光速の走り屋オオサキショウコ

まとらまじゅつ

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最終章 赤城最速決定戦編

ACT.45 さらなる強化

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 和食さいとうの暖簾が、静かに揺れる。

 エンジンが目を覚まし、低く唸った。
 排気の熱が、朝の空気をゆらりと歪ませ――
 乾いた加速音だけを残して、赤い81は山の向こうへ消えていく。
 店内に残ったのは、湯気と静寂だった。

 おれは、しばらく立ったままだった。

「……重いな」

 六荒がぽつりと呟く。

「空気が」

 智姉さんは湯飲みを片付けながら、おれを見る。

「で?」

 短い一言。

 おれは、少し迷ってから言った。

「……智姉さん」

「ん?」

「ワンエイティ、Speed葛西に預けようと思います」

 六荒が顔を上げる。

「え、今から?」

 おれは頷いた。

「480馬力ぐらいにして……あと、エアロも“整えたい”です」

 RB26のまま。
 でも、余裕を持たせたい。

 雨原芽来夜は、全力で来る。
 6月7日。

 智姉さんは腕を組む。

「バトルまで間に合うか?」

 現実的な問い。

 今日は5月24日。
 6月7日まで、あと14日。

 おれは、計算していた。

「大物の換装じゃなくて、ブーストとセッティング中心なら……葛西ウメなら、間に合わせると思います」

「エアロは?」

「フロント周りと下面を整える程度で。派手なキットじゃなくて、効くやつだけ」

 智姉さんは少し考える。

「480馬力……今より80上げるだけか」

「数字より、余裕が欲しいんです」

 おれは、正直に言う。

「全開を常用したくない。8割で戦える状態にしたい」

 六荒が小さく頷く。

「それは、理にかなっている」

 智姉さんは、ゆっくり息を吐いた。

「ウメに電話するか」

「……怒られますかね」

「怒られるぞ」

 即答。

 おれは苦笑する。

「“バトル直前に何考えてんだ”って言われる」

「でもやるんだろ?」

「やります」

 迷いはなかった。

 小山田さんの言葉が、胸の奥で響く。

 ――逃げないこと。

 技を求めるか。
 覚悟を求めるか。

 おれは、ワンエイティを見る。

「……逃げたくないんです」

 智姉さんは、その言葉を聞いて、少しだけ柔らかくなった。

「じゃあ、やれ」

 そう言って、智姉さんが一歩近づく。

「ただし。チューニングは“武装”じゃない。“整える”だけだ」

「分かってます」

 480馬力。エアロは必要最小限。“山で勝つ形”に寄せる。
 でも本当に整えたいのは――自分の中の何かだ。

 6月7日まで、あと14日。

 赤城は、待っている。

 Speed葛西。

 昼過ぎの工場は、鉄と油の匂いが濃かった。
 シャッター半開きの奥、リフトに載せられたクルマの下から火花が散る。

 ――キィン。

 グラインダーの音が止まる。

「いらっしゃい」

 低く、落ち着いた声。

 葛西ウメは軍手を外しながら振り向いた。
 作業着の袖を肘までまくり、額に汗を浮かべている。

 その視線が、ゆっくり赤い180SXへ落ちた。

 おれは軽く頭を下げる。

「お願いするよ」

 ウメは近づき、ボンネットを指で叩く。

 コン、と乾いた音。

「RB26。相変わらず無茶な車ね」

 智姉さんから譲られた――“始まりのクルマ”。

 ウメはフェンダーを撫でるように見ていく。
 GTウイング。ADVAN GT。補強されたボディ。

「……で?」

 おれは真っ直ぐ言った。

「480馬力まで上げたいです」

 ウメの眉がわずかに動く。

「理由は?」

「雨原芽来夜と、再来週バトルします」

 一瞬。

 工場の空気が止まる。
 奥で作業していたスタッフまで手を止めた。

 ウメは小さく息を吐く。

「……あの子か」

 名前だけで理解している。

「私の芽来夜はパワーだけじゃ勝てない相手よ」

「分かっている」

 おれは続ける。

「だから余裕が欲しいんだ。全開じゃなく、制御できる状態に」

 ウメの目が鋭くなる。
 試す視線。

「他は?」

「エアロで空気を整える。足はアライメントと減衰、駆動は“繋がり”をもう一段だけ詰めたい」

「期間は?」

 おれは迷わず言う。

