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数日後には、男は痛めた脚こそ時間がかかるものの、頭を打ったことによる後遺症は記憶障害以外にはなさそうだと判断した。
杖を工作して与えると、次第に家の中の活動範囲も増えていく。
男は室内が片付いていないのが気になったようで、頭を動かさないよう気をつけつつ、家の中を片付けて回るようになった。
「なあ、『青いの』俺がここに置いていた本どこやった?」
「本棚の三段目」
「おう。ありがと」
男のことは便宜上、彼の目の色を取って『青いの』と呼ぶことに決まった。
彼は片付けた品を逐一把握している。だから、好き勝手掃除をさせ、物の位置が分からなくなったら尋ねる方が楽だった。歩いている最中、突然なにかに躓かなくなった事は便利でもある。
俺は、教えてもらった場所にある本を拾い上げる。
医学の参考書のような本で、記憶喪失を改善する方法について書かれたものだった。どかりと長椅子に腰掛け、本を広げる。
男はまだ、記憶を取り戻す様子はない。
「頭痛はその後どうだ?」
「少し。けど、拾ってもらった直後より随分いいよ」
「じゃあ、痛み止めの配合を変えるか」
いま男に処方している痛み止めは、痛みを取る作用が強い代わりに内臓に負担を掛ける。
薬効が軽くなる代わりに副作用も減るよう、頭の中で配合を考えた。
本当なら病院に連れて行きたいのだが、実験小屋から近い崖から運んだだけでも、体力と強化魔術を保たせる為の魔力が多く削られてしまった。
下手すると、山中で二人揃って行き倒れ、という事態も有り得ない話ではなく、調子が良さそうなので家で様子見することに決めたのだった。
「昼飯なに食う?」
「がっつり肉が食べたい」
「健康そうで何より。冷凍保管してる肉がまだあった筈だから、それにするか」
実験小屋の立地では、食材の調達だけでも家を長時間空けることになる。床下に設置してある魔術装置は中のものを凍らせて保存でき、その中に肉類の備蓄もあった。
男は嬉しそうに声を上げた。体調を慮って負担のかかる食事は避けてきたが、そろそろ解禁してもいい頃合いだろう。
「じゃあ、外で肉を焼くか。室内だと煙たいしな」
「賛成」
男は長椅子に腰掛けている俺に背後から近寄り、首に腕を回す。ぎゅ、と軽く抱擁されて離れた。
彼は俺から近づくと慌てるが、自分の方は接触が多い質であるらしい。正直、人嫌いを自称している人間としては恥ずかしいのだが、黙って頬を掻いて思考を散らした。
『とりがないておるな』
「鳥はいつでも鳴くだろ」
妖精はやれやれ、と小さい肩を竦めると、掃除をしている男へ手伝いの押し売りをしに向かっていった。
足元をぴょんぴょん飛び跳ねて邪魔をし、手伝いを求めるなら飴玉を寄越せ、と恫喝している。
困り果てている男に、近くにあった瓶を差し出す。妖精がこうやって対価を要求する所為で、倉庫内には飴の袋が大量に眠っているのだ。
「じゃあ、お願いするよ」
『よかろう』
男から飴を受け取った妖精は懇願されたかのような空気を醸し出しているが、どうせ飴ほしさ故の行動だ。やれやれ、と平和な日常へ肩を竦める。
数時間、読書をしているうちに男が片付けていた場所は随分と綺麗になっていた。床が顔を見せ、艶やかに磨き上げられてすらいる。
掃除の動きは怪我を抱えてゆっくりながら無駄はなく、痛む脚に障りそうな動作は妖精が器用に補助していた。
「そろそろ昼飯にしようか」
提案すると、二人ともぱあっと顔を輝かせた。空腹のまま掃除をさせてしまった事に罪悪感を抱きながら厨房へと入る。
冷凍していた肉を溶かしている間に野菜を切り、鉄串で刺す。解凍された肉を切り、野菜と交互になるように配置をして、大皿に準備をしていった。
「僕、火起こしをしておこうか?」
「脚、平気か?」
「妖精くんが手伝ってくれるって」
『てつだってあげるって』
