、俺と恋人のように付き合っていた。
顔を頑なに見せようとしなかったのも、きっとその葛藤を隠しきれる自信がなかったせいだろう。そしてそれを問い詰められたら、一気に突き崩れてしまう。
彼女は、歯止めを効かせられなかったのだ。最初に俺を「あなた」と言って誘った以上、もう突き進むしか無いと思ったのだろう。だから俺をリードして、常にイニシアティブを握ろうとしていたんだ。
そしてそれを俺の前で告白したということは……その時間の「終了」を意味する。
彼女が言いたいことは大体わかった。
でもその上で言いたい。お前は間違ってると。
大罪だと自覚してる? 後で罰を受けると覚悟してる? そうじゃないだろ。俺がそんなことを望むわけない。むしろ俺が望むのは……。
急いで今度はこちらの気持ちを伝えようとしたが、彼女は意外な一言を紡いだ。
「……ない」
「え?」
「謝りたくないです」
あやまりたく……ない?
俺が混乱していると、クローラはやっと、顔をこちらに向けた。
その瞳は涙で潤んでおり、目元は少し赤く晴れている。今にも堰が切れそうな本当に、本当に悲しそうな表情だった。
「だって謝ったら……終わってしまうから」
「……」
「たしかに私は奴隷で、常に下でなければならない存在。あなたに付き従い、奉仕するのが役目……。それが唯一の幸せなはず。だけど……だけど……」
溢れる涙を浴衣の袖で拭い、彼女は嗚咽混じりに言った。
「ご主人様に優しくされるたびに、ご主人様と触れ合うたびに、それすらも嫌になってきてしまうのです……。奴隷という、私の立場が」
「……」
「あなたは私と対等だと何度も言い聞かせてくれた。最初はご主人様なりの私への優しさだと思ってましたけど、最近になって……私自身が本気でそうありたいと思うようになっているのです……」
「……」
「私は卑怯です。ご主人様の善意につけ込むような真似をして、本当に最低です。だけど……そうしたいんです! 私は……たとえ卑怯な手を使ってもご主人様に……あなたに近づきたかった!」
身の内に溜め込んだものを吐き出すように彼女は悲痛に叫んだ。
「これほどまでに自分の境遇を恨めしいと思ったことはありません。私が奴隷である限り、この首輪をつけている限り……その願いは叶うことはない」
「……」
「だから、これは夢……。短い間だったけど……とても幸せな夢なんです」
「……」
「私が心から望んでいるけど、いつか醒める……そんなひととき。終わりたくないけど……終わってしまう。そんな儚いもの……」
「……」
「でも安心してください。もうこれっきりですから」
涙を拭き終え、クローラは笑顔を俺に見せた。
でもそれはひと目で嘘だと、作り物であるとわかるものだった。
「また明日から私はいつものクローラ・クエリに戻ります。もうあんな私は、見せません。だから……だから……」
やはり作り物だった。
だってすぐにそれは歪み、壊れ、元の泣き顔に戻っていってしまったのだから。
そんな時でも俺は黙っていた。気の利いた言葉一つかけてやれず、ただ泣き崩れる彼女を見ているしかなかった。
だけど、かける言葉は見つからないけれど……これくらいなら、できる。
そっと、俺はクローラの頭に手を置いて、撫でた。
「……ご主人、様?」
少し驚いたように彼女は顔を上げる。
俺はその泣きはらした瞳をまっすぐ見据えて言った。
「クローラ。ワイヤードの掟……忘れたのか?」
「え?」
確固たる自分の意志を持つこと。
もう何度繰り返してきたかわからない、国民一人ひとりに定められた決まり。
でも、今の状況では何よりも大切な教えだった。
「俺と対等になりたい。奴隷という立場を捨てて、俺に近づきたい。それが今のお前の『意思』なんだろ。だったらちゃんと貫き通さなきゃ」
「……でも、私はそんな……。それにこれはただの夢で――」
「醒ますんじゃなくて、叶えろよ。その夢」
言った途端、クローラの目が大きく見開かれた。
そんな彼女に俺は優しく諭し続ける。
「これは夜寝てから見てる世界じゃない。ちゃんとれっきとした現実だ。そしてお前がずっと願ってきたことだ。だったら……叶えなくちゃ」
「……かな、える」
「ああ。願うからこそ、そうしなきゃ駄目なんだ。でないと、これからも奴隷がこうあるべきだというワイヤードの価値観に流され続けるだけだ」
「……」
しかしこう言ってもクローラは納得しない。
ま、いきなり言われてはいそうですかと頷けるような話でもないしな。それにどうあるべきかなんて結局本人が決めることで、他人がとやかくいうべきことじゃない。
所詮はエゴ。どれだけ正論めいたことを言っても、単なる一個人の見解に過ぎない。
だったら、彼女に俺が言うべきなのは……こんなことじゃない。
大切なことは、もっと他にある。
それは……。
「俺は嬉しかったよ」
「え?」
「お前の、正直な気持ちが聞けたから」
「ご主人様……」
「だから……それを夢で終わらせないでほしい。叶えて、現実にしてほしい」
大切なのは、俺の意思。
俺が彼女にどうしてほしいか、なんだ。
ずっと思ってた。奴隷とかそう言う建前なしに、この世界に暮らす人間として、同じように接してほしいと。
さっきまでのクローラだって、少し驚いたけど、やっと俺の思いが届いたのかなという喜びもあった。
終わらせたくないのは……俺も同じなんだ。
「これが……俺の正直な気持ちだ」
「……っ!」
そこで感極まったのか、彼女の目尻に大粒の涙が浮かんだ。
ひゅるるるるる……と、花火の芽が天空へと舞い伸びる音が聞こえてくる。
そして、それが大きな音と光とともに開花する瞬間。
クローラ・クエリの口が動いた。
「好きです」
声は聞こえなかったが、そう言ってるのははっきりわかった。
一瞬頭が真っ白になった。まるで全ての思考を花火の音で上書きされるように。
人生初めての告白を、受けてしまった。
たった四文字の、あまりにもあっさりとしたものだった。だがその短い言葉が指す意味は何よりも深く、何よりも重いものであった。
「好きです……ご主人様……大好きです」
夢ではないと言い聞かせるように、彼女は何度も続けた。
「あなたを、一人の男性として……お慕いしています」
「……」
いきなりのその事実に、俺は立ち尽くすことしかできなかった。でもそこからじわじわと、何かが体の奥からこみ上げてくる感覚に襲われた。
さっきまで投げかけられたどんな言葉よりも素敵で、誇らしくて、嬉しいものだったのだから。
「ありがとう」
俺もまたそう返事を返した。
これも今の、正直な気持ち。
ようやく俺達は、心から対等になれたのかもしれない。
クローラは目尻の涙を拭いながらら、可愛らしくはにかんだ。
「やっと、言えました……」
「俺も、やっと聞けた」
どれだけ行動で匂わせていても、どれだけ態度でほのめかせていても。
こうして言葉で伝えあうことが、本当の気持ちを確かめ合うたった一つの方法。
お互いの心に触れ、お互いの想いが今、届いたんだ。
