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最終章 赤城最速決定戦編
ACT.40 新従業員
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――葛西サクラと九一三雅との三つ巴のバトルを制して2日後の5月18日、午前五時。
赤城山は、まだ夜と朝の境目にいた。
山肌をなぞる霧が、路面に薄く寝そべり、冷えた空気が肺の奥まで刺さる。
鳥の声すら、まだ起ききっていない時間。
フォーミュラレッドの180SXが、静かに息を潜めていた。
アイドリングは低く、重く、RB26の鼓動が腹に響く。
「……行くぞ、オオサキ」
トランシーバー越しに、智姉さんこと斎藤智の声。
冷静で、無駄がない。昔と何も変わらない。
「了解。イケイケいきますよ」
おれこと大崎翔子は笑い、クラッチを踏み込む。
三台並び。
先頭は智姉さんのR35。
中間に六荒のヴィッツRS(三代目)。
最後尾に、おれの180SX。
「……ヴィッツでついてくる気かよ」
おれが言う。
「軽さは武器だろ?」
六荒の声は陽気だが、アクセルの踏み方は本気だった。
スタート。
R35が、異常な初速で霧を切り裂く。
四輪が地面を掴み、物理法則を踏み潰すように加速していく。
「……冗談じゃないよ」
おれは舌を打ち、二速、三速。
RB26が吼え、タービンが目を覚ます。
最初の中速コーナー。
智姉さんは、何事もないように曲がる。
派手さはない。
ただ、無駄がない。
「……ライン、見ろ」
無線。
おれは、その背中だけを追う。
ブレーキ。
KATANAが、牙を剥く。
グリップしながら――出る寸前で、戻す。
「……ここ」
おれは、体で覚えている。
バレエの回転と同じ。
軸を失うな。
その横で。
「おおっと」
六荒のヴィッツが、異様な粘りを見せる。
軽い。
短い。
切り返しが早い。
「……あの人、ほんとに元レーサーだな」
おれが呟く。
「今さらか」
智姉さんが返す。
ヘアピン。
R35が減速し、その瞬間、おれが詰める。
「……来るな」
智姉さんの声は、楽しそうだった。
「行くよ!」
おれが叫び、アクセルを踏み切る。
RB26が吼え、180SXが、意志を持った獣のように飛び出す。
一瞬、並ぶ。
だが――
「そこまでだ」
智姉さんは、軽くブレーキを残し、ラインを一段上げる。
抜けない。
抜かせない。
数本走り、三台は、駐車帯で止まった。
エンジン音が、山に溶ける。
「……朝からヘビーだよ」
おれが言う。
六荒は、ドアを開け、伸びをする。
「いい練習だな。で、今日だっけ?」
「……ああ」
智姉さんが、R35から降りる
「昼から、新しい従業員が来る」
おれが、目を瞬かせる。
「え? 急じゃない?」
「人手が要る。それと――」
一瞬、言葉を切る。
「……お前も、少しは“背中を見せる立場”になれ」
おれは、にっと笑った。
「なにそれ。おれ、師匠ポジ?」
「調子に乗るな」
「冗談じゃないよ」
朝日が、ようやく山の端から顔を出す。
赤城は、今日も静かだ。
だが、この日の流れが、ただの一日で終わらないことを、おれはもう、どこかで感じていた。
午前十時。
開店前の和食さいとうの裏口には、春を越えきれなかった朝の冷気が、まだ薄く残っていた。
竹箒がアスファルトを撫でる、乾いた音。
智姉さんは、黙々と外回りの清掃をしていた。背筋はまっすぐ、動きに無駄がない。包丁を持つときと同じ、研ぎ澄まされた所作だった。
――その瞬間だった。
排水溝の影が、もぞり、と動いた。
いや、影ではない。
小さな、やたらと小さな、灰色の塊が、ぞろぞろと。
「…………」
智の動きが、完全に止まった。
ネズミの赤ちゃんだった。
一匹、二匹、ではない。
十匹、二十匹、数える思考を拒否するほどの**群れ**。
まだ目も開ききらない、柔らかそうな体。
震えながら、無秩序に、しかし確かな意志を持って、地面を這ってくる。
――集合体。
智姉さんの脳裏に、最悪の単語が浮かんだ。
「……ッ」
喉が、ひくりと鳴る。
普段なら数人のヤクザに囲まれても眉一つ動かさない女が、今は一歩も動けない。
箒を持つ手が、わずかに震えた。
「……来るな」
低く、男言葉。
だが声は、完全に制御を失っていた。
そのとき。
「おーい、智姉さんー。終わったら中――」
裏口のドアが開く音と同時に、赤いTシャツの少女が顔を出した。
おれこと、大崎翔子。
次の瞬間、おれの視線が地面へ落ち、そして――
「……え」
一拍。
「……ヘビーだよ」
妙に冷静な声だった。
智姉さんは、振り返らない。
振り返れない。
「……見るな、オオサキ」
「いや、見るでしょこれは……」
おれは一歩近づき、事態を完全に把握する。
「……ちっちゃ……多っ……」
言葉を失いかけたところで、後ろから豪快な声。
