だから僕は音楽をやめた

那須与二

文字の大きさ
9 / 10

2018 8/31 「ノーチラス」

しおりを挟む

枕元の懐中時計の秒針が鳴った。
朝日より大分先に目が覚める。
顔を洗い、昨日書いていた詩の続きを描く。
ふと気が付くと、雨は上がっていた。

これがここでの最後の詩だろう。

ここに来て、詩を描いて気付いたことがある。
いや、気付いたのではなく、思い知ったのだろうか。
詩の中に「君」という言葉が増えた気がした。


「僕の心の中のど真ん中にはいつも君がいる。
君がそこを退いてしまえば、大きな穴が空いてしまう。
君を忘れたくないし君に忘れて欲しくない。」


今まで、口を突くことは許されなかったそれこそが、きっと彼の心の奥底にある眠っていた本当の願望だったのだろう。

秒針が鳴る。
万年筆のインクが切れた。
木箱に詩を書いた紙を入れて荷物をまとめる。
アコースティックギターを肩にかける。

外に出よう。

秒針が鳴る。

外は昨日の風が嘘のように思えるほど静かだった。
彼の心臓もまた、静かに揺れていた。
全てが終わったあとの静けさなのか、一時的な嵐の前の静けさなのか。
街の人々はまだ眠っている。

秒針が鳴る。
港へ着く。
海は驚くほど凪いでいる。
大海原へ伸びている桟橋の先端に腰を下ろし、足を海の上へなげだすとと、彼は瓶に残った僅かなインクを一滴残らず万年筆に染み込ませ尽くした。
あの部屋の机をずっとエメラルドグリーンに染めていた瓶の中身も尽き、遂に万年筆には最後の、最期の一筆が残された。


このインクは、僕の人生だ。


宿を出る前に描いていた詩を最後の、最期の言葉で締める。ちょうど、インクは尽きた。

秒針が鳴る。
立ち上がって、カバンの中から最後の1瓶を取り出す。
だが、これは描く為のものではない。


花緑青というのは、毒性の人工塗料だ。


手が震える。
鼓動が速くなる。
瓶を顔の高さまで掲げる。


気配を感じて振り返ると向こうの丘の前に君がいる。
視界がぼやけて顔は見えないが笑顔の君が、確かに君がいる。


「ずいぶん、久しいね。」


君の声を聴き、言葉にならない、息が漏れた。
幻覚でも、幻聴でも、最後に笑っている君を感じられて良かった。


「2人でいこうよ。」

「いや、それは僕1人で充分だよ。


……ごめん。」


その言葉が口を突いた時、記憶が、あの宿の机が、あの納屋の下が、あの古通りが、あの聖堂のステンドグラスが、あの時の夏草が、記憶の全てが鮮明になって、そして目の前の水に溶けて水圧で透明になっていくような感覚がした。


秒針が鳴る。
気付くと座り込んでいた。
掲げた瓶のエメラルドグリーン越しに見える水平線が茜色に染まってくる。
海の上の空に光の筋が出来上がる。
その空の上からは背の伸びた僕がこっちを見下ろしている。
気が付くと彼女の幻影はすぐ横にいた。
彼女と目が合う。



「エルマ、君なんだよ。君だけが僕の音楽なんだ。」



それ以上は言葉にならなかった。
声を出すことすらままならなかった。
彼は力強く立ち上がり、大きく青々と息を呑むと、溢れ出る嗚咽を鮮やかで鈍く光る、美しい花緑青で蓋をした。
そして、溶けていった記憶を追いかけるように自らも光る水平線とひとつになった。
鈍く光る彼の眼球から零れた最期の水滴も泡沫となった。

彼は己の肉体も魂も花緑青で染め上げた。
だがそれが本望だったのだろう。


人生の価値はきっと、終わり方だろうから。


朝日で照らされる桟橋に残ったのは木箱と傷だらけのアコースティックギター、そして無造作に投げ捨てられて転がる空の瓶だけだった。


夏が暮れる匂い、秒針はもう鳴らない。













しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...