光速の走り屋オオサキショウコ

まとらまじゅつ

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第6章 リベンジ編

ACT.29 ウメの覚醒

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 5月5日の火曜日、夜の群馬。静かなチューニングショップ「Speed葛西」に、エンジンの匂いと冷たい空気が満ちていた。
店の奥、私は一人、JZA70スープラの前で…前で考え込んでいた。

「……覚醒、ね」

 ポツリと、私は口にする。
 最近、若い走り屋たちが口にする「覚醒」という言葉。限界を超えた集中、己を超える瞬間。私も、その言葉の意味は知っていた。
 だが、かつて若さと激情だけで走っていた自分に、そんなもの、自分には縁がなかったと思っていた。 

「私は……ただ、ぶつけるだけだったわ。怒りも、悲しみも……ハンドルに。」

 クールな表情の奥で、私は昔の自分を振り返る。
 師もいなかった。指導も受けなかった。
 ただ、己の腕と、車の力だけを信じて、走った。そして、失った。

「――覚醒ってのは、きっと、“超える”んじゃない。“抱きしめる”んだろうな、自分という存在を。」

 ふっと、私は静かに笑った。
 あの頃の私なら、きっとそんな理屈、笑い飛ばしてた。
 でも今は、わかる気がする。

 その時だった。
 常連の一人、若い男が慌てて店に飛び込んできた。

「か、ウメさん! 大変っす! 群馬に……斎藤智さんの師匠が来てるって!」

 私は目を細めた。

「……飯富院イチ、ね」

 懐かしい名だった。
 巫女服を着た、奇妙な女剣士のような女――飯富院イチ。
 だが、その腕前は本物だった。
 乗っているのは、90系チェイサーツアラーV。見た目とは裏腹に、戦場のようなドリフトをする。

「……巫女のクセに、武士みたいな口をしちゃって。しかも、今さら何のつもりかしら?」

 私は呟く。
 斎藤智を育てた女。その師匠が、今この群馬に来た意味。
 何かが、動き始めている。
 その直感が、私の胸をざわめかせた。

「面白い……久々に、血が滾ってきたわね」

 冷たく微笑む私。
 目には、あの頃とは違う光が宿っていた。
 覚醒とは、己を超えることではない。己を、受け入れた先にあるもの。

 私は、そっとJZA70のボンネットを撫でた。

「なぁ、希。お前も、見てるんだろ?」

 その声は、どこまでも静かだったが、確かに――震えるような熱を帯びていた。

 翌日、5月6日の水曜日の夜。
 群馬某所――人気(ひとけ)のない峠道の駐車スペースに、赤黒いJZX90型チェイサーが静かに止まっていた。
 月明かりに照らされる巫女服の女、飯富院イチ。
 その佇まいは、不思議なほど場違いでありながら、異様に馴染んでいた。

