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皇弟ボードゥアン
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リュシエンヌとて、何もしないわけではなかった。宮廷に馴染もうと、帝国の流行を学び、茶会や舞踏会といった社交に勤しんだ。故国で必死に習得した歌や踊りを披露し、見苦しくない振る舞いで笑顔を浮かべることができたはずだ。
「なんだか生意気よね」
「見ていて居たたまれない心地になる」
「必死に気に入られようとする姿が鼻につくのよね」
だが失敗せず、完璧であろうとする姿にかえって嫌悪感を刺激されることもあるのだとリュシエンヌは思い知らされた。
(早く、なんとかしないと……でも、どうすれば……)
「――大丈夫ですか、義姉上」
静かな呼び止めであったが、ぼおっとしていたリュシエンヌはびくりと肩を震わせた。怯えた眼差しで相手を見やり、「あ……」と小さく呟く。
「ボードゥアン殿下……」
ギュスターヴの弟、ボードゥアンは黒く長い髪を緩く一つに結んで胸元にゆったりと垂らしていた。
ギュスターヴと同じ髪や目の色だったが、二人が纏う空気は全く違っていた。
兄のギュスターヴが荒々しく「動」のイメージであるのに対し、弟のボードゥアンは自身が存在する気配さえ殺すような「静」の雰囲気があった。
「失礼。驚かせてしまいましたね。神殿の方へ何かご用でしたか?」
噂では皇帝である兄と余計な火種を生まぬよう、ボードゥアンは自ら神の道へ進み、毎日熱心に祈りを捧げているという。彼が着ている、身体の線をすっぽりと覆い隠すマントのような祭服からも、敬虔な信者の一人に見えた。
「いえ、特に用はなくて……。ごめんなさい。少しぼんやりしていて」
「……そうでしたか。神殿にはノワール帝国の神々が祀られていますから、義姉上も興味がおありかと思いました」
リュシエンヌが神殿の方を見れば、ボードゥアンは簡単に説明してくれた。
「すでにご存知でしょうが、ノワール帝国や周辺諸国にはそれぞれ守護神がいます」
アダンという神がおり、信心深い人間の女性と契りを交わして、十二の子を生んだのが帝国神話の始まりだ。神の子どもたちは帝国という大きな国から、セレスト公国のような小さな国を興し、その国を災厄などから守ろうとした。
「ノワール帝国は、アダンの長男――イザークを守護神としています。義姉上の国は、女神アリアーヌ。一番最後の子だと言われていますね」
「ええ……」
「知っていますか? イザークは冷酷な性格をして、他の弟妹とも仲が悪かったそうですが、アリアーヌのことだけは可愛がっていたそうです」
リュシエンヌが目を丸くして驚きを伝えれば、ボードゥアンは切れ長の瞳を細めた。
「兄神イザークを祀る我が帝国と、妹神アリアーヌの貴国がこうして縁を結んだこと、私には神の采配に思えるのです」
「ボードゥアン殿下……」
リュシエンヌは返答に少し困ってしまった。彼がどういう意図で神話の話をしたのか、掴めなかったからだ。
「失礼。回りくどい言い方でしたね。最近は神話をただの物語として、神々を敬う心を疎かにする傾向があるのですが、貴女はセレスト公国という立派な国の姫であり、兄の隣に立つ相応しい方です。どうか胸を張ってください」
どうやら心配してくれたみたいだ。義弟の心遣いが、今のリュシエンヌにはひどく心に染みた。
「ありがとうございます、ボードゥアン殿下」
「いえいえ。もしよろしかったら、今から来てみますか? 祈るだけでも心が慰められるかもしれません」
「そうですね……。でも今日は侍女に何も言わず出てきてしまったので……また改めてお伺いいたします」
「そうですか。わかりました。いつでもお待ちしております」
ありがとう、とリュシエンヌはもう一度淡い笑みと共にお礼を述べた。
それから数日後のことだった。
「リュシエンヌ様。陛下がお呼びですわ。どうぞ今宵、陛下の寝所へお出で下さいまし」
何やら含みを持たせた笑みで告げたのは、ギュスターヴを信奉し、彼に飼われている女性たちだ。
寝所という言葉にリュシエンヌはどきりとする。
「陛下が……来るようにおっしゃったのですか」
「ええ、そうですよ。お忙しい中、わざわざあなたの願いを聞き遂げてくださったのです」
話がしたい、とは侍従を通じて伝えてもらっていた。
しかし昼間ではなく、夜とは……。
「そのおつもりで、来てくださいね」
クスクスと笑みを零しながら、彼女たちは帰っていった。
(寝所へ……)
リュシエンヌは嫁いできてからまだ一度もギュスターヴに抱かれていない。
自分の貧相な身体では食指が動かないのか、後宮の女性たちばかりを相手にしている。しかしさすがにこのままではまずいと彼もわかっているのか、リュシエンヌの頼みを機会に、面倒事を済ませようという考えか。
(嫌々でも、娶ったからには義務を果たさなければならないものね……)
妻としてようやく夫に愛されるのだから喜ぶべきなのだろうが、リュシエンヌの心は重かった。
