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63 育む幸せと責任
しおりを挟むかおりの妊娠生活は、順調で幸せで怖いくらいだった。
女子大でのかおりの専攻はフランス語に特化した文系の芸術学部だ。音楽はもちろん、美術や演劇や歴史を学ぶ。教育学部には保育学科もあり、時間をつくってそちらからも情報を得ているようだった。
かおりは、大学の授業がない週末は、土曜日の午前中に大学の音楽教室でフランスのピアニストA氏のレッスンを受け、僕の母親が迎えに来て実家に泊まらせて、日曜日の夜に僕がかおりを迎えに行き、二人で教員住宅に戻る生活だった。
実家では、僕の母親にソルフェージュと和声を教えてもらっているらしい。かおりは音楽大学を受験していないので、ピアノは弾けても聴音をしたことがなかった。いずれは僕の母親と同じようにピアノ科とソルフェージュ科の講師もできるようにという、母親の配慮だろう。もちろん、僕たちの子供の教育にも有効だ。
実家では、かおりのお母さんと時間をかけて会話したり、お父さんと3人で新しい関係を作り出しているようだった。それまでは、お父さんとお母さんは会話があっても、あまりしゃべらないかおりと、全然しゃべらないかおりのお母さんとは全く会話はなかったそうだ。
社宅は外国人のお客様を長期間滞在させることもできる間取りで、バスルームもパウダールームも2つずつある。部屋数は多くないが、どれも広い。一階の僕の実家と、二階のかおりの実家は上下だったから、僕の家と同じ間取りだった。同じ面積でも、ピアノのないかおりの家は、空気感だろうか……何もかもがゆったりと、広々としているように感じた。
僕たちの赤ちゃんが生まれることで、物事が全て良い方向に運んでいるかのようだった。
とはいえ、僕はかおりの妊娠を母親に伝えた後、話があると大学に呼び出された。
同じ大学のピアノ演奏科のベテラン講師である母親のレッスン室は、新米講師である僕のレッスン室とは同じ建物だがフロアと向きが違うため、窓から見える景色も違った。
昔から変わらない綺麗に整えた巻き髪、高いヒール、きっぱりした色のスーツに身を包んだ余所行きの格好をした母親から、今までない雰囲気と緊張を感じ取った。
「何でしょうか?」
「まずはあなたがパパになること、おめでとう。人間的にも成長できる機会だから期待している。それはそれとして」
かおりには言わないことだから僕をここに呼んだ。何よりも、何事もなく出産して、無事に成長していくことを願う。かおりのことは娘だと思って見守ってきた。心から大好きな娘だが、本当は心配なことがたくさんあると言う。
僕の母親は、幼稚部から同級生だったかおりの母親のことが、心が綺麗で大好きなこと。しかし、かおりのお母さんは結婚してから子供を授かるまでに時間がかかったこと。精神的に未熟だったからだと推察する。そして、普通の母親としての役割を果たしていなかったこと。僕の父親の上司であるかおりのお父さんは、若い頃から仕事ができて、上役に認められて出世が早かったこと。結果、なかなか家庭のことまで回らず、かおりとかおりのお母さんの面倒を見るのは大変だったこと。ピアノのことはわからなくて当然なこと。だからこそ、僕の母親がなるべく側にいて、お父さんが気がつかない部分を陰ながらサポートしてきたこと。僕とかおりに両方の家の鍵を持たせて、いつでも僕の母親を頼ってもらえるように接してきたことも、そうした背景からだと。
かおりは妊娠するには若すぎること。年齢ではなく、精神面、体力面でケアする必要があると。健康診断をしても異常はないと思うが、同年代の普通の女子と比べたらお嬢様育ちで、近距離の徒歩通学しかしたことがない。体力がないはずだと。ピアノを弾く体力とは別の体力だと言う。
体力は精神的に安定していることが前提で、それは僕が支えているとはいえ、もともと感受性が豊かで、繊細で、儚くて、脆くて、危うい子だと。それでいて、芸術方面で世間的に才能を認められるということは、偏りがある特別な子だと。そういう意味では、僕も母親も努力家の凡人だと。僕は納得した。
