光速の走り屋オオサキショウコ

まとらまじゅつ

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第6章 リベンジ編

ACT.30 無の修行

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 夜の峠道。照明の落ちた駐車場に、風が流れる。
 私、斎藤智はR35のボンネットに腰をかけ、峠の先を見つめていた。
 山の闇が静かに脈打っている。遠くでフクロウが鳴いた。
 そして、私はぽつりと呟いた。

「……次のバトルで負けたら、もうオオサキとは走らない」

 静かな宣言だった。隣で黙っていたオオサキは、目を伏せた。

 私は語り出した。
 13のとき、まだ中学生だった。夜な夜なギャラリーのAE86を転がし、峠を滑らせた。誰もが「子どもの遊び」と笑ったが、最初の勝負で一気に決めた。噂は広まり、街のチューニングショップが目をつけた。 

「“この腕は本物だ”ってな。13ワンビアを託された。13の子供が扱える代物じゃなかったが……あれで全部変わった」

 私は煙を吐く。遠い夜が脳裏をよぎる。チャイナマフィアの幹部を峠で“走り”で潰し、真月宗という狂信的な団体の支援車両を走りで止めた。
 一戦ごとに、私の名は都市伝説になっていった。

「けどな、伝説ってのは、登りきったあとに残るのは……虚無だ」

 S13のステアリングを握るたび、かつての轟音が幻聴のように蘇る。峠は静かになった。

「目標がなくなった。だから20を迎える前に引退した」

 私は笑った。けれど、その目は笑っていなかった。

 オオサキはその横顔を見つめた。

「……でも、まだ走りたいんでしょう?」

 私は答えなかった。代わりに、煙が空に溶けていった。

 外に吹く風が、どこか寂しげだった。
 R35のボンネットに腰かけた私の横顔が、街灯の薄明かりの中で輪郭を失っている。オオサキは、ただ黙ってそれを見ていた。

「次のバトルで負けたら——もうお前とは走らない」

 その言葉の響きが、金属のように冷たく胸に刺さった。オオサキは息をのむ。私の瞳には迷いがなかった。

 私は語り出す。
 13の少女が夜の峠を支配して、幼くして走りに出たこと。チューニングショップが才能を見抜き、ワンビアを託したこと。
 あの頃の私は、間違いなく「選ばれた」存在だった。
 オオサキはそれを聞きながら、自分がいま見ている女と、昔の伝説の姿を重ねた。

「チャイナマフィアを潰して、真月宗を走りで追い詰めた。けどな、勝っても勝っても……もう何も残らなかった」

 私の声がかすれた。
 オオサキは拳を握った。
 “目標がなくなったから引退した”——そんな理由、理解したくなかった。
 私の走りにはまだ熱がある。ブレーキを踏むときの微かな癖、アクセルを抜く呼吸。今でも、マシンと心が繋がっているのを、オオサキは感じ取っていた。

「……智姉さん。あなた、ほんとは怖いんでしょう?」

「怖い?」

「負けることではありません。また、夢中になること」

 私は視線をそらした。
 オオサキはその横顔を、睨むように見つめ続けた。夜風が二人の間を抜ける。

「おれは走り続けます。あなたが降りても、おれは走り続ける。……でも、あなたの横に並べない峠なんて、つまらない」

 私の唇がわずかに動いた。笑おうとしたのか、何かをこらえたのか。
 エンジンを切ったままの180SXが、冷えた金属音を立てる。
 オオサキは小さく息を吐き、空を見上げた。

 “伝説”が、また動き出す音が聞こえる気がした。

  翌朝、5月9日の土曜日。バトル当日。
 赤城の朝は静謐だった。太陽はまだ稜線を越えず、峠を吹き抜ける風は凛と冷たく、音すら凍てつかせる。そんな空気の中、赤城神社の奥、苔むした石段を登る白い影があった。
 銀髪を揺らし、私、斎藤智は一歩ずつ進む。
 その背後に、巫女服の裾を揺らしながら、同じ銀の髪を持つ女が静かに従っていた。飯富院イチ――私の師であり、伝説を育てた女。

「……まもなくじゃ、智。無の試練の刻」

 その声は武士のような調子で、峠の風に切り込む鋭さを持っていた。

 私は頷いた。視線の先には、赤城神社の奥殿。
 森に溶けるようにひっそりと建つ、封印の場。無の心を確かめる儀式。それは「走る者が、自我を越えた“速さの根源”と向き合う試練」だった。

 本殿の奥、私は一人、跪いていた。
 周囲は真っ白な空間。時も場所も曖昧になったような、異界の感覚。

「風となりて、己を赦せ」

 師の声が脳内に響く。

 ——その瞬間。

 身体が裂けたような錯覚が走った。
 両腕が、両脚が、外から力ずくで引きちぎられていくような異常感。
 声は出ない。
 恐怖も、痛みも、感じる間もなく、「存在」が削がれていく。

 自分がどこにいるのか。誰なのか。なぜ走っていたのか。
 全てが霧のように遠ざかっていく中、私は最後の一滴の意識で自分に問いかけた。

 ——私は、なぜ、まだここにいる?