「対価目当てか。食ってばっかりいると、ぷくぷく妖精になっちまうぞ」
妖精はごろごろと口に飴を頬張り、炭が保管してある物置へと男を誘導していった。俺は串を作り終え、焼いたら美味い果実と共に外へ持参する。
男は庭に椅子を置き、座った状態で火を育てている所だった。
「いけそうか?」
「うん。思ったより炎が育つのが早かったんだ」
石で組み上げられた台座の上に金網が乗り、炎はゆらゆらと炭を舐めている。俺は近くにあった外用の椅子を金網の近くに寄せ、近くに用意してあった机の上に運んできた盆を載せる。
金網に油を塗り、鉄串に刺さった具材を載せると、じわじわと焼け始めた。調味料を忘れたことに気づき、厨房に戻って容器を持ち、取って返す。
俺が調味料を抱えて戻ると、男は瓶を受け取り、具材に味を加えた。
「そろそろ焼けたか」
「だね。食べよう」
『たべる』
俺が妖精をじっと見つめると、火起こしの対価は飴では足りなかった、と主張を始める。串から外した具材を小皿に取り分けてやると、はぐはぐと食らいついた。
人間たちも各々串を持ち、肉汁が垂れる側面へと噛み付く。
「美味い!」
「美味しいね。天気もいいし」
男は大きな口で勢い良く、肉に齧り付いている。横顔を眺めていると、唇の端から犬歯が覗いた。
オメガを番にする時に、アルファの牙は項に突き立てられる。今は番持ちではなさそうだが、あの牙はいずれ相手を貫くものだ。
背筋に寒いものが伝って、俺はその感覚を誤魔化すように食事へと戻った。
日が過ぎ、家を片付け終えると、男は庭へ出るようになった。脚の腫れも段々と落ち着き、杖なしで歩く時間も増えていく。
男について、一緒に暮らしていて分かったことがいくつかある。
まず一つは、肉体労働するような立場にはなかったらしい事だ。身体の傷で分かりづらかったが、掌にはペンだこが存在している。
普段、書類仕事をする習慣があった、という事だ。
二つめは、礼儀作法が身体に染みついているらしいという事。背筋が伸びていることは早々に気づいていたが、食事の所作が異様に綺麗だ。幼い頃から、記憶を無くして身体に染みつくほど、徹底的に仕込まれたのだと分かる。
三つめ、刃物の扱いに慣れている。これは倉庫に眠っていた護身用の短剣を持たせて気づいたのだが、折角だから手入れを、という話になった時、手入れ道具を慣れた手つきで使い始めた。
短剣を持たせて振らせてみると、力の入れ具合も慣れた者のそれだった。ただ、人を傷つけるというよりも、道具として使うことが多かったように見えた。
「────ってえと。これらから導き出される『青いの』の人物像は……」
「コノシェ。朝ご飯ができたよ」
男は寝台の上でぼうっとしている俺に手を差し伸べると、くい、と引いて起こした。くあ、と欠伸をし、手を引かれたまま移動をする。
歩きはゆっくりしたものだが、痛みに顔を顰める様子もない。
脚の痛みが無くなってから先、朝食を作るのは男の仕事だ。料理器具の記憶は無さそうだったが、飲み込みは早く、簡単な料理ならすぐ拵えられるようになった。
起きてすぐの腹に、凝った料理は必要ない。そして彼は朝に強かった。
「青いの、朝飯なに?」
「卵と牛乳と砂糖を混ぜたものにパンをひたひたに浸して、焼いてみたよ」
「それはもう美味いじゃん……」
寝起きの俺の妄言にも男は丁寧に対応し、慎重に背を支えつつ食卓へと導いた。椅子を引き、俺を座らせてから目の前に皿が置かれる。手を拭われ、フォークを握らされた。
数日前までは怪我人だったのに、既に世話をされているのは俺の方だ。
切り分けて口に含んだその焼きパンは香ばしく、ほんわりと甘い、上品な味わいだった。
「うっま」
「良かった。蜂蜜を合わせても美味しいと思うよ」
「うん。想像だけで美味い」
机の端には小さな敷布が用意され、妖精もちゃっかりとお零れを貰っていた。俺がじっと見つめていると、小さな背に焼きパンを隠される。
