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早朝に、窓から入る光で目を覚ます。流石に人を入れるには散らかりすぎか、と居間を僅かに片付けて朝を過ごした。
日が昇っても男は目覚めることはなく、朝食だと喚く妖精に従ってパンを焼き、干し肉を囓る。
妖精は朝食の間も、やれ果物をよこせ菓子をよこせ、と五月蠅かった。
「起きないな」
妖精は男の頬をぺち、と叩く。頭を動かすな、と慌てて小さな服を摘まみ上げ、距離を取った。
『おひめさまは、くちづけでおきる』
「昨日から何だ、流行りか?」
とはいえ、長いこと意識が戻らないのも良い事ではない。長椅子の近くに屈み込み、手を握った。
魔力を流すと、頭の辺りに滞っている流れを感じ取る。ううむ、と唸りつつ魔力を調整し、少しずつ流していった。
ぴくりと指先が動いたのは、その時だった。
「お」
瞼が震え、眩しそうにしながらもゆっくりと持ち上がる。
僅かに開いた場所に置かれた瞳が、日差しを受けて煌めく。晴れ渡る空ではなく、深い淵の色。此処からは遠い海のような、青色があった。
男は俺の姿を見ると、ぱちり、ぱちりとゆっくり瞬きをする。緩慢に腕を持ち上げ、頭の傷に触れた。
「…………あれ、僕、は」
「おはよう。あんた、崖の下に落ちてたんだ。なんで山に入った?」
「崖……、山?」
男は起き上がろうとして、脚の痛みに呻く。脚を痛めている、と指摘してやると、添え木を見て眉を寄せた。
頭の傷、身体中の擦り傷。片足は打ち付けて腫れ、文字通りの満身創痍だ。
彼は起き上がることを諦め、僅かに首だけを動かす。
「ごめん。…………説明をしたい気持ちはあるんだけど、思い出そうとしても、何も浮かんでこなくて……」
困ったような表情からは、騙そうとしてくる人間の悪意を感じない。魔力の流れも生来のものは穏やかで、悪人には無い傾向の波形だった。
助け船を出すように、口を開く。
「頭を打ったんだ。記憶障害の症状が出ているのかもしれないな。覚えていることは?」
「…………暗い夜に、雷の音がして。倒れたんだと思う……それくらい?」
おそらく、彼が倒れた瞬間の光景だろう。だが、名乗ろうとしない事に違和感を抱いた。
「あんた、名前は? どこから来た?」
「名前……」
彼は思い出そうと視線を巡らせ、そして眉を下げる。思い出そうとして思い出せなかった事が、言葉に出さずとも伝わってしまう。
男は長椅子に置かれた枕に頭を預け、ほんの僅かに顔を揺らした。
「思い出せない。……ごめんなさい」
すんなりと謝罪の言葉が出てくるあたり、やはり悪事を目的に山へ入った訳でもなさそうだ。
持ち物の中にも、密猟したと思われるような品はなかった。
「なぁ。もし、あんたが俺に危害を加えないなら、しばらく家に置いてやる」
「本当に?」
「ただし変な真似をしたら、その脚、本当に動けなくなるまで叩きのめす。いいか?」
「…………うん。思い出したら必ずお礼をするよ。……お世話に、なります」
悩みを挟みつつ、答えが返ってくる。本当に盗みや傷つけることを目的とするような気質なら、こうやって礼の約束だってしない筈だ。
俺は彼の着ていた服を差し出し、持ち物などがなかった事を伝える。全く何も、財布すらもなかった事に本人も驚いていた。
痛む頭を枕に預け、彼は天井を眺める。
「僕は、何者だったんだろう……?」
「それは俺の方が聞きたいよ」
『ようせいも、ききたいぞ』
男はその瞬間、不思議そうにこちらを見る。動かない頭に苦労しながら視線だけを巡らせ、何かを探しているような素振りをした。
俺が男の様子を見守っていると、ようやくこちらに視線が向く。
「あの、君以外に子どもはいないの?」