 その問いに、答えが返ってきた。風の中で、タイヤが路面を蹴る音がした。

 それは、初めて赤城を走った夜の音。
 息が苦しくて、視界がぼやける中でも、ただただステアリングを握り続けた、あの夜の記憶。

「まだ、走りたい。まだ、負けてない」

 自我が戻る。
 身体が再構成されるような感覚とともに、智は“無”から還った。

 現実に戻ると、私は神社の前に崩れ落ちていた。
 汗が滝のように流れ、呼吸が荒い。が、目だけは凛としていた。

 飯富院イチが、そっと膝をつく。

「ようやった。……“無”を得た者は、己が走りを、次の段階へと昇華できる」

 その声に、敬意が滲んでいた。

 私はゆっくりと立ち上がった。
 その瞳には、恐れも、迷いもなかった。

「……これで、また走れる」

 銀髪が朝日に照らされ、彼女の背に一陣の風が吹いた。
 赤城の稜線が、静かに光を迎えていた。

「さすれば、速さは降りてくる」

 ——試練は終わった。戦いはこれからだ。

 土曜日の夕刻、赤城の麓に建つ「和食さいとう」には、静かで張り詰めた空気が流れていた。
 厨房では斎藤智が一人、包丁を握り、目を細めながら刺身を引いている。
 そのカウンター席に、おれが座っていた。ハーフアップに束ねた髪を揺らし、代車のZ32のキーを弄っている。

「……あのさ、本当に来ます?」

 智姉さんは軽く微笑んで言った。

「来るぞ。もうすぐ──ほら」

 ガラリ、と戸が開いた。

 入ってきた男は、狼のような風貌をした男。
 乾健人さん。元GT300、今はラリーステージを喰らう孤狼。
 彼は無言で席につくと、睨むようにおれを一瞥した。

「この子が……例の180SXの? 代車のZで来てるってわけか」

「うん。今はレストア中。400馬力仕様でがんばってる」

「ふうん……じゃ、走るか」

 それが、すべてだった。

 Z32とGC8が静かに火を吹いた。
 コースは乾さん指定。あえてダウンヒルではなく、上下の反復走行。走行ラインとアクセルワークの正確性を問われる構成だった。

「ドリフトは見飽きた。もうそんな“遊び”で勝てる相手はいない」

 乾さんは無表情で言った。

「葛西サクラはラインにシビアだ。九一三雅のJZX90は加速で潰される……お前が今やってるのは見せドリ。こっからは食らいつけ。全部、路面に預けろ」

 おれは反発したい気持ちを抑え、アクセルを踏み込んだ。
 Z32が咆哮する。重めのフロントが路面を抉るように進む。

「減速、甘い。進入が浅すぎる」

「はあ!? こっちだって必死でやって……!」

「無理なら、引け」

 乾さんの言葉は剣のように鋭く、乾いていた。
 おれは歯を食いしばる。泣きそうな自分を押し込める。

 だが、それでも何度も周回する中で、確かに“変化”は起きていた。

 Z32が深く潜る。コーナーの頂点を鋭く刺し、荷重がうねるようにタイヤへ伝わっていく。
 おれのラインが、どこか“音楽”を奏でるようになっていた。

 乾さんのGC8が追走に入り、ぴたりと張りつく。
 その中で、おれの運転は進化を始めていた。 

「……どうせ、なんも褒めないのでしょ?」

 おれが言った。フロントバンパーは焼け、フェンダーは熱を帯びていた。

「いや……やるじゃねえか。ちょっと見直した」

 乾さんは珍しくまっすぐおれを見て、ぼそりと呟いた。

「今夜のバトルの裏で……叩き直してやる」

 その背中を見て、おれは小さく笑った。

「……嫌いじゃないかも、あの人」

 おれの胸には、火が灯っていた。
 今、自分がこの峠に刻むべき“速さ”の形。
 それを掴むために──あの人が走る裏でも走る。

TheNextLap
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