「どうしたどうした――」
美波六荒が、エプロン姿のまま顔を出し、
そして、状況を理解した瞬間。
「ぶはっ」
「笑うな六荒ッ!!」
智姉さんの怒声が、裏路地に響いた。
「いやいやいや、だってさ、あの智がだぞ? 700馬力のワンピアで命懸けの峠やってた女が――」
「次に余計なことを言ったら、鍋で殴る」
「すみません」
即答だった。
その騒ぎに引き寄せられるように、新従業員2人も、恐る恐る裏へ回ってくる。
後に黒髪ショートカットが萩野桃代さんで、黒髪ロングが井上薫ちゃんだと教えられる。
「どうしました……って」
桃代さんが言葉を止め、目を丸くする。
「……あ、あら……」
「ね、ネズミさん……?」
薫ちゃんは京都弁混じりで、思わず一歩後ずさった。
「智さん……?」
その呼びかけに、智は微動だにしないまま、低く言う。
「……動けん」
「え?」
「……足が、言うことを聞かん」
完全に、硬直していた。
おれは一瞬だけ考え、にやっと、悪戯っぽく笑う。
「……なーんだ。智姉さんにも、ちゃんと弱点あるじゃあないですか」
「……ぶっつぶすぞ」
「冗談じゃあないですよ」
おれはそう言いながらも、智の前に立ち、さっと腕を広げる。
「六荒、段ボール!」
「おう!」
「黒髪ショートカットの人、手袋!」
「はいっ!」
「黒髪ロングの人、ほうき持ってきて! ゆっくりね!」
「は、はい!」
指示は的確だった。
年齢も立場も関係ない、走り屋のときと同じ声。
数分後。
赤ちゃんネズミたちは、段ボールにまとめられ、店から離れた茂みへ移動された。
騒動が完全に収まったあと。
智姉さんは、ようやく深く息を吐いた。
「……助かった」
ぽつりとしたその一言に、全員が一瞬、静かになる。
おれは、少し照れたように鼻を擦った。
「別に。家族だし」
智姉さんは一瞬だけ、目を細め、そしていつものクールな表情に戻る。
「……このこと、外で話したら――」
「言わない言わない」
六荒が笑い、桃代さんがにこやかに頷き、薫ちゃんが必死に首を縦に振る。
裏口には、もう何もいない。
ただ、朝の光だけが、静かに差し込んでいた。
正午ちょうど。
暖簾が、風に揺れて――リニューアルで休業していた和食さいとうは開いた。
昼の光が店内へ差し込み、白木のカウンターに柔らかく反射する。
朝の騒動などなかったかのように、空気は静かで、凛としていた。
智姉さんは、いつもの和服とタイツ姿で、カウンター奥に立つ。
表情は平静。完全に、いつもの智姉さんだ。
「……オオサキ」
呼ばれて、おれが奥の居間からひょいと顔を出す。
「なに? もう開きました?」
「開いた。……それと」
智姉さんは視線を、入口付近に立つ二人へ向けた。
黒髪ショートカットの桃代さんは、背筋を伸ばして軽く会釈。
黒髪ロングの薫ちゃんは、少し緊張した面持ちで、両手を前で揃えている。
「今日から正式に入った、新しい従業員だ」
そう前置きしてから、淡々と続ける。
「まず――萩野桃代」
「はいっ。萩野桃代です」
桃代は、明るく、しかし出しゃばらない声で言った。
「和食さいとうの従業員として、精一杯頑張ります。よろしくお願いします」
「……よろしく」
おれは少し不思議そうに眺めながらも、軽く手を挙げた。
「おれは大崎翔子。走り屋」
「知ってます」
桃代さんは即答した。
「オオサキさんのレース、全部見てますから」
「え」
一瞬、おれが固まる。
「……それ、ちょっとヘビーだよ」
「ふふ、応援してます」
そのやり取りを横目に、智姉さんは次へ進む。
「それから――井上薫」
「は、はい……」
薫は一歩前に出て、ぺこりと深く頭を下げた。
「井上薫です。京都弁やけど群馬出身で……その……まだまだ不慣れなんどすけど……」
言葉に詰まりながらも、必死に続ける。
「ここで働けるの、ほんまに嬉しゅうて……よろしくお願いします」
おれは、目線を合わせるように少しかがみ、
「同い年だよね?」
「はい……高校二年です」
「じゃあ気楽にいこ。ここ、そんな堅い店じゃないし」
その言葉に、薫ちゃんの表情が少しだけ緩んだ。
智姉さんは腕を組み、短く言う。
「二人とも、オオサキには一通り店の流れを教わる。私が厨房を離れられない時間帯もある」
「了解」
おれは即答だった。
「おれ、案内係ね。任せて」
「……余計なことを教えるなよ」
「冗談じゃあないですよ」
そんなやり取りに、六荒が奥から顔を出して、にっと笑う。
「いやぁ、賑やかになったなぁ」
智姉さんはちらりとだけ睨み、
「仕事をしろ」
「はい」
正午の店内には、鍋の湯気と、出汁の香りと、少しだけ新しい人間関係の気配が満ちていく。
和食さいとうは、今日も静かに、確かに、動き出していた。
「オオサキさんって運転上手いんですね。この前のレース、勝ったんはあのワンエイティという赤いクルマやったし」