「あの、これ……」
するとクローラは抱えていた髪留めの箱を見せてきた。
「本当はこの髪留め……ご主人様に差し上げたくて取ったんです」
「俺に?」
「はい。日頃……お世話になってるお礼として」
男にヘアピンか……まぁ俺は髪をちょっと長めにしてるし、使えるっちゃ使えるけど。
でも気持ちはありがたい。どんなものだろうと、彼女が俺のために取ろうとしてくれたのだから。
「あの……ご主人様。これ……二個セットで入ってるようなんです」
「そうなんだ。さすがに二個は付ける必要ないかな」
「はい。だから……一つは、私が付けてもいいですか?」
「クローラが?」
「はい」
ペアルックみたいなもんか。それもそれでいいかもな。
「わかった、じゃあ俺が付けてあげるよ」
「ありがとうございます。ではご主人様の方は私がおつけしますね」
「うん、よろしく」
クローラは箱から髪留めを取り出すと、一つを俺に手渡した。
黒と白のゼブラ模様で、小さくアネモネの花の装飾が施されている。クローラの浴衣の柄と同じだな。
先に俺の方が、クローラのミディアムボブの髪をかき分け、それをそっと着けてあげる。
「えへへ……どうですか?」
「うん、すごく可愛いよ」
「嬉しいです。今度はクローラが……」
彼女はもう片方のそれを両手でもち、そっと背伸びをして俺の頭に腕を伸ばした。
ちょっと伸びで垂れ気味だった前髪を後ろにやり、側頭部の髪とまとめて固定する。
「似合ってる、かな?」
「はい、素敵ですよ。ご主人様」
恥ずかしそうに俺が尋ねると、うっとりとした声でクローラはそう言ってくれた。
これで完了。おそろいのアクセを付けて、対等という関係が形で示されたのだと俺達は実感した。
そんな俺達を祝うかのように、花火は咲き続ける。
「ご主人様?」
「ん?」
「『いけないこと』……もう少し続けてもいいですか」
クローラの言葉に俺は眉をひそめた。
どういうことだろう。さっきのキャラ変をまたやるってことだろうか。
まぁ何にせよ、断る理由はない。
別にいいよ、と許可を出そうとしたのだが……。
既に彼女は動き出していた。
と言っても、もう一度、その場で背伸びをするだけだったけれど。
ちゅっ。
と、俺の唇に何か暖かく湿ったものが押し付けられた。
再び頭の中が白一色になる。
何をされたのか理解するまでに三秒かかった。
完全に頭にかかった霧が晴れた時にはもう、クローラは俺から離れていた。
頬を赤く染めて、いたずらっぽい笑みを浮かべて。
キス……された?
しかも……口に?
俺は思わず自分の唇に手を当てた。まだほのかに感触は残っている。紛れもない彼女の匂いと暖かさを感じた。
そんな俺をからかうようにクスクス笑っている。
本当に、こいつは……。だったら俺だって。
いたずらが過ぎた奴隷さんには……
「お仕置きだ」
「え? きゃっ――」
有無を言わせず、俺は彼女の肩を抱き寄せて。
そっと、重ねた。
熱を帯びた彼女の唇が、また俺のそれに触れる。
「んっ……」
びくっとクローラは体を震わせたが、すぐにそれを受け入れてくれた。
何秒か重ね合った後、俺はそっと身を離した。
とろけそうな顔をして、彼女はこちらを見上げ、囁くように言った。
「足りません……」
そして手を伸ばし、俺の頬を両掌でそっと挟み込んだ。
「こんなんじゃ、全然足りません……」
彼女のその言葉とともに、熱い吐息が鼻に吹きかけられる。
「もっと……お仕置き、してください。ご主人様……」
「……」
俺は何も考えずに、またクローラにキスをした。
彼女は俺の首に手を回し、もっととせがんでくるように応えてくる。
周囲の人達が花火に夢中になる中、俺達は口吻けを繰り返した。
はむはむと、互いの唇を食べるように。まるで小鳥がついばむようなキスを。
弾ける音をバックに、照らされるカラフルな光を頼りに。
俺はクローラを、クローラは俺を。ただひたすらに求め続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく俺達はお互いに離れた。二人の唇からは、ネットリと唾液が糸をひくように伸びた。
「気持ちよかったです、ご主人様……」
クローラは照れくさそうにもじもじしながら言った。
「今日のこと、クローラ絶対に忘れません」
「ああ、俺も……」
お互いの気持ちを確かめ合い、はにかんで笑いあった後、花火は止んだ。
インターバルだ。少し時間を置いたらまた打ち上がり始めるだろう。
「じゃあこのままってのもあれだし、そろそろ渚達と合流するか」
「そうですね。ちょっと名残惜しいですけど」
俺はスマホを取り出し、LINEを開きながら歩き出そうとした。
その時。「ご主人様」と背後のクローラが俺を呼んだ。
振り返ると、彼女は俺にそっと手を伸ばし、こう言った。
「私の手を、握ってくれますか?」
ズキリ。
と、何かが俺の胸を刺した。思わずスマホを持つ俺の手から力が抜け、落ちる。
さっきの痛みだ。誰かの睨む視線のような……鋭い痛み。
それにその言葉……どこかで……。
どこで耳にしたんだっけ。少なくともこれが初めてじゃないことは確かだ。
絶対、前にも……一度……。
いや……一度だけじゃない?
「ご主人様?」
俺が強張ったのに対し、不安げにクローラが声をかけた。そこでようやく我に返る。
いけないいけない。何深く考えてんだ。そんなセリフ、どこにだってありふれてるじゃないか。きっと小説か映画かで聞いたんだろう。それだけ、いちいち気にすることないや。
「ごめんごめん。別にいいよ、さっきまでずっと腕組んでたし――」
そう言ってごまかし気味に彼女に手を伸ばそうとして彼女の顔を見た時。
俺は悲鳴をあげそうになった。
死骸。
そう表現する以外にないくらいの「それ」が俺の前にいた。
まさにクローラ・クエリが立っていた位置に。
彼女の顔はいつものものとは似ても似つかぬほど痩せこけており、頬や額には無数の傷痕が刻み込まれている。
俺に向かって差し伸べられるその手には、焼け焦げたように黒ずんでおり、骨と皮だけの枝のようだった。
腕だけじゃない、身体も……まるで半分以下の細さに縮んでいる。それこそ着ていた浴衣はそのままストンと下にずり落ちてしまいそうなほどに。
生きているとは到底思えない、なにもかもが凄惨だった。
何より、その顔の中央上にある二つの目。
こちらを覗いている虚ろな瞳から、とめどなくあふれる液体。
涙じゃない。絶対に。
なぜならそれは……墨汁のように毒々しい黒色をしていたからだ。
穢れ。
そう呼ぶしかないほど、穢れだった。
黒い液体は頬をつたい、首元を濡らし、浴衣へと吸い込まれる。
もともと黒かった彼女の浴衣が、さらに漆黒へと塗り替えられていく。
「ゴシュジン……サマ?」
クローラ・クエリ「だった」何者かは……喉の奥からそうしわがれた声を出して俺を呼んだ。
そして、一歩……こちらへと、近づいた。
ズキン! ズキン! ズキン!
