命のたまご

いすみ 静江

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第四章 出生の涙〔昭和〕

16 産む

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  1 産む

 ――一九七一年、三月八日。

 ものぐさの葵もそろそろかと思い、国立栃木病院へと歩いて行った。
 外は、しとしとする雨であった。

「思ったよりも寒いわ。お天気が崩れているのね」

 ねんねこばんてんを着て行った。
 赤ちゃんをおんぶする時に羽織るもので、お腹が大きな葵をとてもぬくぬくとさせてくれる。
 葵の母、ハナがお針をやっており、せめてもと贈ってくれた物である。

「母ちゃん、思い出すよ……」

 ハナはお針子さんを何人も弟子にして、和裁を生業としていた。

「うちの母ちゃんは、干瓢の味噌汁だけは、旨いもんな」

 葵の三人いる兄貴達もよく呟いていた。
 家の事はからきし駄目だけど、仕事の事になると鬼の様に働く。
 一晩で二人分の着物を仕上げたものだ。

「母ちゃんのねんねこばんてん、あったかいよ……」

 病院に着くなり、堪えられなくなった。

「う……。うう……」

 床にペタンと尻餅をつくかの様に座ってしまった。

「大丈夫ですか? 奥さん」

 他の妊婦さんが先ず駆け寄ってくれた。

「うんちかどうか分からない……」

 床に手をついてやっと堪えていた。

「そんなものですよ。すみませーん! こちらの奥さんがよろけてしまって!」

 バタバタ……。

 助産婦か看護婦が来て、陣痛室へと連れて行った。
 さっきの優しい奥さんにお礼を言う間もなかった。

「旦那さんに連絡したいのですが。どちらに掛けたらいいのですか?」

 真っ先に訊かれた。

栃岡とちおか小学校にいて、夢咲善生を呼んでください……。他に夢咲の兄弟がいるので、下の名もお願いします。くっ……」
「分かりました。電話を掛けて来て」
「はい」

 医師に言われて、助産婦は、急ぎ消えた。

「ああ、良かった……。はあ、はあ」

「痛い、痛い……。赤ちゃんがこんなに痛いなんて聞いてないよ」

 直ぐに産まれないので、陣痛室から、大部屋に移った。

 コンコン。

「旦那様がいらっしゃいました」
「やっとかあー、もう産まれるかあ」

 万歳して来た。

「ああ、馬と鹿がやってきたよ……。これが、アタシの旦那様ですか……」

 葵は、海より深く反省した。

「ああ、つまらない出来心で、できちゃったりして……。まあいいかとか考えたのは私じゃない! 失敗したなあ……」

「浣腸しましたので、便所はあちらのを共同でお使いください。具合が悪くなったら、声を掛けてください」

 そう言うと、助産婦は早々と出て行った。
 これが、葵の地獄だった。

「もう、出るんだけど」
「何が?」
「行って来るわ」

 ノシノシと便所に向かった。

「何でこんなに並んでいるの? 漏れちゃうじゃない」
「並べば、よかっぺーな」

 限界があると内心葵は反抗した。

「……」
「……ぐっ」

  善生は、男性控え室に行き、思い出していた。

「赤ちゃんの頭の大きさは、みっちゃんの赤ちゃんの通り道と一センチあるから、切らずに産みましょうって言われたんだよな……。やはり、難しいお産だな……。そうだ、あれだあれ!」

「はあ、コンチクショウ! 便所で苦労したのが、一番酷い! 便所が少ないじゃない!」

「落ち着けよ、みっちゃん」

 柔和な善生は珍しい。

「もっと素敵な事が待っているよ」

「何?」

「子供の名前だよ」

  2 誕生

 ――一九七一年、三月十日。

 この日、雪が舞い降りた。
 善生にも葵にも忘れられない日となった。

「ほんぎゃ……」

 弱々しく泣いた赤ちゃんを保育器に素早く入れ、処置を施した。
 体重が千九百グラムしかなかった。

「夢咲善生様、女のお子様がご誕生です。おめでとうございます」

 助産婦が知らせに来た。

「おお! 女の子か!」

 待合室でおとなしく待っていられなかった善生は、他の赤ちゃんが休んでいる新生児室の前で声を上げた。

「お母さんが五十二時間に渡り、お産をなさったので、弱っております。お部屋に戻って参りますので、そちらでお待ちください」

 善生の頭の中は、命名で一杯だった。

「そうか、そうか。それで、赤ちゃんはまだ?」
「処置が終わりましたら、その後、医師からお話があります」

「さくらちゃん。さくらちゃん。かわいいだろうなあ。ふんふんふふふふ……」

 大部屋であるのに、構わず鼻歌で弾んでいた。
 
 ガラガラガラガラ……。

「あ、善生さん。な、何か、赤ちゃんがいないの。泣き声は聞いたのだけど」

 ベッドに乗せられて点滴など幾つか処置をしてある葵が、情けない顔で子の父を見上げた。

「みっちゃん、保育器に入るんだって」

 心配している風な顔は見せなかった。

「保育器! それは、お産の直後に聞いたわ。何かおかしいのかしら? 手の指と足の指が揃っているか見て来て」

 葵は奇形や障害をきちんと分かっていなかった。
 後に、顕著になる。

「大丈夫だろう」

 今更、そんな事をしても、赤ちゃんを捨てる訳には行かない。

「いいから」

 目で訴えた。

「後にしなさいよ、大丈夫だから」

 コンコン。

「夢咲さん、宜しいですか?」

 三沢みさわ医師と一ノ瀬いちのせ助産婦が、入室し、二人の所へ来た。

「おめでとうございます」
「おめでとうございます」

 医師らは、礼をした。

「おめでとう?」
「何が? あ、赤ちゃんかあ……」

「お母さんの体調が悪いので、こちらでお話ししても宜しいでしょうか」
「みっちゃん、そんなに具合が悪いの?」
「お母さんは、お産に時間が掛かりましたので、体力が消耗しております」

「お子さんは、未熟児ではありません。低体重児です」

 銀縁眼鏡の三沢医師に告げられた。

「体重が千九百グラムしかないので、保育器にて、凡そ一ヶ月程度、成長を見守って行きたいと思います」

「赤ちゃんに会えないのですか?」
「アタシ、未だ会っていませんが!」

「今、ご案内致します。お母さんの体調は如何ですか? 少々、診察させてください」

「はい。大丈夫です。では、支度をして行きましょう」

 葵は、車椅子で移動した。

 今で言うNICU、新生児特定集中治療室は、この頃から、誕生して来た。

 扉の向こうから、特別な個室に、赤ちゃんが運ばれて来た。

「さ、さくらちゃん。さくらちゃん」
「まあ、お名前が決まっていらっしゃるのですか」

 ふくよかな一ノ瀬助産婦が、嬉々とした。

「善生さん、さくらって……。初耳ですよ」

「ああ、可愛い! 愛しのさくらちゃん……!」

 大雪が舞う中、大切な命が誕生した。
 そして、善生はお父さん、葵はお母さんになった。

 三月十日の事であった。
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