光速の走り屋オオサキショウコ

まとらまじゅつ

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最終章 赤城最速決定戦編

ACT.44 小山田亮政

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 ――5月24日、日曜日。
 朝の赤城。

 夜の喧騒が嘘のように、山は静かだった。
 湿った路面が朝日を反射し、白く光っている。

 先頭を走るのは、フォーミュラレッドの180SX。
 RB26の低い鼓動が、冷えた空気を震わせる。

 その後ろ、ジェットシルバーのR35。
 さらに少し離れて、3代目ヴィッツG’s――美波六荒。

「ライン、浅い」

 無線越しに智姉さんの声。

「雨原戦、意識しすぎだ」

「……分かっています」

 おれは短く返す。

 昨日。
 雨原芽来夜にバトルを申し込まれた。

 日程は6月7日。再来週。

(時間はある)

 だが、その“時間”が重い。

 第2高速セクション。

 おれは、昨日よりも一段落としたギアで侵入する。
 トラクションを意識する。

「そうだ。焦るな」

 智姉さんが続ける。

 六荒のヴィッツが、後方から静かに追う。

「オオサキちゃん、出口で膨らんでいる」

「見えている」

「なら修正してくれ」

「厳し……」

 朝の練習は、甘くない。

 そのとき。

 直線の奥で、何かが光った。

 赤。

 濃い、血のような赤。

「……後ろ」

 六荒が呟く。

 バックミラー。

 異様な圧。異様な速さ。

 赤いJZX81マークII。

 ただの赤ではない。
 ダークレッド。
 朝日を吸い込む色。

「速っ……!」

 おれが息を呑む。

 直線での伸びが異様だった。
 ただ――踏み切ってない。それでも近づいてくる。

(……触れただけですごい)

 湿った路面で、あの人が無闇に踏むはずがない。
 それでも“圧”だけが、距離を削る。

(0-100が2秒台、ゼロヨン8秒台――)

 智姉さんの知識が先に身体を冷やす。
 1000馬力。しかも、峠でそれを“飼ってる”。

 トリプルターボの圧縮された咆哮が、
 一瞬遅れて届く。

「……小山田さん」

 智の声が、わずかに低くなる。

「え?」

「ゴール地点近くの駐車場に止まれ、オオサキ」

 その一言に、おれはすぐ減速した。

 四台が、駐車スペースへ滑り込む。

 赤いマークIIが、音もなく横に止まる。

 エンジン音が、消える。

 静寂。

 ドアが開く。

 白い袴。

 銀髪のポニーテール。

 背筋の伸びた男。

 その存在だけで、空気が変わる。

「久しいな、智」

 低く、よく通る声。

 智姉さんは、深く一礼した。

「……師祖」

 六荒が目を見開く。

 おれは、言葉を失う。

 男は、ゆっくりと視線をおれへ向けた。

 おれの喉が、乾く。

(……男)

 胸が、ざわつく。
 身体が一瞬、硬直する。

 男性恐怖症。
 反射は消えない。

 小山田さんは、それを見ていた。

 だが、近づかない。
 距離を保つ。

 その立ち方が、すでに“武”だった。

「……怯える必要はない」

 低く、静かな声。

「私は、怒らない」

 その言葉は優しかった。
 だが、優しさではなく――重みがあった。

 智姉さんが一歩前に出る。

「オオサキ。この方は……安全だ」

 安全。

 智姉さんがそう言う相手は、数少ない。

 おれは、深く息を吸う。

 その目は、怒っていない。
 笑ってもいない。

 赤い81マークIIの横に立つその男の名は――
 小山田亮政。
 智姉さんが教えてくれた

 智の師。
 いや、正確には――

 飯富院イチさんに覚醒技を教えた男。
 智姉さんから見れば、大師匠。

「……はじめまして」

 小山田さんは、わずかに頷いた。

「はじめましてではない」

「……え?」

「お主のことは、聞いている」

 視線が、柔らかくなる。

「飯富院からな」

 おれの目が見開く。

「飯富院さんから……?」

「うむ」

 小山田さんは、81マークIIのボンネットに手を置いた。

 ただ――測っている。

「お主が、大崎翔子か」

「……はい」

 自然と背筋が伸びる。

 小山田さんは、赤い81マークIIを軽く撫でた。

「速い車だろう?」

 誰にともなく言う。

「だが、これは速い車ではない。速さを“支配する”車だ」

 朝の赤城に、言葉が落ちる。

「お主は、速さを求めているか?」

 おれは、答えに迷う。 

 小山田さんは続ける。

「それとも、在り方を求めているか?」

 風が吹く。

 トリプルターボの余熱が、まだかすかに漂う。

「6月7日――」

 小山田さんは言った。

「その日、お主は何を背負って走る?」

 問いは、静かだ。
 だが、重い。

 おれの胸が、強く鳴る。

 朝の赤城は、静かだった。

 だが――その静寂は、彼が立った瞬間に質を変えた。

「孫弟子の弟子。RB26のワンエイティに乗る少女。覚醒技を持ちながら、それを“失った”存在」

 おれの心臓が、強く打つ。

(……知ってる)