胸の痛みが、一回鼓動が鳴る毎に増していく。もはや立っていることすら困難になりかけてきた。
「……っ!!」
俺はそこで、居ても立ってもいられなくなり……。
「彼女」を、抱きしめた。
その行為が今となっては何を意味していたのかは、自分でも思い出せない。
痛ましくもおぞましい姿をこれ以上見たくなかったのか。
はたまたそれが幻覚であると、直に触れることで今のはクローラなどではないと確かめたかったのか。
とにかく俺は、彼女を強く、強く抱きしめ続けた。
「ご、ご主人様ちょっと……痛い」
耳元でそうクローラの苦しそうな声がした。
それではっと目が覚め、慌てて俺は彼女を解放した。
恐る恐る見ると、彼女は普段通りのクローラだった。
白くてきれいな肌をして、くせっ毛なミディアムボブの髪を持つ……いつもと変わらない彼女。
クローラ・クエリがそこにいた。
「どうしたんですか、いきなり」
「……いや、悪い」
俺は言葉を濁してうつむく。
やっぱり、幻覚だったのかな……。
いや、絶対そうだ。そうに決まってる。
だって今、俺の目の前にいるのは……紛れもない、本物のクローラなのだから。
それを証明するように、今俺の手が触れている彼女の肩にはぬくもりがあった。
生きている者しか持ちえない、暖かさが。
そんな彼女は、優しく微笑むと自分の胸に手を置いて言った。
「心配しなくても、私はここにいますよ」
「……」
「いつでもあなたの傍に。それが私の願いですから」
それを聞いて、少し俺は気が収まった。
早まった鼓動が落ち着き、不安定だった呼吸もリズムを取り戻す。
あの胸の痛みも、いつの間にか引いていた。
そうだ……いつもと同じ。これでいいんだ。どちらも変わったりしない、離れることもない。
俺達はずっと一緒。そうお互いが願っているのだから、何も恐れることはない。
「うん、ありがとう」
「はい、どういたしまして」
ペコリと一礼するクローラに、ようやくパニックから脱せた俺は改めて手を伸ばした。
彼女の手を、握るために。
「じゃあ行こうか、クローラ」
彼女は笑顔でうなずき、そっと俺の手のひらに自分のを重ね合わせた。
「はい、ご主人様」
その瞬間、再び花火が打ち上げられた。
再び俺達を、祝福するかのように。
いつまでも、いつまでも。
「わたあめいかがっすかー!」
「じゃがバター食べてかないかーい?」
「金魚すくい。今ならポイ一本おまけしとくよー!」
「鯛焼き名人アルティメットフォーム!! スペシャルターボ!!」
ガヤガヤとざわめく道を腕を組んで歩く俺達。
さっきも通った場所なのに、こうしてみると味わう雰囲気が全然違う。心臓がドキドキしっぱなしだし、何か話そうにも切り出し方がわからない。
女と二人で歩くのが初めてなわけではないが、どうにも調子が狂う。
「やっぱりいろんなお店があるね! どこから行こっか?」
クローラは先程までと同様、いつもとは180度違う口調で明るく言うが、緊張しているのは彼女も同じらしい。押し付けられた彼女の胸から、熱い鼓動がしっかりと伝わってくる。
それが顔にも出ているのかどうかは、よくわからない。
なぜなら、クローラはさっきから俺と殆ど目を合わせようとしないからだ。
常に俺より半歩前を進んで歩くし、立ち止まっても顔を伏せたり変な方向を見たりして、こちらには絶対正面を向けない。
さっきの恥ずかしそうで、どこか悲しげな顔……。どうしてもあれが頭から離れなかった。
もしかして、無理してたりするんじゃないのかな。一緒に回ることに同意はしたけど、やはりそんな心配が脳にチラついてしまう。
思い切って彼女に問おうとはしているのだが、それを先読みするかのごとくクローラは何かと理由をつけて俺を引っ張っていくのである。
こんなふうに。
「あ、ねぇあそこにラーメンだって! あたし、あれ食べたい!」
「うぇ!? ちょっ」
半ば強引にそのラーメン屋の屋台の近くまで連行される俺。またタイミングを逃してしまった、と小さくため息を吐く。
だがそれがクローラの耳に届いてしまったのか、ぴたりと彼女は足を止めた。
「ごめんなさい……気が進まなかった?」
「いや、そんなことないよ! ラーメン、めっちゃ好きだし」
「そっか、よかった!」
相変わらず彼女は顔を見せない。そのかわりに、俺に絡ませる腕に少し力がこもる。言葉通り安堵の気持ちが伝わってくるようだった。
祭りでラーメンってのも珍しいな。カフェやってた俺らが言えたことじゃないけど。
どうやらチェーン店の特別出張らしく、実店舗も何回か利用したことのあるものだった。
暖簾をくぐり抜けると、カウンター及び大鍋と麺を茹でる器具を隔てて店員さん達数名が笑顔で出迎えてくれた。
「へいらっしゃい、なんにしましょ! っても、今日は八王子ラーメンだけなんですけどね」
「そ、そうなんですか」
まぁこういう野外だと材料的な問題とかがあるしな。しょうがない。
ちなみに八王子ラーメンとは聞けば分かると思うが、この八王子発祥の名物……所謂ご当地グルメである。
ごく一般的な醤油ラーメンなのだが、チャーシューやメンマの他に刻み玉ねぎをトッピングするのが大きな特徴だ。加えてお酢をお好みで入れると、普通とは全く違う味わいが体験できる一品だ。
店員さん達が麺を茹でたりスープの準備をしている中、クローラは小さく鼻歌を歌いながらラーメンを心待ちにしていた。よほど楽しみなんだろうな。その顔は垂れた横髪で見えなかったけど。
「ラーメン、好き?」
「うん、大好き。この世界に来てからいろんなモノを食べたけど、これは五本の指に入るくらいに好き」
こちらに顔を向けずに、というより顔を見られない絶妙な角度を維持したまま、彼女は返事をした。
「ねぇ覚えてる? こうやってラーメン屋さんに行った時のこと」
「ああ。覚えてるよ。あん時は結構大変だったよなぁ。色々」
「うん、でも楽しかったよ? その色々なこと、全部」
「クローラ……」
彼女は麺が茹で上がるのを見つめながら、感慨深そうに続けた。
「だって……初めてあなたと二人ででかけたところだもの」
「……」
「大切な人と一緒なら、どんなことでもすごく楽しくなる。そう思わない?」
「……そーだな」
大切な人か……なんかそう言われるとちょっと照れるな。
自分の顔が赤らんでいくのを感じた俺は、相変わらず生返事を返すしかない。
くそ、もっと気の利いたこと言えよ、せっかくクローラが頑張って話しかけてくれてるのに!