 遠くから、直6ターボの独特なサウンドが響く。
 やがて現れたのは、漆黒に染まるJZA70スープラ。
 ゆっくりとチェイサーの隣に滑り込む。

「……飯富院イチ、ね」

 車から降りた私は、腕を組んで相手を見据える。
 飯富院もまた、じっと私を見ていた。

「汝(なんじ)……まことに、変わらぬな。」

 飯富院の口調は、昔と変わらず武士のそれだった。
 しかしその声に、敵意はなかった。

「私もよ」

 私は肩をすくめる。
 緊張をはらんだ空気の中、飯富院はふっと微笑んだ。

「かつて、貴様と智(とも)は、峠を駆け、誇りを競い合った。……されど、時は巡る。今、我らが争う刻(とき)にあらず。」

「……だろうね」

 私は短く答える。
 今、戦っても意味はない。
 それは二人とも、十分すぎるほどわかっていた。

「斎藤智は、覚醒技だけでなく己を見失った。今のあやつには、汝のようなライバルも、叱咤も、届かぬ。」

 飯富院の言葉に、私は眉をひそめた。

「……なら、あんたは何をしに来たの。走り屋の国、群馬までわざわざ。」

 飯富院は、静かに空を仰ぐ。
 月が、冷たく照らしていた。

「智が、また走る日が来るやもしれぬ。その時、あやつが道を違えぬよう、地を踏む者が要る。……それが、我の役目よ。」

「……師匠ってのも、大変ね」

 私は少しだけ、口元をほころばせた。
 イチの覚悟が、痛いほど伝わったからだ。

 イチは、スッと一歩私に近づいた。

「汝にも……問うぞ。かつての己を超え、覚醒せし者よ。今、何を望む?」

 私は、一瞬だけ目を閉じた。
 そして、ゆっくりと答える。

「背負ってきたものは多い。でも、今はただ――生きる。それだけ。」

 静かで、力強い言葉だった。
 イチは深く頷く。

「――ならば、道は違えぬ。互い、剣を抜く時あらば、またいずれ。」

「いや……もう、戦うつもりはないわ」

 私は、夜風に髪をなびかせながら、淡々と言った。

「私は、未来のハンドルを預けるために、ここにいるのよ。」

 その言葉に、飯富院の瞳がわずかに揺れた。
 かつて、どれだけの者が、未来のために走れただろうか。

「……ならば、さらばだ。」

 飯富院は一礼すると、チェイサーに乗り込み、静かに夜の峠へと消えていった。
 その走りは、まるで峠と語り合うようだった。静かで、凛として、美しかった。

 私は、その後ろ姿を見送りながら、呟いた。

「……智。あんたも、見てるんでしょ。まだ、終わっちゃあいない。」

 夜の静寂の中、私はそっと、自分の胸に手を置いた。 
 そこには、走り屋としての誇りと、母としての静かな優しさが、確かに息づいていた。 

 翌日、5月7日木曜日の夕暮れ。
 チューニングショップ「Speed葛西」のガレージには、数人の若い走り屋たちが集まっていた。
 整備途中のマシンの間を縫うように、みな一様に静まり返って私の言葉を待っている。

 私は、作業用のグローブを外しながら、ゆっくりとみんなを見渡した。
 その眼差しは、かつて峠を駆け抜けた時と同じ、冷たく鋭い光を宿していた。

「――覚醒、って言葉、最近よく耳にするわ」

 若者たちは、息をのんだ。
 それがこの場のテーマだと察したからだ。

「走り屋の世界で言う『覚醒』ってのは……奇跡でも魔法でもないわ。特別な才能? そんなもん、持ってるやつなんかほんの一握りよ」

 今は、言葉だけで伝えたい。
 そう思ったからだ。

「……『覚醒』ってのはな、自分を知り、受け入れることよ。良いところも、悪いところも。格好悪いところも……全部よ。」

 誰かが、小さく息を飲んだ。
 私は続ける。

「恐怖を感じたら、逃げたくなったら、それも認めろ。無理に背伸びしても、コースには嘘つけない。」

 そう言って、私はガレージの奥に鎮座する自分のJZA70を見やった。
 あのマシンと共に、何度も命を懸けた夜を思い出す。

「走るってのは、闘いよ。相手は他人じゃない。……自分自身よ」

 一人の若者が、意を決して尋ねた。

「ウメさんは……それに、勝ったんですか?」

 私は、少しだけ目を細めた。
 そして、静かに首を振る。

「いいや。……私は、勝てなかったわ。たくさん、負けた。……でも、負けたまま終わるのは、もっとイヤだった。」

 だから、今ここに立っている。
 そう言わんばかりの気迫が、ガレージ全体を満たしていく。

「忘れないで。速さは、手段よ。誇りを守るために、必要なだけよ」

 私は腕を組み、最後に言った。

「……走り屋なら、道に恥じないで」

 誰も、声を出せなかった。
 私の言葉一つ一つが、鋼のように重く、熱かったからだ。

 その夜、若者たちはそれぞれの車に戻り、黙ってエンジンをかけた。
 心に、私、葛西ウメの言葉を刻みながら。

 そして、Speed葛西のガレージには、金属の冷えゆく音だけが響いていた。

 その夜、閉店間際の「Speed葛西」。
ガレージのシャッターを半分まで下ろし、私は伝票整理をしていた。
 外から、低くうなるエンジン音。
 それも、懐かしい、昔ながらのチューンナップされたRB26の音だ。
 私は眉をひそめた。