そう、かおりは普通の女の子とは違う。あの、誰でも入学出来るわけではない、お嬢様学校のお友達の中でも、一際存在感がなく、薄く儚く感じる。あまりにも素直で純粋すぎる。
いつだったか、僕がかおりじゃない誰かとキスしたことがあるかどうかの話になった時、かおりは泣いた。たったそれだけで感情が溢れてくる脆さに、僕は驚いたっけ……。
だからこそ、僕がこれだけ一緒にいて抱き抱えるようにしてピアノを通して彼女を丸ごと育ててきたのだ。他人は過保護だと思うだろうが、かおりのお母さんと比べたら、かおりの方が遥かに生活能力がある。他人とは比べられない。
僕の母親は全体的なスキルが高いタイプの人間だ。かおりが産まれる前は、ピアニストの活動は控えめにして、毎日季節の花を飾り、手作りのケーキを焼いてくれ、一緒に工作をし、絵本を読んでくれた。僕が眠くなったらバッハやショパンを弾いてくれ、加えて自身の練習も欠かさずにしていた。
そんな母親だから、本当ならば僕とかおりに対してもっと丁寧に、細やかな世話ができただろう。そこを敢えて手も口も出さず、僕に一通りの家事を教えて、僕たち子供同士で何とかしていくことを覚えさせたのだろう。
僕も、かおりに何でもしてあげた訳ではない。僕が母親に教えてもらったように、僕はかおりにやって見せて、覚えさせて、やらせた。そうしてかおりは、時間がかかっても自分の身の回りのことはできるようになった。在り合わせの材料でも多少の料理はできるし、自分一人分の衣類を洗濯して干して畳むことができる。
「そうだな……。かおりの内面もすごく成長しているけれど、言いたいことはわかった。それから、偶然というか何と言うか……」
僕は続けた。母親は知っているだろうか。
「ヴァイオリンの助教授の小石川先生の娘のマヤちゃんが……平山マヤちゃん。かおりと仲良しで、あなたと同じように影からも日向からもかおりをサポートしてくれている。僕の門下の一学年下の高橋慎二がマヤちゃんと結婚して、平山慎二になった」
母親は表情を変えなかった。
「そうらしいわね。名前は変わったけれど、コンチェルトオーディションでも演奏は飛び抜けて上手かったから、教授陣もあれはタカハシだってすぐに判ったわ。……かおりちゃんのことも教授会で話題になっていたわ。ソロもいいけど、オケの音が出せるしアンサンブルもいいって。慎一、よく育てたわね。あなたはソロもできて指導力もある。なかなかできることではないわ。私はかおりちゃんのお母さん代わりでいたかったから、あえてピアノには関わらなかったけど」
「おそれいります。お母さんと教授のおかげです。今はA氏が熱心に見てくださっています。僕はサポートするだけです」
「そうね」
言っておくべきか迷ったが、切り出した。
「その、マヤちゃんがかおりと一緒に子育てしたいとかで、2月に出産予定だそうだ。小石川先生がこの経緯を知っているかどうかはわからないが……」
「そう……大丈夫。こちらからは何も言わないわ。マヤちゃんは若くても問題ないでしょうが、かおりちゃんは心配だわ。とにかく、今は大切な時期だから無理しないでもらいたいけれど、慎一は過保護にしすぎないで。栄養を取らせて、精神的に支えてあげて、安定期に入ったら体力をつけさせていくようにね。そのうち、お父さんにも話をしにいらっしゃい。喜んでいるわよ。同じ年齢でパパになるのですものね」
「はい。ありがとうございます」
母親が落ち着いて話をするのを、久しぶりに聞いた。いつ以来だろうか?普通に話せるんじゃないか。
母親のことは騒々しい、強烈な、……音楽用語でstrepitosoという言葉がぴったりだと思っていたが、calmand(静かに、穏やかに)な面もあったんだな。ちゃんと、carezzando(愛情をこめて)も伝わった。
僕は自分のレッスン室に戻って、残りの空き時間を基礎練習に当てた。
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