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二月に佐世も一緒に三人で北野天神に梅見に行って以来、丹波堂の長助とは無沙汰になっていた。長助が跡取りとして修行する仏光寺通の染屋、丹波堂は店構えこそ小さいものの、染め上がりが色鮮やかで腕がいいと、近ごろ評判である。
店仕舞いと夕餉を済ませた半次郎は、正月向けの図案を袂に入れて店を出た。梅雨の走りで、昼過ぎから降りだした雨が宵闇の中静かに降り続いていた。図案を濡らさぬよう蛇の目傘を差し、新町通を南へ下っていく。息詰まるような湿った夜気が立ち籠めていた。
丹波堂の軒看板が見えてきた。
店の前に提灯の火が揺れ、黒い人影が二つ浮かび上がっている。おやっと立ち止まって見ていると、赤い番傘の下で二つの影が一つに重なり合った。
咄嗟に半次郎は、暗ずんだ足袋屋の軒下に身を寄せた。一つになった影の様子を探り、傘に顔を隠してじりじりと近づいていく。丹波堂手前の路地にぶつかると傘を閉じて、躰を路地に入れて耳を澄ませた。
「……半次郎はんに悪いと思って、もう会わんとはっきり伝えに行ったんや。二回ほど行ったけれど、いっつも家におらへん」
「佐世ちゃんは半次郎と夫婦にならんといかん。親同士が決めたことやし、半次郎はいい奴や。俺はこれ以上会うわけにはいかん……」
「そんな哀しいこと、言わんといて」
「ほな、気をつけて帰るんやで……」
半次郎の頭は金棒で殴られたようにガンガンと鳴っていた。ひどく驚いてはいたが、不思議と腹は立たなかった。
《そうか、そういうことか。なんや二人、お似合いやな。わてが雪華の帯に夢中になっている間に、そんなことになっていたんか》
目の前を、番傘を差した佐世が通り過ぎていく。
紫陽花柄の小紋に昼夜帯を締めた後姿は、見知らぬ女人のように大人びている。路地から突き出した顔に雨が降りかかって、佐世の姿はすぐに滲んで見えなくなった。
気づけば半次郎の髷も肩もじっとり濡れていた。慌てて袂に入れた図案を確かめる。
《濡れてなかった、はあ、助かった》
袂を大事に胸に抱えて、傘を差して通りに出た。濡れそぼった頭と肩、顔を手ぬぐいで拭く。
気を落ち着けると、丹波堂の店先に立った。
「富美屋から、糸染めを頼みに参りました」
腹から声を出して、訪いを告げた。
しばらくして油障子が開くと、十四、五歳ほどの弟子が顔を出した。染料で汚れた指先で案内されて、敷居をまたいだ。
板間で絹布を広げていた店主である長助の父親が、手を止めて頭を下げた。長助とよく似て骨太で見栄えのする男である。挨拶を交わした後、半次郎は上がり框に腰かけて下絵を広げた。
膝を進めてきた店主は、下絵に目線を投げてから顔を上げた。
「富美屋さんから直接の染めの注文、嬉しいことですな。このところ長助が染めを請け負ってますのやけど、任せてよろしいやろか」
「そのつもりで参りました、長助さんとは幼馴染でして」
店主が振り返って声をかけると、土間奥の仕事場から長助が出てきた。腹掛けに印半纏を羽織った姿は勇ましく、鼻の下や顎に点々と藍や朱の染料が付いている。
半次郎を見た長助の眼には戸惑いが過ったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて会釈をした。
「半次郎か、久しぶりやな。今日は糸染めの仕事で来はったんか、よろしゅう頼みます。……ほう、これが下絵かいな、なかなか珍しくて面白い柄ですな。いつか昼夜帯は見慣れてつまらんから、目新しい柄の帯を作ったらどうかと話したのを覚えてくれてたんやな。おおきに」
「実は、これはある人から受け継いだ冊子に載っている雪華図なんや。この柄で、誰もが目を留める美しい帯を織ってみせますで」