『くいしんぼうめ。とるな』
「どの口が言ってんだてめえ」
「喧嘩しないで。足りなかったらまた焼くから」
男は立ち上がると、湯を沸かし、お茶を淹れてくれる。近くで採れた薬草を干したものだが、高級な紅茶かと思うような丁寧な行程でカップに注がれた。
甘味が続く合間に飲むと、舌がさっぱりする。
「悪い。今日もお前が記憶を取り戻す実験を進めるべきなんだろうが、最近、魔力の調子がいいんだ。今日なんか抜群でさ。それで、本業の研究を進めたくて……」
「気にしなくていいよ。ほら、何が切っ掛けで記憶が戻るか分からないし、時間が必要かもしれない。僕だって、居候の身で家主の生活を圧迫するのは気が引けるからさ」
「…………ああ、のんびりやろうや」
「そうだね。本業の方も、手伝えることがあったら言って」
何かあったら呼ぶわ、と答え、焼きパンを食べ進めていると、皿は早々に空になった。食器は回収され、朝食という報酬を貰った妖精も含めた三人で並んでざぶざぶと洗う。
片付けが終わると、俺は実験室へと移動する。
この部屋は日光が入らない部屋で、元は物置として使われていた。部屋自体も狭く、中央に置かれた机と数個の棚で、身体を横にして通らなければならないほど空間がない。
俺は机の上に雷管石を載せ、外観を紙に写す。
「こんなところか」
なぜ雷管石は魔力を吸収する性質があるのか。なぜ吸収された魔力の波形は永久とも言えるほど長く保持されるのか。
果たして石に込められた魔力は、本当の意味で永久に波形を失わないのか。
石の端を削り取り、紙の上に粉状の欠片を広げる。ほんの少しの粉であれど、魔力を流すと内部に保持された。
「燃えない限界の高温。極限の低温。それから…………」
魔力で再現できる非日常の環境にその欠片を晒してみても、内部の波形は変わらない。その日は同様の実験をずっと繰り返していた。
途中、昼食は、と声を掛けられたが、辞退して研究にのめり込んでしまった。我に返った頃には空腹で、魔力も尽きかけている。
「潮時か」
簡単に器具を片付け、実験室を出るといい匂いが鼻先に届く。匂いを追って厨房へと向かうと、男が大鍋に煮込み料理を拵えている所だった。
近くの机の上には料理本が広げられている。見覚えはないが、片付けの最中に見つけたのかもしれない。
「コノシェ。良かった、ちょうど料理が出来上がったんだ。研究は一区切りつきそう?」
「ああ。魔力も尽きた」
「ははは。それはもう切り上げて食べないとね」
牛乳に野菜と肉を煮込み、複合調味料で味付けをした料理を男は深皿に盛ってくれた。手早くパンを焼いてくれ、隣に添える。
俺は果汁飲料の瓶を取り出すと、机の上で蓋を外す。
「僕も飲んでいい?」
「おう」
『ようせいものんでいい?』
「後で働けよ?」
いつの間にか机に乗っていた妖精は、男に料理をねだり、身長相応の皿に配膳してもらっている。
男は妖精にも優しく、妖精の食器すらも木を彫って手作りする始末だ。俺がいない間は読書と工作に励んでいたようで、今の机には作りかけの木細工が置かれていた。
わいわいと和やかに食事は終わり、後片付けを済ませると、俺は居間の長椅子で身体を休める。少しの間、男は席を外していた。
廊下から足音が聞こえ、見慣れてきた姿が居間へと戻ってくる。
「コノシェ。今日は湯船にお湯を張っていい? 僕の魔力を使うから」
「あー。まあ、もういいんじゃないか。俺も一緒に入るわ」
「やった。綺麗な湯船だし、広いし、浸かってみたかったんだよね」
『ようせいも、つかってみたかったんだよね』
「お前は毎日ちゃぱちゃぱやってんだろ」
気に障ったのか満腹になった腹の上で跳ね回る妖精をむんずと掴み、頭の下に敷く。わーわー喚く抗議は無視した。
俺たちが攻防している間に男は魔術装置の操作を終えたようで、居間へと戻ってきた。俺の頭に敷かれている妖精を救出し、撫でてやっている。
