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本編・月の綺麗な夜でした

そのさん 不穏な知らせ

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 その時は、唐突に訪れた。
 ローがミントの家に居候してから、三つ目の季節が半ばほど過ぎた頃の事だった。
 いつものようにふらりと外出し、夕食前に帰ってきた青年を笑顔で迎え入れたミントは、その眼差しに表情を凍らせる。
 ローの身にまとう空気が、冴え冴えとした月光のように冷えていたからだ。

「嬢ちゃん、ここを発つ準備をしろ。誰にも知らせず、一週間以内だ」

 剣呑な低い声に、ミントは目をまたたいた。
 急なことにどう反応していいのかわからなかったのだ。

「ローさん、説明してもらえますか?」

 ああ、とうなずきながらも、ふと食卓を見て湯気を上げる料理の数々に、ふっとローは笑みをこぼした。
 きまりが悪そうに頭をかいて、緊急でもないのに周りが見えてなかったようだと謝罪する。

「まぁなんだ。美味い飯を先に食おうぜ、話はそれからだ」

 大丈夫だというように大きな手で頭をなでられ、ミントはその手のひらに縋り付きたくなった。
 良くない知らせだとわかっていても、ローの心遣いは嬉しい。
 それでもいつになく気が急いて、食卓に着いても言葉少なく、美味しいはずなのに味がしない。

 不安な表情のミントを尻目に、ローはいつものように食事をモリモリとたいらげる。気もそぞろなミントの様子に気付くと、食え食えとばかりにその口元に果物を押し付けもした。
 あまりに近い距離感にドギマギしたけれど、ローの強い眼差しが自分を見ているから、グッと不安を押し殺しミントは咀嚼する。

 生きるコツは、食べて寝る事だと、師匠が教えてくれた。
 たとえどんな逆境に陥ろうと、食事と睡眠が足りてさえいれば、自分を生かし、他の誰かも生かすことができる。
 自分の大切な者を生かしたいなら、まずは癒し手である自分を生かさねばならない。

 いつになく静かな食事風景だった。
 芯のある表情で黙々と食事を摂るミントに合わせて、普段は軽口を叩くローも無言だった。
 どこか張り詰めた食卓も、無言の食事風景も、師匠と共に暮らしていた時になじんだモノであったけれど、昨日まであったほがらかな時間をほんの少しだけ、ミントは惜しいと思った。
 あの時間は、もう二度と手に入らない時間になってしまった。
 その予感を裏付けるように、食事を終えて片付けも済ませた後、おもむろにローは話し出した。

「もうすぐ大きな戦が始まる。兵だけでなく、治癒師や医師も召集対象だ。王都からの知らせが届くのは、早くて十日後だろう。それまでに、嬢ちゃんを逃がす」

 神の手を保護している一団にローは属していて、王都の情勢を探っていた魔法師からの緊急連絡の一報が入ったのだ。
 王都から地方都市への連絡は鳩を飛ばすか早馬を使うのが常道なので、地方の大都市にいったん情報を集めて、各町村にお触れを出すから届くまでに時間がかかる。
 ミントの暮らしている小さな街はかなり僻地に近いので、二週間ぐらいかかるかもしれないと、そんな風に説明した。

「私を逃がす?」
「あぁ、嬢ちゃんが抑えられると、ジジイをおびき出す餌にされるからな。今のところ、神の手の弟子は貧弱な小僧って事になっているが、そんなのいつまでも隠せるわけがねぇ」

 戦が起これば、間違いなく神の手は求められる。
 そして、神の手を戦場から奪った愛弟子は憎悪の対象で、見つかればただでは済まない。
 性別は偽りを流布していたけれど「愛弟子ミント」の名を知っている者はそこそこ居るのだ。
 性別を隠し切れなくなり僻地のこの街に流れてきてからは、他人と距離を取り治癒師で通していたし、サインが必要な時はミンティアと偽名を綴っていたが、ほんの一時しのぎにしかならないはずだ。
 一度でも国に召集され、身元を調査されたら、すぐにばれてしまうだろう。
 恨みの対象となれば男でも悲惨な目に合うが、女の身ならばそれを上回る。

