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2018 8/31 「ノーチラス」
しおりを挟む枕元の懐中時計の秒針が鳴った。
朝日より大分先に目が覚める。
顔を洗い、昨日書いていた詩の続きを描く。
ふと気が付くと、雨は上がっていた。
これがここでの最後の詩だろう。
ここに来て、詩を描いて気付いたことがある。
いや、気付いたのではなく、思い知ったのだろうか。
詩の中に「君」という言葉が増えた気がした。
「僕の心の中のど真ん中にはいつも君がいる。
君がそこを退いてしまえば、大きな穴が空いてしまう。
君を忘れたくないし君に忘れて欲しくない。」
今まで、口を突くことは許されなかったそれこそが、きっと彼の心の奥底にある眠っていた本当の願望だったのだろう。
秒針が鳴る。
万年筆のインクが切れた。
木箱に詩を書いた紙を入れて荷物をまとめる。
アコースティックギターを肩にかける。
外に出よう。
秒針が鳴る。
外は昨日の風が嘘のように思えるほど静かだった。
彼の心臓もまた、静かに揺れていた。
全てが終わったあとの静けさなのか、一時的な嵐の前の静けさなのか。
街の人々はまだ眠っている。
秒針が鳴る。
港へ着く。
海は驚くほど凪いでいる。
大海原へ伸びている桟橋の先端に腰を下ろし、足を海の上へなげだすとと、彼は瓶に残った僅かなインクを一滴残らず万年筆に染み込ませ尽くした。
あの部屋の机をずっとエメラルドグリーンに染めていた瓶の中身も尽き、遂に万年筆には最後の、最期の一筆が残された。
このインクは、僕の人生だ。
宿を出る前に描いていた詩を最後の、最期の言葉で締める。ちょうど、インクは尽きた。
秒針が鳴る。
立ち上がって、カバンの中から最後の1瓶を取り出す。
だが、これは描く為のものではない。
花緑青というのは、毒性の人工塗料だ。
手が震える。
鼓動が速くなる。
瓶を顔の高さまで掲げる。
気配を感じて振り返ると向こうの丘の前に君がいる。
視界がぼやけて顔は見えないが笑顔の君が、確かに君がいる。
「ずいぶん、久しいね。」
君の声を聴き、言葉にならない、息が漏れた。
幻覚でも、幻聴でも、最後に笑っている君を感じられて良かった。
「2人でいこうよ。」
「いや、それは僕1人で充分だよ。
……ごめん。」
その言葉が口を突いた時、記憶が、あの宿の机が、あの納屋の下が、あの古通りが、あの聖堂のステンドグラスが、あの時の夏草が、記憶の全てが鮮明になって、そして目の前の水に溶けて水圧で透明になっていくような感覚がした。
秒針が鳴る。
気付くと座り込んでいた。
掲げた瓶のエメラルドグリーン越しに見える水平線が茜色に染まってくる。
海の上の空に光の筋が出来上がる。
その空の上からは背の伸びた僕がこっちを見下ろしている。
気が付くと彼女の幻影はすぐ横にいた。
彼女と目が合う。
「エルマ、君なんだよ。君だけが僕の音楽なんだ。」
それ以上は言葉にならなかった。
声を出すことすらままならなかった。
彼は力強く立ち上がり、大きく青々と息を呑むと、溢れ出る嗚咽を鮮やかで鈍く光る、美しい花緑青で蓋をした。
そして、溶けていった記憶を追いかけるように自らも光る水平線とひとつになった。
鈍く光る彼の眼球から零れた最期の水滴も泡沫となった。
彼は己の肉体も魂も花緑青で染め上げた。
だがそれが本望だったのだろう。
人生の価値はきっと、終わり方だろうから。
朝日で照らされる桟橋に残ったのは木箱と傷だらけのアコースティックギター、そして無造作に投げ捨てられて転がる空の瓶だけだった。
夏が暮れる匂い、秒針はもう鳴らない。
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