君が奏でる部屋

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槇夫妻のエピソード

3 お互いを知っていくこと

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 二階の藤原さんの所に寄って『一階』に戻った時には、昼過ぎになっていた。

 そうっと寝室に行ってみると、るり子はその音で目が覚めたらしい。俺を見て驚きつつ、掛けたものを胸に抱えながら少し起き上がった。白い肩が綺麗だった。軽く抱きしめて髪を撫でた。愛おしくて堪らない。

「コーヒーを入れてくるよ。シャワーあびてきたら?」

 俺はるり子のために買ってきた洋服を一式渡して、席を外した。

 俺はコーヒーが好きだ。しかし、こういう粉のコーヒーをこんなに美味いと思ったのは初めてだった。人の有り難さだろうか。俺はるり子の為に、もう一度コーヒーを入れ直した。まだ混乱しているだろうか。もしかして、後悔していないだろうか。体に痛みはないだろうかと案じた。



 リビングにいた俺のところに、るり子が戻って来た。さっき俺が渡した服を着ている。流行りのユニセックスな普段着だ。

「可愛いよ。勝手に選んだから、趣味じゃなかったらごめん」

 何しろ、ドレス姿しか見たことがないのだ。

「着心地がいい……こういうの、着たことなかった」

 るり子のそんな言葉を聞いて安心した。表情も固くない。
 
「テーブルの上見て」

 るり子はそちらへ行った。




「え!本当に?」

 驚く声が聞こえた。

 るり子が見たのは、俺が左半分を書いた婚姻届だ。午前中に区役所でもらってきた。証人の欄は、藤原さんと奥さんにサインしてもらってある。


 俺はゆっくりそちらに行った。


 るり子の体をこちらに向け、目を見て伝えた。

「藤原さんにリサイタルのチラシをもらって、演奏を聴きたいと思っていた。聴いてみて、好きになった。会ってみて、もっと好きになった」

 るり子は何も言わなかったが、その表情からは幸せそうな様子が伝わってきた。

「結婚してほしい。俺は多分、出張が多い。君はここでお友達と音楽があるから、寂しくないといいけど。あ、まだピアノがないね」


 俺はその場で父親に電話をした。

「誠一です。結婚します。……名前はるり子。ピアノだけほしいんだけど……いや、趣味じゃない。ピアニストだ。……部屋?広い。間口も……大丈夫。住所はまた後で」

 あっさり了解されて、俺は拍子抜けした。まぁ、独立した身だ。反対されることはないと思っていたが。

 俺はるり子に説明した。

「実家にピアノがあったんだ。ちょっと特別なやつなんだ。気に入るかわからないけど、ひとまず手配したから」
「本当に?いいの?」

 るり子がやっと口を開いた。

「うん……それに、責任も取らないといけない」
「え?」

「……避妊してない」

 るり子は僅かに狼狽して下を向いた。

「俺は後悔してない。大切にする。るり子、返事は?」

 俺は真っ直ぐに伝え、返事を促した。

「…………ずっと女子校だったし、練習ばかりで、誰も好きになったことがないんです。だから今の気持ちが何なのかも、わからない。あなたの気持ち、嬉しかった。音楽のこともピアノのことも。これから、好きになるのでも、いいですか?」

 よかった。上出来だ。

「いいよ、一緒に出しに行こう。それ書いて」
「はい」

 るり子は返事をしてペンを握った。

「誠一さんて言うの?え?22歳?」

 るり子はいちいち驚いた。反応が面白い。

「そうだよ。入社したばかりだって藤原さん言ってなかった?」
「五つも年下なんだ……」

「五つでも幾つでも関係ないよ。誤魔化さないで書いて?」
「はい……誠一さん、今は寮なんだ?」

「そう。寮には仕事のスーツしか置いてない。後で取りに行くから付き合って」
「はい……」

「マキって呼んで」
「はい。……マキ、くん」

「それでいいよ。出掛けよう」

 綺麗なのに可愛いな。
 書き上げた婚姻届を何回か折って、スーツのポケットに入れた。
 玄関から声がした。

「スニーカーまである!」

 はしゃいだ声に、俺は笑った。

「まさか、スニーカーも初めて?」
「うん!体育みたい!歩きやすい!」

 そうか、お嬢様か。手を繋いで坂を降りた。俺は質問した。

「ゆっくり仲良くなろう。何して遊ぶのが好き?」
「遊ぶ?……いつも練習して、本を読んで、家事の手伝い。マキくんは?」

「今は入社したばかりだから仕事に慣れるのに忙しくて……でも美術館は好きだな。音楽も。……じゃ、好きな食べ物は?」
「お母さんのお料理。あまり外で食べたことはない」

「お嬢様だな。……悦子さんとはよく会うの?」
「悦子が結婚してからはあまり会わなかった。もしかして、これからはちょくちょく会えるかな?」

「そうだな。後で藤原さんに会いに行こう」
「うん!」


 俺は、無邪気な少女を連れている気分だった。悪くない。全然年上だなんて感じない。生活感がないからだろうか。
 ピアノが弾ける綺麗な女。俺は嬉しかった。




「おめでとうございます」

 区役所でそう言われた時、るり子の目が潤んでいた。

「嬉しい?」

 俺は聞いた。るり子は頷いた。俺はるり子の肩を抱いた。昨夜、一晩中抱きしめた綺麗な女。これで、俺のものだ。

 一緒に、寮の荷物を取りに行った。独身の男子寮だから、るり子には受付の横で待っていてもらった。

 寮の部屋は、昨日の朝までここで暮らしていたことが信じられない程に小さく感じた。
 出張用に買ったトランクにスーツと服を詰め、細々した必要な物はリュックに入れた。後は他の部屋の奴にもらってもらうか処分をお願いしよう。

 きっとるり子は家から何も持ってこないだろう。
 俺も、これだけでいい。

「お待たせ」 

 るり子は驚いていた。少ない荷物だ。荷造りなんてたいした事ではない。

「それだけ?」
「あぁ」

「マキくん、リュック……私が持ちましょうか」 
「そう?ありがとう」

 俺はるり子の気持ちが嬉しかった。俺は右手にトランク、左手にるり子の手を取って社宅に帰った。

 昨日初めて行った社宅に『帰る』ということが、とても新鮮で、これからの生活が楽しみだった。














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