「自覚しておけよ。嬢ちゃんは国の上層部からは恨まれている。あんたは戦狂いにとって、理不尽になぶるに相応しい対象なんだよ」

 凄味のある赤い瞳に射抜かれて、ミントはブルリと身を震わせた。
 ただの脅しなら良かったが、これでも控えめな表現で、何一つ偽りがないとわかってしまった。
 見ず知らずの有象無象から、とんでもなく恨まれている事実に震えてしまう。
 そして、自分の身一つの在り方で、育ての親の命まで脅かす事にも怯えるしかない。

「こうなりゃ、逃げるが勝ちってもんだ。わかるだろ?」

 俺がいるから安心しな、と頭をなでるために延ばされた手を、ミントはそっと掴んで自分の頬にあてた。

「ありがとう、ローさん」

 すり、と頬を軽く摺り寄せて、目を閉じる。
 大きくて硬い、戦う人の手のひらは、とてもあたたかかった。
 この人が飼いならせる自分だけの番犬なら、迷いなく自分の命運を預けただろう。
 殺して、と願えば迷いなく命を奪ってくれるような、飼い主に忠実な番犬だったならば、きっと酷い事を願ってしまった。
 そうではないことに、自然に笑みがこぼれ落ちる。

「そんな事情があるなら、私は行けない。一緒に行ってはいけない。だから、ローさん。今まで一緒にいてくれてありがとう」

 ミントの言葉が意外過ぎたのか、一拍置いて「は?!」とローは驚きの声を上げた。「てめぇはバカなのか」と忌憚ない本音まで続いていた。
 あけすけすぎるその態度がおかしくて、ミントは声を出して軽やかに笑った。
 そして、そっと目を開いて、ローの赤い瞳を見つめた。

「今の国王陛下は残忍な方だと聞いています。ご自分の実の弟すら、先の戦で功を上げすぎたという理由で手打ちにした酷い人。その陛下の招集から逃げたら、報復が向かうのはこの街の人たちでしょう?」

 神の手の弟子とか、弟子ではないとか関係なく、ただの治癒師であっても、召集拒否は大罪である。
 ましてや、街から逃げ出すのを許したとなれば、責任を問われるのは街の全ての人々で、理不尽に無辜の民が罰せられることになる。
 鞭打ちぐらいならまだしも、平気で街に火をかけるような人物なのだ。

「だから行けない」と言えば「召集前ならかまやしねぇよ」とローは吐き捨てる。
「そんな事情を考慮する陛下ではないでしょう」と畳みかければ、苦い表情でローは舌打ちした。
 否定する材料が欠片もないのだと、その表情で読み取れる。

「私は医師で、治癒師ですから。理不尽な犠牲が出るとわかっていて逃げたら、一生自分が許せなくなるもの。私は息をするたび後悔しながら、死んだように生きるのは、嫌です」

「だから逃げない」とも繰り返せば、「畜生め」と本気でローは毒づいた。
 無理やり連れだすことは簡単だが、それでは意味がない事を知っていた。
 こうなってくると戦が起こらない可能性にかけて、この街での暮らしをギリギリまで伸ばしたのが悔やまれる。
 ミントの元に訪れたその日に、なんでもいいから理由を取り付けて、さっさと連れ出しておけばよかったのだ。
 半年以上前の逃走なら、街の住人たちも無関係でいられた。
 懐かぬ猫のような距離で、気の良い街の人たちと過ごすミントの暮らしが、あまりに平和なので、崩すのを惜しいと思ったことが悔やまれる。
 ミントの頬をなでていた手を引き、ローは自分の頭をグシャリとかき混ぜる。

「バカだよ、あんたは」
「本当に、バカですよね。でも、多分、死ぬまでバカでいいんです」

 誰かを生かすために自分を生かすことは誉だけど、他者の命と自分自身の命を天秤にかけたら、他者に傾く。
 それは大きな矛盾を孕んでいるけれど、その矛盾さえもミント自身なのだ。
 何のてらいもないスッキリとしたミントの笑顔に、ローは肩をすくめた。
「あ~あ」とお手上げのポーズで、あきれたように笑う。