「……この音、まさか。」

 表に出ると、そこには銀色のBNR32スカイラインGT-Rが止まっていた。
 運転席から降りてきたのは、40代後半、無精ひげを生やした男――。

「よぉ、ウメ。元気してたか?」

 男はニヤリと笑う。
 かつて、共にサーキットで死線を越えた男、北野 豪(きたの・ごう)だった。

「……北野。あんた、まだ生きてたのね」

 私は、わずかに口角を上げた。
 それは、誰よりも嬉しいという、彼女なりの最大限の笑顔だった。

「そりゃあな。こっちは二回ほど死にかけたがよ。」

 豪は、しみじみと私を見た。

「まさか、お前がこうして店なんてやってるとはな。……昔のお前なら、客にキレてぶん殴ってたろ?」

「今も、時々ムカつくわ」

 私はクールに言い放つ。
 二人の間に流れる空気は、まるで十数年前に戻ったかのように自然だった。

「……来た理由は?」

 私が問うと、豪はしばらく煙をくゆらせた後、答えた。

「ウワサを聞いてな。――『葛西ウメ、復活』って。」

 私は、少しだけ視線を落とした。
 あの夜、希の夢を見て、もう一度走ると決めたあの日のことが脳裏をよぎる。

「でも、もう引退したよ。智がいなくなって、張り合いもなくなった。」

 私の声は、静かだった。
 だが、豪はそれを聞いて、ふっと笑った。

「それでも、こうして若ぇの育ててるんだろ? だったら、お前はまだ、走ってんだよ。」

 その言葉に、私は一瞬だけ、心が揺れた。

「……バカなこと言わないで。」

「バカでもなんでも、昔からお前はそうだったろ。どんなに無茶しても、誰より真っすぐだった。」

 豪は、BNR32を振り返る。

「俺はもう、峠には戻らねぇ。けど、お前が走り続けるなら、心配ねぇって思っただけさ。」

 そう言って、ポケットから何かを取り出す。
 それは、古びたサーキットのエントリーリストだった。
 そこには、若き日の「葛西ウメ」の名前もあった。

「――これ、預ける。俺たちの時代の、証だ。」

 私は無言で、それを受け取った。
 指先が、わずかに震えていた。

「じゃあな、ウメ。……また、どこかで。」

 そう言って、北野 豪はBNR32に再びに乗り込み、夜の街へと消えていった。

 私は、静かにリストを見つめる。

 そこには、確かに存在していた。
 走り屋たちの、誇りと、夢と、汗と、涙と――すべてが。

「……バカ。」

 私は小さく呟き、そっとリストを胸にしまった。
 そして、夜空を見上げた。

 あの日の、速さと、熱さを忘れないために。

 翌日、5月8日金曜日の昼。
 静かな時間が流れるSpeed葛西。
 シャッターは半分開けられ、工場内には工具の音だけが響いている。

 私は、デスクの引き出しから昨夜、北野豪から預かった古びたエントリーリストを取り出していた。
 何度も、何度も、指先でなぞる。
 そこには、かつての仲間たちの名前が並んでいる。

 若かった。
 何も怖くなかった。
 ただ――速く、誇り高く、生きたかった。

 私は、リストの端に書かれた自分の名前を見つめた。

「葛西ウメ MA61」

(……あの頃の私は、まだ子供だったな。)

 ふと、外からエンジン音が聞こえた。
 それは、まだ慣れないリズムで鳴る、若い走り屋たちの車の音。

――あの子たちは、未来を走ろうとしている。
――私は、もう走らなくてもいいと思っていた。
――でも。

 私は、自分の胸に手を当てた。
 そこには、まだ、熱いものが残っていた。

(……違う。終わってなんかいない。)

