君が奏でる部屋

槇 慎一

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18 夕暮れの海

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 暗くなるのが早くなった。
 車で海についた時には、もう夕方だった。

 かおりはそんなに暖かい格好ではなかったから、砂浜に出る時に僕の冬のコートをかおりに着せた。

 砂浜は人がほとんどいなくて、波の音が大きく聞こえた。風に吹かれては揺れて、広がるかおりの髪、髪の動きによって見え隠れするかおりの表情を、手を繋いでゆっくり歩きながら堪能した。

「……先生、……しんいち、さん……」
「はい?」

 かおりは自分から直した。

「……あの、今日は、……うれしかった」
「まだ終わりにしないよ?」

「うん。でも、……ありがとう……」
「何が嬉しかった?」

 僕は、そんなに深い意味もなく訊ねてみた。

「……あの、先生が、かわいいって」
「そこ?」
「あの、車に乗る時に、先生が」

 なんだ、このちぐはぐな会話は。僕は、かおりに直接かわいいって伝えたことがなかったのだろうか。好きだとも伝えていなかったし。そうか、そんなに嬉しかったのか。

「かおりはかわいいよ。産まれた時からずっとかわいいって思っていた。ずっとずっと、かおりのこと、可愛がって育ててきた。かおりは、世界で一番かわいい」
 真面目にそう伝えた。
 かおりは驚いて、僕の手を離して後退りした。

 かおりは僕のことを、信じられない、という表情で止まっているように見える。そうか。かおりは自分がかわいいことも、僕がかわいいと思っていることも、わかっていなかったのか。

 僕はかおりの手を取った。
「まだ帰さないよ?」
「……うん。……まだいる。……まだお話してない」
「そうしよう。かおりの話、ゆっくり聞きたい」

 僕たちは、波が来ない砂の上に腰を下ろした。僕は、かおりに着せたコートのフードを被せ、さっき自動販売機で買った温かいコーヒーをかおりに持たせた。

「熱いよ。持てる? 寒くない?」
「うん。……では、お話します」
「お願いします」

 まるでかおりが先生みたいだ。でも、高等部の先生じゃなくて幼稚部の先生だな。僕は笑ってお願いした。まさかかおりが話題を用意してくれているなんて。

「……あのね、今日デートするのを、いろいろ、どうしようって、何から考えればいいかわからなくて、先生に聞こうかなと思ったんだけど、パパにも何でも聞いていいって、先生が言ってたから、パパに相談してみました」
「そうなんだ。パパに何て?」

「先生とデートするんだけどどうしようって言ったら、すごく喜んでくれて、とびきり可愛くしなきゃなって。次の日に、このお洋服を買ってきてくれたの」
「流石お父さん! 僕の好みをよくわかってる」

「それから、今日のメイクセットと、リップと、メイクの本も買ってきてくれたの」
「お父さん、最高!」

「それで、毎日メイクの練習をしました」
「とってもナチュラルで、上手に出来てた」

「それが、最初はつけすぎたり、うまくできなくてムラができたり、キレイにできなかったの。目の上につけるのは、目をつぶったら出来ないし、目をあけたらこわくてつけられないし」 
「頑張ったんだね」

「うん。毎日練習して、夕べパパに、メイクの仕上げを見てもらったら、とってもよくできたねって言って」
「それで?」

「泣いちゃったの」
「誰が?」

「パパが」



 僕は、いきなり後ろから頭を殴られたような衝撃を受けた。そうだ、当たり前だ。可愛い一人娘が、こんなに早く結婚することになるなんて。僕が、お父さんのかおりを奪ってしまうんだ。それなのにお父さんは、何のためらいもなく僕にかおりと結婚させてくれるって、笑顔でデートに送り出してくれて……。




 僕は声が出せなくなったけれど、かおりは続けた。

「久しぶりにパパが抱きしめてくれて。……あの、少し前まではほっぺにキスもしてくれていたけど、最近はなくて、あ、それはお友達のおうちもそうって、みんな言ってた」
「……うん……」