「上手いぞ。私がテクニックを基本から教えたからな。今まで6回のバトルで勝利してきた」
「すんごいですね~! じゃあ、そのバトルの話をうちらに聞かせてください」
「その話はおれがするよ」
まずは最初のサクラ戦だ。
「最初に戦ったのは葛西サクラという黒いJZA80型スープラ乗りなんだ。この前戦った相手でもあるけど、実は彼女と戦ったのはこの前が初めてじゃあないんだ」
ドリフト走行会で彼女と鉢合わせして、目をつけられてバトルを挑むことになった。
「初めてだから緊張したけど、勝てて良かったよ」
次はWHITE.U.F.O戦。
まずは柳田との戦いを振り返る。
「次に挑んできたのは、榛名山のチーム、WHITE.U.F.Oのナンバー2の白いZ33型フェアレディZ乗りの柳田マリア」
ヒルクライムで挑むことになったけど、パワーがかなりあると聞いてすごい不安だった。
「しかし、智姉さんの考えた作戦のおかげで勝てたんだ」
次は戸沢戦だ。
「柳田の親分にあたる、白いDC5型インテグラタイプR乗りの戸沢龍にも挑まれた」
ヘッドライトを消す走りを得意と聞いたから、おれはそれに対抗する技を悪戦苦闘しながら練習した。
「バトルになるとその走りに苦しめられて、能力が発動してしまうほどだったけど、最後に練習した技がついに成功して勝てたんだ」
「能力って何でしょうか?」
「覚醒技ってやつだよ」
「へぇ、超能力が使えるんですね」
「昔の話だよ」
消滅した今では懐かしい話だ。
話を戻し、次は長女のサクラのリベンジをしてきた葛西三姉妹との戦いの話だ。
まずはモミジ戦から。
「戸沢を倒してから葛西三姉妹のリベンジ作戦が始まり、サクラの下の妹でオレンジ色のトヨタ・アルテッツァ乗り、葛西モミジと戦うことになった」
彼女は大学3つ卒業するほど頭が良く、バトルの時は雨が降ったから苦しめられた。
「そんな中で新しいスタイルの走りで倒すことに成功したよ」
「新しいスタイルって何ですか?」
「ゼロカウンタードリフトだよ。ハンドルを曲げずにドリフトをするんだ」
「高度な技術やね」
これも一般人に難しい話だ。
だが、乱入してきた九一三雅のJZX90型マークIIに追い抜かれて黒星が付いた。
これがキッカケで一時智姉さんとの関係は悪化した。
次にヒマワリ戦だ。
「モミジを倒すと、今度は葛西サクラの上の妹である緑のSW20型MR2乗りのヒマワリ戦だ」
彼女のSW20の立ち上がり加速は強烈で、今までバトルしてきた相手の中ではトップクラスだった。
「もう少しで負けると思ったけど、終盤で相手がスピンして勝てたんだ……」
この辺りから、覚醒技は消滅。
おれたち覚醒技超人は翼が折れてしまった。
普通の人間になってしまった。
最後にこの前のサクラ戦だ。
「妹2人を倒すと、ついに葛西サクラがリベンジを挑んできた。前より速くなっていて、さらにおれを倒した九一三雅までバトルしてきた。けど乾健人さんとの特訓の成果を見せたこととクルマの弱点を見抜いたことと、新しい技で倒すことができた」
「なるほど、こんなドラマがあったのですね」
「今度機会があれば、オオサキさんの車に乗ってみたいです」
正午を少し回った頃だった。
暖簾が、乱暴に揺れた。
店内の空気が、目に見えない圧で歪む。
その音に、斎藤智が包丁を止め、美波六荒が顔を上げ、おれが反射的に入口を見る。
――青。
低く、艶を殺したフェアレディZ(Z34)。
店の前に、斜めに停められている。
ドアが開く。
長身、無駄に力の入った肩。
「……久しぶりだな」
声は乾いていた。
男性恐怖症だから怯えながらも、記憶が、おれの中で即座に繋がる。
「……あ」
赤城。
下り。
無理なブレーキング。
そして――追い抜き、覚醒技でスピンさせた。
覚醒技超人の素質はなかったものの、おれも身体から覚醒技が消えて今では五分と五分になっている。
「おれを覚えてるって顔だな」
男は、口の端だけで笑った。
「もう一回だ。今度は、逃げんなよ」
店内が、ぴしりと静まる。
「……ここは飲食店だ」
智姉さんの声は低く、鋭い。
「客なら、飯を食え。喧嘩なら、表でやれ」
男は、智姉さんを一瞥し、おれだけを見る。
「相手はお前だ。伝説は引っ込んでていい」
――空気が、凍る。
次の瞬間。
「……行く」
おれが、即答した。
「オオサキ」
智姉さんが呼ぶ。
おれは振り返らず、ただ一言。
「すぐ終わらせる」
そのとき、かすかな声。
「……あ、あの……」
井上薫ちゃんだった。
「うち……」
一瞬、迷い。
それでも、目を逸らさず、言い切る。
「……乗せてください」
全員の視線が集まる。
「怖くないの?」
おれが聞く。
薫ちゃんは、少しだけ震えながら、でも頷いた。
「運転する人の背中、見たいんです」
一拍。
おれは、にっと笑った。
「……いいよ」
智姉さんが、一歩前に出る。
「条件がある」