「どんな色にでも、注文通りに染めさせてもらいます、こちらから色を選んでください」
長助が棚から取り出してきた色見本帳には、色ごとに明るさ、色味が微妙に異なる布の細かい端切れが、帳面からはみ出すほどにびっしりと貼り付けられていた。全てこの店で染めたものだという。雪の花弁の縁取りは紫紺色に決めていたが、その色だけで赤系から藍系まで数百もの色見本があるのだった。
「贅沢品は取り締まられて金糸銀糸を使うことができんが、この雪華柄やったら金銀を使わんでもきらっと耀く帯になる。なんというても、雪華の六花弁は氷でできてるからな」
下絵の雪華柄を指でなぞりながら、半次郎は言った。長助も身を乗り出した。
「ほな、こないな赤みの強い紫紺の花弁の縁を、淡い浅葱色で縁取って織ったらどうやろうか。見たことのない明るい浅葱に染め上げますで。奉行所でも文句のつけようのない、京の粋を織り出した帯で、みなをあっと言わせたろうやないか」
「京の粋とかに収まるんやない。京雀はもとより上方一円、東海道に沿って津々浦々、江戸から関八州までの人たちが見惚れて痺れるような帯を作りますで」
「その覚悟は大したもんや、心して染めさせてもらいます」
長助も目を輝かせている。濃い眉の下、きりりと澄んだ眸が男振りを上げていた。佐世が夢中になるのも無理はない。
《佐世ちゃんが染屋の内儀か。案外しっかり取り仕切っていくんやろうな》
長助と二人、額を突き合わせて、雪華にふさわしい紫紺色を選んでいく。赤みの加減が微妙に異なる色見本を、首を捻りながら行灯の火で透かして角度を変えて眺める。
「たくさん見本があり過ぎてかなわんな。どれも似たような色合いに見えてきてしまう」
「そんなことはない。赤味が強いと重い色味になるし、弱いと地味で目を惹かんしな。丁度いい色がきっとあるで」
半次郎はつい根をあげるが、さすが長助は修行を積んで、妥協を許さぬ本物の職人になっていた。
染めについて語る長助の逞しい顔つきが眩しくて、つい目を逸らせてしまう。帯の話に熱を入れていても、半次郎の胸は時折差し込むように疼いた。
店仕舞いと夕餉を済ませた半次郎は、正月向けの図案を袂に入れて店を出た。梅雨の走りで、昼過ぎから降りだした雨が宵闇の中静かに降り続いていた。図案を濡らさぬよう蛇の目傘を差し、新町通を南へ下っていく。息詰まるような湿った夜気が立ち籠めていた。
丹波堂の軒看板が見えてきた。
店の前に提灯の火が揺れ、黒い人影が二つ浮かび上がっている。おやっと立ち止まって見ていると、赤い番傘の下で二つの影が一つに重なり合った。
咄嗟に半次郎は、暗ずんだ足袋屋の軒下に身を寄せた。一つになった影の様子を探り、傘に顔を隠してじりじりと近づいていく。丹波堂手前の路地にぶつかると傘を閉じて、躰を路地に入れて耳を澄ませた。
「……半次郎はんに悪いと思って、もう会わんとはっきり伝えに行ったんや。二回ほど行ったけれど、いっつも家におらへん」
「佐世ちゃんは半次郎と夫婦にならんといかん。親同士が決めたことやし、半次郎はいい奴や。俺はこれ以上会うわけにはいかん……」
「そんな哀しいこと、言わんといて」
「ほな、気をつけて帰るんやで……」
半次郎の頭は金棒で殴られたようにガンガンと鳴っていた。ひどく驚いてはいたが、不思議と腹は立たなかった。
《そうか、そういうことか。なんや二人、お似合いやな。わてが雪華の帯に夢中になっている間に、そんなことになっていたんか》
目の前を、番傘を差した佐世が通り過ぎていく。
紫陽花柄の小紋に昼夜帯を締めた後姿は、見知らぬ女人のように大人びている。路地から突き出した顔に雨が降りかかって、佐世の姿はすぐに滲んで見えなくなった。
気づけば半次郎の髷も肩もじっとり濡れていた。慌てて袂に入れた図案を確かめる。