何言えばいいんだろ……えっと、えっと……。
「く、クローラ、あのな――」
「はい八王子ラーメン二人前お待たせしました!」
ドン! とでかいどんぶりが二つ俺らの前に勢いよく置かれる。ああもう、なんて間が悪い……。
クローラは待ってましたとばかりに割り箸を割ってケバを削ぐ。しゃぁない、今は食事に集中しよう。
醤油のいい香りとともに立つ湯気。たっぷり玉ねぎの乗った、シンプルだけど贅沢な一品。見てるだけで食欲がそそられる。
俺達は忘れずに手を合わせ、同時に言う。
「「いただきます」」
麺を箸で掴み、息を吹きかけながら噛みごたえ抜群のそれを一気にすする。
続けて蓮華でスープをすくい、煮干しダシのきいた味を堪能する。
うまい。やっぱこーゆう素朴なのが一番だな。何回食べても飽きが来ないし。
ふと隣を見てみると、クローラは片手で髪をかきあげながらお上品にラーメンを食していた。
まるでパスタのようにくるくると麺を箸で巻き取り、レンゲの中のスープの海に浸す。たっぷりと染み込ませたら、それを傾けて口内に入れ、ゆっくり咀嚼して呑み込む。
スープも飛び散らないし、音も静かだ。これから食事マナーを学ぶ子どものお手本にさせても問題ないくらいの完璧なフォルム。ただの食事風景なのになぜか魅入ってしまい、いつの間にか俺の箸を持つ手は止まっていた。
それに気がついたのか、彼女もピタリと動きを止めて、こちらを見ずに訊いてくる。
「ど、どうしたの?」
「え? ああいや、その……改めて見るとクローラの食べ方やっぱすごく綺麗だなー、って」
「たべかた……」
「うん、箸の使い方とかさ。すごく器用だよね。なんか思わず見とれちゃった」
「……」
褒めたつもりだが、彼女はすぐに返事をしなかった。それどころかリアクション一つ示さない。なんだろう、気に障るようなこと言ったかな?
「あ、ごめん。別に僻みとか嫌味を言ってるわけじゃなくて――」
「ううん、違うの」
ふるふると首を横に振って即座に彼女は否定した。
そして箸を上下に動かし、その先端部分を見つめながらこう続ける。
「ただ、あの時のこと思い出して……」
「あの時?」
「あなたの家で、初めてごはんを出してもらった時」
「……え? ああ」
「その時もラーメンだったよね。食べたの」
カップ麺だけどね。と、俺は苦笑いしながら肩をすくめた。
そっか、そういえばその頃からクローラは箸の使い方が上手かったよな。ワイヤードにはないカトラリーだったのにもかかわらず、である。
「あたしね、あれが初めてだったんだ」
「え? 何が?」
「誰かに褒められたの」
わずかに見える彼女の口元が綻んだ。
褒められた……初めて?
「ずっとあたしが言われてきたことは罵倒、誹り、非難……そればっかりだった。この世界に来た時も、正直いつそういうことを言われるのかなって思ってたの。でも違った」
「……」
「あなたは優しくて、いきなりここに住むなんていっても快く受け入れてくれて……それどころか『器用だね』って褒めてくれた……」
「それは……俺はただ、見たままの感想を言っただけで」
「それが嬉しかったの」
静かに蓮華を置いてクローラは言った。
「ありのままのあたしを見てくれてるから。立場とか、身分とか、経歴とか。そんなの関係なく、今のクローラ・クエリという人間を見てくれてる。だから……最初にそう言われたとき、本当にこの人の元に転生できてよかったって思った」
「……」
その言葉を聞いて、俺は喜ばしいとは思えなかった。
だって、今まではそうじゃなかったってことなんだろ? たとえ彼女がどんな人間であろうと、奴隷というだけでバカにされ、詰られ、侮蔑されてきた。たったそれだけのことを理由に。
だからこそ、あんな出来事を特別なものとしていつまでも覚えているのだろう。俺ですら忘れかけていた、些細なことを。
「それだけじゃない。あれからもいっぱいあなたは褒めてくれた。あたしのいいところをたくさん見つけてくれた……一杯頭、撫でてくれた……」
「……」
「あれ、すごく好き。ああやって撫でてもらえてる時が、一番幸せ」
「……そっか」
幸せ、か。
また少し照れくさくなってきた。彼女も恥ずかしさをごまかすように、急いでラーメンをかっ込む。さっきとは違ってワイルドな食べっぷりだ。俺も負けてらんないや。
麺の塊に食らいつき、丼を持ち上げてスープを最後まで飲み干すと、俺達はほぼ同時に完食。
「「ごっそさん」」
ハモって挨拶を忘れずに言い、据え置きのティッシュで口元を、布巾でカウンターを拭く。
「美味しかった?」
「うん。とっても。いつもよりもずぅっと」
「はは、そんなに?」
「もちろん。だって……あなたと一緒に食べられたから」
大切な人と一緒なら、食べるものも一層美味しく感じる……か。
まったくこいつは、なんでこうさっきからハズいことばかり言うんだか。
「さ、次のとこ行きましょう。時間ないし」
「え? ま、待ってよクローラ!」
店員さんに一礼して一足先に屋台から出ていってしまう彼女を、俺は支払いを手早く済ませて追いかけた。
○
さて、次の目的地は何だったかといいますと。
「カレー?」
「すごーい、いろんな辛さが選び放題なんだって!」
これも同じくチェーン店の出張店舗だったが、今度はキッチンカーでの販売だった。すごいなー、お祭りってこういうのも出てるんだ。
「それにしてもクルマの中に台所があるなんてすごく不思議……これ、普通に動くんだよね?」
「ああ。だから好きなところで停車すればそこがお店になるんだよ」
「素敵……こういうの見るとなんかワクワクするなぁ」
ワクワクする、か。最初の頃はこの世界特有の技術とか見ても「ふーん」ってつまらなそうな態度だったのに、ずいぶんな変わりようだ。
「ね? 食べていこうよ」
「はいよ」
彼女に導かれるようにして、俺はその小さなカレー屋さんに赴いた。
正直いろいろ喰った後で胃袋が悲鳴を上げそうだったので、俺は小盛りを注文。だがクローラの方は迷いもせずに大盛りを頼んだ。しかも味付けまで結構辛めのレベルに設定。
しばらくして出てきたカレーの皿とご対面。再び一緒にいただきますの挨拶の後、それを食す。
「ん、おいし♡」
ノリノリでスプーンを動かしてらっしゃるクローラ女史。辛いので大丈夫かなと心配だったが、杞憂だったようだ。
しかも喰うスピードも早い。どんどんさらに残ったカレーとご飯が消えていく。そのくせ服にもテーブルにもルーの一滴も飛んじゃいないんだからすごい。
「……すごい食べっぷりだね」
「大好きだからね」
いつもの「奴隷なのに食い意地張って申し訳ありません」とか言うのに比べたらすごく率直な返答である。ちょっと面食らった。
「ねぇ覚えてる? あたしがあなたの家に来た初日に食べたの、ラーメンの次がこれだったんだよ?」
「ああ。お前も作るの手伝ってくれたんだよな」
「うん。このカレーも美味しいけど、やっぱりあなたが作ってくれたのが一番かな」
「……ありがとう」
来たばかりなのに、一生懸命手伝うとか役に立ちたいとか言ってきて。ホント健気の一言に尽きる。いろいろ空回りしてた部分もありはしたけど。
「でも食い過ぎには注意しろよ。でないとまた太っちゃうぞ?」
