一兎を想う飼い主は一兎を得る

さか【傘路さか】

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 兎の姿で戯れていると、急に雨が降り出した。

 折り畳み傘を持っているから雨に関してはいいのだが、今日は随分と風も強い。

 雨が壁を叩く音。自宅なら怯えていたのだろうが、この家は兎の耳であっても音が遠かった。それに、近くにはずっと私を撫でる手がある。

『雨、強くなってきたね』

「そうだな。帰りは車を出そう。送っていく」

『平気だよ。それにこの雨じゃ、車、危ないんじゃない?』

 もぞもぞと腕の中から出ると、ソファから飛び降り、テレビのリモコンへと駆けていってボタンを押す。

 背後から拍手をする音が聞こえてきた。

「ウサギがリモコンを操作している姿を見ると、なんだか感動するな」

『中身は私だってば』

 ぴょんぴょんと跳ね、宵知の膝の上に戻った。褒めるように背が撫でられ、気持ちよさに頭を擦りつける。

 しばらく待つと、天気情報が流れてきた。

【車で移動される方は十分にご注意ください。……──雨は明日の朝まで続くとみられ──────】

 全国地図にはほとんど全ての地域に雨マーク、そして私たちが住んでいる地域には強風のマークが添えられている。

『え? そんなに酷い雨なんだ。確認し忘れてた』

「俺もだ。テレビ自体も久しぶりに見た」

『普段、無音なの?』

「最近は少し音楽を聴くようにはなったが、それくらいだな」

 音楽を聴くようになった、という言葉に驚きつつも、どうしようかなあ、と腕の中で思案する。

 一つ、案は浮かんだのだが、来訪者側からは提案しづらいものだ。じっと宵知を見上げると、でれ、と相好が崩れた。

 この人のウサギ好きは相当らしい。私はミミさんに似ているので、ミミさん好き、なのかもしれない。

「明日の予定次第だが、泊まっていくか?」

 頭に浮かんでいた案が、相手の口から提示された。ぱちり、と瞬きをして、膝の上に身を横たえる。

 直ぐに指が伸びてきて、ふかふかの胸元の毛に埋まった。

『いいの?』

「ああ。下着は買い置きのものがあるが、パジャマは俺の使い古しで我慢してくれ」

『助かる。夕ご飯なににしよっか』

「今日こそカニ鍋かな。美月は、酒はいけるか?」

『いけるよ。最高』

 膝の上でころんころんと上機嫌に転がる。追い掛けてきた手にもみくちゃにされ、言葉にならない鳴き声が漏れた。

 大きな掌ながら繊細に、心地いい場所に触れてくれる。猫ならゴロゴロと喉を鳴らしていたところだ。

『眠くなってきた』

「少しお昼寝するか?」

 近くにあったブランケットで包み込まれると、本格的に暖かくて眠たくなってくる。

 宵知の膝の上に丸まって、相手の呼吸音を聞きながらただ微睡んだ。雨が外壁を叩く音も、遠ければ心地よい程度の騒音でしかない。

 しばらくすると、私は眠ってしまったようだった。













「────美月」

 目を開けると、端正な顔立ちがすぐ傍にあった。ひえ、と情けない声を漏らし、もぞもぞと毛布の中に潜り込む。

 毛布越しに、身体を撫でる掌があった。

「悪い。そろそろ起こそうかと思って」

『…………ん。や。寝ぼけて、びっくりしただけ』

 もぞもぞと毛布を抜け出て、身体を起こす。後ろ脚で立って、引いてしまった手に頭を押しつけた。

 ふ、と宵知の口元が緩む。本当にウサギ相手には柔らかい表情をする人だ。

「鍋の下拵えは済ませてある。寝起きでまだ腹が減らないなら、先に風呂はどうだ?」

『そうしようかな。宵知もシャンプーのいい匂いがする。借りてもいい?』

「時間が被ると面倒かと思って、先に汗を流してきた。置いてあるものは好きに使ってくれ」

 彼はそう言うと、私を抱き上げた。

 風呂へ向かう道中、パジャマや新品のパンツを回収しては身体の上に積まれた。脱衣所に辿り着くと、元々着てきた服の隣に着替えとタオルが置かれる。

 風呂場に入り、丁寧にシャンプー類の説明を終えると、彼は私を脱衣所の床に下ろす。

『ありがと。のんびりしてくる』

「ああ。上がったら飯にしよう」

 ゆっくりと脱衣所の扉が閉められると、私は遠ざかっていく足音を聞きながら人の姿に戻る。

 風呂場に足を踏み入れると、湯船は綺麗な湯が張られていた。どうやら、彼が上がったあとで張り替えてくれたようだ。

「ほんと、几帳面っていうか繊細っていうか」

 添えられたボディタオルもパッケージのままだ。包装を破り、脱衣所に置かれていたゴミ箱へ捨てる。