《濡れてなかった、はあ、助かった》
袂を大事に胸に抱えて、傘を差して通りに出た。濡れそぼった頭と肩、顔を手ぬぐいで拭く。
気を落ち着けると、丹波堂の店先に立った。
「富美屋から、糸染めを頼みに参りました」
腹から声を出して、訪いを告げた。
しばらくして油障子が開くと、十四、五歳ほどの弟子が顔を出した。染料で汚れた指先で案内されて、敷居をまたいだ。
板間で絹布を広げていた店主である長助の父親が、手を止めて頭を下げた。長助とよく似て骨太で見栄えのする男である。挨拶を交わした後、半次郎は上がり框に腰かけて下絵を広げた。
膝を進めてきた店主は、下絵に目線を投げてから顔を上げた。
「富美屋さんから直接の染めの注文、嬉しいことですな。このところ長助が染めを請け負ってますのやけど、任せてよろしいやろか」
「そのつもりで参りました、長助さんとは幼馴染でして」
店主が振り返って声をかけると、土間奥の仕事場から長助が出てきた。腹掛けに印半纏を羽織った姿は勇ましく、鼻の下や顎に点々と藍や朱の染料が付いている。
半次郎を見た長助の眼には戸惑いが過ったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて会釈をした。
「半次郎か、久しぶりやな。今日は糸染めの仕事で来はったんか、よろしゅう頼みます。……ほう、これが下絵かいな、なかなか珍しくて面白い柄ですな。いつか昼夜帯は見慣れてつまらんから、目新しい柄の帯を作ったらどうかと話したのを覚えてくれてたんやな。おおきに」
「実は、これはある人から受け継いだ冊子に載っている雪華図なんや。この柄で、誰もが目を留める美しい帯を織ってみせますで」
「どんな色にでも、注文通りに染めさせてもらいます、こちらから色を選んでください」
長助が棚から取り出してきた色見本帳には、色ごとに明るさ、色味が微妙に異なる布の細かい端切れが、帳面からはみ出すほどにびっしりと貼り付けられていた。全てこの店で染めたものだという。雪の花弁の縁取りは紫紺色に決めていたが、その色だけで赤系から藍系まで数百もの色見本があるのだった。
「贅沢品は取り締まられて金糸銀糸を使うことができんが、この雪華柄やったら金銀を使わんでもきらっと耀く帯になる。なんというても、雪華の六花弁は氷でできてるからな」
下絵の雪華柄を指でなぞりながら、半次郎は言った。長助も身を乗り出した。
「ほな、こないな赤みの強い紫紺の花弁の縁を、淡い浅葱色で縁取って織ったらどうやろうか。見たことのない明るい浅葱に染め上げますで。奉行所でも文句のつけようのない、京の粋を織り出した帯で、みなをあっと言わせたろうやないか」
「京の粋とかに収まるんやない。京雀はもとより上方一円、東海道に沿って津々浦々、江戸から関八州までの人たちが見惚れて痺れるような帯を作りますで」
「その覚悟は大したもんや、心して染めさせてもらいます」
長助も目を輝かせている。濃い眉の下、きりりと澄んだ眸が男振りを上げていた。佐世が夢中になるのも無理はない。
《佐世ちゃんが染屋の内儀か。案外しっかり取り仕切っていくんやろうな》
長助と二人、額を突き合わせて、雪華にふさわしい紫紺色を選んでいく。赤みの加減が微妙に異なる色見本を、首を捻りながら行灯の火で透かして角度を変えて眺める。
「たくさん見本があり過ぎてかなわんな。どれも似たような色合いに見えてきてしまう」
「そんなことはない。赤味が強いと重い色味になるし、弱いと地味で目を惹かんしな。丁度いい色がきっとあるで」
半次郎はつい根をあげるが、さすが長助は修行を積んで、妥協を許さぬ本物の職人になっていた。
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