「……っ!」
自身の嫌な思い出を掘り起こされたためか、また動きがフリーズしてしまうクローラさん。
確かにあの時は苦労したもんな。できれば忘れ去りたい記憶だろう。
「ごめんごめん。別に馬鹿にしたわけじゃないから。ただ――」
「心配してくれてるんだよね」
俺のセリフを先取りして彼女は言った。
今度は俺がフリーズする番だった。
「『だいえっと』……色々迷惑かけちゃったよね。食事の制限とか、運動とか、結構厳しかったし」
「……」
「でもあなたはあたしが太った時、真っ先にあたしの健康を気遣ってくれた。だって……普通だったら外見が醜いとか言うところだもん。後から思い返してみると、やっぱりあなたって優しいなって思った」
はむっ、とクローラはまたカレーを頬張る。
「大丈夫、同じ過ちは二度と繰り返さないから。あなたがだいえっとの時にアドバイスしてくれたこと、今もきちんと記憶して実践してるもの」
「そうか……ならよかった」
一安心すると、お互い自分の分のカレーに集中し始めた。
黙々と、時々感想を言い合いながら、やはりほぼ同タイミングで完食。
揃って手を合わせ、ごちそうさまをする俺達であった。
○
カレー屋を去り、俺達はまた腕を組んで大通りを放浪していた。
「美味しかったね、あなた」
「そーだね」
満足そうに言うクローラ、ようやく彼女の底なしの胃袋も満たされたみたいだ。よかったよかった。
「なんか今のラーメンもカレーも、さっきまで食べてたものよりずっとしっかり作り込んであった気がする。他にもメニューとか、調理器具とか、器とか……。あと結構人も大勢いた。ちょっと並んだし」
「そりゃチェーン店だからね。余裕も人気もあるせいでしょ」
「ちぇーん、てん……」
呆けた声で聞き慣れないであろうそのワードをたどたどしく繰り返すクローラ。
俺は慌てて補足しようとした。
「あぁチェーン店っていうのは――」
「個人で営業しているものとは違い、一つの企業が大規模に複数の店舗を構えている体制、のことだよね?」
それを聞いた俺はさぞ鳩が豆鉄砲を食ったような表情になっていたに違いない。そりゃそうでしょ、いきなりそんなペラペラ異世界人が現代の経営知識語られちゃあさ。いくらここで暮らし始めて結構経つとはいえ……。
「ふふっ、驚いてる?」
「いや……まぁ、それなりに」
「でも、これあなたが教えてくれたことなんだよ?」
「え? ……あ」
そう言えば、ラーメン屋連れてった時に話したんだっけ。相変わらず良く覚えてるなぁ。
「こうしたほうが名前を知ってもらえる機会も増える。そして有名になれば『ブランド力』が高まる。その名前だけで売れるようになる。合ってるでしょ?」
「……お、おう」
「あとは、中小の会社がその名前を借りて利用する『フランチャイズ』とか……ちゃんと記憶してるんだから」
ちょっと得意げに彼女は自分のこめかみを人差し指でつついた。
さすがは暗記の天才。一度頭に入れたことは完全に覚えてる。まさに脱帽モノだ。
「でも勘違いしないでね、あたしだってなんでもかんでも全部覚えてるわけじゃないんだから」
「え?」
「暗記してられるのは『あなたが教えてくれたこと』だからだよ?」
「……」
「忘れたくないもの……絶対」
殺し文句再び。
また俺の顔の体温が上昇してしまう。このままじゃ本当に顔から火が出そうだ。
だがそんな俺の心など知る由もなく、クローラはまた何か面白いものを見つけたらしく、腕を引っ張ってきた。
「あ、あれあれ! 今度はあれ寄ってこうよ!」
「わかった、わかったからちょっとは落ち着けって~」
○
「輪投げかぁ」
さすがに三連続飲食店ではなかったので、ホッと俺は胸を撫で下ろした。
その大きな屋台では、景品取得のために励む子供達で大賑わいだった。
そんな様子を見ながら、クローラは顎に手をやって呟く。
「さっきの射的と同じようなものかしら?」
「おう。これはあの輪っかを投げて、ああやって目標にはまるようにすればゲットできるってやつだな」
違うところと言えば、獲得の確実性がある程度保証されてるってとこか。
射的は当てても「下に落とさないと」という制約があるが、こっちの方は目標に入れば問答無用でゲットできるからな。
「やってみてもいい?」
「もちろん。すみませーん……」
店員さんに挑戦の旨を申し込んで、直径20センチほどのプラスチック製の輪を六個渡される。
フィールドには斜めに立てかけられた大きな板にいくつかの杭が刺さっている。そこには番号が振ってあって、入れば対応した景品が手に入る仕組みだ。
正直射的よりは難易度高そうだよな。他の人も結構苦戦してるみたい。
「はい」
と思ってたら、クローラがさも当然というふうに輪っかを三つこっちに渡してきた。
あーこりゃご丁寧にどうも。
……じゃなくて!
「俺もやるの!?」
「うん、その方が楽しいでしょ」
クローラはこちらに顔を向けずに、どの景品を狙うか品定めしながら言った。
まさかの展開。俺こういうの苦手なのに、半分も責任押し付けられたらたまったもんじゃないよ。
「よーし、じゃあ……あれ!」
浴衣の裾をまくりながら、彼女は棚に並べられた品々のうちの一つを指差す。
なにかと思って見てみたら……。
「ガンプラ?」
そう、知る人ぞ知るガンダムのプラモデル。確かこれ最高クラスに値段高い種類じゃなかったっけ? 外見だけでなく内部のパーツまで作り込んであって、組み立てるのがめちゃくちゃ難しいのだ。
こりゃあ結構強敵だぞ。大丈夫かな。
「うん、あたしあれが欲しいの。いいかな?」
「もちろん、いいともさ」
「よし、じゃあ頑張ろうね!」
そう意気込んだところでゲーム開始だ。
目標の杭は奥の方にある金色をした、ひときわ目立つ杭だった。遠いけど、チャンスが六回もあればなんとかなるかな。
と高をくくったものの、やはりそう安安とうまくいくはずもなく、一回目は全滅。ここであっさり引き下がるのも癪だからと、二回目に挑戦するも、これまた成果出ず。
思った通り結構ムズい。他の人も苦戦してるっぽいし。三度目の正直に期待するか……。
各々輪っかを構え、今度こそ狙いに当てるべく、神経を集中させて、投げる。
「とりゃ」
すぽっ、と。
意外にも俺の投げた輪が目的のピカピカ光る金色の杭に見事はまった。一瞬ビックリしたが、それはすぐに歓喜へと変わった。
「やった! 当たった!」
「すごーい! おめでとう!」
クローラも拍手して祝福してくれる。いやー、たかが輪投げで本気になってしまったけど、その分喜びも大きいな。
とにかく、これでガンプラは俺らのもんだ!
と思ってたら。
「残念だけど、まだ駄目だよ」
とか店員の兄ちゃんが澄まし顔でそう言ってきた。
は? おいどういうことだよ、ちゃんと当てただろ? これ以上俺らに何をしろってんだ!
そう文句をつけてやろうとするより前に、彼は店の壁に張ってあった注意書きを顎で示した。
黒色の杭:一個当てればゲット!
銀色の杭:二個当てればゲット!
金色の杭:三個当たればゲット!
……にゃろう。
そういうトリックかよ。誰だよ射的と違って確実性が保証されてるとか言った奴! 結局似た者同士じゃねーか!