「パパに、先生は、パパが私を抱きしめたらいやかな?って聞いてみた。教授が私のことをぎゅうってしたり、たくさんほっぺにキスをするんだけど、抱きしめられていて逃げられないの。でも、その後いつも先生が私に冷たいような気がして、どうしたらいいかわからなかったって言ったの」
「……うん……」

「パパは、外国人の男性は女の人にはみんなそうするもので、それが挨拶と同じなんだって。先生もそのことはわかっているよって。それでも、先生は私のことが好きだから、本当はあまりうれしくないんだって。でも、どうしようもないんだって。それで、そんな時にいつものようにかおりに優しく接するのは、先生はまだ若いから難しいんだろうって。……そう、なの?」
「……お父さんのいう通りだよ」

「……ごめんなさい……」
「かおりが謝ることじゃない。僕が未熟で、かおりに悲しい思いをさせて、悪かった」

「ううん、もうわかったから、大丈夫」


 僕は、少し安心した。

「先生も、私に、そういう気持ち、お話して?」
 僕は笑ってしまった。そんな嫉妬したことなんか、かおりに言えるわけがない。

「笑ってごめん。言いたくないこともある。僕はかおりに何もかも、言えないんだ」
「……そう、なんだ」

「お父さんは?それから何て?」
 僕は話を逸らした。

「パパは、これからも困ったことがあったらパパに頼っていいけれど、これからは先生にお話するようにって。先生は私のことを愛してるから、かおりも先生の想いに応えなさいって。それが、甘えてほしいっていうことだよって。今までも、先生が私にたくさんピアノを教えてくれたこと、私がそれについていったことが、どちらかだけではダメで、二人の気持ちが同じだから、とっても尊いことだよって。……先生?」


 もう、堪えきれなくて、僕は泣いていた。


 かおりが、いつの間にか僕の前に来て、膝をついて、僕の頬にキスをした。


「……仲直りの方法は、これでいいですか?」
「……そうだね。……ケンカしていないけどね」

「でも、今……私が先生を泣かせてしまいました。……ごめんなさい」
「……いや、……これは……」

「……でも、……」
「でも、なあに?」

「先生が座っていてくれないと、私からはできないのが問題」


 笑ってしまった。そうだな。届かないだろう。

 だめだ、可愛い。
 帰りたくなくなる。
 帰したくなくなる。

 もうすっかり暗くなった。

「そろそろ帰ろう」
「えっ?まだ話は終わっていません。まだ全然!」

「あとは?」
「私が産まれた日のことから、うれしかったこととかを、順番に……お話しようかと」

 僕は笑った。そんなに話してくれるつもりだったのか。確かに僕は、かおりと話をしたいと言った。覚えていてくれたんだ。

 僕は笑いながら立ち上がり、砂をはらった。

「うれしいね。でも、車の中で聞くよ。もう夜だ。ここでかおりの17年分の話を聞いていたら来年になりそうだ」
「じゃあ、あとここで、キスして……」


 耳を疑った。

 今、かおりは、何て言った? 

 僕に……。

 おとなしくて、ほとんど自己主張のしないかおりが……。

 立ち上がった僕を、下からまっすぐ見上げてはっきりと言った。


 僕は、手を差し出してかおりを引き上げて立たせた。風で冷たくなったかおりの顔を両手で包み、優しく重ねるだけのキスをした。

 唇を離してから、
「一年前の『献呈』の時と同じ気持ちだよ。それより、もっと好きだ」
と伝えた。

「……先生は、あの時、ありがとうって。何に、ありがとう、だったの?」 
「覚えてるよ。かおりが僕のピアノを聴いてくれたこと。綺麗って言ってくれたこと。うれしかったんだ。あの時はまだ、好きだって伝えてなかったね。すごく好きだったけど、僕がピアノで一位を獲るまでは、それからかおりをピアノで一人前にするまでは、って思ってた」

「……今日の『献呈』……」
「どうだった?」

「……今までで、一番、素敵でした」 
「こちらこそ、素敵な一日をありがとう」

 暗くなった砂浜を、手を繋いで車に戻った。

 風は冷たかったが、不思議と寒さは感じなかった。かおりに持たせたコーヒーも、冷たくなっていただろう。

 かおりは繋いだ手の反対の手で、しっかり持っていた。



















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