 知られている。

 逃げ場がない。

 小山田さんは続ける。

「覚醒技が消えたと聞いた」

「……はい」

「それで、どうする?」

 問いは、鋭いが、責めていない。

「覚醒技とは何だ?」

 おれは、言葉を探す。

「……精神の集中が、極限を超えたときに……クルマと一体になる感覚、です」

「それは“現象”だ」

 小山田さんは、指先でボンネットを一度だけ叩く。

「……で、“本質”は何だ」
 沈黙。

 風が吹く。

 遠くで鳥が鳴く。

 小山田さんは、静かに言う。

「覚醒技は、技ではない」

 おれの瞳が揺れる。

「覚悟だ」

 赤い81マークIIを、指先で叩く。

「この車は1000馬力。だが、誰が乗っても速いわけではない」

 おれは、昨夜のバトルを思い出す。

 あの圧。

「速さは、道具だ」

 小山田さんの声は、朝の空気に溶ける。

「覚醒とは、己が“どう在るか”を決めること」

 智姉さんが、静かに目を閉じる。

 六荒も、息を飲む。

「覚醒技を失った今こそ、問う」

 小山田さんは、まっすぐおれを見た。

「君は、技を求めるのか」

 一歩、間を置く。

「それとも、覚悟を求めるのか」

 おれの胸の奥が、熱くなる。

 雨原とのバトル。
 6月7日。

 覚醒する力を取り戻すために走るのか。

 それとも――

 覚醒技がなくても、
 覚醒できる存在になるのか。

 小山田さんは、微かに微笑んだ。

「飯富院は、かつて“技”に囚われた」

「……」

「智は、“技がなくても在れる”道を選んだ」

 おれを見る。

「君は、どちらだ」

 朝の赤城。

 太陽が、ゆっくりと山を越える。

 答えは、まだ出ない。

 だが――逃げる気持ちは、少しだけ消えていた。

 ――そのまま四人は、山を下りた。

 赤城の朝を切り裂いた赤い81マークIIは、まるで獣が檻に戻るように静かに走る。
 和食さいとうの暖簾が揺れる頃には、街もようやく目を覚まし始めていた。

「……まさか、ここで食べるとは」

 六荒が小声で言う。

 小山田さんは、店の前で一礼した。

「良い店だと聞いている」

 智姉さんが頷く。

「味は保証します」

 店内に入ると、出汁の香りが静かに広がる。
 朝の光が木目の床を照らし、温かい空気が張り詰めた緊張をほどいていく。

 小山田さんは座敷に正座したまま、姿勢を崩さない。

 おれが運んだのは、焼き鮭、だし巻き、味噌汁、白米。
 質素だが、丁寧な朝ごはん。

「……いただきます」

 小山田さんは静かに手を合わせた。

 箸の動きに無駄がない。
 魚の骨すら、音を立てない。
 箸が止まらない。
 食べることすら、鍛錬に見えた。

 やがて、湯気の立つ味噌汁を置き、彼はおれを見る。

「大崎翔子」

「……はい」

 店内は静かだ。
 六荒も、智姉さんも、口を挟まない。

「戦いから逃げたいと感じたことはあるか」

 おれの手が、わずかに止まる。

 箸の先で、米粒が揺れる。

「……あります」

 正直に言った。

「何度か」

 視線を落とす。

「緊張したり……相手の強さを見たとき、逃げたくなったこと、あります」

 小山田さんは、黙って聞く。

「勝てないかもって思ったときとか、自分が足りないって分かったときとか……怖くなること、あります」

 静寂。
 小山田さんは、湯飲みを持ち上げ、ひと口飲んだ。

「……私も、よくある」

 おれが顔を上げる。

「え……?」

「五十を過ぎても、ある」

 その声に誇張はない。

「戦う前に、怖くなる。死ぬかもしれんと、思うこともある」

 小山田さんは、ゆっくり続ける。

「それは誰にも起きる」

 智姉さんが、静かに目を伏せる。

「逃げたいと思うのは、弱さではない」

 箸を置き、まっすぐおれを見る。

「それは“生きている証”だ」

 おれの胸が、わずかに軽くなる。

「だがな」

 小山田さんの声が、ほんの少しだけ深くなる。

「自分から逃げないこと」

 一拍。

「相手からも逃げないこと」

 さらに一拍。

「それも、覚醒するための一つだ」

 おれは、言葉を飲み込む。

 覚醒技を取り戻すことではない。

 覚醒とは――

 逃げたいと感じた自分ごと、引き受けること。

 小山田さんは、味噌汁の最後の一滴を飲み干す。

「技があろうとなかろうと、関係ない」

 静かに立ち上がる。

「6月7日、逃げるな」

 その声は命令ではない。

 ただ、事実のように落ちる。

「勝てるかどうかではない。逃げないかどうかだ」

 朝の光が、障子を透かす。

 おれは、ゆっくりと息を吐いた。

 怖さは消えていない。
 だが――

 少しだけ、向き合える気がした。

The NextLap
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