一個当てるのすらゲキムズだってのに、あと二個も当てろだとぉ? 冗談じゃねーよ、できるわけないじゃんこんなの。
やめやめ、これ以上やったって意味なしだ。店で直接買った方が早いって。
一気に興が冷めた俺は、クローラにもう行こうぜと撤退を持ちかけようとしたのだが。
すぽんすぽん。
そんな音がしたかと思うと。
次の瞬間には、彼女の素早く投げた輪が二つ。目当ての杭にはまっている光景が広がっていた。
「これでいいですか?」
なんてことない、といったクールな口ぶりで、彼女は店員にそう言った。
○
「えへへ、やったね」
「だな。まさか二連続で入れるとは驚きだったけど」
ビニル袋に入った大きめのガンプラの箱を肩にかけながら俺はそう返事をした。
軽やかな足取りで隣を歩くクローラは、嬉しさ故かさっきよりも俺に身体を密着させてくる。
「ていうかさっきの射的のときもすごかったよな。最後の最後で一発逆転で当てちゃったしさ。」
俺は彼女が後生大事そうに片手に抱えている髪留めの箱を指差す。
するとクローラは照れくさそうに、自分の頬を人差し指でポリポリと掻いた。
「それほどでもないよ。ちょっとウラワザを使っただけだから」
「ウラワザ?」
渚の言ってたような強奪じみた真似とはまた違う何かってことか? でもそんなのやってたようには見えなかったけど。
答えが見つからずに首をひねっていると、クローラは無言で自分の首元を指さした。
鉄製の首輪。彼女が転生前から付けていた、奴隷の象徴。だがそこにはある秘密が隠されている。
正面部分に埋め込まれた、透明のガラス玉のような容器。
よく見てみると、内部は緑色に発光し、何か小さな旋風のようなものが渦巻いているのがわかる。
エレメント。元素のエネルギーを閉じ込め、好きな用途に使用できる異世界の技術。
まさか……。
「えへへ……ちょっとズルっこしちゃった」
「ったく……」
まったく呆れた。が、ズルは向こうもやってたことだし、これでおあいことも言えるよな。
「ねぇ覚えてる?」
「今度は何?」
「このぷらもでる……前に一緒に作ったことあったよね」
「ああ。あん時は盛大に散らかしてくれたっけなぁ」
「あはは……ごめんね」
「別にいいよ。でも、ってことはもしかしてリベンジしたかったから欲しかったのか? でも結構作るの大変だぞこれ」
「それもあるけど……」
彼女はそこで言葉を切ると、ちょっと言いにくそうに視線を地面に落とす。
しばらくして意を決したかのように俺の二の腕に指を食い込ませた。
「あなたと、もう一度作りたいなって思ったから」
「え……」
「色々教えてもらいながら組み立てるの……すごく楽しかったし」
「……」
またこいつは突拍子もないことをさらっと……。反応に困るでしょーが。
いや、でもいつまでもこんな調子でいるわけにもいかないな。
今度こそ、ちゃんと訊かないと。何かあったのか、無理してないか、って。
俺は深呼吸して準備を整えると、そこで足を止めた。
「あ、あのなクローラ」
「え?」
「……お前――」
だが俺の言葉の先は、また遮られることになる。
ひゅーーー、どどーーーん!!
という上空に響く轟音と。
「おーー始まった始まった!」
という周囲の歓声によって。
音の下法を見上げてみると、暗黒の空に光り輝く花がいくつも咲き乱れていた。
打ち上げられてすぐしなびくように消えていくが、また次の花が間髪入れずにきらびやかな花弁を広げていく。
「すごい……」
クローラも口を開けて完全にその華麗な満開の花々に魅了されていた。
もちろん俺も同じで、今まで言おうとしていたことは一瞬頭から消え去っていた。それほどまでに美しかった。
花火が、始まった。
結局当初の目的の席探しは達成できなかったけど、まぁこの位置でも十分見える。立ち見だけど。
渚達も連絡ないし、きっと向こうも向こうで楽しんでるだろ。結果オーライ、ってことにしとくか。
「これが、花火……」
「ああ。すごいだろ?」
「うん、とても綺麗だね……」
ポツリとこぼす彼女の言葉に、俺は頷いた。
確かに、来てよかったと心から思えるような、圧巻の一言に尽きる光景だ。
クローラもお気に召したようだし、花火大会大成功だな。
……。
今なら、言えるかな。
いや、今しかない。どうせこの後は渚達と合流することになるだろうから、これを逃したらまたズルズルと引き伸ばしていくことになる。
よし。
俺は覚悟を決めて、クローラに真剣に尋ねようとした。
が、その横顔を見て俺は固まった。
横髪の合間から覗いていた、頬を伝う一筋の涙。それが目に留まったからだ。
かすかに嗚咽も聞こえる。肩も若干震えている。
間違いなく、クローラは泣いていた。
ど、どういうことだ?
なんで? なんか俺悪いことしたか? 一体どうしちゃったんだよ。
出鼻をくじかれ、なんとか取り繕おうとするが、それよりも先に彼女が切り出した。
「……わかってます」
「え?」
「なんでいきなり、こんな人が変わったようなことしだしたか。って思ってるんですよね?」
その口調はいつもの、奴隷としてのクローラ・クエリのものだった。
彼女は打ち上げられる花火を見つめながら、消え入りそうな声で続けた。
「しかもこんな立て続けに無礼な行いを働いて。半ばご主人様を引きずり回して我儘に突き合わせて。ワイヤードだったら即刻捨てられるようなことを……自分でもいけないことだとわかっててやってました」
「クローラ……」
「どれだけ謝っても、許されないこと……。何度償っても、足りないくらいの大罪……。大きな罰を受けることも承知の上で、私は……」
やっぱり。彼女は無理をしていた。
自分を偽って、別人のようになって、俺と恋人のように付き合っていた。
顔を頑なに見せようとしなかったのも、きっとその葛藤を隠しきれる自信がなかったせいだろう。そしてそれを問い詰められたら、一気に突き崩れてしまう。
彼女は、歯止めを効かせられなかったのだ。最初に俺を「あなた」と言って誘った以上、もう突き進むしか無いと思ったのだろう。だから俺をリードして、常にイニシアティブを握ろうとしていたんだ。
そしてそれを俺の前で告白したということは……その時間の「終了」を意味する。
彼女が言いたいことは大体わかった。
でもその上で言いたい。お前は間違ってると。
大罪だと自覚してる? 後で罰を受けると覚悟してる? そうじゃないだろ。俺がそんなことを望むわけない。むしろ俺が望むのは……。
急いで今度はこちらの気持ちを伝えようとしたが、彼女は意外な一言を紡いだ。
「……ない」
「え?」
「謝りたくないです」
あやまりたく……ない?