「……バトルまでに仕上げてほしい」

 沈黙。

 ウメは腕を組む。
 180SXの周囲を一周する。

 前から。
 横から。
 後ろから。

 まるで、ドライバーの覚悟まで測るように。

 そして。

「いいわ」

 短く言った。

「間に合わせる」

 おれの肩が、わずかに緩む。

 ウメは指を立てる。

「ただし条件」

「はい」

「これは“パワーアップ”じゃない」

 リフトを指差す。

「再教育よ」

「……再教育」

「RB26は暴れる。今のセッティングは“あなたが合わせてる”状態」

 工具台を叩く。

「次は逆。クルマがあなたに合わせる」

 ウメは続ける。

「480は、ブーストマップと燃調と点火。冷却も詰める。……でも本命は――」

 床を指す。

「芽来夜クラス相手なら、出口の0.2秒が命取りになる」

 おれは頷く。

 理解していた。

「……変わるの?」

 ウメは笑わない。

「別の車になるわ」

 その言葉に。
 おれの胸が、少し高鳴る。

 ウメはスタッフへ声を飛ばす。

「リフト空けなさい! RPS13入れる!」

 シャッター越しに夕日が差し込む。
 赤い180SXが、ゆっくり工場へ入る。

 エンジン停止。
 静寂。

 おれはハンドルを最後に撫でた。

「……頼む」

 小さく呟く。

 ウメは聞こえていた。

「預かったわ」

 リフトが上昇する。
 赤い機体が持ち上がり――戦いの準備が始まる。

 6月7日まで残り、14日。

 リフトに持ち上げられたフォーミュラレッドの180SXが、ゆっくりと天井近くで止まる。

 おれは最後に一度だけ見上げてから、工場を出た。

「……よろしくお願いします」

 ウメは背中越しに言う。

「任せなさい」

 シャッターの外、陽が傾き始めている。

 その様子を、少し離れた場所から見ていた人物がいる。

 黒いTシャツ。
 黒いタイツ。
 前髪で右目が隠れたまま、微動だにしない。

 ――葛西サクラ。

 無表情のまま、180SXのいる工場内を見上げる。

(……480馬力)

 さっき、グラインダーが止んだ瞬間。
 シャッターの隙間から、切れ切れの会話が漏れてきた。

 足回りの変更。
 パワーの調整。

 本気だ。

(……来週じゃなくて、再来週。6月7日)

 時間を空けた意味。

 おれは、準備をする。
 逃げない。

 その背中を、サクラは知っている。

 サクラの胸の奥で、静かに何かが揺れた。

(オレは……)

 立場は明確だ。

 DUSTWAYのNo.2。
 雨原芽来夜は、同じ山で戦う仲間。

 昨日のダウンヒル。
 雨原は戸沢を下した。

 強い。
 間違いなく、今の赤城で最上位。

(なら……)

 応援するのが、筋だ。

 だが。

 黒いJZA80と赤い180SXがぶつかった夜。
 自分が敗れたあの日。

 それでも、おれは止まらなかった。

 覚醒技を失った自分と、
 同じく失ったおれ。

 重なる。

(……オレは)

 雨原に勝ってほしいのか。
 おれに勝ってほしいのか。

 答えが、出ない。

 工場の奥から、ウメの声が飛ぶ。

「サクラ」

「……何」

 振り向かない。

「難しい顔してるわよ」

「してない」

 即答。

 ウメは軽く笑う。

「母親は分かるのよ」

 サクラは、ゆっくり振り返る。

「オレは……どっちを応援すればいい?」

 珍しく、曖昧な問い。

 ウメは工具を置く。

「応援なんて、しなくていい」

「……は?」

「走り屋は観客じゃない」

 一歩近づく。

「あなたは、あなたの走りを見ればいい」

 サクラの瞳が、わずかに揺れる。

「勝ってほしいとか、負けてほしいとか、そんな感情は――邪魔」

「……」

「ただ見なさい。どっちが“在る”か」

 小山田と同じ言葉の匂い。
 在り方。

 サクラは、静かに目を伏せる。

(……オレは)

 覚醒技を失った。
 それでも、赤城を走る。

 おれも、失った。
 それでも、戦う。

 雨原は、持っている。
 だから強い。

 6月7日。
 赤城ダウンヒル。

 そのとき、自分は何を見るのか。

 黒髪が、風に揺れる。

「……どっちが本物か、見てやる」

 感情は、表に出ない。
 だが胸の奥では、静かな炎が灯っていた。
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