蓮城さんちの兄と弟

桐山アリヲ

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蓮城さんちの弟

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 庭に面した門扉に手をかけ、掛けがねを外して押し開ける。
 
 ずいぶん日が伸びたな。

 目線を上げた拍子に、ふと思った。もうすぐ夜の7時になるというのに、あたりはまだ、うっすら明るい。ついこないだまで、部活を終えて家に帰り着くこの時間には真っ暗だったのに。
 すぐ横にあるクリニックの窓から、オレンジ色の明かりがこぼれていた。患者用の駐車スペースに並ぶ車の台数を見る限り、楓さんの帰りは、今日も遅くなりそうだ。
 診療時間を過ぎてから駆けこんでくる患者がいても、楓さんは絶対に断らない。「子どもは時間を選んで病気になるわけじゃないし、不安を抱えて夜を越す親の気持ちを考えると、突き放すわけにもいかないから」。楓さんはそんなふうにいうけれど、遅い時間に疲れた顔で夕飯を食べる姿を見かけるたびに、体は大丈夫かと思ってしまう。シュウの心配は、オレ以上だろう。
 多かれ少なかれ、だれもが日々なにかを背負って闘っている。クリニックにやって来る親子連れや楓さんを見ていると、そんなあたりまえのことに、改めて気づかされる。
 しんどいのはオレだけじゃねぇよな……胸の内でつぶやきながら、玄関へ続く踏み石の上を歩いていると、ふいに、こうばしいスパイスの香りが鼻先をかすめた。
 
 今夜はカレーか。
 
 応えるようなタイミングで、ぐるる……と腹が鳴る。
 玄関で靴を脱ぎ、リビングのソファーに荷物を放り投げてから、「ただいま」と、奥にあるキッチンへ入った。

 「おかえり、ナツ」
 
 シンクの前で野菜を洗っていたシュウが、オレに笑顔を向けてくる。

 それだけで、あたりが一段明るくなったように見えるのは、たぶん、オレの脳ミソが勝手に創り出した幻想なんだろう。

 わかってはいるけれど──12時間ぶりに見る戸籍上の兄は、やっぱりきれいだった。

 理知的な印象の整った顔立ち。華やかにそれを彩る茶色がかったやわらかい髪。なめらかな曲線を描く頬のラインと、すっきり尖った顎の輪郭。
 帰宅してすぐに夕飯の仕度を始めたのか、シュウは、制服のブレザーだけを脱いだワイシャツ姿だった。その上から身につけた黒いエプロンのヒモが、細い腰回りを強調するように巻きついている。
 
 「今日は、なにか変わったことあった?」

 シュウの声で、我に返った。にじみ出る後ろめたさにジクジクと胸をあぶられ、目をそらす。

 「べつに、フツー」

 「つまんない返事だなぁ。なにかあるだろ。ナツの普通が、おれにとっても普通だとは限らないんだからさ」

 笑いを含んだシュウの声音を背中で受け止めながら、オレは、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注いでいるうちに、ふと思い出す。

 「そういえば、朝練のあと変な女に会った。赤い髪の」

 「あぁ、教育実習生だろ?水沢みのり先生。うちのクラスに来たよ」

 「3年の理系クラスに?」

 「あのパンクな見た目で数学専攻なんだって。だから、教科主任の宮野先生が面倒みることになったらしい。思ったことズバズバいうわりに、気づかいができて憎めないタイプだよ。先生は、ちょっと扱いづらそうにしてたけど」

 数学教師でもある宮Tは、シュウのクラスを担任している。オレが真っ正面から正論でぶん殴られたみたいに、まんまとやりこめられる宮Tの姿を想像すると、腹立たしいような、それでいてちょっとおもしろいような、どっちつかずのむず痒さをおぼえる。

 「ズバズバじゃなくて、ズケズケの間違いだろ」

 思わずつぶやくと、シュウは、レタスをちぎる手を止めてオレを見た。
 
 「もしかして、なにかあった?」

 「べつに。たいしたことじゃない」
 
 コップの麦茶を一気に飲み干してから、オレは、シュウの手元に目を落とした。

 「今日の夕飯って、ひょっとしてカツカレー?」

 調理台の上に置かれたステンレス製のトレーには、衣のついた分厚い肉が数枚のせられ、パンチの効いた存在感を放っている。おかげでオレの胃袋は、お預けをくった犬みたいに、さっきから情けないほどきゅるきゅる鳴きっ放しだ。
 