「子ども?」
「いま『ようせいも』……、『妖精も聞きたい』かな。そんな言葉が聞こえてきて」
『めずらしいな。ようせいのこえが、きこえるようだ』
妖精が喋ると、男はほら、というように言葉の発された方を指差す。少し方向はずれていたが、間違いなく声を拾っていることが分かった。
妖精の声が聞こえる人間、というものは珍しい。大人になって尚、聞こえる人間は更に珍しい。
先天的に素質がある血筋か、昔から妖精に親しい生活をしてきたか。何にせよ、実験小屋でしばらく暮らすつもりなら、説明しておくほうが面倒がないだろう。
俺は自分の眼鏡を外すと、そっと彼の眼前に寄せた。
眼鏡越しの妖精は男の前に歩み寄ると、よ、と小さい手を挙げる。男は目を見開くが、律儀に動かない腕を持ち上げようとした。
俺は呆れた表情を浮かべ、まだ傷の残った腕を毛布へ押し戻した。
「この小屋には『自称』妖精が棲んでいてな。食べ物や美しい品を渡すと家事をしてくれるから、同居してもらっている。あんたの世話も頼むかもしれない、勝手に物が動いても驚かないでくれ」
「…………妖精って、伝説の存在じゃなかったんだ」
『みえぬからといって、でんせつにするでないわ』
男は頭に乗っかった妖精から、傷のない箇所を引っぱたかれている。
俺は眼鏡を回収すると、自らの目元に戻した。男の視線が眼鏡に移る。
「その眼鏡、お手製なの?」
「いや。既存の眼鏡に術式を埋め込んでいるだけだ」
「へえ。予備とかって……」
「意外と厚かましいな。……いいけど。ちょっと待ってろ」
居間から廊下に出ると、倉庫に移動して棚を漁る。何とか昔に実験用具として使っていたもう一つの眼鏡を取り出すと、記録しておいた術式を埋め込む。
居間へ戻ると、見えないのをいいことに男の髪は妖精の悪戯でぐちゃぐちゃになっていた。
「やめてやれよ」
そう言い、しゃがみ込んで男の目に眼鏡を掛けてやる。妖精の姿が見えるようになった男は、掌で攻撃を防げるようになった。
妖精を押し遣りながら、彼は俺へと視線を向ける。
「ありがとう。そういえば、君の名前を聞いていなかった。教えてもらえるかな?」
「ああ。そうだったな。コノシェという、コノシェ・モーリッツ」
「『モーリッツ』?」
男は顎に手を当てると、何かを考えるように視線を持ち上げる。だが、思い出せなかったのか、悲しげに目を伏せた。
「なんだろう。姓の響きに覚えがあるような気がしたのに……やっぱり思い出せないや」
「まあ、気楽にやろうや。腹は減ってないか?」
男は腹部に手を当てると、こくんと頷く。昨日の夜から怪我をして食事をとっていないのだ、そろそろ限界に近い頃合いだろう。
とはいえ、身体も起こせないのでは食べ物も限られそうだ。
「パンは食えそうか?」
「食べられると思うよ」
「じゃあ、果物も切ってくる」
朝に焼いたパンを温め直し、果物を剥いて小さく切る。干し肉もあったが、消化に悪そうだと避けることにした。
出来上がった食事をテーブルに置くと、俺も長椅子の端に腰掛ける。食べさせようと思っていると、きゅぽん、と机の上に置いていて飴の入った瓶の蓋が開いた。
中身が数粒持ち上げられ、妖精の口へと消える。
「盗み食いかよ」
『たいかの、まえばらいだ』
妖精はパンを持ち上げると、小さく千切る。
用意していた牛酪とジャムを、パンにぺたぺたとスプーンで塗り広げ、こってりとした甘い物体を男の口元へと運んだ。
男は若干口元を引きつらせつつ、差し出されたパンを咀嚼する。
「あっまい……」
栄養分としては申し分ないだろうが、パンの味わいなどあってないようなものだろう。妖精は続けて果物を持ち上げると、砂糖を大量に振る。
そしてまた、男の口へと運んだ。
「やっぱりあっまい……」