男を睨み、続ける。
「無理な接触、一つでもやったら――」
言葉を切る。
「私が出る」
男は、舌打ちし、Z34へ戻った。
数分後。
エンジン音が、山へ向かって伸びていく。
助手席。
薫ちゃんはシートに深く身を沈め、シートベルトを強く握っていた。
「……いくよ」
「は、はい……!」
タイツに包まれたおれの黒い足が、アクセルを踏む。
180SXが、軽く跳ね、次の瞬間には――戦闘領域。
Z34が先行。
直線で踏み、パワーを誇示する。
「速……」
薫ちゃんが息を呑む。
「直線は向こうが上。でも――ブレーキを我慢する勇気が、あっちは足りない」
おれの声が、楽しそうに跳ねる。
「峠は、違う」
一つ目のコーナー。
Z34が、力任せに突っ込む。
フロントが、わずかに外へ逃げる。
その瞬間。
「イケイケイケイケイケイケー!」
おれの声と同時に、180SXが、内側へ吸い込まれる。
ブレーキ、リリース、舵角。
バレエの回転のように、無駄がない。
「……!」
薫の視界が、一瞬だけ反転する。
次の瞬間、Z34が、横にいる。
「抜……」
「今」
おれは、短く言い、アクセルを、踏み切った。
エンジンが吼え、景色が、線になる。
Z34は、追えない。
二つ、三つ、コーナーを重ねるたび、差は、確実に広がる。
そして――
減速。
ウインカー。
おれは、何事もなかったかのように、路肩へ寄せた。
Z34は、その先で止まり、しばらく、動かなかった。
車内。
薫ちゃんは、しばらく無言だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……すごい……」
おれは、ハンドルから手を離し、笑う。
「ね?」
その頃、和食さいとう。
遠くで聞こえたエンジン音が消え、智姉さんは、静かに出汁を引き直していた。
「……相変わらずだな」
六荒が言う。
智姉さんは、ほんのわずかに口元を緩める。
「……私の子だからな」
午後6時。
和食さいとうの店内は、夕方のピークを越え、湯気も会話も一段落していた。
出汁の香りが、少し甘くなる時間帯。
智姉さんは帳場で伝票を整理し、おれはカウンターを拭き、六荒は裏で仕込みを再開している――そのときだった。
暖簾が、叩き割るように跳ね上がった。
「サギさん!!」
息を切らした声。
床を蹴る足音が、三つ、重なる。
オレンジのジャージが先頭で飛び込んでくる。
クマさんこと熊久保宣那。
その後ろに、小柄な影――タカさんこと小鳥遊くに。
最後に、顔を引き締めたカワさんこと川畑マサミ。
三人とも、明らかに様子が違った。
「……どうした」
智姉さんが、顔を上げる。
クマさんは、肩で息をしながら、乱暴に言葉を吐いた。
「大変だべ! 今、山で聞いだ!」
「落ち着いて、クマさん」
おれが言うが、クマさんは止まらない。
「DUSTWAYの雨原芽来夜と――WHITE.U.F.Oの戸沢龍が!」
その名前に、空気が一段、冷える。
「……バトル、決まったで」
今度は、カワさんが続けた。
声は低く、早い。
「5月23日、土曜。場所は……赤城や」
「えっ!? 赤城!?」
タカさんが、目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待って!? あの二人が!? ガチで!?」
クマさんが、拳を握る。
「マジだべ。もう、裏じゃ話が回ってる」
おれは、拭いていた布巾を止めた。
「……雨原芽来夜と、戸沢龍」
その二つの名前を、噛みしめる。
雨原芽来夜。
DUSTWAYのリーダー。
走りで空気を支配する女。
タービン交換仕様の青いFD3S型RX-7を駆る。
絶対的な赤城最速。
戸沢龍。
WHITE.U.F.Oの頭。
強引で、速くて、引かない男。
スポコン風の白いDC5型インテグラタイプRを駆る。
ヘッドライトを消す走りを得意とする榛名ダウンヒル最速。
「……派手になるな」
六荒が、低く言った。
智姉さんは、帳場から一歩出る。
「……確かか」
「間違いねぇ」
熊久保が、福島訛りを隠さず言う。
「日時も、コースも。逃げ場ねー」
タカさんは、不安そうにおれを見る。
「サキちゃん……これ、放っといていいやつ?」
おれは、すぐには答えない。
頭の中で、朝の赤城がよみがえる。
霧。
智姉さんの背中。
六荒の軽いヴィッツ。
そして、今日のZ34。
「……いいわけないでしょ」
おれは、はっきり言った。
「赤城でやるなら、おれも関係者だよ」
クマさんの顔が、ぱっと明るくなる。
「サキさん……!」
カワさんは腕を組み、冷静に言う。
「このバトル、どっちかが勝つだけやない」
「……そうだな」
智姉さんが、短く応じる。
「周囲も、巻き込まれる」
店内に、沈黙が落ちる。
外では、風が暖簾を揺らしていた。
5月23日、土曜日。
まだ少し先のはずの日付が、今この瞬間から、現実として迫り始めていた。
