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 研究は一段落し、俺はお役御免になった。あとはイザナが助言しながら、実際に番持ちが薬を使って効果を試していくらしい。

 同居の解消は、俺から言い出した。官舎にはもう戻る部屋はなかったが、外に部屋を借りることにした。

 彼にはかなり引き止められたが、俺は何度ももう同居する意味がない、と言い続けた。

 根負けするような形で、イザナは同居解消を許した。彼が仕事に出ている間に、部屋は引き払って、新居に荷物を移した。

 職場では会わないように気を遣い、通信魔術で飛んでくる連絡はすべて無視した。用済みだ、と彼の口から告げられることが堪えられなかった。

 彼は、俺と最後まで研究をしてくれなかった。そんな恨みがましさだけが、最後に残ったものだ。

「フェーレス」

 イザナがいない日々にも慣れてきた頃、仕事の合間に、上司から声を掛けられた。飲み物を奢られ、小さい休憩室に呼ばれる。

 最初に研究を持ちかけられた、あの時のようだと思った。

「あの、どうしたんですか?」

「ああ。別に仕事の話じゃないから、気負わなくていい」

 目の前の椅子に座った上司は、容器に入った飲み物に口をつける。

「フェーレスに元気がないからさ。飲み物でも奢ろうかと思って」

 上司がこうやって飲み物を奢ってくれるから、修羅場だった俺は、イザナに飲み物を奢ろうとしたんだろうか。

 珈琲を口に含む。色は真っ黒で、口の中はただ苦かった。砂糖を入れなかったことを、心の底から後悔した。

「…………ロア課長に、変な相談していいですか?」

「いいぞ。なに?」

 俺が何を言うかも分からないのに、聞くだけ聞こうとする上司は、あまりにも懐が広すぎる。

 両手で、飲み物の容器を握り込んだ。

「例の研究で、試作した薬ができた時。俺、イザナと。…………子どもを作るとこまで、試したい、って思ったんですよ」

「…………そりゃ、熱烈だな」

「変でしょう。だって、子ども、作るなんて大ごとなのに。最初から一緒に進めたんだから、最後まで一緒に、って。……別に、イザナとなら…………って」

 視界がぼやけて、上司の顔が分からなくなる。ぐ、と目元を拭ってようやく、泣くまで追い詰められていたことを自覚した。

「あんな奴が相手とか嫌すぎる……」

「はは。心からの叫びだな」

 上司に部屋が引き払われた話とか、急に山に登ることになった話だとか、つらつらと語って、話すたびに俺がそんな彼を嫌だと思っていないことを自覚してしまう。

 俺の話を静かに聞いたその人は、ようやく口を開いた。

「────フェーレスは、自分がオメガじゃなかったら、もっと冷静に恋してた、って思うことない?」

「え。そりゃ思いますよ。だって、こんなぐちゃぐちゃなの、変でしょ……」

 ぐす、としゃくり上げ、浮かんでくる涙を拭う。目の前に座っている上司は、ふふ、と笑う。

「それがさ、別にベータでもオメガでも、アルファでも変わんないんだってさ。みんな本能に振り回されて、ぐちゃぐちゃになりながら恋愛してるらしい」

「はぁ……。そういう、ものですかね」

 苦いはずの珈琲を、上司は平気そうに口に運ぶ。俺よりもずっと年上のこの人は、俺と同じ耳のあるこの人は、もっと、ずっと苦いものを飲み込んできたのだろうか。

「けど、そういうぐちゃぐちゃなものを織り交ぜて、俺たちは関係を築いていく。なあ、俺は、フェーレスがこうやって悩み続けて萎れてるの、勿体ないと思うけどな。イザナ、『最近、避けられてる』、って沈んでたぞ」