「あんたは、間違いなくあのジジイの娘だよ。性根がそっくりだ」

 畜生め、と毒づきながらさらに笑っていたが、ローはふと何かを思いついたのかニヤリとする。
 悪戯を思いついた悪童みたいな顔をしていたけれど、それについては特に触れず、ソファーにゴロンと横になった。

「それで、嬢ちゃんはどうすんだ? 召集されるにしても、ここには多分帰ってこれねぇぞ」
「まぁ、そうでしょうね」

 召集されても馬車か何かで王都に運ばれるだろう。
 この街から離れてしまえば、街の住人に痂疲はなくなる。
 ミントが何か行動を起こすならば、王都に入る手前だろう。
 かといって兵士たちの目を盗んで、逃走する技術などはないから、なにができるという訳でもないのだけれど。

「なんとかなりますよ、きっと」
「お~お~戦場を知らねぇ甘ちゃんが、なんか言ってるぜ」
「戦場に行く前に、息の根を止められるかもしれませんけどね」

 冗談めかして無理に笑えば、グッと勢いよく襟首をつかまれて、そのまま引き倒された。グルンと一瞬で視界が回ったことに、息が止まるかと思った。
 ソファーに押し倒されていることに驚くよりも、怒りに満ちたローの眼差しが怖くて身を震わせる。

「つまんねぇ冗談はよせ。簡単に死を口にするな。最後までしぶとく生きることを考えろ」

 手負いの獣のようなギラギラした眼差しに射抜かれたのは恐ろしかったけれど、見つめ合えば心配からくる怒りだとわかってしまった。
 それが、嬉しくて悲しかった。

「私は、神の手の弟子なんです」

 冗談ですめばいい。
 でも、たぶん、冗談にはならない。
 戦う術も、逃走する術も、ミントにはない。
 けれど、自分の身を永遠に利用されない方法はあるのだ。

 富める者にも、貧する者にも、等しく訪れる死という安息を手に入れるのは、実に容易いから、視野に入れるのも必要悪だろう。
 割り切るとか、割り切らないとか、そういう話ではなく、自分で自分の進退を決めるというのは、こういう事なのだろうと思う。
 最後まであがくにしても、常に覚悟は持っておかなくてはならない。
 そこまで思考を巡らせたところで、ふっと浮かび上がった想いが口から零れ落ちた。
 今でなければ、一生、伝える機会を失ってしまう。
 そんな焦燥が、声になった。

「私、あなたが好きです」

 煌々と輝く赤い瞳が、炎のように強く揺れる。
 刺し貫くほどの鋭い眼差しで、ローはただミントを見ていた。
 はじくでもなく、受け入れるでもなく、刺し貫くように、ミントの心の奥深くまで覗っているようだった。
 だから、出会ってから今までの中で、一番綺麗な笑顔を見せる。

「ロー・ウェン。あなたが好きです。初めて好きになって、最後まで好きな人が、あなたで良かった」

 ミントの穏やかな表情を、食い入るように見つめていたローだったが、恐ろしいほどの沈黙の後で、ハッと荒い息を吐く。
 鎮まっていた獰猛な獣が、自身の在り方を取り戻したように、ゆらりと身を起こす。

「勝手に終わらせてんじゃねぇぞ、バカが」

 スルリ、とその硬い手のひらでミントの頬をなであげ、甘える猫のように頬を摺り寄せる姿にちっと舌打ちする。

「これだから自分が女だって知らねぇ奴は困るんだよ」

 毒づかれた意味がわからず、キョトンと見上げてきた無垢な緑の瞳に、荒々しくのしかかる。
 壮絶な色気を湛えた笑みで少女めいた面差しを見下ろし、ローは逃さぬように細い腰を引き寄せると、もう片方の手で小さなあごを掴んだ。
 驚きに身を震わせる生理的な怯えさえ、獲物を前にした獣の獰猛さで笑う。

「まぁでも、そんなバカに惚れるってのも悪くねぇからな」

 熱のこもった吐息を吐きだすと同時に、嚙みつくような口付けを落とすのだった。

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