おれは、静かに笑った。
「……ヘビーだよ」
だが、その目は、もう――逃げる側の目じゃなかった。
The Next Lap
赤城山は、まだ夜と朝の境目にいた。
山肌をなぞる霧が、路面に薄く寝そべり、冷えた空気が肺の奥まで刺さる。
鳥の声すら、まだ起ききっていない時間。
フォーミュラレッドの180SXが、静かに息を潜めていた。
アイドリングは低く、重く、RB26の鼓動が腹に響く。
「……行くぞ、オオサキ」
トランシーバー越しに、智姉さんこと斎藤智の声。
冷静で、無駄がない。昔と何も変わらない。
「了解。イケイケいきますよ」
おれこと大崎翔子は笑い、クラッチを踏み込む。
三台並び。
先頭は智姉さんのR35。
中間に六荒のヴィッツRS(三代目)。
最後尾に、おれの180SX。
「……ヴィッツでついてくる気かよ」
おれが言う。
「軽さは武器だろ?」
六荒の声は陽気だが、アクセルの踏み方は本気だった。
スタート。
R35が、異常な初速で霧を切り裂く。
四輪が地面を掴み、物理法則を踏み潰すように加速していく。
「……冗談じゃないよ」
おれは舌を打ち、二速、三速。
RB26が吼え、タービンが目を覚ます。
最初の中速コーナー。
智姉さんは、何事もないように曲がる。
派手さはない。
ただ、無駄がない。
「……ライン、見ろ」
無線。
おれは、その背中だけを追う。
ブレーキ。
KATANAが、牙を剥く。
グリップしながら――出る寸前で、戻す。
「……ここ」
おれは、体で覚えている。
バレエの回転と同じ。
軸を失うな。
その横で。
「おおっと」
六荒のヴィッツが、異様な粘りを見せる。
軽い。
短い。
切り返しが早い。
「……あの人、ほんとに元レーサーだな」
おれが呟く。
「今さらか」
智姉さんが返す。
ヘアピン。
R35が減速し、その瞬間、おれが詰める。
「……来るな」
智姉さんの声は、楽しそうだった。
「行くよ!」
おれが叫び、アクセルを踏み切る。
RB26が吼え、180SXが、意志を持った獣のように飛び出す。
一瞬、並ぶ。
だが――
「そこまでだ」
智姉さんは、軽くブレーキを残し、ラインを一段上げる。
抜けない。
抜かせない。
数本走り、三台は、駐車帯で止まった。
エンジン音が、山に溶ける。
「……朝からヘビーだよ」
おれが言う。
六荒は、ドアを開け、伸びをする。
「いい練習だな。で、今日だっけ?」
「……ああ」
智姉さんが、R35から降りる
「昼から、新しい従業員が来る」
おれが、目を瞬かせる。
「え? 急じゃない?」
「人手が要る。それと――」
一瞬、言葉を切る。
「……お前も、少しは“背中を見せる立場”になれ」
おれは、にっと笑った。
「なにそれ。おれ、師匠ポジ?」
「調子に乗るな」
「冗談じゃないよ」
朝日が、ようやく山の端から顔を出す。
赤城は、今日も静かだ。
だが、この日の流れが、ただの一日で終わらないことを、おれはもう、どこかで感じていた。
午前十時。
開店前の和食さいとうの裏口には、春を越えきれなかった朝の冷気が、まだ薄く残っていた。
竹箒がアスファルトを撫でる、乾いた音。
智姉さんは、黙々と外回りの清掃をしていた。背筋はまっすぐ、動きに無駄がない。包丁を持つときと同じ、研ぎ澄まされた所作だった。
――その瞬間だった。
排水溝の影が、もぞり、と動いた。
いや、影ではない。
小さな、やたらと小さな、灰色の塊が、ぞろぞろと。
「…………」
智の動きが、完全に止まった。
ネズミの赤ちゃんだった。
一匹、二匹、ではない。
十匹、二十匹、数える思考を拒否するほどの**群れ**。
まだ目も開ききらない、柔らかそうな体。
震えながら、無秩序に、しかし確かな意志を持って、地面を這ってくる。
――集合体。
智姉さんの脳裏に、最悪の単語が浮かんだ。
「……ッ」
喉が、ひくりと鳴る。
普段なら数人のヤクザに囲まれても眉一つ動かさない女が、今は一歩も動けない。
箒を持つ手が、わずかに震えた。
「……来るな」
低く、男言葉。
だが声は、完全に制御を失っていた。
そのとき。
「おーい、智姉さんー。終わったら中――」
裏口のドアが開く音と同時に、赤いTシャツの少女が顔を出した。
おれこと、大崎翔子。
次の瞬間、おれの視線が地面へ落ち、そして――
「……え」
一拍。
「……ヘビーだよ」
妙に冷静な声だった。
智姉さんは、振り返らない。
振り返れない。
「……見るな、オオサキ」
「いや、見るでしょこれは……」
おれは一歩近づき、事態を完全に把握する。
「……ちっちゃ……多っ……」
言葉を失いかけたところで、後ろから豪快な声。
「どうしたどうした――」
美波六荒が、エプロン姿のまま顔を出し、
そして、状況を理解した瞬間。
「ぶはっ」
「笑うな六荒ッ!!」
智姉さんの怒声が、裏路地に響いた。