「……あの男が、ですか?」

「あの男が。それに、フェーレスもだよ。二人とも、この世の終わりのような顔してる」

 そういえば、部屋を引き払うときも、ろくに会話もしなかった。もう一度くらい、話してみてもいいだろうか。

 鼻先に、一度嗅いだにおいが呼び起こされる。もう一度、彼の腕の中に包まれたかった。

「話を、してみます」

「よかった。俺、フェーレスより、イザナの気の落ちようが心配だったんだよな」

「…………そんなに?」

「薬の調整で忙しいんだろうけど、目の下の隈が酷いわ、やつれてるわで」

 食事を摂らせて、それで身体を洗って、寝かしつけるくらい、いいだろうか。一度は同居人だったのだ、心配することくらい、許してくれるだろうか。

 容器の中身を飲み干し、机の上に置いた。

「そういえば、フェーレス。発情期はまだ、のはずだよな?」

「はい。来月、だったかな」

「だよなぁ……。匂いが変わってる気がしたんだけど、気のせいか」

 俺は手首を鼻に押し当てるが、特に自分の匂いは分からなかった。

「試作として作った薬の作用、ですかね……。飲んだのは一回きりなので、もう抜けてるとは思うんですけど」

「抑制剤はちゃんと持ち歩くんだぞ」

「はい」

 それから少しだけ仕事の話をして、上司との面談は終わった。すっきりとした気分で仕事に戻り、その日の仕事は難なく片付く。

 普段よりも早い終業に、イザナへ会いに行けないかと考えた。

 材料を持って家に押しかける、というのは迷惑だろうが、出来合いの食べ物を届けるのならいいだろうか。

 外へ出て、すぐに食べられるものを買い求めると、俺は官舎へと向かった。いつも通りの部屋に向かおうとして、彼も引っ越しているはずだ、ということに気づく。

 慌てて階段を降り、管理人室へ向かった。

 身分証を提示し、イザナの体調が悪そうなので食べ物を届けに来た旨を伝える。部屋番号を教えてほしい、と言ったのだが、管理人は不思議そうに俺を見る。

「いや、フェーレスさんの部屋でもあるでしょう? 熱でもあるんですか?」

「…………え、あ。す、すみません。最近、喧嘩をして部屋を出ていたものですから、引き払われてやしないかと……」

「はは。部屋はそのままですよ、早く仲直りをしてくださいね。どうしようもなくなって引っ越すときには、またお知らせください」

 管理人に申し訳ない、と詫びをして、管理人室を出た。どうやら、俺が出て行ったあとも記録上はそのまま、イザナは住み続けているらしい。

 忙しくて、引き払うのが面倒になったのだろうか。不思議に思いつつも、部屋まで向かった。

 玄関にある装置に魔力を流すと、鍵が開く。室内は静かで、まだイザナは帰宅していないことが分かった。

「俺の魔力登録、そのままなんだ……」

 食べ物を食卓に置き、周囲を見回す。部屋は少し荒れていて、書類などが床に散っていた。

 気になって、散らばったそれらを拾い集める。自分の物だけ運び出してしまって、この部屋の掃除は甘かったかもしれない。

 罪滅ぼしのように、目につくところを片付けた。

 二人で買って、俺が置いていったものはそのままだ。いつでも戻れるように、何も変わっていない。俺の痕跡だけがなかった。

 広い部屋は、所々、何かが抜けている。

「寂しい部屋、だな…………」

 たった一人がいないだけなのに、部屋の空気は変わってしまっていた。

 俺が片付けを続けていると、玄関から音がする。家主の帰宅に顔を上げ、廊下を歩いて玄関へと向かう。

 扉を開いたイザナは、俺の姿を見て鞄を取り落とした。彼の背後で、玄関扉が閉じる。

「おかえり。…………最近、元気がないって聞いて差し入れに来たんだ。悪いと思ったんだけど、鍵が開いたから────」

 俺が言葉を続ける前に、長い腕が伸びた。身体を引き寄せられ、広い胸の中に閉じ込められる。

 ぎゅう、と抱き竦められる最中、耳元に近づいた唇からは荒い息が漏れていた。

「フェー、レス……!」

 押し潰されそうなほど、力を込めて抱かれる。鼻先には彼の胸が当たって、息をするたびにアルファの匂いがした。

 存在を確かめるように、背に回った手のひらが服の上から撫でる。

「戻って、きてくれたの……?」

 切なげな声音に、胸ごと締め付けられる。待ちわびていた、とでも言いたげな響きに、出て行った事を咎める音はない。

 ただ、戻ってきてくれた、と嬉しがる声だけがそこにあった。

「戻ってきた、訳じゃなくて……。差し入れを」

「どうして……、戻ってきてくれないの?」

「…………もう、研究は終わっただろ」

「研究が終わったら、フェーレスが、僕と同居する理由はないの?」

 全くない、と言えば嘘になる。だから、彼に対して、偽りの言葉を吐くことを躊躇った。

