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後日譚・海に浮かぶ月を見る

じゅうよん 甲板にて

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 在りし日の美麗な船は、今や、見る影もなかった。
 帆柱はへし折れ、国籍旗のポールは跡形もなく、船内の壁だけでなく舷側もまだらに崩れ、甲板に黒々と開いた大穴は船底近くまで月光を届けている。

 甲板上の捕縛用の魔法陣の横。
 惨状としか呼べない船上で、ミントは額の汗をぬぐった。
 累々と転がっているケガ人だが、とりあえず目につく負傷は、命に問題のないところまで治せたと思う。

 それでも、こんな時には考えてしまう。
 私は治癒師で居たいのか?
 本来の能力を隠さず、医師でありたいのか?
 自分の身の安全を考えるなら、出来る事は少ない方がいい。
 他人の命に重きを置くなら、神の手の背中を追いかけて、医師の表明をして腕を磨く必要がある。

 治癒力は、万能ではない。
 傷はふさぐし、神経はつなぐし、骨折は接合する。
 けれど、治癒術的な視点からも医療的な視点からも、治癒術に頼りすぎると本人の回復力を損なうので、基本的に完全回復は避けるものだ。

 助けたいと願い、ほど良く治せば患者の未来まで救えることがわかっているからこそ、腕のある医師ほど完全回復を無意識にためらって、大きな傷の快癒に辿り着けない。

 骨折なら完全治癒をするにしても一週間以上時間をかけるし、裂傷は塞いでも肉の破損は数日かけて回復させていく。
 患者からの要望は状況次第で受け入れることもあるが、基本は半癒である。
 怪我からの二次感染を防げる程度に治し、患者自身の持つ回復力を伸ばせるように、ギリギリを見極めて傷を癒すのが医師の腕の見せ所でもある。

 もっとも全力を尽くしても、一瞬で傷病を完全に回復できるほどの治癒能力者は片手の指の数よりも少ない。
 そんな奇跡を起こせるのは、神の手である養父ぐらいだ。

 己へも問い続けながら全力を尽くし、傷病者の自己回復力を損なうことなく、完全回復を成し遂げたからこそ、神の手はその存在が尊ばれたのだ。

 けれど、神の手は自らの腕を誇る事はない。
 戦場では、その瞬間に命を繋いで戦い続ける事こそが生きることで、戦いの担い手の平和な未来を考慮した半癒など夢物語でしかない。
 必要に駆られた無謀だったと、神の手の顔で自嘲していた。

「もしも神が居るのならば、今だけでも儂の手に宿り力を貸せ」

 治癒の能力が「願い」であり「祈り」でもあるなら、患者に向き合うときのその言葉通りに、神の恩恵を宿した手が命を損なうことなどないとまで言い切っていた。
 患者に向き合うときの言葉に乗せられる意志の強さを、揺らぐことすらない魂の輝きを、神は寵愛しているのだろう。
 彼の偉業はすべて、神の奇跡に等しい。

 それでも奢ることなく無辜の民にまで向き合う、毅然とした養父の背中は、ミントの指針でもあった。

 ミントは魔法陣の中を見た。
 甲板の片隅に描かれた金色の魔法陣の中には、泣いたり怯えたり打ちひしがれたりして、動けなくなっている船員たちが数十人。
 重なり合いながら倒れていた。

 誰も見咎めていない今ならば、神の手が誕生した時と同じ「必要に駆られた無謀」を追体験できるのではないか。 

 そんな、悪魔のささやき。
 流血こそ止まったが傷跡はまだ見えるし、骨はつながっただけで外部から力が加われば簡単に離れるし、傷そのものがなくなったわけではないので実におとなしい面々を見ながら誘惑に耐えた。

 今はまだ腕が足りないと自重する。
 身に過ぎた傲慢は、神の手に届くことはないだろう。

 何のために癒し、救うのか。
 今だけでなく、彼らの未来まで救いたいと思うのは、医者のエゴなのか。
 惑うのは、ミントのような凡庸な医師だけだ。

「こいつらが最後だ」

 船倉から戻ってきたローが、肩に担いでいた二人をポイと床に投げる。
 あまりの雑さに驚かされるが、戦場はこんなものだと言われてうなずいた。
 気を失っている相手の、折れた手足や皮膚から白く突き出た鎖骨のあたりを手際よく治すと、ローが横から奪うようにゴロゴロと転がして魔法陣の中に二人を入れた。