そろそろ可哀想になってきた所で、妖精は飽きたように男の頭へと移動する。俺は預かったパンを千切ると、薄く牛酪を伸ばした。
「あいつら、甘いもの好きなんだよ」
「そうなんだ。……好意、なんだね」
はい、と相手の口元にパンを運ぶと、今度は引くことなく口に入った。もぐもぐと咀嚼し、ほう、と笑顔を浮かべる。
「美味しい」
改めて眺めると、やはり寝顔でも思ったように顔立ちは整っている。赤毛には泥がこびりついているが、拭った顔は日差しを受け、輝きを増していた。
目鼻立ちはくっきりとしているが、目元は優しげだ。時折アルファから伝わってくる攻撃性も、彼からは感じなかった。
手元からはパンが面白いように消えていく。
「よく食うなぁ。お前」
「うん。……よく分からないけれど、お腹がとても減っているみたいで」
「そっか。たんまり食わしてやりてえが、回復直後は腹に悪いからさ。様子見で一人前くらいにしとくな」
「そうだね。僕もその方がいいと思う」
食事を終えると、男は満足げに息を吐く。体調の悪化も見られず、面倒を見ると言い張った人間としては心中ほっとした。
俺は食器を片付け終えると、長椅子で身体を休める男に近寄る。
「体温も戻ったし、もう暖炉の前にいなくてもいいだろ。頭に泥がこびりついていてな。寝台に身体を移す前に洗ってやりたいんだが、いいか?」
「……お世話になります」
「おう。家の中も案内するよ」
俺は男に肩を貸し、家の中を案内がてら厠へと連れて行く。中で補助は必要か、と尋ねると、慌てて固辞された。
廊下の扉から離れた場所で待ち、男の声に合わせてまた迎えに行く。
今は実験小屋として使っているこの建物は、俺と同じ人嫌いの親族が別荘として作ったものだ。建てた本人の希望で広くはないが、内部は綺麗で、先進的な魔術装置も揃っている。
風呂場を暖める箱形の魔術装置に手を当てると、魔力を吸い取られて動作を始める。男はじっと、肩を貸す俺と装置を眺めていた。
「物珍しいか?」
「…………いや。コノシェさんは」
「呼び捨てでいいぞ」
「コノシェは、魔力が多いの?」
「そりゃ魔術師だし」
「それはローブ姿でなんとなく分かってはいたけど……そうじゃなくて」
歯切れが悪い男に、黙って見つめ、続きを促す。俺の視線に負けたのか、彼は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「オメガなのか、確認したくて」
「ああ。でも、魔術師には珍しくないだろ」
「それで、……その、僕。はっきりとアルファの特徴を持ってる。おそらく、既にアルファと診断されていて、今は忘れてるだけなんじゃないか、と思うんだけど」
こいつは善人なのだろう、という印象が更に強くなった。
家に置いてやる、と言った事だって、自分がアルファであることを知らずに提案した、とでも思っていそうだ。
「その記憶も含めて忘れてる、か。確かに、あんたがアルファだろうって事は何となく分かる」
「そう……。決して、君に何かするつもりはないけれど。アルファと同居は不安じゃないかな」
尻すぼみになっていく男の声に、支えていた腕を叩いてやる。
「別にお前ひとりくらい伸してみせるさ。何にもするつもりがないのなら、堂々としてろ」
「うん。……もし、フェロモンを感じ取ったらすぐに逃げるよ」
「家から出たら山中で迷うぞ。僅かな匂いくらいなら、どうこうする前に余裕もあるだろ、まず俺に言え」
男はしゅんとして、そうする、と呟いた。
はあ、と息を吐くと、相手を壁に押しつけ、服を脱がせ始める。彼はじたばたと藻掻こうとして、脚を痛めて呻いた。
咎めるように怪我していない位置を叩く。妖精もそれに続き、同じ位置に二撃めも決まった。