 ボディソープを泡立てると、きめ細かく大量の泡が立った。シャンプーもボディソープも見たことがないものだが、匂いは強すぎず、清潔感がある。

 身体をのんびり泡まみれにして、お湯で流す。

「自宅より極楽かも……」

 現在の自宅は一人暮らしに適したサイズで、流石に一軒家の風呂は広く感じる。髪を洗い終えて湯船に浸かると、足を伸ばして尚余った。

 ふと、家主の体格を思い出す。普段から宵知が入っている風呂だから、私が入っても広いのだ。

「雨、止まないなぁ……」

 少しでも小降りになりそうなら帰ろうと思っていたが、窓越しに響く音は今なお煩い。

 たっぷりの湯に身を沈めて寛いでいると、何となく空腹を覚え始める。風呂上がりには鍋だと言っていた。

 思い出すと、更に空腹感が強くなった。

「上がろ」

 湯船から出てふかふかのタオルで身体を拭き、貸し出されたパジャマを身につける。想像通り、足も腕も裾を折る羽目になった。

 平均身長以上はある私が服の裾を折る機会は然程なく、相手との身長差に感動すら覚える。やはり血筋ゆえなのだろうか。

 髪の水分を落とすと、ドライヤーを借りて髪を乾かした。雑に乾かしてしまい、普段はもっと纏まっている髪がふわふわと暴れる。

「まぁ、いっか」

 最近は、うたた寝して髪がぼさぼさになっている事もよくある。お互いにすっかり気が抜けてしまっているようだ。

 リビングに戻ると、私を見た宵知が立ち上がった。私の姿を見て僅かに眉が動く。何かを考えているであろう事はわかったが、内容に想像は付かなかった。

「…………。鍋、始めて平気か?」

 お腹をさすり、こくんと頷く。

「いけそう」

 食卓には卓上調理器に鍋が載っており、中には具材が入れられていた。

 嫌いなものは、とウサギが食べられない野菜を指差されるが、特にない、と笑って答える。調理器のパネルが操作され、中身が温められ始めた。

 席には皿と箸がきちんと揃っている。何なら、酒のグラスまで置かれていた。

「日本酒はどうだ?」

「きつすぎなければ」

「大丈夫だ。こういうラベルで」

 見せられたのは、ラベルに可愛いウサギが印刷された酒だった。初心者向けなようで、微発泡かつ度数も軽い。

 小さなグラスに中身が注がれると、腕を伸ばして乾杯する。

「あ、美味しい」

「甘みはあるが、甘すぎなくていいな」

 チェイサーとしてなのか、隣には冷たい緑茶が置かれている。やっぱり几帳面だ、と感動しながら、軽く和らげるための水分を挟んだ。

 鍋はくつくつと音を立て始め、具材も柔らかくなり始める。途中でカニの脚が足され、更に出汁が広がる。

「そろそろ野菜はいいんじゃないか?」

「ほんとだ。いただきます」

 白菜を取り分け、はふはふと口に運ぶ。主張しすぎない味ながらも、つゆと一緒に啜ると旨味が感じられる。

 私の様子を眺めていた宵知も、手元に具材を取り分ける。

「白菜を囓るのが似合うな」

「私は今は人間だよ?」

「はは。兎の姿がすぐ浮かぶ」

 上機嫌にキノコを取り分け、大きな口へと運んでいく。

 酒のラベルといい、使っている皿の模様といい、放っておけばウサギグッズにまみれてしまいそうだ。

 カニの脚が煮えると、しばらく無言で咀嚼する。沈黙が続こうとも、特に埋めようとはしなかった。

「────カニってさ。仲良くない人とだと気まずいね」

「長いこと黙るからな。…………俺とが気まずいって話か?」

「ふふ、そんな嫌味は言わないよ。美味しいね」

「ああ」

 殻から引き抜くと、一気に赤い身がこぼれだした。上手く抜けた中身を相手に見せつけ、口に運ぶ。

「くれる訳じゃないのか」

「……ん。上手く剥けたから見せたかった」

「そうか、上手だった」

 ウサギ扱いをされているのか、私に対しての態度は始終甘い。突然理由もなく背後から引っぱたいても何だかんだで許されそうだ。

 何かに怒っている姿を見たことがない。彼が牙を剥くとしたら、大事なものに害が及んだ時なんだろう。

「酒、もう一本開けるか」

「私けっこういい気分だよ」

「じゃあ、軽いやつにするか」

 立ち上がった宵知の手でチェイサーと一緒に、別のウサギラベルの瓶が運ばれてくる。

 酔いは重たくはないのだが、美味しい鍋も相俟ってふわふわとした感覚がずっと続く。私は上機嫌で家主にお代わりを強請り、カニを食らった。

「あー……、気持ちいい……」

「そろそろ酒はやめておくか」