 黙ったまま、彼の胸を押した。そのまま閉じ込められたいと願いながら、身を捩る。

「僕じゃ、だめなの……?」

「…………俺じゃ駄目だって言ったのは、お前の方だろ!」

 丸めた拳で、彼の肩を叩く。

 八つ当たりのような行動も、彼は咎めない。ただ、握り込んだ掌を包み込む。

「僕が、フェーレスじゃ駄目だなんて、言うはずない!」

「言った!」

「言ってない!」

「だって、────俺とは、作った薬を試してくれないんだろ!?」

 口から零れ出た言葉を、後悔しても遅かった。

 口を噤んで、視線を落とす。

 彼の指が伸び、頭の後ろに回った。しゅるりと結び目が解かれ、髪留めが外される。

 拘束が解かれたはずの耳は、萎れてその場にぺしゃりと折れた。

「耳、ぺたんこだ。……フェーレス。これ以上、薬を試すってことは、僕と子どもを作るって事だよ」

「……あんたは、俺と子どもを作る未来が見えないって言ったんだ」

「そういうことじゃなくて、僕だって順序くらい弁えてるよ!」

「勝手に同居に持ち込んだような奴が順序を弁えるな!!」

 は、と荒く息を吐いた。今日は、感情の上下が激しい。

 上司が、匂いで発情期を疑っていた理由も分かる気がする。熱に浮かされるようなこの感覚は、発情期前によく似ていた。

「僕が、君に対して引いた態度を取ったから、不安になったの……?」

「なってない」

 手を抜き取って逃げようとしても、力の差で敵わない。ぎゅう、と抱き寄せられて、広い腕の中に入れられる。

 彼の、巣の中に仕舞われる。

「そっか。それは、僕が悪かったな」

「何、一人で納得してるんだよ……! 俺は────」

「好きだよ」

 唐突な愛の言葉に、ぐう、と言葉を飲み込む。

 彼は、こうやって言葉を躊躇わない。俺に対して、感情を隠すことはない。

「君が不安になるなら、何度だって伝えるよ。綺麗なひと。……僕は、君と番になりたくて、君と子どもを作りたくて研究を立ち上げてしまうような人間なんだよ? 少し節度のある態度を取ったくらいで、不安にならないでほしい」

 相手の指先が、顎の下を擽る。

 持ち上がった唇に、柔らかいものが重なった。頬の端に、眼鏡の金属部が軽く当たる。

 触れて、離れる。粘膜越しの接触は、耳を唇で触れられた時と似たような感覚があった。

 イザナの服の裾を引く。

「俺と、将来。家族を作ること、……考えられる、のか?」

「考えて、その為に動いてきたつもりだよ。だけど、……こんなお誘いを受けるとは思わなかったなぁ……」

 彼の掌が、俺の服の下へと潜り込む。

 目を丸くしているうちに、皮膚が撫でられる。

「仕事、積もりに積もってるけど、まあいいや。投げちゃお。折角のお誘いだし」

「お誘い……?」

「ずっと、いい匂いがしてる」

 ちゅ、と頬に唇が触れて、鼻先が首筋に近づく。す、と息を吸う音がした。

「発情期にアルファのところに来たんだから。────もう、逃げないでね」

 すう、と目が細められる。獲物を見つけた、狩猟者の眼をしていた。

「発情期、のはずはない。だって、周期的には来月のはずで……」

「間違いないと思うけどなあ。いいや、寝てみたら分かるよ」

「な……! ね、寝る!?」

 抱え上げようとする腕を、はたき落とす。イザナは自らの手を見下ろすと、眉を下げた。

「フェーレスは難しいね。俺が触るのは、いや?」

「い、……ッ。いや、では……」

「素直じゃないのは可愛いけど。そればかりだと、どう受け取っていいか不安になるよ?」

 見上げた彼の目の下には、隈が浮いていた。

 彼に食事を摂らせて、眠らせたくてここに来たのだ。

「俺、……イザナの体調が心配で来たから。だから、……そういう意味で寝たら、もっと疲れる」

 耳ごと萎れた俺を見て、くすくすと笑い声が響く。

「今は食事より睡眠より、性欲の方が勝ってる」

「そ、それなら……!」

 こくん、と唾を飲み込む。

 相手を受け入れようとしている自分も、何もかも混乱して、ぐちゃぐちゃだ。ただ、アルファの匂いがして、あの匂いを吸い込みたくて堪らない。

「風呂、はいりたい。…………あんただって、職場の匂い、するの嫌だろ」

 仕方がない、というように彼の唇から長く息が漏れる。

 両手で頬を包まれた。持ち上げられた先の視線はとげとげしく、ぎらついていた。

「今のところは引くけど、引っ越していった時みたいに。もう、……逃げたら、いやだよ?」

 宿った光に、背筋をぞっとしたものが伝う。

 こくん、と頷いた俺に、アルファは満足そうに喉でわらった。




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