「いやいやいや、だってさ、あの智がだぞ? 700馬力のワンピアで命懸けの峠やってた女が――」
「次に余計なことを言ったら、鍋で殴る」
「すみません」
即答だった。
その騒ぎに引き寄せられるように、新従業員2人も、恐る恐る裏へ回ってくる。
後に黒髪ショートカットが萩野桃代さんで、黒髪ロングが井上薫ちゃんだと教えられる。
「どうしました……って」
桃代さんが言葉を止め、目を丸くする。
「……あ、あら……」
「ね、ネズミさん……?」
薫ちゃんは京都弁混じりで、思わず一歩後ずさった。
「智さん……?」
その呼びかけに、智は微動だにしないまま、低く言う。
「……動けん」
「え?」
「……足が、言うことを聞かん」
完全に、硬直していた。
おれは一瞬だけ考え、にやっと、悪戯っぽく笑う。
「……なーんだ。智姉さんにも、ちゃんと弱点あるじゃあないですか」
「……ぶっつぶすぞ」
「冗談じゃあないですよ」
おれはそう言いながらも、智の前に立ち、さっと腕を広げる。
「六荒、段ボール!」
「おう!」
「黒髪ショートカットの人、手袋!」
「はいっ!」
「黒髪ロングの人、ほうき持ってきて! ゆっくりね!」
「は、はい!」
指示は的確だった。
年齢も立場も関係ない、走り屋のときと同じ声。
数分後。
赤ちゃんネズミたちは、段ボールにまとめられ、店から離れた茂みへ移動された。
騒動が完全に収まったあと。
智姉さんは、ようやく深く息を吐いた。
「……助かった」
ぽつりとしたその一言に、全員が一瞬、静かになる。
おれは、少し照れたように鼻を擦った。
「別に。家族だし」
智姉さんは一瞬だけ、目を細め、そしていつものクールな表情に戻る。
「……このこと、外で話したら――」
「言わない言わない」
六荒が笑い、桃代さんがにこやかに頷き、薫ちゃんが必死に首を縦に振る。
裏口には、もう何もいない。
ただ、朝の光だけが、静かに差し込んでいた。
正午ちょうど。
暖簾が、風に揺れて――リニューアルで休業していた和食さいとうは開いた。
昼の光が店内へ差し込み、白木のカウンターに柔らかく反射する。
朝の騒動などなかったかのように、空気は静かで、凛としていた。
智姉さんは、いつもの和服とタイツ姿で、カウンター奥に立つ。
表情は平静。完全に、いつもの智姉さんだ。
「……オオサキ」
呼ばれて、おれが奥の居間からひょいと顔を出す。
「なに? もう開きました?」
「開いた。……それと」
智姉さんは視線を、入口付近に立つ二人へ向けた。
黒髪ショートカットの桃代さんは、背筋を伸ばして軽く会釈。
黒髪ロングの薫ちゃんは、少し緊張した面持ちで、両手を前で揃えている。
「今日から正式に入った、新しい従業員だ」
そう前置きしてから、淡々と続ける。
「まず――萩野桃代」
「はいっ。萩野桃代です」
桃代は、明るく、しかし出しゃばらない声で言った。
「和食さいとうの従業員として、精一杯頑張ります。よろしくお願いします」
「……よろしく」
おれは少し不思議そうに眺めながらも、軽く手を挙げた。
「おれは大崎翔子。走り屋」
「知ってます」
桃代さんは即答した。
「オオサキさんのレース、全部見てますから」
「え」
一瞬、おれが固まる。
「……それ、ちょっとヘビーだよ」
「ふふ、応援してます」
そのやり取りを横目に、智姉さんは次へ進む。
「それから――井上薫」
「は、はい……」
薫は一歩前に出て、ぺこりと深く頭を下げた。
「井上薫です。京都弁やけど群馬出身で……その……まだまだ不慣れなんどすけど……」
言葉に詰まりながらも、必死に続ける。
「ここで働けるの、ほんまに嬉しゅうて……よろしくお願いします」
おれは、目線を合わせるように少しかがみ、
「同い年だよね?」
「はい……高校二年です」
「じゃあ気楽にいこ。ここ、そんな堅い店じゃないし」
その言葉に、薫ちゃんの表情が少しだけ緩んだ。
智姉さんは腕を組み、短く言う。
「二人とも、オオサキには一通り店の流れを教わる。私が厨房を離れられない時間帯もある」
「了解」
おれは即答だった。
「おれ、案内係ね。任せて」
「……余計なことを教えるなよ」
「冗談じゃあないですよ」
そんなやり取りに、六荒が奥から顔を出して、にっと笑う。
「いやぁ、賑やかになったなぁ」
智姉さんはちらりとだけ睨み、
「仕事をしろ」
「はい」
正午の店内には、鍋の湯気と、出汁の香りと、少しだけ新しい人間関係の気配が満ちていく。
和食さいとうは、今日も静かに、確かに、動き出していた。
「オオサキさんって運転上手いんですね。この前のレース、勝ったんはあのワンエイティという赤いクルマやったし」
「上手いぞ。私がテクニックを基本から教えたからな。今まで6回のバトルで勝利してきた」
「すんごいですね~! じゃあ、そのバトルの話をうちらに聞かせてください」
「その話はおれがするよ」
まずは最初のサクラ戦だ。