 私の近くから酒が片付けられ、残りが宵知の喉へと消えていった。文句を言うと、ノンアルカクテルの缶が与えられる。

 冷たいそれに満足し、プルタブを引いた。

「お酒だー」

「ノンアルコール飲料だ」

 律儀に訂正すると、目の前の宵知は鍋の残りを片付けに掛かる。

 こちらはもうお腹いっぱいで、椅子の背に凭れながら缶の中身をちびちびと啜った。

「雑炊は明日にしようか」

「ん」

 返事をするのも面倒で、鍋の残り汁を片付け始めた家主をただ見守った。

 私の皿なども片付けられてしまい、飲んでいた缶とおやつを握らされてソファに追いやられる。握らされたクッキーはバターたっぷりで美味しい。

 しばらく待っていると、片付けを終えた宵知がビールの缶を片手にソファに腰掛ける。

「自分ばっかり」

「一口だけならいいぞ」

 ほら、と缶を渡され、ごきゅごきゅと呑み込む。途中で缶は奪い取られたが、数口はいけた気がした。

 はぁ、と呆れたように息が吐かれる。

「酔っ払いめ」

「んふふ」

 ソファに沈み込むと、ようやく外界の音が戻ってくる。雨の音は止まず、風の音もまた、明日の朝までは変わらないらしい。

 今までは遠かったその音が、やけに耳障りに思えた。

「雨の音、大きくなってきたね」

「なにか。テレビでも点けるか?」

 彼はリモコンを持ち上げてみせるが、特に見たい番組がある訳でもない。その場でゆっくりと首を横に振った。

 会話が止むと、雨の音が煩くなる。言葉は頭に入らない。大音量が聞きたいわけではない。

「兎になろうか?」

「え?」

「私といても、つまらないでしょう」

 言葉に自嘲気味な響きが混ざってしまったことに、ひっそりと嫌悪する。

 ずるり、と頭がソファの背を滑った。

「なんで、そう思ったんだ?」

「んー。なんかさ、ずっとそう思ってるんだよねぇ」

 間延びした声で答えると、相手の目が見開かれたのが分かった。

 酒というものはいけない。理性が溶けきって、隠していたものがぽろぽろと口から零れていく。

「……俺が、ミミばかりを求めたからか?」

 申し訳なさそうに言われ、分かりやすく首を横に振った。

 あはは、と声だけで笑って、がっしりとした肩に寄りかかる。急にそうしても、相手はびくともしなかった。

「私ね。いちど普通に就職してるんだよ」

 最初にそう思い始めたのは、何が切っ掛けだっただろう。頭の中を探って、ようやくそれに辿り着いた。

「最初から動物タレントをしていた訳じゃないのか」

「うん。でも、ずっと空回りしてる気がしてた。私、兎角押しが弱くて、ほら、お仕事ってちょっと押さなきゃいけないこと、あるでしょう。でも、上手くいかなくて。上手くいかないまま、居づらくなって辞めちゃったんだよね」

「それで、モデルに?」

「一族から紹介を受けてね。兎は臆病で表に出たがらないから、タレントなんて以ての外。……なんだけど、私は逆にほかに選べる仕事がなくて。ずるずる、今の仕事を続けてる感じ」

 人としての私は社会的に失敗して、兎としての愛くるしさは社会に受け入れられた。その結果が齎す落伍感は、ビールの後味と混ざってなんともほろ苦い。

「兎としての私が成功していく度に、段々とね、人の私が挫折していくんだよ。人としての私は学んで社会に出たはずなのに、それらは全部求められなくて。生来もつ兎の姿は、何の努力もいらない兎の姿は、かえって今の私を生かしてくれる」

 つい癖で、相手の腕に頭を擦りつけてしまった。撫でて、と甘えているときに無意識に出てしまう仕草だった。

 雨の音はまた遠くなった。私の声だけが、広い室内にぼんやりと響く。

「兎の姿は可愛らしくて、愛くるしい仕草だって纏える。でも、今の、人の私がね。そうするのは、なんとなく不格好で。一緒にいてもつまらないでしょう、って話」

 その割に、兎の時の癖で近くに寄ってしまった。腕を引こうと持ち上げると、二人の間で手首ががっしりと掴まれる。

 無意識なのか、皮膚に指が食い込んでいた。

「あ……」

「あ?」

「美月は、…………愛らしい、と思う」

 絞り出すような言葉が、人のほうを指しているのは何となく伝わってくる。彼が兎の姿を褒めるときには、こんなに言葉を躊躇わない。

 だからこれは、人の私に向けた言葉だ。

「本当は、馬鹿にされても仕方がないと思っていたんだ」

「え?」

「『飼っていたウサギを喪ったくらいで』長く塞ぎ込んで、仕事も失って。更に、似たウサギと金銭を支払ってでも会おうとする。自分が、世間的に見ればおかしいことをしている事は自覚していた」

