命のたまご

いすみ 静江

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第四章 出生の涙〔昭和〕

15 善生の餌付け

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  1 善生のうまい餌付け

「宇都宮にある国立栃木大学の附属病院に行こう。どんなお産にも対応してくれる筈だ。それに、田舎には、お袋もいる。良くしてくれるさ」

 善生は、ほくほく顔で、立ち上がった。

「栃木に行くって、そう言う事なの? 夢咲家に行くと言う事……?」

 葵は、ふくれっ面で、マッチ二本と線香花火の燃えかすを砂利で消した。

「そうだよ、俺と付き合って、嫁に来るつもりだったんだろう?」
「そうでしたっけ? 誰が誰のお嫁に?」

 良い話なのに、きりきりしている。

「何を言っているのか、俺が訊きたい。付き合っていたんだろう。誰と誰がって、俺とみっちゃんだろ」

「ちょっと、気持ちが悪くなって来たわ……。本当よ」
「そうだよな、部屋に行こう」

 アパートの二階へ促す。

 ギッシギッシギッシギッシ……。

 足取りが軽い善生。

 グギイグギイグギイ……。

 足取りの重い葵。

 ちぐはぐのまま、部屋の前に来た。

「染谷さんがいるわ」
「二回咳き込めば出て行ってくれる」
「随分ね……。困った人だわ」

 ウオッホ、ゴホッ。

「いやあ、ちょっと私用で、すまないですねえ」

 外面の善生は気持ちが悪い。
 葵は、時々そう思っていた。

「いやいや、ちょっとおいらも……」

 財布と鍵だけ持って、出掛けてくれた。

「ごめんなさいね、具合が悪くて」

 二人は、敷きっぱなしの布団に座った。

「ふうう……」

 葵は、一息ついた。

「あのな、俺達は栃木から来たんだ、子供も栃木で産もう。何も東京大学様だけが偉いんじゃない」

 むっ。
 栃木恋しい説が出たと、葵は、負けまいとした。
 夢咲の実家に行きたくないのだ。

「東京大学だの宇都宮の国立だのなんて、何でお産で行くのよ。もっと安い所へ行きましょう。お母さん達は、お産婆さんで善生さんを産んだのでしょう」

 両者譲らず。

「みっちゃんは、下に兄弟がいないから分からないんだな。お産婆さんだってタダ働きじゃないよ。何かあったら死ぬ事もあんだぞ」

 善生は、兄二人をこの時点で亡くしていた。
 広斉ひろなりを生まれて間もなくと暁考あきなりを二十歳でこの世から別れさせられていた。

「死ぬのは……。そうね、病院なら安心かも知れないわね。でも今、引っ越さなくてもいいと思う」

 渋い顔と悪阻の区別がつかない。

「そうか……。嫌か?」

 何とか恋しいお袋のいる栃木へ行きたかった。
 幾つになっても親子にしがみつく。
 散々、ナポリタンより美味しい物を教えてくれていた。
 お袋さんの蒸かし芋。
 兄弟で取り合っても、それも美味しかった。
 子供時代の美味しい物、蒸かし芋で餌付けされているのか。

「嫌なんじゃなくて、無理だと言いたいの。住まいはどうするの? お金もないし、体も本調子じゃないわ」

 そうかと、善生は疲れて来た。

「ああ、お袋もそんな軟弱者じゃあ、迷惑だな。新しく家を探そう。引っ越しは、後でだな」
「なんですって。軟弱者じゃないでしょう」

 ほれみたことかと、善生がもう内心思った所であった。

「もーう。せめて、退職金が貰える七月末迄、入籍は待って……!」
「入籍?」

「だって……。子供の為よ」

「入籍……! 万歳だ! け、結婚だよ!」

 その後、善生がお袋と呟いたのが聞こえたが、葵もそこまで無粋ではない。
 葵は、その後さっぱりする程吐いたら、悶々としていた事が吹っ飛んだ。
 一人で考えていたのが、いけなかったのかも知れない。

  2 ふつつか者

 ――一九七〇年、七月三〇日。

「ふつつか者ですが、これからも宜しくお願い致します」

 葵の父、優一ゆういちが、娘に代わって夢咲家の畳に手をつき深々と頭を下げた。

「宜しくお願い致します」

 葵の母、ハナも続いて深々と頭を下げた。
 葵は、母に下げさせられた。

「ええん、だっぺ。な、お父さんもー、善生には、嫁の来手がないと言ってたっぺー」

 善生の母、テツが、不随意な体の父、育蔵《なりぞう》に笑いじわを向けた。

「立派なご子息の所へは、何もできない葵では申し訳ないのですが……。十分に家訓に従う様に言いましたので、お願い致します」

 夢咲善生と美濃部葵は籍を入れた。
 二人の結婚記念日は、七月三十日となった。
 広い大地から見たら、小さな二人の結婚であった。
 そして、もう三人の家族となる日が迫って来ている。

「ささやかですが、あがってくんなせえ」

 テツは機嫌が良かった。

「お気遣いいただきまして」

 優一とハナは下戸なので、お酒には困った。

 真岡もとっぷりと暮れた。

「はあ、これから、二人っきりの生活なのね」

 何故か妊娠している葵が布団を支度した。
 それも今夜から夢咲の人間だからかと、仕方なく思った。

「妊娠中は、あれは駄目なんだと、お袋に言われて来たよ」
「はあ? 最悪です。お義母かあさんにだなんて」
「気にすんな。良いお袋だから、甘えな」

 しかし、そんな夢咲家からは、援助金はなかった。
 葵は、予定通り、退職金を得たが、間もなく消える事となる。

 入籍して、兎に角、慌ただしかったと言うのが一番の想い出であった……。

「るーるるるー。んんんんー」

 善生は身軽な引っ越しを終えた。

「七つの子」等の童謡の作詞で知られる野口雨情の旧居や碑が、栃木県は宇都宮にある。
 雨情は、「しゃぼん玉」の中で、夭逝した長女への気持ちを詩に託したと言われている。
 葵はそんな事は知らないが、美味しいお土産が近くで売っていた事には満足であった。
 たまに貰えたりする。

 その近くに、新居を構えたのであった。

「勿論、二人きりではいられないよ」

 そう言われたかと思うと、善生の弟も一緒だったりした。
 六男、松就まつなり、八男、忠功ただなりの他に、何やら男ばかり直ぐに寝泊まりを始めるので、葵は、善生に苛ついていたが、生活に追われていてそれどころではなかった。

「静かな方が良かった……」

 葵は、寡黙な男性を望んでいたので、善生がやかましくて仕方がなかった。
 今、思えば、妊娠中と言うのも要因であったのであろう。

 善生は、宇都宮でも建設業の仕事を得ていて、今日は早く帰って来た。

「善生さん、大事な話って何?」
「ああ。染谷から、五千円送られて来たよ」
「ま、まあ……!」

 疲れていたのか、葵は、思わず嬉し泣きした。

「私も大事な話があるの……」
「何?」

「病院って割りと近いのね。赤ちゃんは順調ですって。お医者様が」

「そ、それは良かった……!」

 鼻の下が本当に伸びる。

 おかしな人だと、何もかもに戸惑う葵であった。
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