「怪我してる部位を動かすな」
「ごめん! でも、オメガに服を脱がせてもらうなんて……」
「看病の一環だ」
困惑する男を放って、力任せに下着を引き下ろす。ぼろんと一物が転がり出て、ちょうど屈んでいた眼前に位置してしまった。
まじまじと見つめていると、男の掌で覆い隠される。
「ちょ、ほん、と。……恥ずかしい、ので」
「すげ。でけえな」
『でっけえな』
「煽らないで……! …………くだ、さい」
視線を交わし合う俺と妖精に男はしおしおになり、全裸のまま壁に身体を預ける。俺はさめざめと嘆く男へ謝罪しつつ、ローブを脱ぐ。
シャツの襟元を寛げ、ぽんぽんと身につけた衣服を放った。男の声はいつの間にか小さくなり、消えていた。
「あの、コノシェ……」
「なんだ」
「なんで、君まで裸に?」
「濡れるだろうが。ほら、風呂行くぞ」
肩を貸そうとすると、男は首を横に振る。脱衣所の壁に手を付き、壁伝いに風呂場まで移動を始めた。
何故、と疑問に思いながらも、転ばないよう後に続く。
浴室は、白い石をふんだんに使った贅沢な造りの一室だ。清潔感もあり、一日の労を流すのに相応しい景色が広がっている。
男を洗い場に誘導すると、風呂用の低い椅子に座ってもらう。石鹸を泡立てて頭にぶちまけ、こびりついた泥を擦った。
湯で流すと、髪質がいい事に気づく。俺の髪より綺麗かもしれない。今度は泡で慎重に地肌まで洗い、湯で泡を落とした。
「ありがとう。さっぱりしたよ」
「やっぱり泥塗れは気持ち悪かったよな。じゃあ次は身体で」
背中を泡まみれにし、傷跡を避けて肩、胸元、と手洗いしていく。洗っている間じゅう、男は変に大人しかった。
流石に股間は、と辞退され、自分の手で洗っていく。だが、手にも切り傷が多く、痛みに顔を顰めていた。
「俺がちんちん洗ってやろうか?」
「要らないよ!」
『あらわせてやったらどうだ?』
「厚意でもほんと勘弁して! ……ください」
大小あれど同じものが股間にあるのだし、そこまで気にすることでもないのだが、追求すると男が更に慌てるので本人に任せた。
俺も隣で身体を洗い、妖精は桶の中でちゃぽちゃぽと全身浴を楽しみ、三人して身体が綺麗になると相手の掌を引いて風呂場を出る。
「数日は様子を見ようと思うが、打った頭に異常が出なければ、ゆっくり風呂にも入っていってくれ」
「是非。綺麗な浴槽だし、ゆっくり浸かりたいな」
男は何故か気疲れした様子だった。病み上がりだし怪我も多く、身体を洗うのもしんどかったのかもしれない。
服を着せ、髪を魔術で乾かしてやると、物珍しそうに眺めていた。
脱衣所を出て、別荘らしく客用の寝室に案内しようと思っていたのだが、廊下を歩いている途中で使用していないが故に埃まみれであろう事に気づいた。
方針を変更して、まだ綺麗な自室へと案内する。
「悪い。客室もあるんだが、片付けが済んでいないんだ。俺の寝室で寝てくれないか」
「僕は構わないよ」
男を連れて寝室まで移動し、扉を開ける。相手を寝台に座らせ、窓を開けて換気をした。
寝室は結界が壊れた事に気づいて出てきた時のまま、乱れていた寝台を手早く片付ける。男を寝かせ布団を掛けると、満腹になって身体を温めたのが効いたのか、うとうとと瞼を揺らし始める。
寝台に座って世間話をしていると、次第に静かになった。
「寝ちまったか」
『ねちまったな』
「俺ら、風呂入っちゃうか?」
『はいっちゃおう』
こそこそと算段してカーテンを引き、寝室を暗くする。澄んだ空気の中で眠る綺麗な男は絵画の中の一風景のようだ。
パタン、と額縁が閉じられ、静かな足音が寝室から遠ざかっていった。
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