「最初に戦ったのは葛西サクラという黒いJZA80型スープラ乗りなんだ。この前戦った相手でもあるけど、実は彼女と戦ったのはこの前が初めてじゃあないんだ」
ドリフト走行会で彼女と鉢合わせして、目をつけられてバトルを挑むことになった。
「初めてだから緊張したけど、勝てて良かったよ」
次はWHITE.U.F.O戦。
まずは柳田との戦いを振り返る。
「次に挑んできたのは、榛名山のチーム、WHITE.U.F.Oのナンバー2の白いZ33型フェアレディZ乗りの柳田マリア」
ヒルクライムで挑むことになったけど、パワーがかなりあると聞いてすごい不安だった。
「しかし、智姉さんの考えた作戦のおかげで勝てたんだ」
次は戸沢戦だ。
「柳田の親分にあたる、白いDC5型インテグラタイプR乗りの戸沢龍にも挑まれた」
ヘッドライトを消す走りを得意と聞いたから、おれはそれに対抗する技を悪戦苦闘しながら練習した。
「バトルになるとその走りに苦しめられて、能力が発動してしまうほどだったけど、最後に練習した技がついに成功して勝てたんだ」
「能力って何でしょうか?」
「覚醒技ってやつだよ」
「へぇ、超能力が使えるんですね」
「昔の話だよ」
消滅した今では懐かしい話だ。
話を戻し、次は長女のサクラのリベンジをしてきた葛西三姉妹との戦いの話だ。
まずはモミジ戦から。
「戸沢を倒してから葛西三姉妹のリベンジ作戦が始まり、サクラの下の妹でオレンジ色のトヨタ・アルテッツァ乗り、葛西モミジと戦うことになった」
彼女は大学3つ卒業するほど頭が良く、バトルの時は雨が降ったから苦しめられた。
「そんな中で新しいスタイルの走りで倒すことに成功したよ」
「新しいスタイルって何ですか?」
「ゼロカウンタードリフトだよ。ハンドルを曲げずにドリフトをするんだ」
「高度な技術やね」
これも一般人に難しい話だ。
だが、乱入してきた九一三雅のJZX90型マークIIに追い抜かれて黒星が付いた。
これがキッカケで一時智姉さんとの関係は悪化した。
次にヒマワリ戦だ。
「モミジを倒すと、今度は葛西サクラの上の妹である緑のSW20型MR2乗りのヒマワリ戦だ」
彼女のSW20の立ち上がり加速は強烈で、今までバトルしてきた相手の中ではトップクラスだった。
「もう少しで負けると思ったけど、終盤で相手がスピンして勝てたんだ……」
この辺りから、覚醒技は消滅。
おれたち覚醒技超人は翼が折れてしまった。
普通の人間になってしまった。
最後にこの前のサクラ戦だ。
「妹2人を倒すと、ついに葛西サクラがリベンジを挑んできた。前より速くなっていて、さらにおれを倒した九一三雅までバトルしてきた。けど乾健人さんとの特訓の成果を見せたこととクルマの弱点を見抜いたことと、新しい技で倒すことができた」
「なるほど、こんなドラマがあったのですね」
「今度機会があれば、オオサキさんの車に乗ってみたいです」
正午を少し回った頃だった。
暖簾が、乱暴に揺れた。
店内の空気が、目に見えない圧で歪む。
その音に、斎藤智が包丁を止め、美波六荒が顔を上げ、おれが反射的に入口を見る。
――青。
低く、艶を殺したフェアレディZ(Z34)。
店の前に、斜めに停められている。
ドアが開く。
長身、無駄に力の入った肩。
「……久しぶりだな」
声は乾いていた。
男性恐怖症だから怯えながらも、記憶が、おれの中で即座に繋がる。
「……あ」
赤城。
下り。
無理なブレーキング。
そして――追い抜き、覚醒技でスピンさせた。
覚醒技超人の素質はなかったものの、おれも身体から覚醒技が消えて今では五分と五分になっている。
「おれを覚えてるって顔だな」
男は、口の端だけで笑った。
「もう一回だ。今度は、逃げんなよ」
店内が、ぴしりと静まる。
「……ここは飲食店だ」
智姉さんの声は低く、鋭い。
「客なら、飯を食え。喧嘩なら、表でやれ」
男は、智姉さんを一瞥し、おれだけを見る。
「相手はお前だ。伝説は引っ込んでていい」
――空気が、凍る。
次の瞬間。
「……行く」
おれが、即答した。
「オオサキ」
智姉さんが呼ぶ。
おれは振り返らず、ただ一言。
「すぐ終わらせる」
そのとき、かすかな声。
「……あ、あの……」
井上薫ちゃんだった。
「うち……」
一瞬、迷い。
それでも、目を逸らさず、言い切る。
「……乗せてください」
全員の視線が集まる。
「怖くないの?」
おれが聞く。
薫ちゃんは、少しだけ震えながら、でも頷いた。
「運転する人の背中、見たいんです」
一拍。
おれは、にっと笑った。
「……いいよ」
智姉さんが、一歩前に出る。
「条件がある」
男を睨み、続ける。
「無理な接触、一つでもやったら――」
言葉を切る。
「私が出る」
男は、舌打ちし、Z34へ戻った。
数分後。
エンジン音が、山へ向かって伸びていく。
助手席。
薫ちゃんはシートに深く身を沈め、シートベルトを強く握っていた。