 私は立ち上がった。
 JZA70のカバーを、勢いよく外す。

 現れたのは、今なお美しいJZA70。
 私の命を、夢を、支え続けた相棒。

「……走ろうかしら。」

 誰に言うでもなく、私は静かに呟いた。

 ただ一度。
 未来を走る子供たちに、何を背負うのかを見せるために。
 かつて一緒に戦った仲間たちへの答えとして。
 そして――

 あの日、夢で語った希への、最後の約束を果たすために。

 私は、オイルを点検し、タイヤを叩き、ブレーキを確かめた。
 動きは一切、無駄がない。
 それはまるで、走るためだけに生きてきた者の動きだった。

 ガレージの隅にいた長女のサクラが、声を上げる。

「……母さん? まさか……!」

 私は、ちらりとサクラに目を向けた。

「ちゃんと見てなさい。母さんの“走り”を」

 静かに、だが力強く。
 私はスープラに乗り込んだ。

 スターターが唸りを上げ、6気筒ターボが目を覚ます。
 その音は、まるで目覚めた獣の咆哮のようだった。

 シャッターを全開にする。
 前には、夜へと続く道がある。

 私はギアを入れ、軽くアクセルをあおる。

(私は、まだ――走れる。)

 そして、私、葛西ウメは、もう一度だけ走り出した。
 未来へ、誇りをつなぐために。

 峠のふもと、見晴らしのいい小さな駐車スペース。
 そこに、オレ、葛西サクラ、ヒマワリ、モミジの三姉妹が立っていた。

 夜風が少し冷たい。
 彼女たちは、それぞれの愛車のボンネットにもたれながら、峠の方を見上げている。

「……本当に行っちまったんだ。」

 ヒマワリが小さく呟く。

「母さん、もう走らないって言ってたのに。」

 モミジが心配そうに腕を組む。
 だが、サクラは何も言わず、ただじっと遠くを見ていた。

 そのとき――

 遠くの峠から、かすかに聞こえるエキゾーストノート。
 古く、しかし力強い直列6気筒の咆哮。

 それは、三人にとって、誰よりも馴染みのある音だった。

「……あれ、母さんのJZA70だ。」

 サクラが、ぽつりと呟いた。

 その声に、ヒマワリとモミジも静かになる。
 オレたち3姉妹は、峠の稜線を目で追う。

 月明かりの中、かすかにヘッドライトの光跡が見える。
 夜の山肌を、まるで一筋の流星のように駆ける光。

 ガードレール越しに、一瞬だけ黒いJZA70のボディが見えた。
 そしてまた、闇に消えていく。

「……速い。」

 モミジが、驚いたように呟いた。

「……綺麗……だ。」

 ヒマワリも、目を丸くして見つめる。

 オレたち3姉妹は、言葉を失っていた。

 ただ、知った。
 この走りが、どれだけの想いを背負っているか。
 どれだけの年月を、母が走り抜けてきたか。

 オレは、ぎゅっと拳を握った。

(……母さんは、ずっと走ってたんだ。オレたちの知らない場所で、ずっと。)

 峠のてっぺん近く、最後のコーナーを駆け抜けるJZA70が、ちらりとまた姿を現す。
 その動きは、完璧だった。
 ブレーキも、ライン取りも、すべて無駄がない。

(――これが、母さんの走り。)

 オレの胸に、熱いものがこみ上げた。

 やがて、エキゾーストノートは少しずつ遠ざかり、また夜の静寂が戻る。

 三人は、しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。

 ただ、胸の中に――母親が見せた、"生き様"を深く、深く刻み込んでいた。

「……行こうか。」

 オレが、小さく言った。

「うん。」

 ヒマワリとモミジも頷いた。

 オレたち3姉妹は、それぞれの車に乗り込み、エンジンをかける。
 でも、今は無闇にアクセルを踏み込まない。
 走り出すのは、母親の走りを胸に、ちゃんと答えを出してから――。

 月は、まだ高かった。
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