 「なかなかそそるメニューだろ?揚げたてを食べさせようと思って、ナツが帰ってくるの待ってたんだ」

 そういって、シュウはコンロに火を点けた。あらかじめ高温にしておいたのか、それほど間を置かずに油の温度をたしかめると、慣れた手つきで衣のついた肉を投入していく。

 「揚げ物は体に悪いとか、シュウ、前にいってなかったっけ」 

 「たまになら問題ないだろ。好きなものを控え過ぎるのも、かえってよくないしな」

 部活を引退してから、シュウは夕食づくりを一手に引き受けるようになった。完璧主義で凝り性なシュウの作る料理は、どれも緻密で本格的。例えば今日のカレーだって、ルーから自分で作るほどの徹底ぶりだ。市販のルーを使った(しかも毎回濃さが変わる)親父の超適当なカレーとは、見た目も味も全然ちがう。
 おいしさへのこだわりはもちろんだけど、それ以上にシュウの頭を占めているのは、ランナーとしてのオレを、食事面から支えることなんだと思う。
 本人の口から直接聞いたわけじゃない。たまたま見てしまったのだ。シュウの机の上に、そういうタイトルの料理本や栄養学の専門書が積んであるのを。つい先日、マンガを借りようとして、こっそり部屋に入ったときのことだった。あちこちに付箋が貼られ、かなり読みこまれた印象のそれらを前に、なんともいえない複雑な気持ちになったのをおぼえている。
 タンパク質を中心とした栄養豊富なアスリート食のおかげで、身体はかつてないほど調子がいい。これでまったく自分の走りができないなんて、笑えないジョークだ。
 スランプのことは、シュウには知られたくなかった。ただ、オレの好物ばかりが並ぶ最近の食卓を見ていると、もしかしてと疑う気持ちがわいてくる。顔が広くて耳ざといシュウのことだから、陸上部の内部事情をくわしく知っていたとしても不思議じゃない。
  
 コウタ先輩と、仲よさそうだしな……。

 「熱っ」

 短い悲鳴に、もの思いを破られた。ハッとして目をやると、シュウが、菜箸を持った右手で、左の手首を押さえている。

 「どうしたっ」

 「大丈夫。ちょっと油が跳ねただけ」

 「大丈夫じゃないだろ!」

 考える前に体が動いた。とっさにコンロの火を止め、シュウの肩を抱いてシンクの前まで連れて行く。赤みの差した左手首をつかんで蛇口の下につっこみ、レバーハンドルを押しあげて流水にさらした。
 にわかにおりた沈黙を、単調な水音が隙間なく埋めていく。

 「ナツ」
 
 しばらくされるままになっていたシュウが、ふいに口をひらいた。

 「驚かせて悪かったな。ありがとう。もう平気だから」

 いいながら、自由になる右手を伸ばして水を止める。

 「どこが平気なんだよ。赤くなってるだろうが」

 つい、口調が荒くなった。

 「クリニックに行こう。楓さんに話して、ちゃんと診てもらった方がいい」

 「大げさだなぁ。こんなの大したことないって」

 「大げさじゃない。跡でも残ったらどうするんだ!」

 フッと、笑う気配がした。シュウの肩が、小刻みに揺れている。

 「それ、父親が娘にいうセリフだから。それか……彼氏が彼女にってパターンもありかな」

 オレは、ぎくりと凍りついた。
 
 そうだよ。なにいってんだ、オレ……。

 ふつう、弟は兄貴の体にヤケドの跡が残る心配なんてしない。するわけがない。

 沈黙を不審に思ったのか、笑いを収めたシュウが、首をひねってオレを見あげる。とっさに口元を引き上げようとしたけれど、遅かった。
 ちょっと茶色がかったシュウの瞳。心の奥まで分け入ってくるような、澄みきった深いまなざし。だめだと思うのに、目が離せない。引力が強すぎる。
 
 どれくらいの間、そうしていただろう。

 「ナツ?」

 とまどいを露わにした声色に、ハッとなった。いつのまにか、自分の右手が、シュウの頬に触れている。
 指先から伝わる温かくてなめらかな感触を意識した瞬間、オレは、弾かれるようにシュウの体から自分自身を引きはがした。

 「悪い。……先にシャワーしてくる」

 絞り出した声は、少しかすれていた。息が苦しい。呼吸すら止めていたことに、いまになって気づく。

 「楓さんが戻ってきたら、ちゃんと診てもらえよ」

 やっとのことでそういうと、オレは、逃げるように台所を飛び出した。
 

 
 


 
 
 
 
 
 

 
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