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conductor
7 身体と心の不調
しおりを挟むある日、大学で学生のレッスンをしていた僕は、メールが来ていたことに気付いた。休憩中に開いてみたら、声楽の松本からだった。
「奥方がお疲れの様子。合唱練習後、保健室にお連れした。ちえみが付き添ってる」
学生のレッスンは、あと二時間だった。心配だったが、もっとまずい状況なら保健室では済まない筈だ。保健室にいること、知人が見ていてくれることを支えに、二時間レッスンした。
保健室は、裏門に近い、静かな場所にあった。一度も行ったことがなかった。そっとドアを開けると、保健の先生と松本がいた。かおりはカーテンの中の、奥のベッドにいるらしい。
「あぁ、槇。今は眠っているから大丈夫。奥方に無理させてしまったかと、篠原先生が気にしていた。合唱の伴奏はとても良くやってくれている。今日はいつもより集中していたみたいだ。終わった瞬間に糸が切れたみたいになったから、ここに連れてきたんだ。顔見て、起きたら食べられるように、好きなもの買ってきてあげて」
松本が言った。僕はここまで走ってきてしまったから、返事もできなかった。カーテンを開けると、松本の奥さん……ちえみさんがいた。
妻は、顔色が少し悪かったが、静かに眠っていた。目覚めた時に食べられるよう、僕は近くのコンビニに出掛けることにした。保健室の先生に任せることにして、松本とちえみさんも外に出た。
「ありがとう。付いていてくれて心強かった」
「いや、こちらこそ。彼女のピアノは本当に素晴らしくて、練習段階からこんなに真剣に弾いてくれていて、団員も皆その『心』に感激してるんだ。そういうものは伝わるから。彼女のおかげで合唱団全体のレベルも上がると篠原先生が言っていた。本番はまだだし、程よく調整してくれれば大丈夫だからって」
「わかった。本当にありがとう。感謝する」
妻がそんなに頑張っていることを、他の人から聞いたのは初めてだった。そうだ、もともと頑張りやさんだ。おそらく、教授のレッスンも同じだっただろう。レッスン後は、何か言いたそうなのに、口を開けないほど疲れていた。教授、そうですよね。教授、どんなだったか教えてほしい。教授、それよりも……あなたにまた会いたい。
保健室に戻ると、保健の先生が見えなかった。カーテンの中から気配がした。先生はそこにいた。妻のことを、まるで小さい子をあやすようにしていた。
「かおり……?すみません、遅くなって。妻は大丈夫ですか?」
「あ、槇先生。かおりさん、保健室に連れてきてもらったことを覚えていなかったみたいでね。ここは初めてみたいだし、知っている人がいなくて不安になったのね。槇先生がもうすぐ来るからって言ったら落ち着いたところよ」
「そうでしたか……かおり、ごめん」
僕は側に寄って妻の両手を握って、額と鼻をつけ、頬にキスをした。目が覚めたら初めての場所で、知らない人がいたのか……それは不安だっただろう。
「『槇くん』のことは、貴方が学生の頃からよーく聞いていたけれど、直接お目にかかったのは初めてね。貴方に失恋して退学した女の子もいたわよ?謝られたのが堪えたとか、冷たいとばかり聞いていたから、こんなに優しい人だなんて……、今までの噂と同じ人物だなんて考えられないくらいよ。かおりさん、安心して?あなたのことをとても大切にしているのね」
妻を安心させてくれた。
「僕が見ているところで具合が悪くなってくれたらいいのに……あ、いや具合が悪くならないでほしいけど。慣れてないから、僕は対処法がわからなくて」
僕は自分で何を言っているかわからなくなった。
「スーパーヒーローみたいな槇先生にもそんな一面があるなんて、人間だって安心したわ。かおりさん、生理は順調?パートナーにはきちんとお話してね」
保健の先生は妻に優しく言った。
「あ……はい。……曲がグリーグに変更になった日に始まって……それ以前にちょっと空いていました。それで、今回重かったから、お腹よりも頭が痛くて……」
そうだったのか。妊娠のことだけでなく、女性はそういうこともあるんだ。
「じゃあ、やっぱり貧血もあるわね。まだ若いし、精神状態で周期が変化しやすいなら、槇先生は妊娠の可能性も気にしていてね。妊娠していないなら薬をあげるわ。食べられるなら食べて、薬も飲んでいって」
僕は妻に買ってきた物を見せた。プレーンヨーグルトとプリンのうち、ヨーグルトを手に取った。妻は薬は苦手らしい。飲むだろうか?
案の定、ヨーグルトは食べたが、薬は躊躇していた。
以前もこんな時、なかなか飲まなかった。僕は以前と同じように、水を含んでから、妻の口に薬を入れ、水を移した。顎を少し上げると、ちゃんと飲み込んだのがわかった。妻は目をパチパチさせていた。
もうこの際、先生の目は気にせず、妻を抱きしめて頭を撫でた。
「かおり、早く良くなりますように。痛いの痛いの、飛んでいけ」
「やっぱり槇先生は何でもできるのね。慣れているみたい。あっという間に飲ませちゃって、上手ねぇ」
先生は笑っていた。
「いえ、二回目です。慣れてなんて……」
「……薬飲むの、怖くて。なのに、飲まされたの、わからなかった。……ありがとう」
かおりが口を開いた。
「かおり、立てる?歩ける?抱いていこうか?」
「慎一さん、本当にお父さんみたい」
「親子なんだから仕方ない……え?お父さん、かおりにそんなこと言ったの?」
「え?あ……妊娠してる時……」
「あぁ、そうなんだ?昔からかおりのこと可愛がってるからな……」
「慎一さんもお父さんも、大好きです」
「同じくらい?」
「そういうことは比べちゃいけないってパパが言いました」
「わかったよ。その通りだ」
先生は安心したように笑った。
「仲良しで結構ね。かおりさん、無理しないようにね。何か心配なことがあったらいつでも来てね」
「はい、ありがとうございました」
「お世話になりました」
僕達は保健室を出て、賑やかなキャンパス内を通らずに、裏門から外に出た。
「帰ったら、プリンが食べたい」
妻が言った。
「食欲が出たならよかった。これの他にもっと食べられるなら、作ってあげるよ」
「作ってほしい。慎一さんがマグカップに作ってくれるプリン、大好き」
「牛乳も卵もある。何個でも作るよ」
妻がにこっとした。かわいい。
子供の頃から変わらない笑顔だった。
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