俺が混乱していると、クローラはやっと、顔をこちらに向けた。
その瞳は涙で潤んでおり、目元は少し赤く晴れている。今にも堰が切れそうな本当に、本当に悲しそうな表情だった。
「だって謝ったら……終わってしまうから」
「……」
「たしかに私は奴隷で、常に下でなければならない存在。あなたに付き従い、奉仕するのが役目……。それが唯一の幸せなはず。だけど……だけど……」
溢れる涙を浴衣の袖で拭い、彼女は嗚咽混じりに言った。
「ご主人様に優しくされるたびに、ご主人様と触れ合うたびに、それすらも嫌になってきてしまうのです……。奴隷という、私の立場が」
「……」
「あなたは私と対等だと何度も言い聞かせてくれた。最初はご主人様なりの私への優しさだと思ってましたけど、最近になって……私自身が本気でそうありたいと思うようになっているのです……」
「……」
「私は卑怯です。ご主人様の善意につけ込むような真似をして、本当に最低です。だけど……そうしたいんです! 私は……たとえ卑怯な手を使ってもご主人様に……あなたに近づきたかった!」
身の内に溜め込んだものを吐き出すように彼女は悲痛に叫んだ。
「これほどまでに自分の境遇を恨めしいと思ったことはありません。私が奴隷である限り、この首輪をつけている限り……その願いは叶うことはない」
「……」
「だから、これは夢……。短い間だったけど……とても幸せな夢なんです」
「……」
「私が心から望んでいるけど、いつか醒める……そんなひととき。終わりたくないけど……終わってしまう。そんな儚いもの……」
「……」
「でも安心してください。もうこれっきりですから」
涙を拭き終え、クローラは笑顔を俺に見せた。
でもそれはひと目で嘘だと、作り物であるとわかるものだった。
「また明日から私はいつものクローラ・クエリに戻ります。もうあんな私は、見せません。だから……だから……」
やはり作り物だった。
だってすぐにそれは歪み、壊れ、元の泣き顔に戻っていってしまったのだから。
そんな時でも俺は黙っていた。気の利いた言葉一つかけてやれず、ただ泣き崩れる彼女を見ているしかなかった。
だけど、かける言葉は見つからないけれど……これくらいなら、できる。
そっと、俺はクローラの頭に手を置いて、撫でた。
「……ご主人、様?」
少し驚いたように彼女は顔を上げる。
俺はその泣きはらした瞳をまっすぐ見据えて言った。
「クローラ。ワイヤードの掟……忘れたのか?」
「え?」
確固たる自分の意志を持つこと。
もう何度繰り返してきたかわからない、国民一人ひとりに定められた決まり。
でも、今の状況では何よりも大切な教えだった。
「俺と対等になりたい。奴隷という立場を捨てて、俺に近づきたい。それが今のお前の『意思』なんだろ。だったらちゃんと貫き通さなきゃ」
「……でも、私はそんな……。それにこれはただの夢で――」
「醒ますんじゃなくて、叶えろよ。その夢」
言った途端、クローラの目が大きく見開かれた。
そんな彼女に俺は優しく諭し続ける。
「これは夜寝てから見てる世界じゃない。ちゃんとれっきとした現実だ。そしてお前がずっと願ってきたことだ。だったら……叶えなくちゃ」
「……かな、える」
「ああ。願うからこそ、そうしなきゃ駄目なんだ。でないと、これからも奴隷がこうあるべきだというワイヤードの価値観に流され続けるだけだ」
「……」
しかしこう言ってもクローラは納得しない。
ま、いきなり言われてはいそうですかと頷けるような話でもないしな。それにどうあるべきかなんて結局本人が決めることで、他人がとやかくいうべきことじゃない。
所詮はエゴ。どれだけ正論めいたことを言っても、単なる一個人の見解に過ぎない。
だったら、彼女に俺が言うべきなのは……こんなことじゃない。
大切なことは、もっと他にある。
それは……。
「俺は嬉しかったよ」
「え?」
「お前の、正直な気持ちが聞けたから」
「ご主人様……」
「だから……それを夢で終わらせないでほしい。叶えて、現実にしてほしい」
大切なのは、俺の意思。
俺が彼女にどうしてほしいか、なんだ。
ずっと思ってた。奴隷とかそう言う建前なしに、この世界に暮らす人間として、同じように接してほしいと。
さっきまでのクローラだって、少し驚いたけど、やっと俺の思いが届いたのかなという喜びもあった。
終わらせたくないのは……俺も同じなんだ。
「これが……俺の正直な気持ちだ」
「……っ!」
そこで感極まったのか、彼女の目尻に大粒の涙が浮かんだ。
ひゅるるるるる……と、花火の芽が天空へと舞い伸びる音が聞こえてくる。
そして、それが大きな音と光とともに開花する瞬間。
クローラ・クエリの口が動いた。
「好きです」
声は聞こえなかったが、そう言ってるのははっきりわかった。
一瞬頭が真っ白になった。まるで全ての思考を花火の音で上書きされるように。
人生初めての告白を、受けてしまった。
たった四文字の、あまりにもあっさりとしたものだった。だがその短い言葉が指す意味は何よりも深く、何よりも重いものであった。
「好きです……ご主人様……大好きです」
夢ではないと言い聞かせるように、彼女は何度も続けた。
「あなたを、一人の男性として……お慕いしています」
「……」
いきなりのその事実に、俺は立ち尽くすことしかできなかった。でもそこからじわじわと、何かが体の奥からこみ上げてくる感覚に襲われた。
さっきまで投げかけられたどんな言葉よりも素敵で、誇らしくて、嬉しいものだったのだから。
「ありがとう」
俺もまたそう返事を返した。
これも今の、正直な気持ち。
ようやく俺達は、心から対等になれたのかもしれない。
クローラは目尻の涙を拭いながらら、可愛らしくはにかんだ。
「やっと、言えました……」
「俺も、やっと聞けた」
どれだけ行動で匂わせていても、どれだけ態度でほのめかせていても。
こうして言葉で伝えあうことが、本当の気持ちを確かめ合うたった一つの方法。
お互いの心に触れ、お互いの想いが今、届いたんだ。
「あの、これ……」
するとクローラは抱えていた髪留めの箱を見せてきた。
「本当はこの髪留め……ご主人様に差し上げたくて取ったんです」
「俺に?」
「はい。日頃……お世話になってるお礼として」
男にヘアピンか……まぁ俺は髪をちょっと長めにしてるし、使えるっちゃ使えるけど。
でも気持ちはありがたい。どんなものだろうと、彼女が俺のために取ろうとしてくれたのだから。
「あの……ご主人様。これ……二個セットで入ってるようなんです」
「そうなんだ。さすがに二個は付ける必要ないかな」
「はい。だから……一つは、私が付けてもいいですか?」
「クローラが?」
「はい」
ペアルックみたいなもんか。それもそれでいいかもな。
「わかった、じゃあ俺が付けてあげるよ」
「ありがとうございます。ではご主人様の方は私がおつけしますね」
「うん、よろしく」
クローラは箱から髪留めを取り出すと、一つを俺に手渡した。
黒と白のゼブラ模様で、小さくアネモネの花の装飾が施されている。クローラの浴衣の柄と同じだな。
先に俺の方が、クローラのミディアムボブの髪をかき分け、それをそっと着けてあげる。
「えへへ……どうですか?」
「うん、すごく可愛いよ」
「嬉しいです。今度はクローラが……」
彼女はもう片方のそれを両手でもち、そっと背伸びをして俺の頭に腕を伸ばした。
ちょっと伸びで垂れ気味だった前髪を後ろにやり、側頭部の髪とまとめて固定する。
「似合ってる、かな?」
「はい、素敵ですよ。ご主人様」
恥ずかしそうに俺が尋ねると、うっとりとした声でクローラはそう言ってくれた。
これで完了。おそろいのアクセを付けて、対等という関係が形で示されたのだと俺達は実感した。
そんな俺達を祝うかのように、花火は咲き続ける。
「ご主人様?」
「ん?」
「『いけないこと』……もう少し続けてもいいですか」
クローラの言葉に俺は眉をひそめた。
どういうことだろう。さっきのキャラ変をまたやるってことだろうか。
まぁ何にせよ、断る理由はない。
別にいいよ、と許可を出そうとしたのだが……。
既に彼女は動き出していた。
と言っても、もう一度、その場で背伸びをするだけだったけれど。
ちゅっ。
と、俺の唇に何か暖かく湿ったものが押し付けられた。
再び頭の中が白一色になる。
何をされたのか理解するまでに三秒かかった。
完全に頭にかかった霧が晴れた時にはもう、クローラは俺から離れていた。
頬を赤く染めて、いたずらっぽい笑みを浮かべて。
キス……された?