 手首に籠もっていた力が緩む。それでも、指先は絡みついたまま、縋るようにほんの僅かな力だけが残っていた。

「だが、最初に話を聞いてくれた動物プロダクションの担当者は、話を聞くと、心情に理解を示してくれて、ただ引き受ける兎のタレントの心理的な負荷を気にしていた。俺がおかしい筈なのに」

 おそらく、私に説明をしてくれた、龍屋さんの事を言っているのだろう。

 彼は恋人であり飼い猫でもある猫神の一族を溺愛している。ウサギを喪ったことを『たかが』とは決して捉えない筈だ。

「驚いたのは美月もだ。仕事を承諾して、家に来たと思ったら、あっさりとミミのふりをしてくれた。ミミとして、俺に付き合ってくれた」

「それは。……お仕事だから。ちゃんと望まれていることをしようと思って」

「有難かった。違和感がない訳ではなかったが、俺の様子を見ながら、ミミとしての振る舞いに少しずつ仕草を寄せてくれた。驚くほどそっくりで、ほんとうに、毎回次に会うのが楽しみだった」

 相手の指先が離れていく。視界の端で動きを追って、つい、自らの指を伸ばしてしまった。

 二人の間で指が触れて、すこし時をおいて絡んだ。妙に鼓動が大きくて、伝わる体温が熱い。

「けれど、ココアの姿がミミに近づけば近づくほど、時々漏れ出る美月の素性が気になるようになった。人の姿をしている時だって、おやつを用意して無意識に引き留めようとしてしまって……。そうやって繰り返すうちに、二人を別の存在として捉えたい。ミミのことに向き合いたいと思うようになったんだ」

 こちらを見る瞳は優しくて、一カ所に定まらない。あからさまに照れているのが伝わって、鼓動がつられて跳ねた。

 私はミミさんとしての振る舞いをしながらも、自身に目を向けてもらいたくて寂しかった。言葉で表すとしたら、これは嫉妬なのだろう。

 嫉妬は、好意があるからこそ成立する感情だ。私は、彼に大事にしてもらえる存在になりたがった。

「人だけでもなく、兎だけでもない。美月が依頼を引き受けてくれたから、俺はこうやってカニ鍋を食べて、いい感じに酔っ払うことができている」

「…………。それ、いいこと?」

 ふっと笑いが零れた。相手にも伝染った。

 軽く指先に力を込める。皮膚同士の触れ合いは、兎の時とは違ってまた別の感情を連れてくる。

「いいことだ。楽しかったよ」

 彼は言葉を切って、その場に無音を齎した。宵知との間にある無音は、疎まれるものではないから、埋めなくてもいいから気が楽だ。

「鍋がふつふつと煮立っているとき、リズムだと思った。湧き上がる蒸気を見て、俺は水の底に沈む音楽を綴っていた。あの音は、煩くはなかったな」

 彼は音楽が詰まったあの部屋で、音に対しての拒否感を露わにしていた。私はそれを聞いて、彼が音楽の道に戻る日は来るのだろうか、と思ったものだ。

 宵知が所属している音楽事務所を助けたいだとか、そういう考えは今もない。ただ、選び抜かれた機材が埃を被っている様は、思い返すたびに切なくなる。

「鍋がこぽこぽしてて、窓の外はざあざあでさ。今日はずっと水の音楽ばっかりだね」

「うんざりするか?」

「うーん。一人で家にいたら、うんざりなのかも」

 繋いでいる手を見下ろす。何気なく持ち上げて揺らしてみると、きゅっと指先が掴まれた。

 隣で喉を鳴らす音がする。雨の音に浮かぶような、彼にしては珍しい響きだった。

「今日は、お話ししてるから、楽しいなって思ってるよ」

「俺もだ。人の姿の美月と過ごす時間も、つまらなくなんかない」

 視界の端で持ち上げられたビール缶が傾けられた後に、横から奪い取る。含んだそれは炭酸が少し抜けて、やや温い。

 兎の時に、大きな掌で包み込まれるのが好きだ。背中を指が伝っていくのが好きだ。持ち運ぶとき、本当に気を遣ってそろそろと動くあの幸せな揺れが好きだ。

 けれど、人の姿だと腕の中に入れては貰えない。友人と手は繋げても、親密に抱き寄せたりはしないからだ。




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