むっすりと頬を膨らませ、その様子を眺める。
「なに、コノシェ。不満?」
「お前は俺に優しくない。妖精の味方ばっかりだな」
「そんなことない。コノシェは命の恩人だもの」
彼は俺の頭の先……長椅子の空いた場所へと腰掛ける。妖精は長椅子の腕置きへと下ろしてもらい、椅子の背を走り始めた。
元気かよ、と呟くと、隣からくすくすと笑い声がする。
「ねえ。僕はコノシェに優しくできてない?」
「できてない」
「そっか。何してほしい?」
そう言われると、困ってしまった。食事は作ってもらい、部屋の掃除もしてもらい、眠い時には手を引いて廊下を歩いてくれる。
身の回りのことを殆ど任せて、それでいて俺は何故不満なのだろう。
「何だ……。撫でる、か?」
「何それ。じゃあ撫でよ」
男は腕を伸ばし、俺の頭に手を乗せる。長い指が、俺の柔らかくて絡みやすい髪を梳いた。
黙って放っておくと、丁寧に頭が撫でられる。からかうような動作ではなく、本当に、優しげに指先が動いた。
ほんの少し、相手のアルファとしての匂いを感じ取る。
「なぁ。お前は俺の匂い、分かるか?」
「分かるよ」
「アルファって選り好みがあるんじゃないのか? 嫌じゃないか」
こちらを見下ろしている瞳が、驚いたように見開かれる。暖炉にはちりちりとほんの少しの炎が残っており、青の瞳に色を足した。
頭に触れていた掌が、俺の頬に添えられる。
「とっても、いい匂いだと思うよ」
「………………そうか」
しばらく微睡んでいたが、湯が溜まったらしく風呂に移動をする。
彼は服を脱ぐに当たり、やっぱり身体を隠そうとした。あまり見つめるのも悪いか、と俺もさっさと自分の服を脱ぐ。
妖精は自分用の桶を引き摺って風呂へ入っていく。眼鏡を外すと、桶だけが動いている、妙な光景だった。
洗い場に歩いて行くと、男はさっさと自分の身体を洗い始めた。近づくと、びくんと背を震わせる。
「身体は任せるけど、背中くらいは流してやるよ」
「背中くらいなら……」
背中すらも渋々、といった様子に、初回にからかいすぎたかと反省した。
身体を洗い終えた俺たちは、たっぷりのお湯が張られた湯船に歩み寄り、足を入れる。
男はまだ傷口が染みる箇所があるようだったが、我慢の範囲内、と肩まで浸かった。
「あー……。気持ちいいー……」
「ずっと身体洗うだけだったもんな」
俺も少し離れた位置に足を入れ、全身を沈める。疲労が溶け消えていくような、何とも不思議な感覚だ。
湯船の縁に背中を預け、腕を伸ばす。
「コノシェは、アルファであろう男と一緒に風呂、って警戒しないの?」
「怪我人を一人で風呂に入らせられるかよ」
「律儀だなぁ。でも、怖くない?」
「べつに。お前の魔力ってぜんぜん攻撃的じゃねえもん。人を手籠めにするような柄じゃないだろ」
手を伸ばして相手の掌を掴むと、見知った魔力が僅かに伝った。普段よりも時おり跳ねる、緊張しているかのような流れだった。
捕らえていた手を解放する。
「なーんか、お前のほうが緊張してないか?」
「うーん……。まだほら、僕ら出会ってからは長くないしね」
「まあな」
並んで風呂の縁に背中を預け、大きく景色を切り取った窓辺から見える星明かりを眺める。ちかちかと光るそれらに視線を向けながら、意識は隣の男を追っていた。
妖精以外で、初めてできた同居人。俺は、彼に対して浮かれすぎているような気がしてならない。
「僕はいいけど、僕以外のアルファを信用しないでね」
「俺の性格を変えられると思うな。警戒したきゃお前がしろ」
「あはは。コノシェだなぁ……。じゃあ、ずっと離れないようにしないと」
カコン、と妖精が使っている桶が動く音がする。眺める視線の先、濃紺だけが広がる夜空に、一筋の星が流れる。
あ、と声を揃えて、願い事のひとつも言えなかった鈍さを笑い合った。
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