「……いくよ」
「は、はい……!」
タイツに包まれたおれの黒い足が、アクセルを踏む。
180SXが、軽く跳ね、次の瞬間には――戦闘領域。
Z34が先行。
直線で踏み、パワーを誇示する。
「速……」
薫ちゃんが息を呑む。
「直線は向こうが上。でも――ブレーキを我慢する勇気が、あっちは足りない」
おれの声が、楽しそうに跳ねる。
「峠は、違う」
一つ目のコーナー。
Z34が、力任せに突っ込む。
フロントが、わずかに外へ逃げる。
その瞬間。
「イケイケイケイケイケイケー!」
おれの声と同時に、180SXが、内側へ吸い込まれる。
ブレーキ、リリース、舵角。
バレエの回転のように、無駄がない。
「……!」
薫の視界が、一瞬だけ反転する。
次の瞬間、Z34が、横にいる。
「抜……」
「今」
おれは、短く言い、アクセルを、踏み切った。
エンジンが吼え、景色が、線になる。
Z34は、追えない。
二つ、三つ、コーナーを重ねるたび、差は、確実に広がる。
そして――
減速。
ウインカー。
おれは、何事もなかったかのように、路肩へ寄せた。
Z34は、その先で止まり、しばらく、動かなかった。
車内。
薫ちゃんは、しばらく無言だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……すごい……」
おれは、ハンドルから手を離し、笑う。
「ね?」
その頃、和食さいとう。
遠くで聞こえたエンジン音が消え、智姉さんは、静かに出汁を引き直していた。
「……相変わらずだな」
六荒が言う。
智姉さんは、ほんのわずかに口元を緩める。
「……私の子だからな」
午後6時。
和食さいとうの店内は、夕方のピークを越え、湯気も会話も一段落していた。
出汁の香りが、少し甘くなる時間帯。
智姉さんは帳場で伝票を整理し、おれはカウンターを拭き、六荒は裏で仕込みを再開している――そのときだった。
暖簾が、叩き割るように跳ね上がった。
「サギさん!!」
息を切らした声。
床を蹴る足音が、三つ、重なる。
オレンジのジャージが先頭で飛び込んでくる。
クマさんこと熊久保宣那。
その後ろに、小柄な影――タカさんこと小鳥遊くに。
最後に、顔を引き締めたカワさんこと川畑マサミ。
三人とも、明らかに様子が違った。
「……どうした」
智姉さんが、顔を上げる。
クマさんは、肩で息をしながら、乱暴に言葉を吐いた。
「大変だべ! 今、山で聞いだ!」
「落ち着いて、クマさん」
おれが言うが、クマさんは止まらない。
「DUSTWAYの雨原芽来夜と――WHITE.U.F.Oの戸沢龍が!」
その名前に、空気が一段、冷える。
「……バトル、決まったで」
今度は、カワさんが続けた。
声は低く、早い。
「5月23日、土曜。場所は……赤城や」
「えっ!? 赤城!?」
タカさんが、目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待って!? あの二人が!? ガチで!?」
クマさんが、拳を握る。
「マジだべ。もう、裏じゃ話が回ってる」
おれは、拭いていた布巾を止めた。
「……雨原芽来夜と、戸沢龍」
その二つの名前を、噛みしめる。
雨原芽来夜。
DUSTWAYのリーダー。
走りで空気を支配する女。
タービン交換仕様の青いFD3S型RX-7を駆る。
絶対的な赤城最速。
戸沢龍。
WHITE.U.F.Oの頭。
強引で、速くて、引かない男。
スポコン風の白いDC5型インテグラタイプRを駆る。
ヘッドライトを消す走りを得意とする榛名ダウンヒル最速。
「……派手になるな」
六荒が、低く言った。
智姉さんは、帳場から一歩出る。
「……確かか」
「間違いねぇ」
熊久保が、福島訛りを隠さず言う。
「日時も、コースも。逃げ場ねー」
タカさんは、不安そうにおれを見る。
「サキちゃん……これ、放っといていいやつ?」
おれは、すぐには答えない。
頭の中で、朝の赤城がよみがえる。
霧。
智姉さんの背中。
六荒の軽いヴィッツ。
そして、今日のZ34。
「……いいわけないでしょ」
おれは、はっきり言った。
「赤城でやるなら、おれも関係者だよ」
クマさんの顔が、ぱっと明るくなる。
「サキさん……!」
カワさんは腕を組み、冷静に言う。
「このバトル、どっちかが勝つだけやない」
「……そうだな」
智姉さんが、短く応じる。
「周囲も、巻き込まれる」
店内に、沈黙が落ちる。
外では、風が暖簾を揺らしていた。
5月23日、土曜日。
まだ少し先のはずの日付が、今この瞬間から、現実として迫り始めていた。
おれは、静かに笑った。
「……ヘビーだよ」
だが、その目は、もう――逃げる側の目じゃなかった。
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