ずっとこのまま放っておかれた方がいいという気持ちがあった。
(いいえ。陛下と本当の夫婦になれるのならば、受け入れなくては……)
どのみち、ギュスターヴの命令に逆らうことはできないのだから。
「なんだか生意気よね」
「見ていて居たたまれない心地になる」
「必死に気に入られようとする姿が鼻につくのよね」
だが失敗せず、完璧であろうとする姿にかえって嫌悪感を刺激されることもあるのだとリュシエンヌは思い知らされた。
(早く、なんとかしないと……でも、どうすれば……)
「――大丈夫ですか、義姉上」
静かな呼び止めであったが、ぼおっとしていたリュシエンヌはびくりと肩を震わせた。怯えた眼差しで相手を見やり、「あ……」と小さく呟く。
「ボードゥアン殿下……」
ギュスターヴの弟、ボードゥアンは黒く長い髪を緩く一つに結んで胸元にゆったりと垂らしていた。
ギュスターヴと同じ髪や目の色だったが、二人が纏う空気は全く違っていた。
兄のギュスターヴが荒々しく「動」のイメージであるのに対し、弟のボードゥアンは自身が存在する気配さえ殺すような「静」の雰囲気があった。
「失礼。驚かせてしまいましたね。神殿の方へ何かご用でしたか?」
噂では皇帝である兄と余計な火種を生まぬよう、ボードゥアンは自ら神の道へ進み、毎日熱心に祈りを捧げているという。彼が着ている、身体の線をすっぽりと覆い隠すマントのような祭服からも、敬虔な信者の一人に見えた。
「いえ、特に用はなくて……。ごめんなさい。少しぼんやりしていて」
「……そうでしたか。神殿にはノワール帝国の神々が祀られていますから、義姉上も興味がおありかと思いました」
リュシエンヌが神殿の方を見れば、ボードゥアンは簡単に説明してくれた。
「すでにご存知でしょうが、ノワール帝国や周辺諸国にはそれぞれ守護神がいます」
アダンという神がおり、信心深い人間の女性と契りを交わして、十二の子を生んだのが帝国神話の始まりだ。神の子どもたちは帝国という大きな国から、セレスト公国のような小さな国を興し、その国を災厄などから守ろうとした。
「ノワール帝国は、アダンの長男――イザークを守護神としています。義姉上の国は、女神アリアーヌ。一番最後の子だと言われていますね」
「ええ……」
「知っていますか? イザークは冷酷な性格をして、他の弟妹とも仲が悪かったそうですが、アリアーヌのことだけは可愛がっていたそうです」
リュシエンヌが目を丸くして驚きを伝えれば、ボードゥアンは切れ長の瞳を細めた。
「兄神イザークを祀る我が帝国と、妹神アリアーヌの貴国がこうして縁を結んだこと、私には神の采配に思えるのです」
「ボードゥアン殿下……」
リュシエンヌは返答に少し困ってしまった。彼がどういう意図で神話の話をしたのか、掴めなかったからだ。
「失礼。回りくどい言い方でしたね。最近は神話をただの物語として、神々を敬う心を疎かにする傾向があるのですが、貴女はセレスト公国という立派な国の姫であり、兄の隣に立つ相応しい方です。どうか胸を張ってください」
どうやら心配してくれたみたいだ。義弟の心遣いが、今のリュシエンヌにはひどく心に染みた。
「ありがとうございます、ボードゥアン殿下」
「いえいえ。もしよろしかったら、今から来てみますか? 祈るだけでも心が慰められるかもしれません」
「そうですね……。でも今日は侍女に何も言わず出てきてしまったので……また改めてお伺いいたします」
「そうですか。わかりました。いつでもお待ちしております」
ありがとう、とリュシエンヌはもう一度淡い笑みと共にお礼を述べた。
それから数日後のことだった。
「リュシエンヌ様。陛下がお呼びですわ。どうぞ今宵、陛下の寝所へお出で下さいまし」
何やら含みを持たせた笑みで告げたのは、ギュスターヴを信奉し、彼に飼われている女性たちだ。
寝所という言葉にリュシエンヌはどきりとする。
「陛下が……来るようにおっしゃったのですか」
「ええ、そうですよ。お忙しい中、わざわざあなたの願いを聞き遂げてくださったのです」
話がしたい、とは侍従を通じて伝えてもらっていた。
しかし昼間ではなく、夜とは……。
「そのおつもりで、来てくださいね」
クスクスと笑みを零しながら、彼女たちは帰っていった。
(寝所へ……)
リュシエンヌは嫁いできてからまだ一度もギュスターヴに抱かれていない。
自分の貧相な身体では食指が動かないのか、後宮の女性たちばかりを相手にしている。しかしさすがにこのままではまずいと彼もわかっているのか、リュシエンヌの頼みを機会に、面倒事を済ませようという考えか。
(嫌々でも、娶ったからには義務を果たさなければならないものね……)
妻としてようやく夫に愛されるのだから喜ぶべきなのだろうが、リュシエンヌの心は重かった。
ずっとこのまま放っておかれた方がいいという気持ちがあった。
(いいえ。陛下と本当の夫婦になれるのならば、受け入れなくては……)
どのみち、ギュスターヴの命令に逆らうことはできないのだから。
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