しかも……口に?
俺は思わず自分の唇に手を当てた。まだほのかに感触は残っている。紛れもない彼女の匂いと暖かさを感じた。
そんな俺をからかうようにクスクス笑っている。
本当に、こいつは……。だったら俺だって。
いたずらが過ぎた奴隷さんには……
「お仕置きだ」
「え? きゃっ――」
有無を言わせず、俺は彼女の肩を抱き寄せて。
そっと、重ねた。
熱を帯びた彼女の唇が、また俺のそれに触れる。
「んっ……」
びくっとクローラは体を震わせたが、すぐにそれを受け入れてくれた。
何秒か重ね合った後、俺はそっと身を離した。
とろけそうな顔をして、彼女はこちらを見上げ、囁くように言った。
「足りません……」
そして手を伸ばし、俺の頬を両掌でそっと挟み込んだ。
「こんなんじゃ、全然足りません……」
彼女のその言葉とともに、熱い吐息が鼻に吹きかけられる。
「もっと……お仕置き、してください。ご主人様……」
「……」
俺は何も考えずに、またクローラにキスをした。
彼女は俺の首に手を回し、もっととせがんでくるように応えてくる。
周囲の人達が花火に夢中になる中、俺達は口吻けを繰り返した。
はむはむと、互いの唇を食べるように。まるで小鳥がついばむようなキスを。
弾ける音をバックに、照らされるカラフルな光を頼りに。
俺はクローラを、クローラは俺を。ただひたすらに求め続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく俺達はお互いに離れた。二人の唇からは、ネットリと唾液が糸をひくように伸びた。
「気持ちよかったです、ご主人様……」
クローラは照れくさそうにもじもじしながら言った。
「今日のこと、クローラ絶対に忘れません」
「ああ、俺も……」
お互いの気持ちを確かめ合い、はにかんで笑いあった後、花火は止んだ。
インターバルだ。少し時間を置いたらまた打ち上がり始めるだろう。
「じゃあこのままってのもあれだし、そろそろ渚達と合流するか」
「そうですね。ちょっと名残惜しいですけど」
俺はスマホを取り出し、LINEを開きながら歩き出そうとした。
その時。「ご主人様」と背後のクローラが俺を呼んだ。
振り返ると、彼女は俺にそっと手を伸ばし、こう言った。
「私の手を、握ってくれますか?」
ズキリ。
と、何かが俺の胸を刺した。思わずスマホを持つ俺の手から力が抜け、落ちる。
さっきの痛みだ。誰かの睨む視線のような……鋭い痛み。
それにその言葉……どこかで……。
どこで耳にしたんだっけ。少なくともこれが初めてじゃないことは確かだ。
絶対、前にも……一度……。
いや……一度だけじゃない?
「ご主人様?」
俺が強張ったのに対し、不安げにクローラが声をかけた。そこでようやく我に返る。
いけないいけない。何深く考えてんだ。そんなセリフ、どこにだってありふれてるじゃないか。きっと小説か映画かで聞いたんだろう。それだけ、いちいち気にすることないや。
「ごめんごめん。別にいいよ、さっきまでずっと腕組んでたし――」
そう言ってごまかし気味に彼女に手を伸ばそうとして彼女の顔を見た時。
俺は悲鳴をあげそうになった。
死骸。
そう表現する以外にないくらいの「それ」が俺の前にいた。
まさにクローラ・クエリが立っていた位置に。
彼女の顔はいつものものとは似ても似つかぬほど痩せこけており、頬や額には無数の傷痕が刻み込まれている。
俺に向かって差し伸べられるその手には、焼け焦げたように黒ずんでおり、骨と皮だけの枝のようだった。
腕だけじゃない、身体も……まるで半分以下の細さに縮んでいる。それこそ着ていた浴衣はそのままストンと下にずり落ちてしまいそうなほどに。
生きているとは到底思えない、なにもかもが凄惨だった。
何より、その顔の中央上にある二つの目。
こちらを覗いている虚ろな瞳から、とめどなくあふれる液体。
涙じゃない。絶対に。
なぜならそれは……墨汁のように毒々しい黒色をしていたからだ。
穢れ。
そう呼ぶしかないほど、穢れだった。
黒い液体は頬をつたい、首元を濡らし、浴衣へと吸い込まれる。
もともと黒かった彼女の浴衣が、さらに漆黒へと塗り替えられていく。
「ゴシュジン……サマ?」
クローラ・クエリ「だった」何者かは……喉の奥からそうしわがれた声を出して俺を呼んだ。
そして、一歩……こちらへと、近づいた。
ズキン! ズキン! ズキン!
胸の痛みが、一回鼓動が鳴る毎に増していく。もはや立っていることすら困難になりかけてきた。
「……っ!!」
俺はそこで、居ても立ってもいられなくなり……。
「彼女」を、抱きしめた。
その行為が今となっては何を意味していたのかは、自分でも思い出せない。
痛ましくもおぞましい姿をこれ以上見たくなかったのか。
はたまたそれが幻覚であると、直に触れることで今のはクローラなどではないと確かめたかったのか。
とにかく俺は、彼女を強く、強く抱きしめ続けた。
「ご、ご主人様ちょっと……痛い」
耳元でそうクローラの苦しそうな声がした。
それではっと目が覚め、慌てて俺は彼女を解放した。
恐る恐る見ると、彼女は普段通りのクローラだった。
白くてきれいな肌をして、くせっ毛なミディアムボブの髪を持つ……いつもと変わらない彼女。
クローラ・クエリがそこにいた。
「どうしたんですか、いきなり」
「……いや、悪い」
俺は言葉を濁してうつむく。
やっぱり、幻覚だったのかな……。
いや、絶対そうだ。そうに決まってる。
だって今、俺の目の前にいるのは……紛れもない、本物のクローラなのだから。
それを証明するように、今俺の手が触れている彼女の肩にはぬくもりがあった。
生きている者しか持ちえない、暖かさが。
そんな彼女は、優しく微笑むと自分の胸に手を置いて言った。
「心配しなくても、私はここにいますよ」
「……」
「いつでもあなたの傍に。それが私の願いですから」
それを聞いて、少し俺は気が収まった。
早まった鼓動が落ち着き、不安定だった呼吸もリズムを取り戻す。
あの胸の痛みも、いつの間にか引いていた。
そうだ……いつもと同じ。これでいいんだ。どちらも変わったりしない、離れることもない。
俺達はずっと一緒。そうお互いが願っているのだから、何も恐れることはない。
「うん、ありがとう」
「はい、どういたしまして」
ペコリと一礼するクローラに、ようやくパニックから脱せた俺は改めて手を伸ばした。
彼女の手を、握るために。
「じゃあ行こうか、クローラ」
彼女は笑顔でうなずき、そっと俺の手のひらに自分のを重ね合わせた。
「はい、ご主人様」
その瞬間、再び花火が打ち上げられた。
再び俺達を、祝福するかのように。
いつまでも、いつまでも。
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