兎と猛獣 ~ 月の綺麗な夜でした ~

真朱マロ

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おまけ

ある治癒師の追憶 おわり

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 どれほど眠ったのかはわからない。
 ざわざわと人の動き回る気配に、フッと目が覚めた。
 気が付くと、朝が来ていた。
 扉代わりの布がめくり上げられ、簡易鎧を身に着けた見知らぬ騎士が顔を出す。

「気が付かれましたか? 簡単ではありますが食事を用意しました。朝食の後で移動しますので同行ください」

 昇り始めたばかりの太陽と、しっとりと露を含んだ空気があたりに満ち、ラージはそろそろと身を起こす。
 幌馬車内にいた他の民間人も起き出して、恐る恐る外に出た。
 死体などは片付けられたのかどこにもなく、朝食を告げた騎士と同じ簡易鎧とマントをまとった一団がせわしなく動いている。

 暖かな朝食をふるまわれている間も、彼らは壊れた幌馬車を直していた。
 そのマントや隊服の色から、自分たちをここまで連れてきた国王陛下直属の騎士団とは違う組織なのは見て取れたが、自分たちの扱いがどうなるかまではわからない。
 指示されたわけでもないのに、なんとなく他の幌馬車で集められた人間も一か所に固まって、その様子をぼんやりと見つめていた。

 と、その時である。
 ひょこひょこと近づいてくる老人がいた。
 どこにでも居そうな口の達者で頑固者らしい顔立ちだが、細くひょろりとした体格のせいかしなびたキュウリのようにも見える。
 腰に手を当てて前屈みで歩いているけれど、わざと老人めいた動きを装っているようにも感じて、ラージは背筋がゾワリとした。
 なんとなく怖いので目を合わさないように後ろに下がったが、聞こえてきた名前に思わず顔を上げてしまった。

「すまんが、ミンティアはどこかの?」

 意外な名前に顔を見合わせる同郷の男たちの様子に、ひょいひょいと老人は近づいてきた。
 目の前に立たれるとその細さや枯れた感じが際立つが、妙な圧も感じて全員が二歩ほど下がってしまった。
 にこやかな表情なのに刺すような鋭い視線に押され、ゴニョゴニョと小声で答えるしかなかった。

「ティアちゃんなら、なぁ」
「その……山賊に攫われちまったから、もう……なぁ……」
「おぉ、ここには居ねぇ」

 クワッと見開かれた老人の驚きの表情に、慌ててそろって言い募る。
 なにしろティアは自分から、自称山賊の男に付いていったのだ。
 本当に大丈夫なのかと心配する気持ちはあるものの、本人のあの笑顔を見たら引き留める野暮は出来ない。

「いや、ほらアレだ。山賊っつっても、普通の山賊じゃねぇから」
「なんつーか、ほら、山賊でも大丈夫だ、たぶん」

 朝には救援は来ると言い残された通り新たな騎士団が来たので、ここにいる一団は山賊の仲間なのかと思っていたが、老人の反応からして行き違いがあったらしい。
 どうやらこの老人はティアの知り合いらしいので、心配させるのは得策ではないと思ったが、正直に伝えるのも少々はばかられる。
 どこまで語ればいいかわからず、煮え切らない言葉ばかりになったが、老人のまとう気配はどんどんと冷えていった。

「心配ありませんよ。相手が山賊だろうが騎士団だろうが、ティアちゃんの旦那なら彼女を危険な目に合わせません」
「そうだよ、なにせ新婚だしな」
「仲の良さも半端ねぇし。どこにいようがアレは離れないって」
 
 なだめにかかる幾つもの「落ち着け、爺さん」の声に、ゆっくりと老人は微笑んだ。
 そしておもむろに近くに置いてあった壊れた木の車輪を、人差し指でちょいと突く。
 瞬間、バキィッと音を立てて、その車輪は粉々になって吹き飛んだ。
 ギョッとする間もなく、恨み骨髄の低い声が絞り出された。

「わしの娘に手を出した戯けたわけの話。詳しく教えてもらおうかの」

 枯れた老人から発せられたとは思えない狂暴な圧に、ラージたちは天を振り仰いだ。
 新婚ワードからして不味かったと、今更気付いても遅すぎる。
 正直に話しても、オブラートに包んでごまかしても、この老人は怒り狂うだろう。
 ローが山賊だと吹聴して、さっさとティアを連れ去った理由もわかる気がした。
 無事に故郷の街に帰れるのだろうか?
 そんな感傷に浸ってしまう、朝の一幕だった。

 その後。
 老人からは命の危険を感じたものの、結論から言えば幌馬車で集められた民間人は故郷の街に帰れることになった。
 保護してくれた騎士団は民間人への対応も丁寧だった。
 尋ねれば答えもくれるし、無茶な移動もしない。

 ただ、今すぐ故郷に帰還すると再招集も起こり得る可能性が高いということで、三カ月ほど第三王子の領地で秘かに保護された。
 国王陛下に召集されたのに、第三王子に保護されるのもおかしなことだが、世の中には知らない方が良いことがある。
 特に、権力者の都合には関わらないに限る。

 そう思っていたはずなのに。
 治癒師であるラージだけは、すぐに帰れなくなってしまった。

 同郷の男たちもおおよそ三か月で帰郷した。
 他の街の治癒師たちは第三王子直属の騎士団や病院の手伝いに普通に駆り出されて三か月後に出身地に帰されたのに、ラージだけは老人の弟子に指名されてしまったのだ。

「おまえさんは筋がいいから、わし直々にチャチャッと教えてやろう。一年あれば免状も出せるじゃろうて」

 ホクホク顔で保障されて、医師になる気のなかったラージは頬を引きつらせる。
 一生治癒師でいいと思っていたし、若者でも挫折するほど医療知識は膨大である。
 それを一年で医師の免状発行とは、無茶が過ぎる。
 目の前にいる老人が「神の手」と呼ばれている名医だと気付いてしまえば、嫌だと言えないのが辛い。

 これは、幸運なのだろうか? 不運なのだろうか?

 それすらわからなくなりそうな忙しい毎日の中で、老人はティアの話を聞きたがった。
 お気に入りのパン屋のことや、肉屋のおかみさんに可愛がられていたこと。
 彼女を支援しながら治療に当たったことや、反対に彼女に支援されながら一緒に治した厄介な病気のこと。
 三年は短いようで、思い出語りが出来るほどに長い。

「そうかそうか」となんでも嬉しそうに聞いている老人も、ローが来訪してからの様子や一緒になった蜜月の様子には般若の顔になる。
 ベキィッと何本もペンを圧し折ったが、半年もするとそんなことにも慣れてしまった。
 またやってるとしか思えなくなるし、備品を大事にしてくださいと文句も述べるようになった。
 神の手を相手に意見するのだから、我ながらずいぶん図太くなったものだ。
 養父である老人にとっては、愛娘を奪われた耐えがたい出来事なのかもしれないが、ラージはそのたびに思い出す。

 最後に見た、幌馬車から去る少女の微笑みを。
 純真と。献身と。慈愛に満ちた、なによりも美しい微笑みを。

 あれほど綺麗に笑えるのだから、間違いなく彼女は幸福だろう。
 まっすぐに、迷いなく、ただ一人に向かう背中に贈るのは、祝福だけで良い。
 遠くにいるだろう少女と青年のために、ラージはそっと祈る。

 どうか、ふたりが末永く幸せでありますように。
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