画仙紙に揺れる影 〜幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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3章

8. その男、詫間樊六④

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 中将様と称されるのは、鳥取藩主の池田慶徳である。
 水戸の烈公として名を馳せた徳川斉昭の五男であり、養子として鳥取池田家に入り十二代藩主となった。慶徳は剣技に優れた樊六を寵愛して、本来は半録という名であったのを『十八史略』に登場する劉邦の家臣「樊噲」に因んで「樊六」と自ら名付けたのである。
 びんが半ば白くなっている樊六の父は落ち着きを取り戻すと、樊六の背を押しながら居間へ戻った。樊六の背中は微かに震えている。名代勤御供として藩主の側近く仕えていたが、己の屋敷を殿が訪れようとは夢にも思わなかったであろう。
 お抱え絵師である根本は国絵図、在方絵図面など作成したり、城での賓客接待の席画を描いたりと、藩主と頻繁に顔を合わせているせいか、慌てた風はない。静かな声で語りかけてくる。

「二人ともここに至っては、中将様にご挨拶せんわけにはいかんぞ。居住まいを正して、ここを訪れたことを心底詫びようぞ。中将様は懐の深いお方、まずは威儀を正してお目通り願おう」

 及び腰になって隠れ場所を探していた要之介は、決まり悪そうに根本を振り返った。

「お目通りといっても、俺は勘当の身ゆえ、名乗り様がござらん」
「出自など言わぬともよい。神風流の弟子でよいではないか。二十士のご赦免を願う好機だぞ。この機を逃して、いかにする」

 要之介は目を瞬かせて、こくりと頷く。誠三郎も覚悟を決めた。三人共に台所から玄関に通じる廊下で、平伏した。
 居間から黒紋付の羽織を纏った詫間父子が現れて、玄関の間へ向かう。座敷へと藩主を案内して、一行が座を占める気配がした。

「樊六よ、いく久しいのう。急なことではあるが、その方の顔がなんとしても見たくてならず身を隠して参った次第。息災のようで、なによりである」
「中将様直々のお出まし、もったいのうござりまする。このようなむさ苦しいところに、誠に畏れ多いことでございます」

 父の益蔵が応えている。樊六は平伏したまま声も出ない。

「樊六、面を上げよ。また、その方の剣法が見たいものよのう」 

 このところ病がちだと聞く藩主だが、若々しく通る声音である。齢は二十八だと聞く。
 顔を上げた樊六は咽び泣きながら応えた。

「中将様、深きご恩を賜りながら、大罪を犯して謹慎中のこの身をお尋ねいただき、なんと御礼、お詫びを申し上げればよいのやら」
「謝らずともよい。……樊六よ、よいか、今すぐにでも、城下から逃げ出るのだ。その剣技と尊皇の大志があれば、その方一人、いずこでも生きていけよう。長州でもどこへでも行けばよい。今宵なら城下を抜け出せるよう、すぐに手配する」

声を詰まらせた藩主は苦しそうな吐息を漏らした。

「わが故郷、水戸で決起した天狗党は、弟の一橋慶喜が将軍後見職として守る京へ攻め込むのをあえなく断念した後、この鳥取で力を養って長州を目指したいと、我に助けを求める向きがあったのだ。支援したかったが、手をこまねいている間に彼らは加賀にて降伏してしもうた。その挙句には、我ら水戸に縁ある者らの助命嘆願も叶わず、あれほど数多の志士が敦賀にて斬首となり……なんとも悔やみきれぬ。せめて因幡二十士の命は、樊六の身は守ってやりたい。どうか逃げ延びてはくれぬか」

 苦悩に充ちた藩主の言葉が途切れた後、樊六は迷いなく応えた。

「……わが身のほどに余る勿体ないお言葉をいただき、誠に恐縮ではございますが、同志を置いて我一人、逃げるわけには参りませぬ。次の幽閉先で同志らと再会いたしまして、今後について合議せねばなりませぬゆえ」

 長い静寂があった。

「そうであるか。……樊六らしいな。それでこそ樊六よのう」

 廊下で平伏している誠三郎らにも、遣り取りは聞こえていた。
 しばらく藩主は樊六父子と言葉を交わしていたが、側用人らと座敷を立つ気配があった。根本が目で合図して、三人共に平伏したまま廊下を座敷の前へにじり出た。

「中将様、絵師の根本にございます。不届きなことながら、詫間どのにお会いしたく、禁を破りてこちらの屋敷にまかりこしておりました。心より深くお詫び申し上げます。いかなる仕置きをも覚悟しておりまする」
「なんと、根本であるか。思わぬところで会うたのう。さてな、禁を破ったのは、我も同じことである。お互い、見逃すことにしようか」

 立ちかけていた藩主は、再び座についた。誠三郎は、目の前に藩主が座していることが信じられずにいた。

「ここに控えます二名は詫間どのの友、米村誠三郎、神風流の弟子である寺嶋要之介にございます」
「お目にかかれまして、恐悦至極にごさいまする」

 それだけ言って、二人はひたすら身を伏せた。

「その方ら、面を上げよ。ここで会うたのも、樊六の繋ぐ奇なる縁であろうな」

 恐る恐る顔を上げると、面長で目鼻だちのはっきりした若き藩主が柔らかな笑みをたたえている。丸に揚羽蝶の五つ紋が染め抜かれた絽縮緬の羽織が一段と膚を白く見せている。藩主は己では何事も決断できぬ人物との評でもあるが、温和な気性の持ち主であることが見て取れる。

「中将様、怖れながら申し上げまする。大恩あるわが師、詫間樊六をお逃がしいただくお手配の心遣い、心より御礼申し上げます。ひいては二十士皆様の罪を免じていただくよう、どうか、どうかお願い申しあげ奉ります!」

 周りの者が制する間もなく、要之介は膝を進めて声をあげていた。

「控えよ、無礼者! 出過ぎた真似をするでない」

 藩主の後ろに控えていた側用人が、声を荒げた。

「これ、構わぬ。寺嶋と申したな。そのような声は多く聞いておる。さりながら、真逆の訴えも数多あるゆえに、思案のしどころであるのよ」

 藩主は柔和な面差しそのままで、困惑気に首を傾けた。

「根本らも、もう帰るがよい」

 藩主と用人は立ち上がり、玄関へ向かった。
 樊六父子と誠三郎らは玄関の土間に下り、平伏した。
 藩主は小姓から渡された袖頭巾でまげを隠し、控えていた女駕籠に乗り込む。駕籠が静かに動きだし、一行は立ち去っていった。

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