「私に出来る事は、ここまでです。しばらく傷むかもしれませんが、通常生活に戻れます」

 命に別状はないと言っても胸に風穴が開いたり、腕や足の骨が突き出た状態で運ばれてきたから、精神的な傷で泣き濡れている者がほとんどである。
 戦場を知らないミントでも、最前線ってこんな惨状だろうなと思うぐらいの重傷ぶりだった。
 医師になりたての頃、養父と辺境の魔獣戦線に参加した経験があるから平常心で対応できたが、即死しないのがローの最大限の手加減なのかと乾いた笑いが浮かんでしまった。

 誘拐犯だったとはいえ、千切れかけた自身の身体を目にした心因的な衝撃はすさまじかったようだ。
 白かったはずのミントの服はケガ人の血で赤く染まっていて、誰が自分たちの命を救ったか、一目瞭然だった。

 傷ついた連中も少し正気に戻ったのか「女神だ」「妖精だ」と小さくざわめく声が聞こえてきて、ローはミントを隠すよう前に立ち「うぜぇ」と眉をひそめる。
 ミントは困惑しながら、ローの影に隠れて小さくなった。

 死を待つばかりの重傷だったのに、ほんの数分で「人間」の形に戻れた奇跡を前にして、血染めの少女に感謝の祈りを捧げる者までいた。
 あまり顔を覚えられるのは得策ではないのだが、人間、極限状態での恩義は数割増しで記憶する。
 通常ならプラス効果だが、ミントのように素性を探られたくない者にとってはマイナスに働く。
 捕縛された先で、包み隠さず恩義込みの割り増しで喋られたら、大変都合が悪い。
 ジルが帰ってきたら記憶を消すよう進言しようと非情な事を考えながら、ローはひと段落着いたことを感じていた。
 ラタンフェの街に来てから付きまとっていた、首の後ろがチリチリするような嫌な感覚が消えたので、おそらく「何かが起こる」予感はこいつらが原因だったのだろう。

 ロザリンデとダンテが船から去ったのも大きい。
 ミントの胸にうっとりと顔をうずめていたロザリンデの表情を見た時に確信した。
 あの女は第三王子アレクサンドルと同類で、腹の底から真っ黒だ。
 異国の王族がゾロゾロと現れただけでも厄介なのに、奇妙な縁ができた気がしてうんざりする。
 どうしてくれようか、と思考を巡らせていたところで、ヒュッと空中からジルが現れた。

「お疲れー! とりあえず、宝月祭が終わったら報酬について連絡するんで、今は消えてくれっす! またねー!」

 ミントとローの姿を認めると、見慣れた糸目がにんまり弓を描いて陽気に指を鳴らした。
 え? と思う間もなく、キラキラと輝く光の帯が繊細な魔法文字の円になって二人を取り囲む。
 一瞬で術が完成し、事後報告する隙もなかった。
 奇妙な浮遊感をミントが感じた瞬間に、神速で振り向いたローが腕をつかんだが、引き寄せる前に二人の姿は甲板から消えていた。

「よし、これで心配事は無くなったっす!」

 事態収拾のために連れてきた騎士たちは、ロザリンデたちを保護した下の階にいる。
 甲板に現れるまでにはもう少し時間がかかるので、事情聴取前に二人をちゃんと逃がせてよかったと思う。
 満足した顔で両手をパチンと合わせたジルは、次いで訪れた術がパチッと弾ける感覚に、あれぇ? という表情になった。

 ちゃんと陸へと送ったのに、途中で邪魔が入った。
 位置的に、海上に二人は落ちていそうだ。
 それこそ、真夜中の暗い海の底に向かってドボンである。

「うそぉ……神様の気まぐれっすか? あとで僕が絞められちゃう」

 ジルは真っ青になった。
 ミントは笑って許してくれるが、もう一人がダメだ。
 間違いなく怒る。怒ったローは半端なく恐い。
 短くはない浅めの付き合いだが、逃げる一択しかないぐらい怒った時は怖い。
 機嫌を取ったからと言って、なぁなぁで許してくれない相手なのに、夫婦神はなんてことをしてくれるのか。

 宝月祭の最中なのに、月女神の見守る中、海神の領域で大暴れをした自覚はあるけれど、禁じられている殺生沙汰も回避できたし、考えられる中では穏便な解決方法を取れたと思っていたのに、逆に興味を惹いてしまったようだ。

 陸への強制転移は「二人きりの時間をプレゼントしただけっす」と笑ってごまかせたが、海中遊泳付きだとそうはいかない。
 恨みがましい視線を綺麗な満月へと向けるぐらい、好奇心旺盛な月の女神さまも許してくれるといいな、と思いながらションボリと肩を落とすジルだった。
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